ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Act11.魔法省と大人たち

 まるで時間の神(クロノス)が、三人のいる空間だけを切り離してしまったかのように、彼らは暫くの間、ピクリとも動くことが出来なかった。――みんな同じ事を思っていた。『何故ロックハートが、”秘密の部屋”について物語を書くことが出来たんだ?』と。

 

 やっとのことでハーマイオニーが震える手で本を拾い上げ、席を立った。ハリー達も先を争うようにしてテーブルを飛び出し、ハーマイオニーに追いついた。彼女は覚束ない足取りで大広間を出ると、人気のない廊下の角へ駆け込んだ。それから素早く周囲に視線をめぐらせ、人がいないことを確認してから、立ったまま()()を始めた。――その速さといったら!あっという間に目が左から右へ流れ、手が次のページをめくっていく。ハリー達は呆気に取られ、口をポカンと開けたまま、彼女の様子を見守ることしか出来なかった。やがてハーマイオニーは最後のページを読み終えると、静かに本を閉じた。

 

「なあ、何が書いてあったんだい?」

 

 待ちきれなかったロンが、そわそわしながら尋ねた。ハーマイオニーは応えようと口を開いたが、なかなか言葉が出てこない。しかしその反応だけで、二人は本の内容が良いものどころか――とてつもなく悪いものであることを推測できた。ハーマイオニーは、まるで二人に”この世の終わり”が来たことを告げるかのように、ゾッとするような暗い声で呟いた。

 

「・・・イリスよ。あの子が・・・」

 

 ”イリス”――その一言で、ハリーの肩がビクリと跳ね、ロンの口がパカッと開いた。『どうして本にイリスの名前が載っているんだ?』二人は同時にそう思った。ダンブルドアはイリスを守るために、”秘密の部屋”の”継承者”が誰であるかを明言していなかった。だからホグワーツの教師陣と”部屋”に関わった人間以外、誰もイリスが継承者だということを知らないはずなのだ。うろたえる二人の目の前で、ハーマイオニーの青白く光る目から涙が浮き上がり、いくつも頬を滑り落ちていく。

 

「”リドルの日記”に操られたんじゃない。イリスが()()()()()で、”秘密の部屋”を開いて、そしてみんなを襲ったって・・・」

 

 ハーマイオニーは、それ以上言葉を続けることが出来なかった。本を取り落とし、床にへなへなと崩れ落ちると、小さな子供のように両手を覆ってしゃくり上げ始める。ロンはおたおたして、不器用な手つきで、彼女の肩を撫でた。ハリーも彼女の傍に座り込みながら、地面に落ちた本に手を伸ばす。――ハリーの頭の中を、イリスとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。ホグワーツで一緒に過ごす中、数えきれないほど自分に与えてくれた、向日葵のような笑顔と楽しく幸せな日々の記憶。そして――”部屋”の祭壇に横たわる、衰弱し切ったイリスの身体と痛々しい涙の痕。

 

 ハリーは思わず頭を強く振り、嫌な記憶を追い払った。――”秘密の部屋”事件は、もう終わった話だ。イリスは去年の辛い思い出を忘れて、幸せになるべきなんだ。だからこんなこと、あってはならない。ハリーは何度も自分にそう言い聞かせながら、本の中身に目を通し始めた。ロンも不安そうな様子で、ハリーの肩越しに本を覗き込む。

 

 ”秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ 気を付けよ”――冒頭は、その文句で始まっていた。ストーリーは、「闇の魔術に対する防衛術」の担任となったロックハートが、突如開かれた”秘密の部屋”、その犠牲者たちの特徴から、”継承者”の正体を突き止めるというミステリー調のものだ。ストーリーのクライマックスで、ロックハートは独力で”秘密の部屋”の在処を突き止め、そこに君臨している”継承者”イリスと対峙する。イリスは友人達には隠していたが、本当は狂信的な純血主義者だった。”死喰い人”であった祖母の遺志に従い、”秘密の部屋”を開いて、穢れた血たちを退けていたのだ。ロックハートはイリスがけしかけたバジリスクと戦って勝ち、相棒を失って茫然とするイリスに、『君はマグルの素晴らしさを知るべきだ。魔法界とマグル界が織り成すハーモニー、それこそがこの世界をより良くしていくのです』と説得する。イリスは見事に改心し、自らの過ちを反省して、”秘密の部屋”を永久に閉じた。最後にロックハートは、あとがきでこう記している――『この事件の後、ダンブルドアとの話し合いにより、イリスは通学を継続することとなりました。ご心配なされるな。彼女はもう危険な魔女ではありません。私のおかげで改心していますから!』と。

 

「なんだよこれ!ふざけるなよ!」ロンが地団太を踏み、怒り狂って叫んだ。

「全部、嘘っぱちじゃないか!今すぐみんなに言おう!」

 

 ――その通りだ。滅茶苦茶じゃないか!ハリーは、本を今すぐビリビリに引き裂きたい衝動を我慢するので精一杯だった。イリスがこれを読んだら、一体どんなに嘆き悲しむだろう。ロックハートに対する烈しい怒りの感情が、ハリーの体中を駆け巡り始める。しかし、ハーマイオニーは悲しみに打ちひしがれた様子で、力なく首を横に振った。

 

「もう遅いわ。ロックハートのファンは魔法界中にいるのよ。彼がどんなに人気のある魔法戦士だったか、私が一番知っているわ」

「ところがどっこい、僕らはそいつが大ウソつきだって知ってる。実際に現場を見たからね!」ロンが挑戦的な口調で言い返す。

「そうだ、僕らが証言するよ。”秘密の部屋”の真実をみんなに話す。ホグワーツの先生たちだって、きっと味方になってくれるはずだ」とハリー。

「・・・ねえ、二人共。どうして”リドルの日記”が物語に出てこないのか、疑問に思わない?」

 

 おもむろにハーマイオニーが、浮かない口調で二人に尋ねた。ハリーとロンは、思わず互いの顔を見合わせる。――確かに、彼女の言う通りだ。物語の最初から最後まで、”リドルの日記”は登場しない。あくまで、全てイリスの意志で行ったとされている。しかし不思議なことに、”秘密の部屋”事件に関するそれ以外のシーン――壁に書かれた文字、ミセス・ノリスを始めとする犠牲者たちの様子や、”秘密の部屋”の構造やバジリスクの容姿に至るまで――は、まるでロックハートが実際に目撃したかのように、具体的に描写されていた。”ロックハートの作り話”と決めつけるには、到底無理なほど、現実味がある。ちなみに本当に活躍したハリーやロン、ハーマイオニー、ドラコは残念なことに殆ど登場しなかった。たまにロックハートの引き立て役として、物語の片隅に他の寮生たちと共に、チョロッと描かれるくらいのものだった。

 

「そう言えば、そうだよ。本当にあいつが百万歩譲って”秘密の部屋”に行ったとしたなら、”リドルの日記”のことだって知ってるはずじゃないか」とロン。

 

 ハリーは顎に手を当て、思案した。――異常なほどの目立ちたがりで、自分の失敗さえ、強引に手柄としていたロックハートなら、”リドルの日記”だって貪欲に利用するに違いない。ロンの言う通り、ロックハートが事件の真相を全て知っているなら、その流れの通りに描写した方がよほどスマートだ。しかし、彼はそうしなかった。不自然に真実を捻じ曲げてまで、日記の存在を隠している。――どうしてだ?日記の存在を知られると、不都合なことが起こるから?そもそも日記の最初の所有者は――。ハリーは、ハッと息を飲んだ。ようやくハーマイオニーの意図するところを理解し、押し黙ったままの彼女の瞳をまじまじと見つめる。

 

「そうよ、ハリー。この本の制作に関わったのは、恐らくロックハートだけじゃない」

「誰だよ?」ロンが訝しげに問い返す。

「”リドルの日記”を知られて、困るのは誰?日記をイリスに持たせた人物よ」

「・・・マルフォイの父親だ!」

 

 ロンが我が意を得たりと言わんばかりに叫ぶと、ハーマイオニーは頷いた。

 

「だけど、どうしてそんなことを?」とハリー。

「そうね。考えたくもないけど・・・きっと、()()したからじゃないかしら」ブルッと身震いしながらハーマイオニーが呟く。

「恐らく”リドルの日記”を使って、イリスを悪い魔女にさせようとしたのよ。だけど、イリスはそうならなかった。だから今度こそ、ロックハートと組んでまで、彼女を・・・」

マーリンの髭(狂ってる)ったらないぜ!」

 

 『”あの人”がハリーに敗れ去ってから、”闇の陣営”に与する魔法使い達のうち――数少ない――本当に”あの人”と共に闇に沈んでしまった者はアズカバンへ送られ、大多数のそうではない者は、逃げ口上を述べてこちら側へ戻って来た。だが、”闇の陣営”は、裏切り者を決して許さない。彼らは今、やつから自らを守るものを必死に求めている』――不意にハリーの頭の中で、「漏れ鍋」で盗み聞いたアーサーの言葉がこだました。マルフォイの父親は、かつて”闇の陣営”側の人間だった。

 

 『ヴォルデモートはこの世から消え去ったわけではない。ハリー。彼はいつか再び、権力を手にしようと、今もどこかで乗り移るための体を探していることだろう』――一年生の時、賢者の石をクィレル先生から守った後、医務室でダンブルドアはそう言った。いつ復活するかもしれないヴォルデモート、その忠実な部下だったブラック。双方から身を守るために、マルフォイの父親が画策し、イリスを貶めようとしているとしたら?

 

 ハリーの脳裏に、あるイメージが浮かんだ。いわれのない誹謗中傷を受け、心を壊してしまったイリスの姿。やせ細ったその体を貢物のように差し出して、マルフォイの父親は恭しく頭を下げる。『ああ、ここまで育て上げるのに、苦労致しました。ご主人様、私は貴方様の、誰よりも忠実な家来で御座います。この娘が、その証明です』それに続いて、甲高い嗤い声が満足気にこだました。ディメンターが近づくたびに、ハリーの頭の中で聴こえるあの声だ。ブラックが固まった蝋のような顔を歓喜に歪ませ、幽鬼のようにゆらゆらとイリスに近づく――。

 

 そんなこと、させてたまるもんか。ハリーは、怒りにわなわなと震える拳をギュッと握り締めた。イリスを守るんだ。ハリーは何とか冷静になろうと努力しながら、思案を巡らせる。――まず、この状況を打開する方法を考えるんだ。何かないか――そうだ、そう言えば。彼は、はたと思い返した。どうしても納得のいかない、不自然な点がある。

 

「ねえ、可笑しいと思わないかい?ロックハートが、マルフォイの父親から”秘密の部屋”の情報を得たとして・・・じゃあ、どうしてあいつは、真相を全て知っているんだ?ロックハートは臆病風を吹かせて逃げ出したし、”部屋”には僕らの他に誰もいなかった。真実を知るのは、僕らしかいないはずなんだ」

「そうだぜ。もしかして・・・マルフォイの記憶を見たのかな?イリスの魔法を破ってさ。考えられるのは、そこしかないよ」

 

 ハーマイオニーはしばらく思案した後、首を横に振って否定した。

 

「それは、ないと思うわ。”忘却術”を破る術は、そう簡単に無い筈だもの」

 

 三人は気難しそうな表情を突き合わせ、考え込んだ。もうすでに朝一番のクラスが始まって随分と時間が経過しているが、みんな――あの勤勉なハーマイオニーですらも――授業の事など考える余裕はなかった。不意に柔らかな感触が足に触れ、ハーマイオニーは驚いて悲鳴を上げそうになり、その方向へ目をやって笑顔になった。――クルックシャンクスだ。オレンジ色の豊かな毛並みを飼い主の足に擦り付けながら、猫はニャアと一言鳴いた。その時、実に奇妙な事なのだが、三人には猫の言葉の意味が分かった。『イリスが目を覚ました事を、伝えに来たのだ』と。

 

 

 大広間にフクロウ便の時間が訪れ、広大な空間を無数のふくろうたちが飛び交っていく。クィディッチの考察本を眺めていたハリーと擦れ違った、真っ黒なふくろうが一羽、スリザリンのテーブルに降り立ち、二年目のスリザリン生、セオドール・ノットに手紙を落とした。ノットは手紙を受け取り、差し出し主を確認した。――父親からだ。上質な封を破り、中身に素早く目を通す。

 

『愛する我が息子、セオへ

 昨晩を境に、私の印がほんの少しばかり、濃くなった。だが、決して見間違いなどではない。あの方が力を取り戻し始めている証拠だ。やはり、我々の案じていた通りの結果になった』

 

 ノットの視界の端で、幾羽ものふくろうがスリザリンのテーブルへやってきては、スリザリン生たちに手紙を落としていく。受け取る寮生たちは、みんな一つの共通点を有していた。――両親や兄弟、関係の深い親戚が”死喰い人”だった、という点だ。運良くアズカバン行を逃れた彼らは、”闇の印”が濃くなっていることを発見し、慌てふためいて子供たちに手紙を送り付けた。『あの方の復活もそう遠くはないかもしれない。マルフォイ家のご子息とますます懇意な間柄になるように』――詳細の違いこそあれど、おおむねこんな風な内容の文章を、子供たちは読む事となる。

 

 かつて”死喰い人”だった彼らは、二年前に開催されたマルフォイ家のクリスマスパーティーに出席した時、当主であるルシウスの手の中に、イリスがあるのを知っていた。ルシウスはパーティーを通して、”闇の帝王”に対する強力な命綱を、”闇の陣営”が全盛期だった当時、”死喰い人”内で最高の権力を誇っていた自分が所持している、と周囲の魔法族に宣言し、また同時に牽制していたのだ。

 

 ”闇の陣営”は裏切り者を許さない。近い未来、あの方が復活を果たした時、アズカバン行を体よく逃れ、あの方を探しもしなかった自分たちが助かるには、もうルシウスにすがるしかない。そう判断した彼らはこぞって子供たちに、その愛息子であるドラコのご機嫌取りをするように命じた。自分の家族を守るため、子供たちは今までより一層ドラコをちやほやとし始めた。傲慢不遜な態度で彼らに迎合するドラコを冷めた目で眺めながら、ノットは手紙の最後の文面を読んだ。

 

『お嬢様の”血の魔法”も、いつ発動するか知れない。セオ、つつがなく事が運ぶよう、尽力せよ。お嬢様をお守りするのだ』

 

 

 イリスは、ゆっくりと目を開いた。パチパチと瞬きするたびに、おぼろげな視界が少しずつクリアになっていく。――ここは何処だろう。ああ、この天井、見覚えがある。医務室だ。イリスは緩慢な動作でベッドから身を起こすなり、驚いて息を飲んだ。サイドテーブルには、まるで菓子屋が丸ごとそっくり引っ越してきたかのように、イリスの大好きな甘いもの(※蛙チョコレートを除く)が山のように積み上げられている。

 

「ああ、目が覚めたのね。これはみんな、あなたの()()()からですよ」

 

 後ろの方から、マダム・ポンフリーの優しい声がやって来た。――”信奉者”だって?イリスがびっくりして咳き込むと、ポンフリーは少しばかり呆れた様子で背中を摩り、水差しを口に運んでくれた。その美味しさと言ったら!イリスは水差しが空っぽになるまで、夢中で飲み続けた。水分が体中に行き渡ると同時に、おぼろげだった今までの記憶が、頭の中でチカチカと瞬いては消えていく。

 

 ――そうだ。クィディッチの試合中、ハリーがディメンターに襲われて、守護霊でディメンターたちから、みんなを守って――それから、一体どうなったんだろう。イリスが一生懸命頭を捻って思い出そうとしていると、オートミールを作るためにベッドを離れたポンフリーと入れ替わるようにして、懐かしいオレンジ色の毛玉がやってきた。

 

≪イリス、本当に良かった。このまま目覚めないんじゃないかと思ったよ≫

「クルックシャンクス!」イリスは明るい声で言うと、友猫の頭を撫でた。

「ねえ、ハリーは怪我をしてなかった?みんなは無事?」

≪みんな健康そのものさ、お前以外はな。全く、無茶しやがって!≫

 

 ああ、良かった!私、ちゃんと守れたんだ。スネイプ先生のおかげだ。イリスは安堵する余り、力が抜けてまた倒れ込みそうになるのを、なんとか気合で持ち直した。クルックシャンクスはそんな彼女に、親しみを込めて軽い猫パンチをした。

 

「私、どのくらい眠っていたの?」ふと気になり、イリスが尋ねた。

≪三日間さ≫

「三日間っ?!」

≪冗談じゃないぜ、本当さ≫悪びれなく、クルックシャンクスが応えた。

≪そうだ。待ってろ、今からハーマイオニーたちを呼んでくる。そのくらい元気だったら、マダム・ポンフリーも面会を許してくれるだろう≫

 

 まさか、三日間も眠りっぱなしだったなんて。イリスは自分自身に驚くやら呆れるやらで、特大の溜息を一つ零してしまった。どうりで、体のあちこちに強い倦怠感があるわけだ。イリスは伸びをしようと、そろそろと両腕を持ち上げようとして――ハッと息を飲んだ。右腕には、”闇の印”がある。

 

 ぼんやりとしていた意識がとたんに覚醒し、弛緩していた体は、氷のように冷たく凍り付いた。――どうしよう。スネイプ先生の薬の効果は、とうに切れているはずだ。マダム・ポンフリーや他の人に、このことを知られたら。イリスはごくりと生唾を飲み込み、恐る恐る右腕を見て――そして首を傾げた。何者かによって右腕全体に包帯がきっちりと巻かれており、印を見ることが出来ない状態になっている。

 

「心配しなくとも、あなたが眠り続けている間、誰も()()を見ていませんよ。さあ、少しずつ噛んでお食べなさい」

 

 マダム・ポンフリーが何でもないような口調できびきびと言い放ち、オートミールが入った皿とスプーンをイリスに差し出した。彼女は、イリスに”闇の印”があることを知っていて、他の者たちの目から守ってくれたのだ。イリスは、心がポッと暖かくなるのを感じた。拙い口調でお礼を言うと、蜂蜜がたっぷり混ぜ込まれたオートミールを口に運び始める。

 

 やがて医務室のドアを忙しなくノックする音が聞こえた。期待に胸を弾ませるイリスとは対照的に、マダム・ポンフリーがまるで敵がやってきたような険しい表情で、ドアの近くへ歩み寄って行く。そして勢い良くドアを開け放ち、呆れたように叫んだ。

 

「まあまあ、あなたたち、一体全体授業はどうしたんです!最初のクラスが、とうに始まっている時間ですよ!」

「お願いします、大事な用事があるんです。イリスに会わせてください」ハリーの声だ。

 

 イリスは嬉しくてたまらなくなって、よろよろとベッドを起き出し、ドアの方へと駆けて行った。ポンフリーの体越しに、こちらを心配そうに覗き込む親友たちの姿が垣間見える。

 

「ハリー!ロン!ハーミー!」

 

 懐かしい声を聴いて、ハリーたちは一気に笑顔になった。ポンフリーとドアの間を器用に擦り抜け、三人はイリスをギュッと抱き締め、口々に再会の喜びの言葉を送った。

 

「イリス、本当にありがとう。君のおかげで、みんな助かったんだ」

 

 ハリーは、心から感謝の言葉をイリスに伝えた。いつも自分を助けてくれた、尊敬する兄のような存在のハリーに褒めてもらえるなんて。イリスはなんだか恥ずかしくなって、俯きながら「ウン」と頷いた。ロンが蛙チョコカードの束をローブのポケットから取り出しながら、お楽しみを奪われてムッとした様子のイリスに言い訳がましく()()()をしている間、ハーマイオニーは今にも三人を追い出そうとする怒れるマダム・ポンフリーに、あの本を見せながら、事情を話した。気を遣って席を外したポンフリーを見送った後、三人はチラッと視線を交し合い、イリスに話しかけた。

 

「あの、それでね。イリス。・・・ちょっと真剣な話があるのよ」

 

 ハーマイオニーはそう言うと、立派な装丁の施された真新しい一冊の本を差し出した。――イリスはそのタイトルを見たとたん、三日振りに親友たちに会えた喜びで膨らんでいた心臓が、パチンと音を立てて破裂したように感じられた。『継承者とのこっそり一学期』――そこにはそう書かれている。ポカンと口を開け、絶句するイリスをそっと見つめながら、ハーマイオニーは重い口を開いた。

 

「その、本当はもっと後にしようと思ったんだけど、もう他の人達が読んでいる可能性もあるから、じっくり落ち着いて話せるこの時にしようと思ったの。

 でも貴方は何も心配する必要はないわ。私達が絶対に守るもの。まずはダンブルドアに報告に行くつもりよ。ロックハートは大ウソつきだわ。こんなことって、本当に許されない!」

 

 ハーマイオニーの言葉が、イリスの耳の中をふわふわと通り過ぎていった。――そんな、どうして、ロックハート先生が。イリスは恐怖にかじかんだ手で、ゆっくりと表紙を開き、内容に目を通し始めた。そこには、イリスが()()()()()で”秘密の部屋”を開き、”継承者”として学校を恐怖に陥れ、人々を襲っていく様子が克明に描かれている。イリスの目が、ふとあるシーンでピタリと止まった。

 

 イリスがハーマイオニーを”穢れた血”と罵りながら、バジリスクに命じて、物言わぬ石像に変える残酷な場面だ。イリスの目は灼けるように熱くなり、喉が締め付けられたように苦しくなって、いくつもの涙がページ上を零れ落ち、嘘の言葉たちを滲ませていく。

 

「わ、私、自分の意志で、ハーミーを、傷つけて、ない」

「分かってる!」三人は一斉にイリスに飛びつき、同じ言葉を叫んだ。

 

 不意に、ロンが口をパカッと開けて、サイドテーブルの方を見つめ始めた。つられるようにして、その方向に視線を向けたハリーとハーマイオニーも、驚いた様子で息を飲んだ。ピラミッドのように積み上げられたお菓子の山が、一つ残らず、ふわふわと宙に浮かんでいるのだ。

 

「あ、ああ、ごめんなさい。”陛下(ユア・マジェスティ)”。違う。私のせいじゃない、私のせいじゃ・・・」

 

 ロックハートの本が起爆剤となり、再び”秘密の部屋”事件の辛い記憶を思い出してしまったイリスは、一時的なパニック状態に陥った。激しい感情の高ぶりは、イリスの魔法力をいとも容易く暴発させる。今やお菓子だけでなく、医務室中のこまごまとしたものまでが、空中をゆらゆらと漂い始めていた。まるでここだけ無重力空間になったかのように。

 

「ねえ、何が起こってるの?」ハーマイオニーが不安そうに叫んだ。

 

 ハリーはふと、夏休みの終わりに起こした大事件を思い出した。――マージおばさんに自分の両親を馬鹿にされたあの時、感情が高ぶったハリーは、おばさんを風船のように膨らませた。そうだ、もし”あの時”と同じように、イリスも魔法力を暴発させているとしたら?

 

「きっとイリスの魔法力が暴発してるんだ。僕がおばさんを膨らませた時みたいに!」

 

 イリスを落ち着かせなければ。ハリーはイリスの両頬に手を添え、焦点の合わない青く霞んだ目と、何とかして繋がろうと試みながら、何度も彼女に語り掛けた。ガタリと音を立てて、医務室じゅうの見舞い用の椅子が浮き上がっては、天井に音を立ててぶつかっていく。

 

「イリス、大丈夫だよ。僕の目を見て。落ち着くんだ」

「ああ、ハリー。ごめんなさい。どうしよう、どうしたら・・・」

 

 ハリーの力強い言葉は、イリスを恐ろしい過去の記憶から現実の世界へと引き戻した。イリスはハリーに根気強く説き伏せられ、どうにかして自分の気持ちを落ち着けようと努力した。けれども深呼吸しようとしたとたん、陶器製の花瓶が壁に叩きつけられ、粉々に破壊されてしまう。ハーマイオニーが悲鳴を上げ、ロンにしがみついた。

 

 ――ああ、落ち着かなきゃ。感情を抑えないと。イリスは懸命に自分に言い聞かせた。私のせいで、みんながまた傷ついてしまう。しかし、彼女の想いも空しく、やがて浮き上がったものは、嵐のように部屋中を暴れ始めてしまった。四人がお互いをひしと抱き締め合ったその時、不意に前方から穏やかな声がした。

 

「イリス、もう大丈夫じゃ」

 

 イリスが固く瞑っていた目を恐る恐る開けると、何時の間にかダンブルドアがベッドの脇に座り、イリスの手を優しく包み込んでいた。ダンブルドアが杖を一振りすると、暴れ回っていたものは全て、元の場所へ戻った。壊れた花瓶もビデオテープを巻き戻しで観ているかのように、みるみるうちに修復され、あるべき場所へ納まった。『ダンブルドアが来てくれたなら、もう安心だ』――四人は思わず安堵のため息を吐き、ベッドに力なく座り込んだ。ダンブルドアの後ろでは、マダム・ポンフリーが息を切らしながら、壁を背に預けて立っている。きっと大急ぎで、ダンブルドアを呼んできてくれたのだろう。

 

「校長先生、ロックハートの書いたこの本はデタラメです!」

 

 ハリーが烈しい口調でそう抗議すると、ダンブルドアはしっかりと頷いた。ダンブルドアの瞳には、これまでハリーたちが見た事のないような激しいブルーの炎が燃えている。

 

「その通りじゃ。一刻も早く、真実を明らかにせねばならぬ。イリス、共に魔法省へ行こう。コーネリウスと話をしなければ」

「お言葉ですが、校長先生。この子はついさっき目覚めたばかりで、魔法力も不安定です。まだ外を歩き回れるほどに回復は・・・」

「ポピー、事は急を要する。彼女を守るためには、今この時、動かなければならぬのじゃ」

 

 ダンブルドアは静かな口調で言い放った。マダム・ポンフリーはきっと口を結ぶと、クローゼットからイリスの着替えを持って来て、三人をベッドから追い出した。そして杖を振ってベッド周りのカーテンを閉じ、イリスがネグリジェから制服へ着替えるのを手伝った。

 

 ダンブルドアを見上げると、銀色の眼鏡から優しい眼差しが向けられる。たったそれだけで、イリスは大いに勇気づけられた。振り返ると、ハリーたちが心配そうに自分を見つめてくれている。イリスは親友たちにお別れを言った後、ダンブルドアに伴われ、ホグワーツ城を出た。そして差し出された腕を掴んだ瞬間、凄まじい衝撃の中に放り出され――気が付くと、ロンドンの町中に立っていた。

 

 

 イリスは周囲の光景を見回し、呆気に取られた。魔法を感じさせる要素など一欠けらも見当たらない、マグルの世界だ。こんなところに、本当に魔法省があるのだろうか。しかしダンブルドアはうろたえる様子すらなく、ひょいひょいと器用に人込みの間を擦り抜けながら、ある古めかしい建物の下に設置された、赤い電話ボックスの中に入った。

 

「魔法省はロンドンの地下にあるのだよ。外来者はみな、この電話ボックスを通さなければならぬのじゃ」

 

 ダンブルドアは慣れた調子で『6,2,4,4,2』とダイヤルし、受話器を取り上げる。

 

「アルバス・ダンブルドアじゃ。魔法大臣に至急、謁見を願いたい。イリス・ゴーント嬢もいる」

 

 そう用件を言うと、コインが出てくるところから、四角い銀色のバッチが、コロンコロンと二つ転がり出て来た。イリスが手渡されたバッジをまじまじと覗き込むと、『用件:魔法大臣と謁見、氏名:イリス・ゴーント』と刻まれている。イリスが制服のベストにバッチを付けると、エレベーターのようにゆっくりと、電話ボックスの床が沈んでいった。

 

 やがて床の降下が止まり、電話ボックスの扉が開いて見えた光景に、イリスは息を飲んで周囲を見回した。――そこは、まるで別世界だった。ロンドンの地下に、こんなにも大きな空間があったなんて。広大なエントランスホールの中央には、魔法使いや魔女、ゴブリンなどの魔法生物が寄り添い合う像が特徴的な、立派な造りの噴水が設置されている。壁際には無数の暖炉がずらりと並んでおり、そこから何人もの魔法使いや魔女たちが現れては、それぞれの職場へと歩き去っていく。

 

「『魔法族の和の泉』じゃ。中を覗いてごらん」

 

 ダンブルドアに促され、イリスは美しいその泉を見下ろした。中には、数えきれないほど大量のコインが降り積もっている。この泉に投げ入れられたコインは全て、聖マンゴ魔法疾患傷害病院に寄付されるのだと、ダンブルドアが教えてくれた。噴水の横には、立派な大理石と白銀で作られたフロアガイドが設置されている。フロアガイドの情報を信じるとするならば、ここはなんと――地下8階だ。

 

地下 1階 魔法大臣室、次官室

地下 2階 魔法法執行部

地下 3階 魔法事故惨事部

地下 4階 魔法生物規制管理部

地下 5階 国際魔法協力部

地下 6階 魔法運輸部

地下 7階 魔法ゲーム・スポーツ部

地下 8階 エントランスホール

地下 9階 神秘部

地下10階 法廷

 

「さあ、イリス。我々は、守衛室に行って杖を預けなければならぬ」

 

 二人が守衛室に向かい、担当の魔法使いに杖を預けていると、バタバタと忙しない足音が背後からやってきた。

 

「アルバス!来てくれたか!」

 

 背が低く恰幅の良い体をした、初老の魔法使いだ。くしゃくしゃの白髪頭で、何か悩み事があるような顔をしている。奇妙な組み合わせの服装で、細縞のスーツ、真っ赤なネクタイ、黒い長いマントを着て、先の尖った紫色のブーツを履いていた。男はイリスに気が付くと、たっぷりとした同情を込めた目付きで、たじろぐ彼女に握手を求めた。

 

「君がイリス・ゴーントだね?私はコーネリウス・ファッジ、魔法大臣だ。・・・可哀そうに。なんということをするのだ、あの男は」

「コーネリウス。状況はどうなっている?」

 

 ファッジは、堰きを切ったように話し始めた。――現時点で、ロックハートの新作『継承者とこっそり一学期』を出版停止処分にし、購入者には魔法省への自主的返却を求めているという事。ロックハートには早急に事実確認をしたいので、魔法省へ召喚命令を出したが、肝心の当人が()()()()だという事。今、魔法警察部隊を動員し、彼の行方を目下捜索中だという事。そして、魔法界ではロックハートの話を信じる者と信じない者で、二分に別れているという事。信じる者からは『イリスをホグワーツに置いては危険だ。しかるべき場所へ連れて行くべきだ』と、信じない者からは『真っ赤な嘘、デタラメだ。彼女の父親と彼女が可哀想だ』という、相反する内容のクレームの手紙やら吼えメールが相次いでいるという事。

 

 ――『ロックハート先生が行方不明?』イリスの心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。魔法省の追及から逃げているのか、それとも――。だが、もうかつての闇の帝王、トム・リドルはこの世から消滅したし、バジリスクもいない。一体、ほかの誰が、彼に害を成そうというのだろう。

 

 ふと、イリスの脳裏にある魔法使いの姿がフラッシュバックした。――ロックハートの話には、”リドルの日記”は登場しなかった。きっとこの件には、ルシウスが関わっているのに違いない。いずれにせよ、当事者とされるロックハートがいない限り、イリスの無実が完全に晴れることはないのだ。ふつふつとした冷たい泡のような焦燥感と絶望がイリスの体じゅうを覆い尽くし、彼女はたまらず俯いた。

 

「大丈夫だよ、イリス。何も心配することはない」ファッジは優しく話しかけ、塞ぎ込むイリスの頭を撫でた。

「君のお父さんは立派な魔法使いだった。私は、もちろん君を信じている。だがね、世間は――お尋ね者のブラックのこともあって――一時的なパニック状態に陥っているんだ。

 今の状況ではきっと、ホグワーツでも居心地は悪いだろう。この件は、私が必ず解決してみせる。暫くの間ホグワーツを離れて、母国のマホウトコロ学校へ身を寄せてはどうかね?」

 

 ファッジはマントのポケットから、上質な布の貼られた巻物を取り出し、イリスに手渡した。軸は美しい白翡翠で出来ており、内側から仄かに輝いている。イリスの視線に反応したかのように、表面に墨汁の文字が次々に浮き上がった。『ようこそ、マホウトコロ学校へ。出雲いりすさん』――懐かしい日本語で、そう書かれている。

 

 茫然とその巻物を見つめるイリスに労しげな眼差しを注ぎながら、ダンブルドアは穏やかな声ではっきりとこう言った。淡いブルーの瞳には、依然として烈しい炎が燃えている。

 

「コーネリウス、この事件の黒幕は、断じてロックハートなどではない。”秘密の部屋”の真相は、以前にもきみに話した筈。

 きみは()を捕え、真実を解き明かす権限を持っている。今こそ、魔法大臣としての権力を使う時ではないのかね?」

「ダンブルドア、その話はよそう」

 

 ファッジの顔がたちまち土気色に変わり、冷や汗が吹き出した。彼はハンカチで流れ落ちる汗を拭いながら、ダンブルドアと目を合わせることなく話し続ける。

 

「私も難しい立場なのだ、分かってくれ。それに、ルシウスが・・・彼が犯人などあり得ない。彼は聖マンゴを始めとする様々な施設に多額の寄付をしているし、遥か昔から続く純血の名家、圧倒的な有権者だ」

「コーネリウス。家柄や財産や権力は、その者が邪悪ではないと証明するものにはならない」

 

 ダンブルドアは眉をひそめて言い放ったが、ファッジは自分の考えを改めるような素振りは露ほども見せてはくれなかった。――イリスは足元の地面が急激にガラガラと崩れていくような感覚に囚われた。どうして大臣は信じてくれないんだ?イリスは巻物を握り締めたまま、ファッジにすがるように必死に願った。

 

「本当です。大臣、信じてください。私、必要なら真実薬(ベリタセラム)を飲みます。嘘を吐いてなんていません。本当なんです」

「ああ、イリス。君はきっと混乱しているだけだ」

 

 ファッジはまるでお気に入りの姪を相手にしているかのように、気さくな様子でイリスの頭を掻き雑ぜた。

 

「私も君ぐらいの多感な年頃にはよくあった。ありもしない事を本当だと思い込む。現実と妄想がごちゃ混ぜになってしまうんだ。恐らく、ロックハートの件でショックを受けて、記憶が一時的に混乱しているだけだよ。

 それに、例え冗談でも、彼にそんな失礼なことを言ってはいけないよ。彼はこのことでとても心を痛め、そして君を案じていた。ロックハートを捕まえるのに、多額の援助をしてもくれたんだ。

 とにかく、ロックハートさえ捕まえられれば、君の汚名も払拭される。さて、あいつを何とかしてとっちめなければ!」

 

 ファッジは二人を振り返ることなく、せかせかとした足取りでどこかへ去って行った。まるで何かから、逃げようとしているかのように。

 

 

「全く、なんということだ!」

 

 もう一人、バタバタと忙しない足音がして、魔法使いが一人やってきた。ロンたち赤毛の民のパパ、アーサー・ウィーズリーだ。アーサーは、茫然と立ち竦むばかりのイリスをギュウッと抱き締めた。

 

「こんな罪もない子供に、なんという仕打ちを。あの嘘つきめ!ダンブルドア、大臣にはお会いしましたか?」

「ああ。だが状況は思わしくないようじゃ」ダンブルドアは深刻な表情で応えた。

「そうでしょう。()()思わしくないような状況にされているかは、一目瞭然ですがね。あいつは一体、どれほどのガリオンをばら撒いたんだ?」

 

 ダンブルドアとアーサーは、真剣な顔つきで話を始めた。――イリスは何をするでもなく、ただぼんやりとその様子を見つめていた。さっき聞いたばかりのファッジの言葉が、頭の中でガンガンと鳴り響き、イリスは自分が今、ちゃんと地面の上に立てているのかも分からなくなっていた。

 

 最初に出会った時、ルシウスは自分との再会を喜び、涙を流して抱き締めてくれた。その年のクリスマスは、本当のお父さんのように愛情を込めて接してくれた。その次の年は、怯えるイリスを押さえつけ、”リドルの日記”を持たせて、彼女を不幸のどん底に突き落とした。右腕に焼き付けられた”闇の印”を見た時のあの笑みを、イリスは今でも克明に思い出せる。

 

 狡猾な大人の心情を理解できるほど、イリスは成熟しきっていない。ルシウスが自分を愛しているのか、憎んでいるのかすら、もう分からない。『ルシウスさんは、私のことが嫌いなんだ。だからひどいことをする。あの人は敵だ』――混乱したイリスは、やがて彼をそう結論付けた。

 

 しかし、ファッジはあの時、こう言った。『彼はこのことでとても心を痛め、そして君を案じていた』と。――イリスは再び、混沌の渦の中へ突き落された。ルシウスさん。大好きだったのに。どうしてそんなことをするの?

 

「・・・イリス、大丈夫かい?」

 

 不意にアーサーの声が聴こえ、イリスは我に返った。いつの間にか、イリスはアーサーと共に魔法省のエレベーターに乗り込んでいた。――ダンブルドアはどこへ行ったのだろう。イリスの考えを汲み取ったアーサーが、優しい声で応える。

 

「ダンブルドアは大臣のところへ行っている。信頼できる筋から、やつの目撃情報があったみたいでね。

 君が落ち込む必要なんて、何一つないんだ。モリーは有志の魔女を募って、ロックハートに対する抗議活動を始めたよ。君を信じる人々はたくさんいるんだ」

 

 イリスはアーサーに心配をかけまいと、頑張って微笑んで見せた。エレベーターがチンと音を立てて止まり、古めかしいローブを着こんだ妙齢の魔女が乗り込んできた。隅っこに立つイリスをじろじろと興味深そうに眺めていたが、アーサーがこれ見よがしに咳払いすると、慌てて目を逸らした。やがて扉が閉まる直前、紙飛行機がひらりと飛んできて、アーサーの鼻を突っついた。アーサーは器用に片手でそれを捕まえると、開いて中の内容を読み、露骨に顔をしかめた。

 

「ああ、こんな時に!イリス、少しここで待っていてくれ。すぐに戻る」

 

 アーサーはイリスをエレベーターから連れ出すと、近くのソファで待っているように告げ、足早にどこかへ駆けて行った。イリスはソファから立ち上がり、エレベーターの横に貼り付けられたフロア表示を見た。ここは『地下四階 魔法生物規制管理部』のようだ。

 

「ここがそうなんだ」

 

 イリスは、その場所を知っていた。ホグワーツの指定教科書である『幻の動物とその生息地』を著したニュート・スキャマンダーが所属していた部署だったからだ。魔法生物規制管理部は、三つの課に別れている。魔法動物を担当する動物課、ヒトたる存在を担当する存在課、ゴーストを担当する霊魂課の三つだ。エレベーター横で佇むイリスの前を、多くの魔法使いや魔女が行き交い、それぞれの職場へついていく。

 

「お願いです。なんとかなりませんか。また職場をクビになったんです」

 

 チンと音を立ててエレベーターの扉が開くと同時に、切羽詰まった様子の男の声がした。イリスが声のした方へ視線を向けると、継ぎ接ぎだらけのローブに身を包んだ中年の魔法使いが、隣に立つ魔法省の役人らしき男に、嘆いている。役人は困ったように眉を下げ、気遣わしげにこう言った。

 

「では援助室へ行きましょう。良い仕事があればよいのですが」

「ああ、ありがとうございます。なんでもします!日雇いでも、汚れ仕事でも、なんでも」男はすすり泣いた。

「妻が病を患っていて、薬を買うための金が必要なのです。しかし、誰もかれも、私が”人狼”だと知ると・・・」

 

 肩を落として嘆き悲しむ男を役人が支え、金属製のプレートに「存在課」と刻印された、重厚な造りの扉の奥へ消えて行った。――イリスは暫くの間、じっとその扉を見つめ続けた。さっきの男の人も、ルーピン先生も、シリウスも、そして自分も。みんな同じだ。みんな、()()()()()()のせいで、不当な扱いを受けている。

 

 イリスは巻物をぎゅっと握り締めた。果たして、自分は耐えられるのだろうか。さっきの男の人やルーピン先生のように、自分の運命を受け入れることができるのだろうか。シリウスのように、非情な現実に、真っ向から歯向かうことができるのだろうか。イリスはもう自分に、自信を失くし掛けていた。

 

「どうしたんだい、お嬢ちゃん。迷子か?」

 

 おもむろに野太い男の声が飛んできて、イリスはびっくりして振り向いた。――ニヤニヤと悪辣に笑う大柄な魔法使いが、すぐ後ろに立っている。

 

 男はイリスの頭の天辺から足の先までを、じろじろと無遠慮に見つめていた。まるで肉食獣が、獲物をどこから食べようかと見定めているような目付きに、イリスは本能的な恐怖を感じて、思わず一歩退いた。しかし男はイリスが後ずさった分、大股で距離を詰めるので、やがて彼女は壁際まで追いつめられてしまった。

 

 男の傍にいると何とも血腥い匂いが鼻を突いて、イリスは頭がクラクラした。――よく見ると、男の腰のベルトには使い込まれた、黒ずんだ斧が差さっていて、所々に血が飛んだ革製のトランクをぶら下げている。

 

「私、迷子じゃありません。その・・・」

 

 イリスが怖がる余りにつっかえながらも、もう間もなくアーサーが迎えに来てくれるという事を説明すると、男は大袈裟に肩を竦めて見せた。

 

「ああ、そりゃあ良かった。なんならそいつが迎えに来るまで、おれがこの部署を案内してやろうか?」

「いいえ、結構です。あの、私、もう・・・」

「固えこと言うなよ、お嬢ちゃん。おれはここで危険な動物を処分する仕事をしてるんだ。おれの事務所に来てくれりゃあ、色んな動物のはく製を見物できるぜ?」

 

 恐怖で身を竦めるイリスにさらに顔を近づけ、男はニヤリと笑った。じゃらり、と重々しい金属音がして、イリスが思わずそこへ目線を向けると、男の腰のベルトに何種類もの形状の鎖が下げられていた。男は自慢げに説明を始める。

 

「良いもんだろう。夜の闇(ノクターン)横丁で買った、おれの自慢の仕事道具さ。あそこの鎖は質がいい。獲物を絶対に逃がさねえからな」

 

 男はおもむろに、金色の華奢な造りの鎖を指ですくい上げ、イリスの目の前でピンと張ってみせた。

 

「この黄金の鎖なんてどうだ。これには”拘束の呪い”が掛かってる。獲物が逃げようと体を捩ると、締め付けて殺さない程度に動きを封じるんだ。

 ・・・なあ、この綺麗な鎖は、あんたの透けるような白い膚にピッタリだと思わねえか?」

「何をしている!」

 

 その時、厳しい声が矢のように飛んできて、イリスと男の間を隔てた。――アーサーだ。急いでやって来たのか、激しく息を切らしながらも、男を睨み付けている。イリスは脱兎の如く駆け出して、アーサーに飛びついた。ブルブルと震えるイリスの体を抱き留め、アーサーは警戒した眼差しで、男を牽制する。男は一瞬の沈黙の後、ゲラゲラと大声で笑った。

 

「ハハハ、冗談さ!ちょいとばかし、怖がらせ過ぎちまったみたいだな。

 おたくの部署がまだ潰れていなかったとは、驚きだね。ミスター・ウィーズリー。急に席を外さないといけないほどの、仕事がまだあるとは!」

「私も、君ほどの粗暴な人間が、役所で働けていることの方が驚きだよ」アーサーは冷たく言い返した。

「――フン。貧乏人が、言いやがる。なーにがマグル製品だ。「ケンタウルス担当室」の方が、おたくよりマトモな仕事をしているさ」

 

 男は吐き捨てるようにそう言い放つと、自分の持ち場へトランクを引き摺りながら歩いて行った。ホッと安心する余り、気を抜き掛けたイリスに、背後から再び、絡みつくような男の声が飛んできた。

 

「お嬢ちゃん。あんたはちょいと華奢すぎだ。もっと太った方がいいぜ」

「行こう、イリス。彼とはあまり関わらない方がいい」

 

 アーサーは溜息を零し、イリスを促して再びエレベーターへ乗せた。

 

「アーサーさんは、あの人のことを知っているんですか?」

「マクネア、危険動物の処刑人だ。彼に関する良い噂は、とんと聞かないね」

 

 アーサーは顔をしかめて唸るようにそう応えた後、疲れ切った顔に笑顔を浮かべた。

 

「怖い思いをさせてすまなかった。ダンブルドアが戻ってくるまで、少し私の部署でお茶をしないか?」

 

 エレベーターは『地下2階、魔法法執行部』へ到着した。――アーサーの働く「マグル製品不正使用取締局」は、イリスが今まで見てきた他の部署の中で、一番小さくてみすぼらしい部屋だった。狭苦しい室内には、机が三つ、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、そこらじゅうに書類の山やらマグル製品やらが散乱している。大変失礼な話ではあるが、お世辞にも”魅力的な職場”とは言えなかった。

 

 しかし不思議なことに、奇跡的にきちんと片付いている空間があった。三つの机の中で、窓際に設置された机だけが、ものが埋積することなく、磨き上げられた飴色の表面を輝かせている。机上にあるものと言えば、レモンキャンデーの入った硝子皿だけだ。イリスにそこへ掛けるように促すと、杖を振ってポットにお湯を満たしながら、アーサーが嬉しそうに言った。

 

「イリス、そこは君のお父さんの場所だった。君がそこに座っていると、まるで彼が戻ってきたかのようだ」

 

 イリスはかつて父が座っていた椅子に座り、周囲の様子を眺めた。窓には、美しい森の景色と抜けるような青空が映っている。アーサーが、イリスにぽかぽかの紅茶を差し出しながら、ここは地下なので、本当の外の景色を見ることはできない。だから、魔法で自在に映し出しているのだと教えてくれた。――この景色は、偽物なんだ。イリスはじっと、魔法仕掛けの森を見つめながら、想いを馳せた。

 

 アーサーさんはとても良い人だ。それなのに、マクネアという人は、彼とその職業を馬鹿にした。世の中は、私が思っているよりもずっと、不平等なのかもしれない。シリウスは『私のお父さんは、人々から良く思われていなかった』と言った。この狭い部屋の中で、偽物の窓の景色を眺めながら、お父さんは一体どんな気持ちで過ごしていたんだろう。イリスは迷いながらも、口を開いた。

 

「アーサーさん。私のお父さんは、人々から、よく思われていなかったって聞きました。お父さんは、その・・・幸せだったんでしょうか?」

 

 アーサーはじっとイリスの目を見つめた。まるで彼女の瞳の中から、何かを見出そうとしているかのように。やがて発せられたアーサーの声には、不思議な響きがあった。

 

「確かに、彼が歩んだ道は、およそ平穏とは程遠いものだったかもしれない。けれど、彼は、自分の人生の中で、幸せなことを一つ一つ見つけ出していた。

 その一つが、ここだ。彼はこのデスクに座り、音楽を聴きながら、マグル製品をいじるのが好きだった。もちろん、この窓の景色もね」

 

 イリスは何の変哲もない机を、まじまじと眺めた。そして、かつて自分の父親が幸せだと感じていたのと同じことを、やってみることにした。窓の景色を眺め、カセットレコーダーから音楽を聴きながら、レモンキャンデーを一粒口に入れてみる。

 

 しかし、気分は一向に良くならなかった。ちっともお父さんに近づけた気もしない。魔法仕掛けの景色は息が詰まるようだったし、軽快な音楽にも心が浮き立つことはなかった。レモンキャンデーは酸っぱく、美味しくなかった。イリスにはまだ、成熟した大人が癒され、また好むものを理解することはできなかった。イリスはすがるように、マホウトコロ学校の巻物をギュッと強く握り締めた。




イリス、病み回。大人って汚い!!次回はホグワーツの子供たちの、イリスに対する反応を書く予定です(*´ω`)

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