ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※8/25 文章微調整、完了致しました。誤字報告、ありがとうございました!
 10/15 動物の会話部分とラベンダーの会話部分、修正致しました。ご指摘ありがとうございました!


Act12.ホグワーツ

 あれからダンブルドアは随分と力を尽してくれたものの、ロックハートの行方は依然として掴むことが出来なかった。日がとっぷり暮れた頃、イリスはダンブルドアと共にホグワーツへ戻った。

 

 大広間で夕食を摂るようにと促されたが、そんな気には到底なれない。イリスは鉛のように重い体を引きずって、グリフィンドール寮の談話室へ向かった。肩にショールを掛け直していた「太った貴婦人」が、イリスの顔色を見るなり、労しげに眉をひそめる。

 

「まあ、ひどい顔。また、医務室へ行っていたの?」

「うん。えっと・・・」

 

 イリスは浮かない声で合言葉を唱えようとして、はたと気が付いた。そう言えば、医務室で数日寝込んでいたので、最新の合言葉を知らないのだ。――どうしよう?イリスがまごついていると、おもむろに後方から、大好きな親友の声が飛び込んできた。

 

「イリス!心配したのよ!」

 

 ハーマイオニーだ。自分よりも一回りほど小さなイリスを柔らかく抱きしめて、彼女は涙混じりの笑顔を浮かべた。上品な薔薇の芳香が、イリスの周囲をふわりと漂う。ハリーとロンも嬉しそうに走って来て、イリスの頭をくしゃくしゃに掻き雑ぜた。

 

 ――三人の存在は、まるでお天道様のように冷たくかじかんだ心を暖めてくれる。なんだかイリスは、やっと日常へ戻ってきた気がした。

 

「おいおい、君ってホントに泣き虫だな!どれだけ僕らに会いたかったんだい?」

 

 張り詰めていた緊張の糸が切れ、イリスがめそめそ泣き始めたのを見て、ロンは呆れたように吹き出した。

 

「きっと安心したんだよ。さあ、中に入ろう」

 

 ハリーはとびきり優しい声でそう言うと、イリスの頭を愛おしげに撫でた。

 

「温かいミルクティーを淹れてあげる」ハーマイオニーも微笑んだ。

 

 そうして、四人は談話室へ入った。ほとんどの生徒たちはまだ夕食中らしく、室内にいるのはほんの数人だけだ。いつもの特等席を確保したあと、イリスは三人に、魔法省での出来事を話して聴かせた。全ての話を聴き終わると、ハーマイオニーは憤懣やる方ないという調子で腕を組んだ。

 

「やっぱりね。そんな事だろうと思ったわ」

「なんでファッジ大臣は、イリスが証言するって言ったのに無視したんだ?本人の話を聞くのが、一番手っ取り早いのに」

 

 ロンが大きく首を傾げると、ハーマイオニーは短い溜め息を零した。

 

「貴方って本当に鈍いのね。マルフォイの父親が手を引いているに決まってるじゃない。『この件には手を出すな』って釘を刺したに違いないわ」

「確かに大臣は、あいつに対して立場が弱いみたいだった。ハグリッドが連行された時も、あいつの言いなりだったし」ハリーが真剣な声で話す。

「でもさ、()()()()だろ?」ロンはしつこく言い張った。

「常識的に考えて、イギリス(ここ)で一番偉いのは大臣じゃないか。なのにどうしてファッジ大臣は、あんなやつにヘコヘコする必要があるんだ?」

 

 ハーマイオニーは、今度はとびっきり長い溜め息を吐き、ロンをじろりと一瞥した。

 

「あのね、ロン。マルフォイ家は、イギリスの魔法界屈指の大金持ちと言われているの。たくさんお金を持っていると、たくさん物を買えるわよね?たくさん物を買うと、経済が動く。――つまり、人々を支配する”権力”を得ることが出来るのよ。政治家にとって、マルフォイ家のような権力者と繋がりを持つのは、とても大切なことなの。

 きっと大臣は、マルフォイ家と深い繋がりがあって、彼に頭が上がらないのよ。だからロックハートの事も、動いている()()しか出来ないというわけ」

「よーく分かったよ。でもさ、君って僕のこと馬鹿にしてる?」ロンがムッとして言った。

「あら、馬鹿になんてしてないわ。呆れているだけよ」

 

 

 「やっぱり馬鹿にしてるじゃないか」とロンが言い返そうとしたその時、どこからか鋭い悲鳴が響き渡り、四人は一斉に声のした方向を見た。

 

 ――談話室へ繋がる穴の前に、小さな女の子が両手で口を押えて、立ち竦んでいる。ジニーだ。ジニーの鳶色の目は、激しい恐怖と怒りに歪み、イリスを睨み付けている。

 

「どうしてここにいるの?」ジニーの声はわなわなと震えていた。

「じ、ジニー?」

「私は騙されないわ!!」

 

 ジニーが余りに大きな声で叫んだので、イリスはソファの上でたまらず飛び上がった。周囲の生徒たちの視線が集まるのを気にもせず、ジニーは感情的な言葉を次々に投げつけながら、つかつかとイリスの傍へ詰め寄っていく。

 

「あなたって最低だわ!全部、嘘だったのね!皆を騙していたのね!」

「な、何を言ってるの、ジニー?」ハーマイオニーが、掠れた声で問いかける。

「ハーマイオニー、あなたはイリスに騙されているのよ!彼女に去年されたひどい仕打ちを、もう忘れたの?

 きっとブラックも、あなたが逃がしたに違いないわ!二人でハリーをいつ殺してしまうか、考えてるんでしょう!・・・もう彼の傍にいないで、離れてよ!」

 

 ジニーはそう言った切り、顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出した。

 

「なんてことを言うんだ、ジニー!」ロンが仰天して叫ぶ。

 

 ――初めて出会った頃からずっとハリーに片思いをしていたジニーは、彼と兄妹のように仲の良いイリスを見るうちに、やがて彼女に対して強い嫉妬心を抱くようになった。その暗い気持ちは、いざイリスが不利な状況に立たされた時、彼女を守ることではなく――彼女を貶めることを選んだ。ジニーはロックハートの本の内容をすっかり信じ込んでしまったのだ。

 

 言葉もなく泣き崩れるジニーを、ラベンダーとパーバティが優しく助け起こし、女子の寝室に繋がる螺旋階段の方へ連れて行く。その時、ラベンダーたちは不自然にこわばった表情で、イリスをチラッと見た。もうそれは、親しいルームメイトを見る目ではない。

 

 

 ラベンダーたちは、その夜、部屋に戻ってこなかった。ハーマイオニーは何も言わず、イリスと同じベッドで眠りに就いた。イリスは寝た振りをして、ハーマイオニーに背中を向けたまま、古ぼけた壁を見つめていた。――きっとジニーは、ロックハートの本を信じてしまったに違いない。イリスは静かに考えた。彼女だけじゃない、ラベンダーやパーバティも。

 

『今の状況ではきっと、ホグワーツでも居心地は悪いだろう。暫くの間ホグワーツを離れて、母国のマホウトコロ学校へ身を寄せてはどうかね?』

 

 不意にファッジ大臣の言葉が、頭の中で優しく響いた。イリスは隣で眠っているハーマイオニーを起こさないように、そっとベッドから起き上がり、ローブのポケットから美しい巻物を取り出した。そしてその輝きを見つめているうちに、静かに眠りの世界へ落ちていった。

 

 ――イリスは夢の中で、懐かしい日本の小学校での記憶を追体験していた。古ぼけた遊具で遊んだり、友達と鬼ごっこや缶けりをしたり、みんなと楽しくお喋りをしながら給食を食べたり・・・などなど。

 

 驚きの連続である魔法界に魅入られていたイリスは、今までマグルの世界を思い返すことなど、ほとんどなかった。だが今となっては、その単調でつまらない出来事の一つ一つが、とても楽しく穏やかで、満たされたもののように感じられた。夢の世界で、イリスは仲の良い友人たちとアスレチックでひとしきり遊んだ後、買い食い先をどこにしようか決めている。

 

「・・・ちゃん。カルメやき、たべにいこうよ」イリスは日本語で寝言を呟いて、微笑んだ。

 

 ハーマイオニーは、その姿をじっと見守っていた。その指先に、とても長くて細い金の鎖を絡め、小さな砂時計の付いた不可思議な形状のペンダントを握り締めて。

 

 ハーマイオニーが持っているのは、”逆転時計(タイムターナー)”と言われるものだ。時間を巻き戻す事ができる強力な道具で、彼女はこれを使って、同じ時間に開始される授業をいくつも受けていた。マクゴナガル先生が、お気に入りの生徒であるハーマイオニーのために、恐ろしく複雑でややこしい手続きをこなし、魔法省から特別に借り受けてくれたのだ。

 

 先生は『”逆転時計”の事は誰にも他言せず、そして決して授業以外の用途に使わない事』を、ハーマイオニーに約束させた。それだけではない。”逆転時計”の持つ力に目が眩んで、時間にちょっかいを出した結果、何人もの魔法使いたちが、過去や未来の自分自身を殺してしまった、という悲しい出来事も――ハーマイオニーがかつての使用者たちと同じ轍を踏まないように――しっかりと話して聴かせた。

 

 今、私が考えている事をマクゴナガル先生が知ったら、先生はどんなに失望し、悲しむかしら。ハーマイオニーは、きらきらと輝く砂時計を見つめながら思った。――そう、『イリスの過去を変えたい』だなんて。

 

 だけど、もしイリスが去年の夏休み、マルフォイ家からの手紙を受け取らず、最初から()()()()に行っていたとしたら?そうすれば、イリスはマルフォイの父親の干渉を受けない。自分が過去に立ち戻り、何とかしてイリスの実家へ行って、彼女に忠告するのだ。『今からすぐに荷物をまとめて、ロンの家に行きましょう』と。

 

 幸い、過去の私はフランスに行っているから、()()と鉢合わせする危険性はない。イオおばさんに、ウィーズリー家と電話で連絡を取ってもらうよう頼むのだ。イリスとロンたちが「漏れ鍋」で落ち合うようにして、そしてその様子を見届けたら、私は姿を消す。未来の私が時間を巻き戻した、その時が来るまで――。

 

 なんて馬鹿らしい考えなんだろう!ハーマイオニーの理性が、大きな溜め息を吐いた。穴だらけにも程がある。本当に”その時”に行けるかどうかも分からないし、もし上手く事が運んだとしても、”過去の私”がイリスたちから話を聞けば、きっと不審に思うわ。私だけじゃない、他の人たちだって。何より、一年間もどうやって人目を避けて過ごすつもり?全くもってマトモな魔女の考える事じゃないわ、狂ってる。

 

 理性と情熱の狭間で迷ったハーマイオニーは、隣で眠るイリスを見た。イリスが持つ巻物から湧き出す光が、彼女の頬に残る涙の筋をうっすらと照らしている。

 

 ――もうこれ以上、親友が弱り、苦しんでいる姿を見たくない。ええ、狂っているわ。ハーマイオニーの情熱的な心が、理性に答えた。狂っていますとも。彼女はトランクから山のような書物を取り出し、熱心に何かの計算を始めた。

 

 

 十二月中、雨はずっと降り続いた。その鬱屈した天候に感化されたかのように、イリスを取り巻く環境も、日を重ねるごとにどんどん悪くなっていった。

 

 ロックハートの新作『継承者とこっそり一学期』は、ハーマイオニーのように事前予約をして買い付けたファンや、魔法省の関係者を家族にもつ生徒、その親族らの手紙から、野火のようにホグワーツ中へ広まった。ひとの口に障子を立てることはできない。発売日からまだ間もないのに出版停止処分にされたこと、すでに購入してしまった者に対する魔法省への自主的返却命令が下されたこと、そして執筆者ロックハートが謎の失踪を遂げたこと。これらの事項は、本の信憑性や話題性を飛躍的に高めた。

 

 そしてハーマイオニーが危惧したように、本の購入者は思った以上に多かった。魔法省は自主的返却が遅々として進んでいない現状を把握すると、すぐさま強制的な回収命令を下した。しかしその対策は皮肉なことに、本の知名度をますます高めるだけに終わった。回収命令が下された数日後、いかがわしい魔法で大量に複製された幻の新作が、文字通り()()()()夜の闇(ノクターン)横丁に出回るようになったのだ。好奇心をくすぐられた多くの魔法使いや魔女たちが、こぞって本を買いあさり――かくしてロックハート事件は、イギリス中の魔法族の知るところとなってしまったのである。日刊予言者新聞を始めとする様々なマスメディアは、連日のようにロックハート事件を取り上げ、みんなイリスと取材をしたがった。

 

 残念なことに、ホグワーツのほとんどの生徒たちは、ジニーらと同じように『継承者とこっそり一学期』の内容を信じた。彼らがそうなったのには、ある一つの原因があった。――それは、”イリスの変化”だ。

 

 一年生の時はホグワーツきっての”落ちこぼれ”だったイリスが、二年生から急激に成績を伸ばしたこと、おまけに三年生の時には大人顔負けの大きな守護霊を出したこと。いくら優等生の教えで急成長を遂げたのだとしても、限度がある。『本当は十分な実力があったに違いない。みんなの目を避けるために、今まで”落ちこぼれ”だった振りをしていたのだ』――ロックハートを信じる生徒たちは、イリスをそう結論づけた。中にはジニーと同じように『ロックハートを始末してしまったのではないか』、『今世間を賑わせているお尋ね者のブラックと、関係があるのではないか』などと邪推する者も多くいた。

 

 生徒たちは廊下でイリスに出会うと、まるでイリスが牙を剥き出したり、誰彼構わず死の呪いを連射したりするとでも思っているかのように、みんな彼女を避けて通った。イリスがそばを通ると、指差しては「シーッ」と言ったり、ひそひそ声で何かを囁き合う。イリスはより一層萎縮して大人しくなり、三人の影に隠れて過ごすようになった。

 

 しかし、スリザリン生だけはイリスに対して、他の寮生とは()()()()を示した。彼らはみな、イリスがそばを通ると、敬意を込めた礼を捧げるようになった。あんなにイリスのことを馬鹿にしていたパンジーやミリセントも、今では彼女をからかう素振りすら見せようとしない。

 

 ある日の朝、イリスが自分のテーブルに向かおうとしていると、スリザリンのテーブルから冷たい声が飛んできた。

 

「やあ、ゴーント」

 

 ドラコだ。彼は気取った調子でイリスに微笑みかけ、自分の隣の席をポンポンと手で叩いた。

 

「どうして僕に教えてくれなかったんだい?”スリザリンの末裔”である君の席はそこじゃない。ここの筈だろう?」

「黙れ、マルフォイ」

 

 どこからか騒ぎを聞きつけたハリーがスニッチ顔負けのスピードでやって来ると、イリスの手をグイと掴んで自分の方へ引き寄せながら、冷たく言い放つ。ドラコは面白くなさそうに鼻を鳴らし、見るからに落ち込んだ様子のイリスを見た。二人の双眸が短い間、交錯する。

 

 ――その時、ドラコは初めてじっくりとイリスの瞳を見た。

 

 ぱっと見れば深い青色だが、よく見ると――海の底を通して太陽を見ているように――金色の光がちらついている。まるで貴重な宝石を鑑賞しているようだと、ドラコは思った。彼女を見つめることで生じる謎の副作用――脳髄を蕩かすような頭の痛みや、ブルッと震え立つような不快感さえ、一時的に忘れてしまうほど、彼はこの美しさに魅了されていた。

 

 やがて彼女が悲しげに顔を背けるまで、ドラコはその瞳から目を離す事が出来なかった。

 

「ねえ、ねえ!ドラコったら!」

 

 惚けたように座り込むドラコを見兼ねて、向かい側に座るパンジーが話しかける。青ざめた顔を恐怖で引き攣らせ、彼女はドラコにこう言った。

 

「あまりゴーントの機嫌を損ねない方がいいわ」

「・・・なんだ、君もあいつがそうだって信じてるのか?」

 

 我に返ったドラコは冷たく取り澄ました声で答えると、前髪を掻き上げる。パンジーの媚びとおべっかを存分に含んだ視線を心地良さそうに受け止めながら、彼は大袈裟な動作で肩を竦めてみせた。

 

「あのみっともない泣きっ面を見てみろよ!あんなやつが”スリザリンの継承者”?フン、全くもってあり得ない話さ。ロックハートもどうせ嘘を吐くなら、もっとマシな人間を選べば良かったものを!」

「でも彼の話は、信憑性があるわ」パンジーは辛抱強く言った。

「言っておくけど、ゴーントは本当にスリザリンの直系の子孫よ。ミリセントと図書室で、家系図を調べたんだから。それに彼女のお祖母様も・・・(パンジーはそこでブルッと震えた)・・・最初から知ってたら、あの子をいじめたりなんてしなかったわ!先輩方だけじゃない、パパやママにも『彼女になるべく関わるな』って警告されたのよ。

 もう私たちの中で、今までみたいにゴーントをからかっているのは、だーれもいないの!・・・あなた一人を除いてね」

 

 パンジーは興奮した調子で話し続けていたかと思うと、自分の身を案じて不安そうに顔を歪め、最後は怒りをぶつけるかの如く眉根を寄せ、頬を少し膨らませながら、目の前に座るドラコをびしっと指差した。まるで玉虫のように目まぐるしく変わる彼女の表情を興味深そうに眺めながら、ドラコは臆することなく自信満々にこう答える。

 

「なんと言われても、僕の意見は変わらないね。あの本の方が嘘っぱちだ。あいつはただの泣き虫さ。・・・まあ、僕だけじゃない、僕の父上や母上()同じお考えだけどね」

 

 ――ドラコの中に残るイリスとの記憶は、彼女自身の手によって限界まで希釈されている。現在の彼にとってイリスは、マグルかぶれの『友達以下』にも関わらず、父のお気に入り故に目を掛けねばならない、楽しい学校生活に影を差す目の上のタンコブのような存在に戻っていた。おまけに最近は、傍にいるだけで激しい頭痛や不快感に襲われる始末。そう、嫌いにならない理由がないのだ。

 

 けれどもドラコは、世の中や信頼するスリザリン生たちの意見に逆らってまで、頑なにイリスの無罪を信じた。イリスのことが嫌いだから、自分より絶対的上位の立場になるのを拒んでいるのでもなく、尊敬する両親の言葉を妄信しているのでもない。『イリスがそんなことを出来るわけがない』――ごく単純に、そう思っただけだ。しかしその思いは城塞のように強固で、他者の好き勝手な意見から、今に至るまで彼の心を守り続けていた。

 

 ドラコはうつろな眼差しで、パンジーの肩越しに、グリフィンドールのテーブルに座るイリスを、チラリと見やった。――たとえ再び激痛に苛まれても、あの目をもう一度見たい。あんなに心動かされるほど美しいものを、彼は今まで見た事がなかった。

 

 

 

「おい、どういうことだよ。これ」

 

 その日の夕方、談話室の掲示板に貼り出された『緊急告知』の内容を見て、ロンは絶句した。――それは、蛙チョコ交換会が『無期限の活動休止』をする運びとなったという知らせだった。

 

「せっかくイリスを連れて行ってやろうと思ったのに!」

 

 ロンの魂の叫びを聞きつけたネビルは、彼の傍までやって来ると、イリスが周囲にいない事を何度も確認してから、困り果てた様子でこう言った。

 

「僕、会長に聞いたんだ。そしたら『イリスが来たら怖いから、しばらく中止する』って。他のみんなも同じ意見だって言ってた」

「もしかして、君も()()なのか?」

 

 ロンが怒りに任せてそう唸ると、ネビルは慌てて首を横にぶんぶん振った。

 

「ぼ、僕は違う!イリスはとっても優しくって、良い子だよ。僕を何度も助けてくれた。それに、うちのばあちゃんもとても怒ってた。『前からロックハートは好かなかった』って。『きっとあいつが嘘を吐いてるに違いない』って、手紙に書いてたの」

 

 その言葉を聴いて、ロンの溜飲は下がった。ネビルは不安そうに掲示板を見つめながら、か細い声でこう続ける。

 

「でも、イリス大丈夫かなぁ?最近、ずっと死にそうな顔してるし。いつか倒れるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてるんだ」

 

 二人の頭に、イリスの弱り切った様子がポッと思い浮かんだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ロンは、幼い頃から自負心に欠けていた。才能ある兄たちが五人もいて、妹も唯一の少女として可愛がられる、ウィーズリー家七人兄妹の中で育ったために、己の個性と立場についての自信がなく、劣等感に苛まれていた。また裕福な家庭でもないため、兄たちのお下がりや自分に合っていない中古品を与えられることが多く、そうではない他の生徒たちに対し、引け目を感じてもいた。

 

 有名人であるハリーや、ホグワーツきっての秀才であるハーマイオニーは、ロンにとってかけがえのない親友であると同時に、自分の暗い気持ちを増幅させる存在でもあった。二人に対して、嫉妬心や劣等感を抱いたことが、今まで何度あっただろう。

 

 しかし、いつもそんな時、イリスの存在はロンの傷ついた自尊心を癒し、慰めてくれた。

 

 動物と話せるという特別な才能はあるけれど、それ以外はこれといって平凡――いや、それ以下の存在。おまけに気性は穏やかで、敵を作る性格でもない。ロンは自分より下、言わば妹のような存在のイリスと共に過ごすことで、才能の塊のような二人の親友を見ても、劣等感をこじらせずに自尊心を保つ事が出来た。

 

 そんな時、ある日を境に、イリスもハリーたちと同じ”人々から注目を集める存在”になった。けれどもロンは、ハリーたちに対するものと同じ感情を、イリスに対して抱くことはなかった。

 

 ハリーやハーマイオニーは、自分が有名になったことで生じる、明るい部分を受け入れ、また暗い部分をはねつける強さがあった。しかし、イリスはそうではない。周囲の人々が向ける好奇心や畏怖の視線が、イリスの身体を少しずつ削り、彼女は一回りも二回りも小さくなっていく――ロンにはそんな風に見えた。

 

 イリスがまだ自分自身について何も知らなかった頃、彼女は自由で明るく、キラキラと輝いていた。だが今は、もう見る影もないほど疲れ果てている。

 

 有名になることは、必ずしも人を幸せにするとは限らない。けれども平凡は、間違いなく人を幸せにする。ロンは、そう理解せざるを得なかった。

 

「ロン、イリスにこれを渡してあげてよ」

 

 ネビルは立ち去る時に、一枚の蛙チョコカードをロンに手渡した。――ホグワーツの創始者の一人、ゴドリック・グリフィンドールだ。イリスが欲しがっているカードの一つで、現にネビルもこれ一枚きりしか持っていない筈だ。ロンは訝しげな目付きで、ネビルを見つめ返す。

 

「イリスにプレゼントするよ。これで、少しでも元気になれるといいんだけど」

 

 自らの寮の信条として、勇猛果敢な騎士道を挙げる人物だ。不思議なことに、かつてロンがイリスに成り代わって大量の蛙チョコレートを開封した時も、グリフィンドールのカードは一枚たりとも出てこなかった。立派な髭を蓄えたグリフィンドールが、じっと己の生徒を見上げている。ロンとグリフィンドールの視線が、ほんの短い間、交錯した。

 

 ――その時、ロンはなんとなく、このカードをイリスにあげるのは、彼女のためにならない気がした。イリスが自分自身の手で見つける方が、きっと良い。そして、その日は必ず来る。ロンの直感はそう告げていた。彼は気まずそうに唇を舐めると、ネビルにこう言った。

 

「ゴメン、あいつには渡せないよ。その、上手く言えないんだけど、このカードは・・・イリスが自分の力で見つける方が、絶対良い気がするんだ」

「・・・はえ?」

 

 ネビルはポカンとした表情で、ロンを見つめるばかりだ。ロンの手の中で、カードの中のグリフィンドールは満足気に頷いた。

 

 

 ネビルの予想は外れた。倒れたのは、イリスではなく()()()()()()()の方だった。イリスの様子に目を光らせながら、”逆転時計”を使用して全ての授業を履修し、その予習復習も欠かさず、そして過去に戻るための計画を練り続けていれば、どんなに凄腕の人間でも疲労困憊してしまう。やがてハーマイオニーは、イリスと共に図書室へ向かう途中、強い立ちくらみを起こしたあと、パタリと倒れてしまった。

 

 ――意識を取り戻したハーマイオニーが目を開けると、そこは医務室のベッドの上だった。

 

「目を覚ましましたか、ミス・グレンジャー」

 

 すぐそばで、穏やかな女性の声がした。――マクゴナガル先生だ。何時の間に来たのだろう、ベッドの脇に座って、ハーマイオニーをじっと見つめている。その膝の上に広げられた羊皮紙の束を見て、ハーマイオニーは思わず青ざめ、大きく息を詰めた。ここ数日、自分がほとんど寝ずに書き上げた――”イリスの過去”を変えるための資料が全て、そこにあったのだ。彼女の反応を受け止め、マクゴナガル先生はわずかに微笑み、こう言った。

 

「貴方はやはり、非常に優秀な魔女です。一般の生徒以上の日々の学業をこなし、親友を見守りながら、このように壮大で綿密な計画を立てる事ができた。

 しかし、この計画を見過ごすことはできません。あなたは魔法界の大きな規則を破る事になるのですから」

「・・・先生、どうして、分かったのですか?」ハーマイオニーは掠れた声で、問いかけた。

「あなたの監視は、私の義務です。”逆転時計”の持つ強大な力は、持ち主を破滅させる危険性がある。まだ未成熟なあなたがそれに飲み込まれぬよう、ずっと影ながら見守っていたのです」

 

 ハーマイオニーは震える唇を噛み締め、俯いて考えた。――きっと先生は、この計画のことを、随分と前から分かっていたのだろう。約束を破ったかどで、”逆転時計”を回収されてしまったらお仕舞いだ。イリスを救えなくなってしまう。彼女はただ我武者羅に、口を開いた。

 

「先生、どうかお願いです。イリスを守るためなんです。私は、彼女の人生が悪い方向へ変わった”過去の出来事”を知っています。その時点まで遡って、過去の彼女に忠告できたなら・・・現在の彼女の人生は、きっと良い方向へ変わるはずです」

 

 マクゴナガル先生は、じっとハーマイオニーを見つめた。四角い縁のメガネの奥にある鋭い目が、キラッと光ったような気がした。

 

「・・・ミス・グレンジャー」先生は、静かに話し始めた。

「大切な人を思い、その人のために自分の全てを投げ打つ行為は、とても気高く尊いものです。しかし過去に干渉する事は、決して容認できません。それはこの世界の安全を保つためでもあり、あなたのためでもあり・・・そして何より、ミス・ゴーント自身のためでもあります。

 はっきりと言っておきましょう。『過去を変えることは不可能』です。これは”逆転時計”を保管している神秘部が、時間というものについて途方もなく長い時間と労力を割いて、出した結論です。

 あなたが”逆転時計”を使って過去に立ち戻り、その出来事を変える事が出来たとしましょう。しかし近い未来にそれと全く同じ、又は類似する出来事が起き、ミス・ゴーントは同じ苦しみを味わう事になる。あなたが何度、過去を繰り返しても、その出来事を無くす事は出来ないのです。何よりも、あなた自身を危険に晒すそのような行為は、ミス・ゴーントが望む筈はありません」

「そんな。では、私は一体どうしたら・・・」

 

 ハーマイオニーは絶望に打ちひしがれた声で、呟いた。マクゴナガル先生は、迷いのないはっきりとした声で、こう答える。

 

「『今を変える』、つまりミス・ゴーント自身が強くなる手助けをする事です。彼女の未来を、より良い方向へ導くために」

「先生、イリスはとても繊細で弱い子なんです。あんな辛く苦しい現実に立ち向かうことなんて、とても出来そうにありません!」

「ええ、彼女一人では出来ないでしょう。しかし彼女は幸いな事に、()()()()()()

 

 ハーマイオニーはまるであたたかな太陽の光を浴びたように、涙に濡れた目を細め、尊敬する恩師の顔を見た。彼女は愛する生徒の不安を丸ごと受け止めるかのように、しっかりと頷いてみせた。

 

「人は一人で成長し、強くなるのではありません。苦難に立たされ、正しい事と易き事の選択が迫られた時、傍にいる大切な人々の温もりや、人々と過ごした思い出が、その人を強くするのです」

 

 マクゴナガル先生は、羊皮紙の束をハーマイオニーの手に戻しながら、静かに言った。

 

「この書類は、見なかった事にしておきます。よろしいですね。ミス・グレンジャー、あなたの友人に必要なのは、過去を変える事ではない。今の彼女に寄り添い、支える事です」

 

 先生が去ったあと、ハーマイオニーは羊皮紙を抱えたまま、暫らくの間、虚空をじっと見つめていた。――イリスの過去を変える事こそが、最善の道なのだと思い込んでいた。本当に先生の仰る通り、イリスが強くなる事なんて出来るのだろうか。

 

 ふと物思いに沈むハーマイオニーの鼻腔を、良い香りが掠めた。――百合の芳香だ。そうだ、思い出した。彼女の脳裏に、その香りと共にある光景が浮かび上がった。

 

 イリスが自分を背負って、一生懸命医務室まで走ってくれた記憶だ。どうして今まで忘れていたのだろう。自分よりも一回りほど小さなイリスが、何度も自分を励ます言葉を掛けながら、杖も使わず、汗びっしょりになって助けてくれたことを。ハーマイオニーはベッドを抜け出し、走り出した。イリスのもとへ、向かわないではいられなかった。

 

 

 イリスはハーマイオニーを医務室へ届けたあと、談話室への帰路を辿っていた。

 

 イリスの精神は、日を重ねるごとに弱まっていく一方だった。平穏に暮らしてきたイリスにとって、今まで仲良くしていた友人たちに怯えられ、ホグワーツ中の人々から警戒されることは、とても耐えられる代物ではない。おまけに”秘密の部屋”の出来事は、リドルに操られたとは言え、イリス自身が行ったことでもある。彼女は連日、強い自責の念に駆られ続けた。

 

 その様子を見兼ねたハリーたちは、今まで以上に、誰かしらは必ずイリスの傍にいるようになった。イリスはそのことがとても心強い反面、申し訳なくてたまらなかった。――ハリーは自分と一緒にいること自体が気に入らない”ロックハート派”の生徒たちと、頻繁に口喧嘩をするようになったし、ロンは魂を捧げるほどの情熱を注ぐ”蛙チョコ交換会”が、自分のせいで当分中止になってしまった。そして、ハーマイオニーは過労で倒れてしまった。

 

 みんな、自分のせいだ。やはり自分はファッジ大臣の言う通り、暫くホグワーツを離れた方が良いのかもしれない。イリスが塞ぎ込みながら角を曲がろうとした時、不意に前方から声がした。

 

「ついに借りれたんだ、ほら、見ろよ!」男の子の声だ。

 

 角の手前辺りで、数人の生徒たちがざわざわと騒ぎ、次々に息を飲む声がした。なんだか不吉な予感がして、イリスは思わず立ち止まった。

 

「本当だ!」違う男の子の声が呻いた。

「ここだ・・・書いてある。メーティス・ゴーント、”死喰い人の始祖”」

 

 イリスの不安は的中した。――メーティス・ゴーント。自分の祖母の名だ。彼女の心臓がドクン、ドクンと大きく波打ち始める。男の子は至近距離に当人がいることなど知りもせず、興奮した口調で文面を読み上げ始めた。

 

「”名前を言ってはいけないあの人”の、最も忠実な側近。”あの人”と血縁関係があるとされている。”死喰い人”の基盤を作り、彼らを集め、導いた。多数の魔法族やマグルを誘拐、監禁、傷害、殺害し、またその示唆をした。1961年、七名の闇祓いと交戦の末、うち四名を道連れにし、夫と共にゴーント宅にて殺害された。享年35歳」

「この魔女がゴーントのおばあさんだ。やっぱり、あいつは悪い魔女だよ!」

「そうかしら?ゴーントは、そんな風に見えないわ。それに私のパパも、彼女のお父さんはすごく良い魔法使いだったって言ってたもの。

 それに、もし彼女がそうなんだとしたら、何よりダンブルドアが放っておかないと思うけど」女の子の声だ。

「ハンナ。じゃあ、ロックハートが嘘を吐いているっていうのかい?彼だって、有名な魔法戦士だぜ?」

 

 声たちは興奮冷めやらない様子で、段々こちらへ近づいて来る。――一刻も早く、この場を離れなければ。そう思っているのに、イリスは凍り付いたようにその場を動くことが出来ない。

 

「ロックハートの話は、実際に起きたことにピッタリ当てはまる。おまけに今、彼は行方不明だって言うじゃないか。

 きっと真実をバラされて腹を立てたゴーントが、彼を殺しちまったに違いないよ。お尋ね者のブラックを使ってさ」

「馬鹿言わないで、アーニー!彼女は、守護霊を出してポッターを守ったのよ」

「そうさ、特大の守護霊を出してね。・・・きっと”落ちこぼれ”の演技をしていたんだ。あいつとしては、ポッと出のディメンターに宿敵のポッターを殺されるのは面白くない。だから渋々守ったんだよ」

 

 そこで、ついに声たちが廊下の角を曲がり切り、硬直しているイリスと出会ってしまった。――ハッフルパフ寮の同級生たちだ。かつてイリスが石化していくのを止められなかった、ジャスティンの姿もある。みんなはイリスを見るや否や、いっせいにカチンと凍り付いた。とりわけアーニーは、この世の終わりが来たような顔をしていた。

 

「ああ・・・」

 

 トラウマを刺激されたジャスティンは、恐怖の余り、腰が抜けてドシンと尻餅をついた。――この場から離れるんだ、早く!イリスの理性が何度も叫ぶが、体が言うことを聞いてくれない。それでも何とか一歩足を踏み出すと、今度はアーニーが杖を構え、ジャスティンを守るようにして立ちはだかった。

 

「やめろ!こ、こいつに手を出すな!」

「ちがうよ。私は・・・」

 

 アーニーの恐れと警戒心に満ちた眼差しとまともにぶつかったイリスの心は、嵐のようにぐちゃぐちゃに吹き荒れた。それに呼応するように、彼女の体から膨大な魔法力が溢れ出て、大気と同化していく。

 

 凄まじい爆裂音がして、イリスたちの近くにあった廊下の窓ガラスが、粉々に割れた。松明の炎が激しく燃え盛り、バチバチと火花を照らす。か細い悲鳴を上げ、ハンナとスーザンが、お互いをひしと抱き締め合った。

 

「闇の魔法だあ!」引き攣った声で、ジャスティンが叫んだ。

「こ、殺される!!」

「――何をしているっ!!」

 

 突然、しわがれた大声が轟いた。廊下の端の方から、足を引き摺りながら、ホグワーツの管理人、アーガス・フィルチがやってきた。頭を分厚いタータンの襟巻でグルグル巻きにし、鼻は真っ赤に染まっている。相棒猫、ミセス・ノリスが弾丸のようにその足元から飛び出して、イリスを守るように立ち、アーニーたちにシャーッと威嚇をした。フィルチは鼻息も荒く周囲を見渡し、窓ガラスが粉々に砕け散っているのを見ると、怒りの余り頬をピクピク痙攣させた。飛び出した目玉が、生徒たちの中で唯一杖を構えていたアーニーを憎々しげに見据える。

 

「なんだこれはっ!お前だな、マクラミン!」

「ち、違います!僕じゃありません」

 

 濡れ衣を着せられそうになったアーニーが、必死に弁明するが、すぐさまフィルチのヒステリック極まりない叫び声に掻き消された。

 

「じゃあお前がご大層に構えていなさるその杖はなんだ、え?!」

 

 フィルチはイリスたちの中で、唯一杖を構えているアーニーが犯人だと断定し、”医務室のおまる磨き”の罰則を言い渡した。パニックから回復したハッフルパフ生たちが口々に友人の無実を主張するが、フィルチは意にも介さず、茫然と立ち竦んだままのイリスの手をグイと掴んでその場から立ち去った。

 

 

 フィルチはミセス・ノリスを伴い、事務室までイリスを連れて来た。薄汚い窓のない部屋で、低い天井からぶら下がった石油ランプが一つ、部屋を照らしている。恐らくフィルチたちが夕餉に食べたのだろう、魚のフライの匂いが微かに辺りを漂っていた。フィルチは、たった一つしかない古ぼけた椅子をイリスに譲り、足を引き摺りながらお茶の準備を始めた。ミセス・ノリスがイリスの膝に乗り、その冷たい頬をざらざらとした舌で舐めた。

 

≪怖かったでしょう?もう大丈夫よ。少しばかり、ここで休んでいきなさいな≫

 

 筋金入りの子供嫌いな一人と一匹から、前代未聞の”おもてなし”を受けている。他のホグワーツ生がこの光景を見たら、みんな卒倒するに違いない。けれども今のイリスには、もうそれを驚いたり感謝したりする余裕すらなかった。それでも彼女は震える唇を開き、なんとか言葉を捻り出した。

 

「窓ガラスが割れたのは、私のせいなの。アーニーじゃない。

 私・・・最近、魔法力を制御できなくなってしまうんです。心がぐしゃぐしゃになると、もう何も分からなくなってしまう」

≪力が暴走してしまうのね≫ミセス・ノリスが労しげに助け舟を出した。

「フン、そんなに力が有り余ってるのか。贅沢なこって!わたしにも分けてほしいもんだ!」

 

 赤錆びたやかんでお湯を沸かしながら、フィルチが痛烈に言い放つ。イリスはたまらなくなって、両手で顔を覆った。今まで我慢していたことが、熱い涙と一緒にどっと溢れてくるようだった。

 

「あげます、フィルチさんに全て。魔法力も、全て、何もかも!」

 

 生まれたばかりの赤ん坊のように泣きじゃくるイリスを慰めながら、ミセス・ノリスは凄まじい目付きでフィルチを睨んだ。その怒りを真正面から受け止めた彼は、気まずそうに頭を搔いた。

 

 

 その夜、ハリーはクィディッチの練習を終え、ウッドの魂のアドバイスをたっぷり一時間強聴き終わってグリフィンドールの談話室へ戻ってきた。寒くてまだ体中の彼方此方がこわばっていたが、ハリーは練習の成果に満足していたし、何より早くイリスに会いたかった。しかし、彼が談話室に繋がる穴をくぐるや否や、ロンとハーマイオニーが青ざめた表情で駆け寄ってきた。

 

「ねえ、イリスを見なかった?談話室へ戻ってたと思っていたんだけど」

 

 ――イリスが行方不明だって?ハリーの心臓が嫌な音を立てて軋んだ。”ロックハート事件”以降、三人のうち、少なくとも誰か一人はイリスと一緒にいるように協力し合っていたのに。ハリーの戸惑うような視線を受け止めたハーマイオニーが強い自責の念に駆られ、涙を浮かべて自分が倒れてしまったことを話そうとしたその時、シェーマスがひどく狼狽した様子で、穴から転げ落ちるようにして談話室に飛び込んできた。

 

「た、大変だ!イリスが、ハッフルパフ生を襲った!闇の魔法を使いかけたのを、フィルチに止められて、事務室へ連行されたって!」

「何だって?!」

 

 いっせいに青ざめ、ざわめく生徒達とは反対に、ハリーは激昂してシェーマスに掴みかかった。シェーマスは突然の友人の凶行に驚き、目を白黒させながらも踏ん張った。

 

「本当さ、ハッフルパフのアーニーから聞いたんだ!もうちょっとで、切り裂かれるところだったって」

「あの子はそんな子じゃない!どうしてみんな、それが分からないの?」ハーマイオニーが涙ながらに反論する。

「それも演技なのかもしれないわ」

 

 ラベンダーが恐怖に引き攣った声で、そう言った。

 

「二年前、あなたをトロールから助け出したのだって、本当はあの子がトロールを操っていたのかも。トレローニー先生が言っていたもの。『あの子は敵の手に囚われている』って」

「よくもそんなことを!」

 

 ハーマイオニーは金切声で叫び、ラベンダーに掴みかかろうとしたが、寸でのところでロンに止められた。今やハリーは爆発するような怒りの感情を抑えるのに、わなわなと震えていた。

 

「君たちは三年一緒に過ごした友達よりも、ロックハートのデタラメ話の方を信じるのか?あいつが使えない大嘘吐きだってことは、去年で知ってるはずだろ?」

 

 しかしハリーの言葉をもってしても、みんなの気持ちを良い方向へ変える事は出来ないようだった。

 

「無駄だよ、ハリー」ロンがハーマイオニーを慰めながら、静かに言った。

「イリスのところへ行かなくちゃ」ハーマイオニーが、あとを続ける。

 

 ハリーたちは先を争うようにして談話室を出ると、フィルチの事務室へ急いだ。

 

 

 イリスは、もう耐えられなかった。

 

 ――非情な現実に立ち向かい、自分の信じる道を歩み抜いた父やシリウスのような強さも、ルーピン先生や魔法省で見かけた”人狼”の魔法使いのように、自分の運命を受け入れる事の出来る力もない。ホグワーツの子供たちが向けてくる偏見や恐怖の目にさらされる日々を、イリスはもうこれ以上、耐え忍ぶことが出来なかった。

 

 『ホグワーツに来たのが、間違いだった』――やがてイリスは、そう思うようになった。自分がホグワーツに来なければ、”秘密の部屋”事件も起きずに済んだ。みんな平和に暮らせたんだ。今すぐにでも荷物をまとめて、日本に帰った方がいい。イリスは鼻をすすりながら、ジャスティンの恐怖に歪んだ顔を思い浮かべた。そうすれば、みんな安心して楽しい学生生活を送ることが出来る。ハリーたちにこれ以上、負担や迷惑をかけずに済むんだ。

 

 それが”正しい事”だ、そうだよね?イリスはかつてアーサーに教えてもらった事を思い出し、自分の胸に手を当てて、心の声に耳を澄ませた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

『印や傷跡、血筋なんかで、何もかも決められてたまるもんか。自分の事はいつだって、自分が決めるんだ』

 

 不意にハリーの力強い声が、耳元でこだました。イリスは心の世界で、”秘密の部屋”の祭壇の上に座り込んでいる。

 

 自分が”秘密の部屋”に連れ去られた時、ハリーたちは命懸けで助けに来てくれた。ハーマイオニーは石になっても、イリスを守ることを選んだ。イリスはそのことが、どんなに嬉しかったか分からない。もしみんなのように、自分も強くなれたとしたら――。

 

『イリス、君はどうしたい?君の意見が聞きたい。ヴォルデモートの部下の末裔としてじゃない。イリス。君自身が出す答えだ』

 

 ハリーがそう尋ねた時、自分はなんて答えた?

 

 ――そうだ。イリスはやっと思い出した。

 

 『みんなといっしょに、いたい』って――そう言ったんだ。イリスの目から、温かい涙が零れた。自分の本当にしたい事、その答えは、ずっと前に出ていたのだ。

 

 大切な人たちと過ごした記憶は、知らないうちにイリスの心を強く成長させていた。ハリーたちと離れたくない。だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それはイリスが生まれて初めて発した、”負けん気”だった。心の中にどくどくと流れ込んでくる熱い感情は、イリスの頭をかえって冷静にさせた。

 

『ああ、イリス!――私は裏切られた、見捨てられた!――私は君を、ずっと見守っていたのに――あいつに殺される、私を見ている――ああ、なんて恐ろしい!怖い!』

 

 ふと、今年の夏休みにかかってきた”不思議な電話の声”が、頭の中に響いた。――そうだ。全ての始まりは、あの電話だった。

 

 そしてアイスクリームパーラーで出会った、ロンのネズミのスキャバーズ。彼は、何かを必死にイリスに訴えかけていた。しかしイリスには、何を言っているのかさっぱり理解できない。

 

『彼らは今、やつから自らを守るものを必死に求めている。――イオ。イリスが気を付けるべきなのは、ブラックだけじゃない。今度は、不審な電話だけでは済まないかもしれないんだ』

 

 アーサーは”漏れ鍋”で、あの電話の主は、イリスに救いを求める”死喰い人”の残党だと言っていた。もしその事が真実だとしたら、何故その人は、出雲家の電話番号を知っていたんだ?そしてマグルを差別視している筈の”死喰い人”が、どうしてマグルの機械の扱い方を知っていたんだ?

 

『あいつはお前のローブに潜り込もうとしていた』

 

 ホグワーツ特急でスキャバーズの凶行を阻止したクルックシャンクスは、警戒心も露わにそう唸った。初めて出会った瞬間から、クルックシャンクスはスキャバーズを”胡散臭い奴だ”と敵視していた。スキャバーズの無実を証明したいのに、イリスは彼と会話することができない。おまけに、ここ最近のスキャバーズは、強引な手段を用いてまで、イリスとずっと接触をしたがっていた。――一体どうして?ギラギラと燃え滾る黒いビーズのような目を、イリスはいまだに忘れることが出来ない。

 

『私は何かをせねばならなかった。ピーターが生きていると知っているのは、この世界で私一人だけだ』

 

 シリウスは、静かにそう呟いた。彼は獄中で、ウィーズリー家の集合写真から、ロンの肩の上にちょこんと乗ったスキャバーズを見つけ出した。親友たちを裏切って死に追いやり、自分に濡れ衣を着せたピーター・ペティグリュー。ピーターはイリスとシリウスが協力関係を結んだと気づくと、すぐさま自らの死を偽装して行方を晦ませた。

 

 ――その時、イリスの中で、全ての謎がつながった。頭の天辺から足の先までを、一筋の電流が駆け抜ける。

 

 あの電話の主は、()()()()だったのでは?それならば、出雲家の電話番号を知っていたのも辻褄が合う。何せ、魔法界でそれを知っているのは、最初はアーサーだけだったのだ。きっとロンがイリスに電話するためにアーサーから聞いたのを、覚えていたに違いない。

 

 ピーターは日刊予言者新聞を見て、シリウスが脱獄したのを知り、慌てたのだろう。シリウスが命を賭けて追い詰める対象は、親友の殺害を示唆し彼にその罪を着せた、自分自身だけだ。しかし、今更人間の姿に戻る事など出来ない。だから、イリスに助けを求めた。しかし一向にそれが上手くいかない事に業を煮やしたピーターは、やがて強制的にイリスと接触を図るようになった。

 

 ロックハートの本の内容は、イリスやハリーたちしか知らないはずの”秘密の部屋”の様子が克明に描かれていた。まるで、実際に見聞きしたかのように。だけど、周囲には誰もいなかった。――本当に誰もいなかったのだろうか?例えば、もっと小さい存在なら?そう、ネズミは小さい。スキャバーズなら、ロンのポケットに紛れていたり、物陰に潜んでいたって、誰も気付かないし何とも思わないに違いない。

 

 ――そう、ピーター・ペティグリューが、ルシウス・マルフォイに()()()()()()を売っていたのだ。

 

 イリスは自分の心を落ち着けるために、何度か深呼吸を繰り返した。俄かには信じがたいけれど、そう考えれば全ての辻褄が合う。ピーターが繰り返していた言葉の意味も、理解できる。彼は狂っていたのではない。本当にイリスに助けを求めていたのだ。『私は裏切られた、見捨てられた』――あの時、ピーターはそう言っていた。きっとルシウスは、協力関係にあるピーターをシリウスから守らなかったのだ。

 

 おもむろに事務室のドアを激しく叩く音がした。フィルチが鬼のような形相で、小窓から外の様子を確認したあと、渋々と言わんばかりの表情でドアの鍵を外した。ハリーとロン、ハーマイオニーが、先を争うようにして、イリスの下へ駆け寄ってくる。

 

 イリスはこの事実を、一刻も早く親友たちに知らせなければならないと思った。けれどそれにはまず、シリウスの事を話さなければならない。イリスは意を決して口を開いた。




イリス、ちょっと強くなりました。
次回はドキドキホグズミードの巻!!ピーターも出るよ!

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