ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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5/7 最終話に入りきらないと思ったため、シリウスとピーターのその後を付け足しました。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●ルー・ガルー
人狼専門捕獲人。ロックハートの被害者。フランス人。


Act16.ファイアボルト

 イリスは自分の上の方で、青いものが二つ光っているのが見えた。優しい色、おばさんの目だ。イリスは手を伸ばしておばさんに触れようとしたが、腕が重くて上がらない。イリスはパチパチと瞬きをした。青く光るものの上に金色の眼鏡が掛かり、それはダンブルドアの顔になった。にこやかに微笑んでいる。

 

「イリス。目が覚めたんだね」

 

 ダンブルドアの声だ。イリスはダンブルドアをぼんやりと見つめた。――そして、記憶が蘇った。

 

「先生、ピーターが逃げてしまいました!早く捕まえないと!」

「どうか落ち着いておくれ、イリス」ダンブルドアは穏やかな声で言った。

「君は少ーし時間がずれておる。ピーターは今、魔法省で取り調べを受けている最中じゃ。さあ、これを飲みなさい」

 

 ――『ピーターが捕まった』?イリスはごくりと唾を飲み込み、周囲を見渡した。見慣れた医務室だ。ダンブルドアは杖を振るい、イリスのベッドの壁際にクッションを敷き詰め、そこに身体を預けるよう指示した。イリスは手渡されたゴブレットに視線を注いだ。華奢な硝子製のゴブレットの中にはレモンの輪切りが一枚浮かんでいて、湯気と共に甘酸っぱい香りを漂わせている。

 

「中身が気になるかね?」ダンブルドアは子供のように目をキラキラ輝かせた。

「”生ける屍の水薬”の代わりに蜂蜜をたっぷり混ぜた、正真正銘のホットレモネードじゃ。”真実薬”を飲んでもいい」

 

 ダンブルドアの冗談に、イリスは軽く吹き出してしまった。レモネードは程好い温度で、一口飲むごとに暖かさが身体中を満たしていく。ダンブルドアは時折ゴブレットの中身を補充しながら、全てを話してくれた。――あれからクルックシャンクスが、学校に戻ってきたダンブルドアにイリス達の居場所を教えてくれたので、迅速な対応ができ、深刻な後遺症の残る者は誰一人いなかった。そして逃亡中のスキャバーズは、運悪くパトロール中だったミセス・ノリスに発見され、捕まった。マダム・ポンフリーが、イリスのベッドの枕元にスキャバーズが置いてあるのを見つけ、不衛生だと判断し中庭に捨てようとした。しかし、その騒ぎを聞きつけたダンブルドアが、ポンフリーの手からスキャバーズを奪還し、ファッジ大臣達の目の前でピーターの姿へ戻して、シリウスの強制連行を中止させた。『シリウスに脅され、逃げていた』と言い縋るピーターに騙されかけたファッジは、ダンブルドアを始めとする良い魔法使い達に根気強く説得され、もう一度十二年前の事件の真相を調べ直す事を決定した。現在、シリウスとピーターは魔法省の監視の下で、取り調べを受けていると言う。

 

「シリウスとピーターの裁判は、近い内に行われる。全てが良い方向に動くじゃろう。みな、君のおかげじゃ。シリウスは言葉に出来ぬほど、君に深く感謝していた。そしてもう一人、君が救った人間がいる。・・・()()()()()()()()()()()()

 

 ダンブルドアは優しい眼差しをイリスに注いだ。

 

「わしがギルデロイからの知らせを受けて会った時、彼は憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしておった。そして全てを話してくれたよ。法廷に赴き、然るべき罰を受けると約束してくれた。君の濡れ衣も、間もなく晴れるじゃろう」

 

 ――イリスはまるでクリスマスとお正月が一緒に来たみたいに、夢心地だった。ダンブルドアはイリスにまた一掴みのレモンキャンデーを掴ませ、医務室を出た。

 

 ハグリッドが扉から体を斜めにして入ってきた。部屋の中では、ハグリッドはいつも場違いなほど大きく見える。イリスの隣に座ってチラッと顔を見るなり、ハグリッドはおんおんと泣き崩れてしまった。

 

「ハグリッド!」イリスはその姿に驚いて呼び掛けた。

「大丈夫?どうしたの?」

「お、お前さんのおかげだ!バックビークは殺されねえで済んだ!」ハグリッドはしゃくり上げた。

 

 ハグリッドが言うにはこうだった。――クリスマス休暇に差し掛かる前の日、「魔法動物飼育学」の授業でバックビークがドラコを傷つけた事を、ルシウスが魔法省に訴えた事で、「危険動物処理委員会」による裁判が開かれた。出頭を命じられたハグリッドは、ろくに準備もできない状態のまま何度も控訴したが、ルシウスの息が掛かった委員会は聞き入れず、異例の速さでバックビークは処刑される事となった。奇しくもその日はクリスマス・イブ――指名手配犯、シリウス・ブラックがホグワーツに出現した日と同じだった。学校に戻ったハグリッドは、ブラックの魔の手からハリー達を守るため、他の魔法使い達と共に捜索に努めた。しかし事態は誰もが予期せぬ方向へと収束した。やがてその後片付けも一段落付き、バックビークをかぼちゃ畑に繋いでハグリッドが深い悲しみに暮れていたその時、なんと委員会から届いたのは――『バックビークの処刑中止の知らせ』だったのだ。

 

「処刑人のマクネアは、ルシウス・マルフォイの昔っからのダチだ。ダンブルドアが、今回の事件にヤツらが関係しとると言いなさった。ビーキーの処刑どころじゃなくなったんだろう。みーんな、お前さんが事件を解決してくれたおかげだ。ちいちゃなお前さんが、俺たちを救ってくれたんだ!」

 

 ハグリッドはそう言うなり、また大きな体を震わせて泣き出した。ハグリッドの顎鬚に大粒の涙がポロポロと零れ落ちている。

 

「違うよ、ハグリッド。私のおかげじゃない」イリスは慌てて首を横に振った。

「ミセス・ノリスのおかげだよ」

≪その通りだわ≫

 

 ツンと澄ましたような鳴き声が聴こえた。イリスはその方向を見て、明るい歓声を上げた。――灰色の老猫、ミセス・ノリスだ。クルックシャンクスもいる。イリスはミセス・ノリスを抱き上げ、身体中にキスの雨を降らせた。ノリスは嫌がって身を捩りながら、叫んだ。

 

≪勘違いしないで!べ、別にあなたのためにやったんじゃないわ!たまたまお腹が空いてただけだったんだから!≫

≪よく言うぜ≫ニヤニヤと笑いながら、クルックシャンクスがノリスの傍に近づいて来た。

≪学校中の猫に命じて、夜も寝ないでスキャバーズを探してたくせに。アーガスも心配し・・・≫

 

 しかし全ての言葉を言い切る前に、ノリスの強烈な猫パンチがぶちかまされ、哀れなクルックシャンクスはボールのように弾んで、勢い良く壁際にぶち当たった。

 

 

 ロックハートは魔法省に用意された一室で、弁護人を待っていた。ファッジに面会を求めて真実を話した時、彼はとても狼狽していたが、慌てた調子で『弁護人を呼び、事情聴取をする事』を約束してくれた。――これであの子は無罪放免になる。ロックハートはイリスの純粋な眼差しと優しい言葉を思い出した。たった一瞬のことだ。『ぎゅっと子供に抱き着かれて、お礼を言われた』――ただそれだけの事が、ずっと自分の心の中心で消えない松明のように燃え盛り、現在に至るまで、彼が闇の中に葬り去った罪の輪郭を照らし続けている。

 

『お前は本当に馬鹿な事をしたな』ロックハートの中の意地悪な声が、冷たくせせら笑った。

『あの子に惑わされたか?お前はきっと死ぬまでアズカバンに収監される。ディメンターに魂まで吸い尽くされる時、後悔したって遅いんだぞ!』

 

 余りに残酷なその声に耳を塞ごうとした時、不意に扉をノックする音が聴こえた。そして入って来たのは――弁護人ではなく、ロックハートが今一番会いたくない魔法使いだった。

 

「やあ、ロックハート」ルシウスは食い縛った歯の間から挨拶をした。

「ただでさえ面倒なこの時に、君は本当に愉快な事をしてくれた」

 

 ルシウスの立ち振る舞いには、いつもの冷徹さは欠片も見当たらなかった。憤怒と焦燥の感情がぎっしり詰まった細い目が、ロックハートを射抜いた。ルシウスは荒々しい手付きで杖を振るい、扉を何重にもロックした。『そんな、どうして彼が――大臣は裏切ったのか?』――自らの死を予期し、恐怖で息も出来ないロックハートににじり寄り、ルシウスは酷薄な笑みを浮かべた。

 

「安心したまえ、君を殺す事はしない。頭に少しばかり()()をするだけだ」

「わ、私に何をするつもりだ!」ロックハートは杖を振り回し、わめいた。

「分かるだろう?」ルシウスはねっとりと言った。

「あの子が清廉潔白だと証明されては、困るのだよ。せっかくあそこまで育ったのだ。・・・開心、レジリメンス!」

 

 ルシウスは淀みない動きで”開心術”を掛け、ロックハートの心の中へ侵入し、記憶を引っ掻き回した。ロックハートは抵抗したが、ルシウスは彼を容易く押さえつけ、様々な記憶を引っ張り出しては鑑賞し、自らの都合の良いように改竄していく。ルシウスは時系列に沿って記憶を眺め、やがてイリスがロックハートに抱き着いてお礼を言う場面まで到達した。ルシウスは冷笑し、その記憶にも杖を向ける。――『止めろ、それを弄るな!』ロックハートは吼えた。『それだけは駄目だ!止めろ――止めろ――

 

「・・・止めろっ!!」

 

 ロックハートは無意識の内に”閉心術”を使い、ルシウスを追い出した。ルシウスは驚いたと言わんばかりに目を丸くする。

 

「この記憶は、私のものだ!」

「お前がそれを言うのか?」ルシウスが哄笑した。

 

 ルシウスの言葉は鋭いナイフのように、ロックハートの心臓を突き刺した。ロックハートは、今まで自分が被害者に対してどんなに残酷な事をしてきたのかを、その時やっと理解した。

 

 もう終わりだ。ロックハートは震える手で杖を引き抜いた。彼と戦ったって勝ち目はない。となると残された道は、たった一つしかない。ロックハートは杖先をルシウスに向けた。

 

「戦うつもりか?」

「・・・いいや、勝負はもう決まった」

 ロックハートは何の前触れもなく、杖先を()()()()に向けた。

「私の勝ちだ」

 

 たちまちロックハートの身体から銀色の輝きがいくつも噴き出した。それらは小さな衝撃波を生み出し、ルシウスを壁際まで吹き飛ばした。ロックハートは今まで奪ってきた記憶の全てに()()()()()を施し、『元の持ち主』達のところへ解放したのだ。そして、それらに混じって”自らの記憶”をイリスの下へ飛ばすと、自分の心を再起不能なまでに破壊した。

 

 ルシウスが体勢を取り戻した頃には、もう全てが終わっていた。ロックハートは人の好さそうな顔で、ルシウスを見上げた。

 

「やあ、あなたは誰です?何だかとっても怖いお顔をしていますね!ホットミルクを飲んではいかが?」

 

 ルシウスが怒りに任せてロックハートを捻じ伏せ、いくら”開心術”を使って心の中を覗き見ても――もう彼の精神は、見る影もないほどに壊れ切っていた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 その夜、イリスは不思議な夢を見た。――ギルデロイ、と呼ばれるハンサムな男の子の半生を紡いだ物語。母親に愛されるために『特別』を求め、夢や希望は破れて、それでも諦めずに試行錯誤し、他者の記憶を奪って自分のものとする事で、強引に『特別な存在』になった青年時代。しかし、青年の心は深い罪悪感と虚無感に満ちていた。その気持ちはやがて、彼に”奪った記憶を元の持ち主へ戻す魔法”を開発させる切っ掛けになった。青年は何度も何度もその術を唱えようと杖を振り上げては――止めている。自分の良い心と悪い心の間で葛藤し、苦しんでいる。

 

 ――小さな女の子に抱き締められ、感謝の言葉を囁かれた時、青年はやっと自分の気持ちに気づいた。本当は『特別』になりたいのではなかった。ただ誰かにありのままの自分を見つめ、愛して欲しいだけだったのだと。――青年は透き通る身体を通して、みるみるうちに自我を失っていく自分の姿を見た。そして流れ星のように空を渡り、ある古城の窓を通り抜けて、ベッドで眠る小さな女の子の下を訪れた。『この記憶と魔法を全て、君に授ける』――青年はそう言うと、女の子の身体に融け込んだ。

 

 

 その数日後、()()()()()()()()()が、イギリスの魔法界中を大いに賑わせる事となった。マスメディアの最先端を行く”日刊予言者新聞”は、後々『今世紀最大』と謳われるほどに良く売れたと言う。――一つ目は、『指名手配犯、シリウス・ブラックの無罪、死んだとされていたピーター・ペティグリューの逮捕』。そしてもう一つは、『優秀な魔法戦士、ギルデロイ・ロックハートの詐欺罪』。

 

 イリスは、マダム・ポンフリーがオートミールと一緒に運んでくれた新聞に目を通し、驚きの余り、空いた口が塞がらなかった。――『ギルデロイ・ロックハート、真っ赤な嘘!』記事の前面に、そんなタイトルが躍っている。『ロックハート氏は、ホグワーツで自分の無力さを露見させ、半ば追い出されるようにして学校を退職した。新作を書けない事に焦った彼は、あろうことか何の罪もない子供に罪を着せ、人々から聞いた情報を元に、”継承者とのこっそり一学期”を執筆した。しかしファッジ大臣の迅速な判断により、逆に追われる身となった彼は、自暴自棄になって酒に溺れ始め、そして来たる〇月〇日魔法省に捕獲された。だがその日の夜、彼は酔っぱらって魔法を逆噴射させ、廃人となってしまった。彼にとって最も幸運だった事は、盗んだ記憶が全て元の人間へ戻ったという事だ(※これらの証言は全て、”ロックハート被害者の会”の会員達の、奪われた記憶がロックハート氏の心を通して見た”記憶”?――と表現するしかないが――を基にしたものである)。現在、彼は聖マンゴにて治療を受けているが、その情報をいち早く聞きつけた会員達が彼に報復しようと殺到したため、一時聖マンゴがパニック状態に陥ってしまった。その時の状況を癒師オマルは・・・』

 

 『※これらの証言は全て、”ロックハート被害者の会”の会員達の、奪われた記憶がロックハート氏の心を通して見た”記憶”?――と表現するしかないが――を基にしたものである』――イリスは震える指先で、その一文をなぞった。数日前に見たあの不思議な夢は、ただの夢ではなかった。あれはロックハートの記憶だったのでは?だとしたら、彼は自分を守るために――。イリスはオートミールの皿をぐいと押し遣り、マダム・ポンフリーに言った。

 

「ダンブルドア先生に会わせて下さい!この記事の内容はデタラメなんです!」

「イリス」

 

 扉を開けて、ダンブルドアが入って来た。――いつもきらきらと輝いている筈の青い瞳は、悲しみに暮れている。

 

「ギルデロイは君を守るために、勇敢な行動を取った。それを無駄にしてはならぬ」

 

 イリスが言い返す前に、ファッジ大臣がせかせかとした足取りでやって来た。『ルシウスさんが犯人なんです!』イリスはファッジにそう訴えようと、息を吸い込んだ。

 

 ふと、脳裏にロックハートの記憶がよぎった。透き通った銀色の青年が、壊れていく自分の姿を静かに見つめていた、あの光景。『ギルデロイは君を守るために、勇敢な行動を取った。それを無駄にしてはならぬ』――ダンブルドアの言葉が、その姿に重なった。

 

 その時イリスは初めて、いくら真実を叫んでもそれが受け入れられるとは限らないという事、そしてだからこそ、人を守るための嘘もあるのだという事を学んだ。イリスは喉の奥から込み上げてくる熱い感情をぐっとこらえ、謝罪の言葉を掛け続けるファッジに、ある一つのお願いをした。

 

 

 イリスは制服に着替え、ファッジ大臣に”付き添い姿くらまし”をしてもらって、聖マンゴ魔法疾患障害病院に辿り着いた。聖マンゴは、ロンドンの中心部にある駅から程近いデパート「パージ・アンド・ダウズ商会」の中にあった。ショーウインドウに飾られた、一番醜いマネキンに向かって、ファッジが用件を話すとマネキンが合図する。それに従って、二人はショーウィンドウの硝子を突き抜け、中に入った。総合受付で確認すると、ロックハートは5階のヤヌス・シッキー病棟――呪文による永久的損傷を負った患者のための隔離病棟で入院している事が分かった。

 

 ファッジは病室前までイリスを案内すると、『くれぐれも危険な事はしないように』と念を押した上で、席を外してくれた。ベッドは三つあった。その内の二つには分厚いカーテンが引かれていて、中の様子は分からない。窓際のベッドに、イリスの求めていた人物がいた。人の好さそうな笑顔を浮かべ、ロックハートはイリスを見つめた。

 

「やあ、可愛いお嬢さん!」

 

 ――ロックハートはイリスの事を綺麗さっぱり忘れてしまっていた。イリスは思わず涙を零し、ロックハートに抱き着いた。

 

「やれまあ!」ロックハートは呆れたように言った。

「こんな可憐な女の子を泣かせるなんて、私はさぞかしひどい人間だったのでしょうね?」

「良かったわねえ、ギルデロイ!」癒師がにこにこと笑い、イリスを見た。

()()()()見舞客は、あなたが初めてですよ。他の連中と来たら、全く!”ハナハッカ薬”がいくらあっても足りない位だったわ!」

 

 ロックハートは、しゃくり上げながら癒師と言葉を交わす女の子をまじまじと見つめた。――彼はもう自分や他人の事だけでなく、ほんの数分前の事すら記憶出来ないほど、脳の機能が衰弱していた。しかし、そんな真っ白な頭の中で、この少女の姿はキラキラと輝いて見えた。その輝きは、ロックハートの心臓の表面を暖かく撫で、時に切なく焦がしていく。

 

「お嬢さん、君の名前を教えてもらっても?」ロックハートは尋ねた。

「イリスです」イリスはぎこちなく微笑んだ。

「イリス・ゴーント」

「美しい名前だ」

 

 ロックハートはうっとりと囁いた。――とても綺麗な名前だ、忘れないようにしなければ。私は忘れっぽいから。私は――。暫くして、ロックハートは今初めてイリスの存在に気づいたと言わんばかりに、パチパチと瞬きして、明るい声で言った。

 

「やあ、可愛いお嬢さん!どうして泣いているのですか?」

「さあさあ、ギルデロイ。そろそろお昼寝しましょう?」

 

 ショックを受けた様子のイリスを気遣って、癒師はロックハートにクマのぬいぐるみを持たせ、薬を飲ませて寝かしつけた。赤子のように眠り始めた彼の姿を見て、癒師は労りの涙を流した。

 

「彼は、本当に可哀想な子なの。ご家族は誰一人お見舞いに来ない。来るのは、彼に復讐しようとする人達だけ。あそこのご両親は、お母様や息子さんがよく会いに来られるのに。・・・ああ、またなの!」

「おい、ロックハートはいるか!」

 

 どこかで聞いたような声がして、イリスは俯いていた顔を上げた。――病室の扉の前に、大きく背の曲がった鷲鼻の魔法使いが立っている。間違いない。イリスは息を飲んだ。この人は、自分をルーピン先生から助けてくれた記憶の持ち主だ。男もイリスを見た瞬間、驚いたと言う風に目を丸くした。

 

 男はぶっきらぼうな口調で、ルー・ガルーと名乗った。ルーはイリスを伴って、外来者用の喫茶室や売店のある6階まで行くと、湯気のホカホカ立ったバタービールをご馳走してくれた。二人はこじんまりとした造りのテラス席に腰掛けた。ルーはバタービールを一口飲み、ぽつぽつと話し始めた。

 

「記憶が戻ってから、”ロックハート被害者の会”に参加したが・・・どうも俺だけ、会員の奴らと記憶が違っていてね。可笑しいと思った。お嬢ちゃん。あんたは全部、知ってるんだろ?」

 

 イリスはルーに『誰にも口外しない事』を約束してもらった上で、全てを話した。ルーは大きく頷き、かすかに微笑んで言った。

 

「そういう事だったのか。良し。あいつの善行に免じて、特製のクソ爆弾を顔にぶちこんでやる計画は、中止してやる事にするよ」

 

 ルーはローブのポケットから特大のクソ爆弾(すごい匂いだ)を取り出し、ニヤッと底意地の悪い笑みを浮かべた。――イリスはふと、ドラコの事を思い出した。記憶を失っている間、一体この人は、どんな気持ちで過ごしていたんだろう。

 

「記憶を失くしている間のこと、覚えていますか?」

「ああ、もちろん覚えてるさ」ルーは頷いた。

「あれは間違いなく、俺の人生の中で一等、平和な日々だったな。どこか知らない村で住むところを貰って、畑を耕して暮らしてた。毎日が、欠伸が出るほど穏やかだった」

 

 ルーはどこか遠いところを見つめているように、目を細めた。しかしその顔は、凡そ幸せだとは言い難いものだった。

 

「だが、それだけだ。まるで胸にぽっかり穴を開けられたみたいに虚しくて、だけどその原因が何なのか分からなくて、毎日ずっと苦しかった。記憶が戻った時、胸の穴が塞がって、やっと生きてるって実感出来たよ。あいつが奪っていったものは、俺の人生、俺の全てだったんだ」

「人狼と戦う記憶が、ですか?」イリスが驚いて尋ねると、ルーはしっかり頷いた。

「そうだ。毎日が危険と隣り合わせだがな。噛まれたら終わりだし。・・・ああ、言っておくが、俺は人狼の全てが悪い奴らばかりじゃないと知ってるぞ。俺が戦うのは、グレイバックみたいな根っからの悪だけさ。

 奇襲や報復が恐ろしくて、寝れない日もある。死ぬほど痛い目に遭った事もある。もう二度と思い出したくない事も。だけどそれもひっくるめて、俺の人生、生き様なのさ」

 

 イリスは俯き、ギュッとビールのマグカップを握った。マグカップの底で揺れる水面に、ドラコの優しい笑みが浮かんで、儚く消えた。『平穏な日々よりも、危険な日々の方が良い』――ルーはそう言った。そんな筈はない。ルーの言葉は、イリスの心を激しく掻き乱した。

 

「そのことが原因で、死んでしまったとしても?」イリスは掠れた声で言った。

「その記憶がなければ、忘れたままだったら・・・あなたはずっと平穏な日々を送ることが出来たのではないですか?」

「あんたはロックハートのやった事が正しいって言うのか?」ルーは鼻白んだ。

「違います!でも、私・・・」イリスは慌てて首を横に振り、言い淀んだ。

「もし大切な人が、その記憶がないことで平和に生きていられるのなら・・・」

 

 イリスはそれ以上、言葉を続ける事が出来なかった。ルーはそんな彼女の様子を見て、何かを察したようだった。温くなったビールの残りを飲み干して、彼は静かに口を開いた。

 

「あんたが()()()()を言っているのか、俺には分からねえ。だが、一つ聞きたい。そいつは自分の意志で、あんたに『死ぬのが怖いから記憶を消してくれ』って頼んだのか?」

 

 ルーはイリスの反応を見なかった。ただ一呼吸置いて、彼は言葉を続けた。

 

「もしそうじゃねえなら、あんたはそいつに()()()()()()をした。ロックハートの野郎と変わらねえ。自分勝手な都合で、あんたはそいつの人生を滅茶苦茶にしたんだ」

 

 ――それはあんまりな言い方だった。ドラコを守るためにしたことが、自分勝手だって?イリスは思わずカッと熱くなり、立ち上がって涙ながらに叫んだ。

 

「そんなことない、先生は『彼を守るために正しい事をした』って言ってくれた!私、彼が死ぬのは嫌だったの。彼を守るためにしたことなのに!」

「そいつはあんたのペットか?一人の人間だろ」ルーは呆れたような口調で言った。

「お嬢ちゃん。あんたは子供だからまだ理解出来ないのかもしれねえが・・・相手の意見に耳も貸さず、安全な鳥籠に閉じ込めるのは、一方的な愛情の押し付けだ。

 本当に人を愛するというのは、相手と同じ高さに立って、意見を尊重し、受け入れることだ」

「・・・相手が、死ぬことを選んでも?」イリスは震える声で言った。

「そうだ」ルーは静かに応えた。まるで何かを思い出しているかのように、ゆっくりと瞬きをしながら。

「あんたにはあんたの人生、そいつにはそいつの人生がある。そして自分の人生は他人じゃなく、自分自身で選択するものなんだ」

 

 ルーは立ち上がり、貨幣をテーブルに放ると、イリスの頭を軽く撫でた。そして蛙チョコレートの箱を一つ握らせ、どこかへ去って行った。イリスは暫くの間、ルーの言った事を考えた。――私はドラコを愛してる。彼が死ぬなんて耐えられない。だから彼を守るために、記憶を消した。しかしそれは、ルーの言う通り、自分勝手な行動だったのだろうか。もしあの時勇気を出して、未来に起きる出来事をドラコに話していたら――。

 

 

 ロックハートはお昼寝の時間が終わった後、上機嫌で羊皮紙の束に自分のサインを書いていた。記憶は完全に失われてはいるが、身体に刻み込まれた癖の一部は、まだ抜けきっていないらしい。ロックハートは――以前より随分控えめにではあるが――自分が目立ったり、注目を浴びたりするのが何となく好きだった。そんな彼の様子を愛おしげに眺め、癒師は言った。

 

「まあ、沢山書けたのね!今度イリスちゃんが来てくれたら、一番良く書けたのをプレゼントしたらどう?」

「イリスちゃん?」ロックハートは無邪気に首を傾げた。

「誰の事だい?」

 

 ――その時、ふとロックハートが書いていたサイン入りの羊皮紙が一枚、ひらりと机の上から床へ舞い落ちて行った。羊皮紙は床に落ちる寸前に、煌めくライラック色の小鳥に姿を変えた。小鳥は、呆気に取られるロックハートの周りを飛び、美しい声でさえずった。

 

「わあ!すごい!」ロックハートは興奮して叫んだ。

「僕、この色が大好き!」

 

 羊皮紙は次々にロックハートの手元から離れて、空中を舞い、様々な姿に変身した。良い芳香を漂わせる花弁、勝手に三重奏を始める弦楽器たち、シンバルを打ち鳴らす小猿、羽衣を纏って踊る人形・・・それらはロックハートを讃えて美しい声で歌い、はしゃぐ彼の周囲をぐるぐる回って楽しませた。やがて歌は終盤を迎え、病室中にライラック色の花火と一緒に『ロックハートは最高だ!』のメッセージが浮かび上がると、彼は感極まってベッドから立ち上がった。

 

「すごい、すごい!まるで魔法(マジック)だ!」

 

 花火が終わった後、羊皮紙で出来たパレードの仲間たちは元の姿に戻る前に、ロックハートに小さなプレゼントの箱をくれた。わくわくしながらそれを開けると、そこには”ギルデロイ・ロックハート”の蛙チョコカードが入っていた。大きな自分の写真が、にこにこと笑っている。裏返してみると、『ギルデロイ・ロックハート。最高にカッコいい魔法使い』と書かれていた。ロックハートは大興奮だった。

 

「私の写真だ!」

「まあ、本当だわ!良かったわねえ、ギルデロイ」癒師は優しく囁いた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 病室の扉の前で、イリスは杖を下ろした。そしてロックハート・パレードを実行している間、同じ病室の病人達の迷惑にならないように”防音魔法”などを掛けてくれたファッジ大臣にお礼を言った。

 

「君は不思議な子だ」ファッジは呆れたように言った。

「あんな詐欺師を喜ばせて、一体何になる?それともこれは、高度な皮肉かね?」

 

 イリスは微笑んで、何も言わなかった。ファッジと共に学校へ戻る道中、イリスはルーから貰った蛙チョコレートの箱を開けた。グリフィンドールのカードだ。――ロックハートは勇敢な魔法使いです。イリスはファッジの背中に向けて、心の中で呟いた。私だけが、それを知ってるんです。イリスの手の中で、グリフィンドールはにっこりと笑った。

 

 

 長かったクリスマス休暇が終わり、生徒たちが”日常”をそれぞれの手にぶら下げて、学校へ戻って来た。マダム・ポンフリーの最終診察からやっと解放されたイリスは、一人で朝食を取りに大広間まで行った。あれからハリー達はちょくちょく医務室へ顔を出しに来てくれたけれど、彼ら以外の生徒たちと会うのは本当に久しぶりだ。イリスが着いた時には、もう大広間は人でいっぱいだった。

 

 イリスが入っていくと、突然生徒たちの話し声が止み、シーンと静まり返った。その後、全員が一斉に大声で話し始めた。イリスは気にしない振りをして、真っ直ぐにグリフィンドールのテーブルへ向かった。その時、不意にテーブルから二人の女の子が立ち上がった。――ラベンダーとパーバティだ。

 

「イリス、本当にごめんなさい!全部、嘘だったのね」ラベンダーが涙ながらに言った。

「私たちひどいことを言ったわ」パーバティがしゃくり上げた。

 

 イリスの心の中に、熱い感情が込み上げる。本当は激情のままに、みんなに真実をぶちまけたかった。――ハリー達は、イリスを心配そうに見つめている。イリスは目を閉じ、大きく深呼吸をした。

 

「ううん、全部が嘘じゃない」イリスは冷静になろうと努力しながら、言った。

「半分は本当だよ。私はゴーント家の人間で、お祖母さんは有名な”死喰い人”だった」

 

 生徒たちのガヤガヤ声が、急速にしぼんでいく。大広間じゅうの視線が自分に一点集中しているのが分かっているのにも関わらず、イリスは目頭が熱くなり、涙が溢れるのを止める事が出来なかった。

 

「『お祖母さんが”死喰い人”だった。だから、君もそうなるべきだ』って、言う人たちもいるよ。

 だけど私は、他人の意見に左右されるんじゃなく、自分の意志で決めたいの。何が正しくて何が間違っているのか、自分がどうなりたいのかを。

 どんなに苦しい状況でも、人はそうして生きる事が出来る。周りの人たちが、それを教えてくれたから」

 

 イリスは鼻をすすると、ハリーの隣に座った。気まずそうに身じろぎするラベンダーとパーバティの方を見ないようにしながら、イリスは自分の大皿にスクランブルエッグを盛り付けようと手を伸ばした。しかし、それよりも先に丸っこい手が伸びて来て、取り分け用のお玉を取ると、イリスの皿にスクランブルエッグをたっぷりと載せた。――イリスは手の主を見て、目を丸くした。ネビルだ。

 

「け、ケチャップはいる?」ネビルは真っ赤な顔で尋ねた。

 

 イリスが頷くより早く、今度はあり得ない量のケチャップとマスタードが彼女の背後から噴き出し、スクランブルエッグを覆い隠していった。――悪戯双子、フレッドとジョージだ。

 

「素晴らしい演説だったぜ、兄弟」とフレッド。

「痺れたね。これにはパーフェクト・パーシーも真っ青だ!」とジョージ。

 

 グリフィンドール生が次々に立ち上がり、わっとイリスの下へ集まった。それだけではない。他の寮生――ハッフルパフ生アーニー、ジャスティンもいる――も大勢やって来て、イリスの皿に様々な食材を載せていく。ソーセージ、ベーコン、ブラッド・プディング、卵、ハッシュドポテト、マッシュルーム、トマト、ビーンズ、そして食パン。気がついた頃には、イリスの大皿は、特大のイングリッシュ・ブレックファストが出来上がっていた。

 

「現金なヤツらだよな、ホント!」ロンがイリスのソーセージを齧りながら、呆れたように言う。

「そんなに食べられるの?」ハリーが心配そうに聞いた。

「大丈夫」

 

 イリスは込み上げてくる涙を隠すために、口いっぱいにハッシュドポテトを頬張りながら、もごもご言った。――全ての人と和解できた訳ではない事は、イリスが一番良く分かっていた。パーシーはふてくされたような顔でその場を動かないジニーを叱っていたし、スリザリンのテーブルでは変わらずドラコが冷たい目線を送っている。だけどイリスは、とても清々しい気持ちでいっぱいだった。ハーマイオニーはイリスが食べやすいように、ソーセージを一口大に切っていく。イリスは口の中のものをゴクンと飲み込んで、ハリーに向けて照れ臭そうに微笑んだ。

 

「全部、食べられるよ」

 

 

 それから日々は飛ぶように過ぎ、気が付くと、優勝杯を賭けたグリフィンドール対スリザリンの試合が、イースター休暇明けの最初の土曜日に迫っていた。いざ試合の当日になると、ウッドはまだ選手たちが誰も食べ終わらないうちに朝食を切り上げさせ、状況を掴んでおくためにピッチに行け、と急かした。イリス達も慌てて朝食の残りをかき込んで、観客スタンドへ走った。イリスにとって幸いだったのは、スリザリンのシーカーがドラコから代理の選手に代わった事だった。これでハリーとドラコが争う様子をハラハラしながら見なくて済む。イリスは安堵してため息を零した。

 

 一方のハリーは青ざめた表情で、真紅のローブに着替えていた。この試合に負ければ、優勝杯をスリザリンに奪われる事となる。余りのプレッシャーに押しつぶされ、ハリーだけでなく、選手達は誰一人口を聴こうとしなかった。みんな僕と同じ気持ちなのだろうか、とハリーは思った。朝食に、やけにもぞもぞ動くものを食べたような気分だ。ハリーは縋るように、代理の箒の柄をギュッと握った。やれることはやったんだ。ハリーは自分に言い聞かせ、『もしニンバスがまだ生きていたら』という気持ちを遠くへ追いやろうとした。

 

 ――その時、ふとテントの切れ端が揺れ、ハリーが今一番聞きたかった声がした。

 

「ハリー!」イリスの声だ。

 

 ハリーが慌てて声のした方向へ駆け寄ると、グリフィンドールの応援グッズに身を包んだイリス達が、にっこり笑って立っていた。しかも彼女たちだけではない。サングラスを掛けた背の高い男性が、長くて薄い包みを抱えて、ハリーを見つめている。――シリウスだ。たった数週間で、彼の様子は明らかに様変わりしていた。骸骨のように落ち窪んでいた顔は生気を取り戻し、もじゃもじゃの髪は綺麗に切り揃えられ、小粋な感じにまとめられている。清潔でシンプルな服装に身を包んだシリウスは、とてもハンサムで魅力的に見えた。瞳に掛かるほど長い前髪を払い、シリウスは言った。

 

「身の回りの細々としたことが、ようやく一段落付いてね。ダンブルドアに許可を貰って観戦に来たんだ。

 あとこれを。君への贈り物だ。君の名付け親から、十三回分の誕生日をまとめてのプレゼントだと思って受け取ってほしい」

「開けてみろよ、ハリー!」ロンが大興奮した様子で叫んだ。

 

 促されるまま、包みを破ったハリーは、大きく息を飲んだ。――見事な箒が、太陽の光に照らされてキラキラ輝いている。信じられない。”炎の雷(ファイアボルト)”だ。ハリーがダイアゴン横丁で毎日通い詰めた、あの夢の箒と同じものだ。箒の振動を感じて手を離すと、それは独りでに空中に浮かび上がり、ますます燦然と煌めいた。ハリーが跨るのにぴったりの高さだ。ハリーの目が、柄の端に刻まれた金文字の登録番号から、完璧な流線型にすらりと伸びた樺の小枝の尾までを、吸い付けられるように動いた。

 

「あ、ありがとう」

 

 ハリーは掠れた声で言った切り、言葉が出てこなくなった。言葉がなくとも、彼がどんなに喜んでいるかという事は、イリス達には良く分かった。しかし、ハリーの幸運はそれだけでは終わらなかった。シリウスは微笑んで、さらなる幸せの爆弾をハリーに落としたのだ。

 

「ハリー。以前、私は君に言った事があったね。『一緒に暮らさないか?』と」

 

 ハリーの胸の奥で、何かが爆発した。彼の心にずっしり圧し掛かっていたプレッシャーは、もうとっくに何処か遠いところへ吹き飛んでしまっていた。ハリーはごくりと唾を飲み込んで、シリウスの次の言葉を待った。シリウスの言おうとしていることが、自分の考えていることと同じだったら?シリウスは犬が吠えるように快活な笑い声を上げ、言った。

 

「そうだ、私達は一緒に暮らせる事になった!少しばかり複雑で面倒な手続きが必要だがね。今学期が終わったら、早速引っ越しを始めよう」

 

 ――この瞬間を、ハリーは生涯忘れないだろう。人は溢れるばかりの幸せで包まれた時、こんなにも素晴らしい気持ちになれるのだ。もし、今、ディメンターが群れを成してその辺りにいたら・・・ウッドに引き摺られるようにしてその場を連れ出されながら、ハリーは思った・・・今なら、世界一大きな守護霊を創り出せるに違いないと。

 

 

 シリウスはイリスたちに引っ張られるようにして、スタンドに駆け上がった。観衆の四分の三は真紅のバラ飾りを身に付けて、グリフィンドールのシンボルのライオンを描いた真紅の旗を振るか、『行け!グリフィンドール!』とか『ライオンに優勝杯を!』などと書かれた横断幕を振っている。

 

 シリウスはサングラス越しに競技場を見渡したり、年季の入った木製の手摺りを撫でながら、思った。――ホグワーツ(ここ)は、自分が在学していた頃から、どんな些細なものでさえ何一つ変わっていない。今までは戦うことに必死で、こんな風にゆったりと周囲を観察する余裕などなかったが、こうして見るとまるで学生時代に戻ったかのようだ。自分にとって最も輝きに満ちた、あの頃に。

 

 俄かに、割れるような歓声が周囲を包み込んだ。思わず警戒して身構えるシリウスの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。

 

「ジェームズだ!」ピーターだ。

「そして、ああ、()()()スリザリンのお出ましだ!」リーマスがうっとりとした声音で囁いた。

 

 驚いて声のした方を見ると、グリフィンドールの制服に身を包んだ悪友たちが、手摺に噛り付くようにして、熱心な眼差しをピッチに注いでいる。シリウスが呆気に取られて辺りを見渡すと、近くに座っていた女学生たちと目が合った。彼女らはポッと頬を赤らめ、黄色い歓声を上げる。

 

 ――ああ、これまでのことは、全部()だったんだ。みずみずしく張りのある自分の手を見つめ、シリウスは安堵のため息を零した。なんて長く、生々しい夢だったんだろう。

 

 スリザリンのゴールポストの後ろでは、二百人の観衆が緑の服を着て、スリザリンの旗にシンボルの銀色の蛇をきらめかせていた。その中で暗い笑みを浮かべているスネイプと目が合い、二人は歯を剥き出しながらお互いを威嚇した。しかし、試合開始のホイッスルが鳴った瞬間、二人の関心はクィディッチへ戻っていく。

 

 ジェームズは天性の才能を発揮し、自由自在に空を飛び回った。シリウスは観衆と一体になって、スリザリン・チームが執拗な嫌がらせをすると激しく罵り、グリフィンドール・チームが素晴らしいプレーをすると歓声を上げ、喜んだ。ジェームズは良いプレーを決めるたびに、魅惑的なウインクをリリーに送った。しかしその全てが冷たく無視されているのを見て、シリウスたちは堪え切れずに吹き出した。

 

 不意に、ジェームズが上空から一直線に降下し始めた。その弾丸のようなスピードにみんなは見惚れ、歓声を上げた。――スニッチを見つけたのだ!

 

「いいぞ、ジェームズ!」シリウスは夢中で叫んだ。

 

 ブラッジャーがジェームズに向けて打ち込まれるが、彼は箒の柄にぴったりと身を伏せ、ひらりと躱してみせた。そして、見事にスニッチを掴んだのだ。ジェームズが急降下から反転し、きらめくスニッチを高々と掲げてみせた。その瞬間、競技場全体が爆発したかのような、凄まじい大歓声が沸き起こった。

 

「し、信じられない!優勝杯よ!私達が優勝よ!」

 

 どこかで聞いたことのある、女の子の声がした。――そう、ハーマイオニーだ。シリウスが横を向くと、感極まった彼女がイリスの首っ玉に抱き着き、嬉し泣きをしている。その隣では、ロンがぴょんぴょんと兎のように飛び跳ねながら、何かを叫んでいた。リーマスもピーターもリリーも、どこにもいない。シリウスは急にこの世界から切り離され、一人ぽっちになったような気がした。ジェームズはどこだろう。シリウスはピッチを見回した。

 

 目の前の上空で、ジェームズが振り返り、自分を見てにっこりと微笑んだ。優しい緑色の、リリーと同じ目で。――違う、この子はジェームズじゃない、ハリーだ。僕がそう名付けた。二人の大切な子供だ。

 

 ――ジェームズたちを失ったあの日から、シリウスの時間は止まったままだった。過去の輝きと後悔だけが、シリウスの心臓を動かし続けた。アズカバンを脱獄してからは、ピーターを殺害することだけを考えた。その後の、自分の未来など、何も考えられなかった。――これからハリーと共に生活していく資格があるのだろうか。彼の両親を奪った自分に。半壊したポッター家で見た親友たちの虚ろな顔は、シリウスを過去に縛り付け、今になってもそこから進むことを頑なに許してはくれなかった。

 

 しかしハリーの笑顔を見たとたん、シリウスは自分を雁字搦め(がんじがらめ)に縛っていた”過去の呪縛”が、壊れていくのを感じた。――もう二人はどこにもいない。過去は覆らない。それなのに、ハリーを借りて、彼らが笑い掛け、自分を許してくれたような気がしたのだ。今までの想いがグッと胸に込み上げて来て、シリウスは堪え切れずにサングラスを取り、溢れる涙を拭った。

 

 試合終了のホイッスルが鳴った時、真紅の応援団が柵を乗り越えて、波のようにピッチに雪崩れ込んだ。次の瞬間、ハリーも他の選手も、みんなに肩車をされていた。ハグリッドは真紅のバラ飾りをいくつも付け、勝利の歓声を上げている。パーシーはいつもの尊大ぶりはどこへやら、狂ったようにぴょんぴょん飛び跳ねている。マクゴナガル先生はウッド顔負けの大泣きで、巨大なグリフィンドールの寮旗で目を拭っていた。そして、ハリーに近づこうと人群れを掻き分ける、イリスとロン、ハーマイオニーの姿を見て、彼は言葉もなくにっこりと笑い掛けた。スタンドでは、ダンブルドアが大きなクィディッチ優勝杯を持って、グリフィンドール・チームの到着を待っている。ウッドがしゃくり上げながら優勝杯をハリーに渡し、彼はそれを高く掲げた。

 

 グリフィンドール優勝杯獲得のお祭り騒ぎは、それから三日三晩、ずっと続けられた。

 

 

 グリフィンドールのお祭りがやっと落ち着いた頃、魔法省内にあるウィゼンガモット法廷にて、ピーターの判決が言い渡された。――彼の犯した多くの罪は余りに重く、魂を奪い人格を破壊する最高刑『ディメンターのキス』が執行されるのに十分なものとなった。判決が言い渡されたとたん、蝋のように白い顔をしてぶるぶると震え出し、よだれを垂らしながら泣き喚くピーターを、シリウスだけでなく、ファッジ大臣や裁判長を始めとする他の人々も、冷たい表情で見つめていた。

 

 最高刑執行となる翌日の朝、ファッジ大臣とディメンターが一体、そしてそれを操る役人が一人、ピーターのいる拘置室に入って来た。ディメンターが入った瞬間、部屋の中をゾッとするような冷気が包み込む。魔法を妨害する効果が込められている、特殊なロープで椅子に縛り付けられたピーターは、狂ったように頭を横に振りながら泣き叫んだ。

 

「いやだああああっ!!どうして僕がキスを受けるんだよおおっ!お、()()()だ!シリウスと!あいつはアズカバンに連れて行かれただけじゃないかあ!僕も同じようにしてください!死にたくないいいっ!」

「”同じ”ではない!」ファッジはピシャリと言い放った。

「罪人はお前だけ。ブラックは、罪を犯してなどいなかった。お前は善良な魔法使い二名を殺す手引きをし、大勢のマグルを殺した。そしてブラックにその罪を擦り付け、無実の者を投獄させた。それだけではない。いたいけな子供に手を出し、”闇の魔術”を用いて拷問したではないか。キスを施すのに、十二分に値する悪漢だ!」

 

 ファッジがいくら理路整然と言い聞かせても、ピーターは聞く耳も持たない様子で、「違う、違う!」と泣きながら繰り返すばかりだった。おぞましい光景だった。育ち過ぎた、頭の禿げかけた赤ん坊が、椅子の上で竦んでいるようだった。ファッジと役人は『何が”違う”んだ?』と言わんばかりに、引き攣った顔を見合わせた。長い時間、獲物を目の前にしながら”おあずけ”状態を強いられているディメンターが、わずかにローブをはためかせた。その冷気がピーターの頬を撫でた瞬間、彼は我に返り、涙交じりの声で懇願した。

 

「ああ、どうか、このことをあの子に!イリスに知らせてください!あの子ならきっと今の僕を哀れに思い、助けてくれる!今すぐあの子を呼んでください!」

「その名前を出すとは、どういう神経だ?あんなに惨い事をしておいて!」ファッジは憤り、目を白黒させながら唸った。

「あの子に知らせるのは、キスが執行された()だ。お前が抜け殻になったと知ったら、彼女も安心して毎日を過ごせるだろう」

 

 ファッジは上質なマントのポケットから罪状を取り出すと、役人に執行の合図を送った。するすると衣擦れの音を響かせながら、ディメンターが近づいて来る。ピーターは耳障りな金切声を上げ、何とかその場から逃げ出そうと身を捩るが、魔法のロープは少しも軋まない。しかしその時、目の前で罪状を読み上げていくファッジの右手の親指に、大振りのダイアモンドの指輪が嵌まっているのが目に入り、ピーターは息を飲んだ。

 

「大臣、どうかお考え直しを!私はあなたのお役に立ってみせます!」ピーターははっきりとした声で叫んだ。

「この国の最高権力者である筈の、あなたの更に上に立ち・・・あなたを影で操っている、()に関する有力な情報を知っています!」

 

 ファッジは読み上げるのを止め、羊皮紙から視線を外して、訝しげにピーターを見つめた。――こいつは一体、何を言っているんだ?ファッジの意図を察した役人は、ディメンターをその場で待機させた。ファッジにとって好都合なことに、彼は自分の息の掛かった人間だった。あとでいくらか賄賂を渡せば、この時の会話を聴かなかった事にしてくれるだろう。ディメンターの動きが止まると、ピーターはますます勢いづいて、歪んだ笑顔で言った。

 

「その立派な指輪は、()に与えられたものでしょう!一目見ただけで分かる、それは彼の懇意にしている宝石商のものだ!私をこれ以上尋問せず、なるべく早く抜け殻にするようにと命じられたに違いない!」

 

 今度はファッジの顔色が、蝋のように真っ白になる番だった。ピーターの予想が、全て当たっていたからだ。役人は表面上そっぽを向いているが、今の会話を一言も聞き漏らすまい、と言わんばかりに聞き耳を立てているのが、ファッジにはありありと感じ取れた。――しかし、今はそれどころではない。ピーターの言葉は、ファッジが全てのリスクを度外視してまで、刑執行を踏みとどまらせるのに、十分な力を持っていた。

 

「私は、彼の弱みを握っています!この情報があれば、あなたは彼を支配できる!もうおこぼれに預かる必要なんてない!彼の持っている、途方もない富や権力を奪い取り、思うままにできるのです!あなたが私を見逃してくだされば、私はすぐにでもその情報をお伝えします!」

 

 ファッジはごくりと唾を飲み込んだ。――ピーターが言う()の正体は言うまでもなく、ルシウス・マルフォイの事だ。今回の件もピーターの言う通り、ルシウスが目も眩むばかりに美しいダイヤの指輪と、東南アジアの素晴らしく広々とした別荘付の土地を贈る代わりに、『これ以上深入りはせず、迅速にキスを執行すること』を約束させたのだ。ファッジは暫くの間、思いを馳せた。

 

 ルシウスは、欲望に忠実な人々の扱い方をよく心得ていた。しかしそれは、人々に慕われる事と同義ではない。表面上は友好的な態度を示しておきながら、影で彼を忌み嫌う者は大勢いた。ファッジもその一人だ。――いつも彼には頭を下げ、その尻拭いに奔走されるばかりだった。今回もさらなる余罪を追及しようと尋問を要求してきた闇祓いの連中やダンブルドアを黙らせるのに、どれだけ苦労したことか。だが、ピーターがもし真実を言っているなら、その苦労も終わる。今度は自分に向かって、ルシウスが頭を垂れるのだ。ファッジの口角が、ピクッと動いた。秘密を暴かれた彼が焦って自分を襲おうとしても、こっちには大勢味方がいる。やってられないことは、ないのではないか?もしピーターが苦し紛れに嘘を言っていたとしても、”真実薬”を使えばすぐに分かることだ。

 

「貴様、何をしているっ!勝手な行動を・・・!」

 

 ――役人の怒号とピーターのつんざくような悲鳴で、ファッジは我に返った。

 

 ディメンターは飢えていた。数週間前、小さな娘からたった一口吸い上げたきり、何も口にしていない。少量の御馳走は、空腹をより際立たせる。本当なら、あの娘を思う存分貪りたい。だが、彼女はもういない。ならば、目の前にいるこの貧相な男はどうだ?あの子のように美味くはないだろうが、魂までしゃぶり尽くせば、きっと腹は膨れるに違いない。もう我慢ができない。ディメンターは役人の命令を無視して、ピーターに覆い被さろうとしたのだ。

 

 思いもよらぬ事態に、ファッジは焦った。――あいつがキスを受ければ、せっかくのチャンスが消えてしまう。役人の放った守護霊がピーターとディメンターの間に滑り込んだのと、ファッジがピーターの拘束を解放する呪文を唱えたのは、ほぼ同時だった。糸の切れた操り人形のように、ぐらりと椅子からピーターの体が揺らぎ、床に崩れ落ちる。ディメンターを遠ざけようと奮闘する役人を横目に、ファッジは慌ててピーターに近づいた。

 

「ああ、何という事だ・・・」

 

 しかし、もう遅かった。ピーターはキスを受けた後だった。淀んだ目は焦点を失い、半開きになった口の端から涎が垂れている。――ああ、希望は潰えた。ファッジは傍にしゃがみ込んで肩を揺さぶりながら、ピーターの顔を覗き込んだ。

 

 ――その時、ピーターの焦点を失った筈の目が、ギョロリと動いてファッジを見た。そしてファッジが足元に転がしていた杖をむしゃぶりつくようにしてもぎ取り、ピーターは叫んだ。

 

「ストゥーピファイ、麻痺せよ!」

 

 放たれた赤い光線は、思わず身構えたファッジを通り過ぎて、役人に命中した。意識を失った役人に襲い掛かろうとしたディメンターを、ファッジはピーターから杖を奪い返し、守護霊を出して守った。

 

 ――そして事態が収束した数秒後、ファッジがピーターを振り返った時には、もう彼の姿はどこにも見当たらなかった。ファッジはもっとピーターを警戒するべきだった。ピーターは死が間近に迫っても尚、生きるためのチャンスを貪欲に探り続け、そして見事にそれを掴んだ。ファッジはピーターに()()()()()()()()()()のだ。

 

 余りの事に茫然自失状態となりながらも、ファッジは役人を介抱するために立ち上がった。その時、不意に指に強い痛みを感じ、彼は顔をしかめた。見ると、あの美しいダイヤの指輪が抜き去られていて、小さな動物の噛み跡から血が滲んでいる。ファッジは自分の欲望のせいで、指輪や別荘地だけでなく、ルシウスを始めとする様々な人々の信用を失ったと痛感した。彼はそれ以降、離れていく人々の信頼を繋ぎ止めるかのように、ますます自分の権力に固執するようになった。

 

 その日、日刊予言者新聞が、ピーター事件でお祭り騒ぎ状態となった。そしてピーター・ペティグリューはイギリスの魔法界やマグル界において、最重要の指名手配犯として名を馳せることとなった。魔法界の手配書の写真には、人間の姿とネズミの姿が両方掲載されるという異例の扱いになり、イギリスの家庭中でネズミ捕りが飛ぶように売れ、ペットショップのネズミには魔法省による厳しい定期チェックが入った。マグル界はさすがにネズミの写真まではないものの、政府からネズミに関する巧妙な印象操作が行われた結果、人々がネズミをますます忌み嫌うようになった。ピーターはイギリス中の人々だけでなく、イギリス中のネズミも敵に回してしまったのである。


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