ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

43 / 71
※5/15 文章を再度、微調整致しました。
誤字報告ありがとうございました!


Act9.守護霊の呪文

 イリスはシリウスに別れを告げ、禁じられた森を出た。そして金色に輝くスニジェットに変身し、クルックシャンクスと共に中庭を通り抜け、学校内を毛細血管のように走る排水管を駆け巡り、談話室の暖炉脇に出来たひび割れをくぐって、何とか無事に寮へと戻ってきた。

 

 幸運な事に、談話室にはまだ誰もいなかった。イリスは元の姿に戻り、杖を振って自分とクルックシャンクスに付いた汚れを取り払うと、男子寮へ続く階段をじっと見つめた。――あの先に、スキャバーズがいるのだ。

 

 暖炉の残り火が、イリスの体をじんわりと暖め、急速に緊張を和らげていく。するとシリウスの話が、まるで夢物語のようにも思えてきた。スキャバーズの正体が人間――それも悪い魔法使い――だったなんて。ここ最近の様子こそ可笑しかったけれど、それまでの彼は寝る事と食べる事が生き甲斐の、至って大人しい老ネズミだった。そして一年生の時にはゴイル達からみんなを守ってくれた。

 

 イリスはふと、フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのテラスで、スキャバーズが懸命に何かを訴えかけていたのを思い出した。あの時、彼は一体、自分に何を伝えたかったんだろう。ぼんやりとその事について考えていると、クルックシャンクスがおもむろに口を開いた。

 

≪すまない、イリス。巻き込んでしまって≫

 

 イリスが我に返ってクルックシャンクスを見ると、彼は申し訳なさそうに耳を下げた。

 

≪だが、おれたちだけでは、もうこれ以上どうする事も出来なかったんだ。

 あいつは、おれたちが組んでいるのをどこからか嗅ぎ付けた途端、日中はロンの内ポケットで過ごし、寝る時はロンの耳元で眠るようになった。

 何かあればすぐに鳴いて、ロンを叩き起こせるように。

 そうしておれがあいつに近づけない事が分かると、シリウスは――杖も持っていないのに――強引にここへ入り、力尽くであいつを殺そうとした。

 ――そんなの無理だ。無謀過ぎる。おれは、友達を死なせたくなかった≫

 

 イリスの脳裏に、シリウスの姿がパッと思い浮かんだ。まるで抜き放たれた刃のようにギラリと輝く、その灰色の瞳を。ピーターを殺すためなら、彼は喜んで自分の命を投げ出すだろう。それはとても勇敢で気高い行為だ。誰にだって出来る事ではない。

 

 しかし彼を大切に思う者にとっては、それはとても悲しい行為だ。クルックシャンクスは、死地へ突き進もうとする友人の姿を見て、何とか助けようと考えたに違いない。

 

≪おれはシリウスが好きだ。暗い場所ではなく、明るい場所へ向かって進んでほしかった。

 だから説得した。確実にやつを仕留めるには、協力者が必要だと。おれたち動物と会話ができ、とても澄んだ心を持つ魔女がいる。その子に協力を仰ごうと≫

 

 クルックシャンクスの精悍な目が、イリスを真っ直ぐに射抜いた。その時、彼女は初めて自覚した。

 

 今までは、周りの大人達や友人達が守ってくれた。だが今回は、自分一人の力で立ち向かわなくてはならない。クルックシャンクスの目は、イリスを子供ではなく”一人前の魔女”として見ている。リドルや誰かに命じられたのではない。自分の意志で、杖を振るうのだ。恐れとも不安ともつかない感情が込み上げて来て、イリスはブルッと身震いした。

 

 やがてイリス達は自室へ戻った。ベッドにそっと潜り込んでから、”目くらまし呪文”を解除する。イリスは目を瞑って、眠りの世界に入ろうと頑張った。ルームメイトの規則正しい寝息が、心を少しずつ落ち着かせていく。

 

 ――スキャバーズは、いやピーターは今、どんな気持ちでいるのだろう。イリスはうつらうつらしながら、考えた。彼は、最初から悪い魔法使いだったのだろうか。かつての自分のように、闇の帝王に操られたのか。それとも、何かを切っ掛けに変わってしまったのだろうか。

 

 シリウス達とピーターは、親友だった。もし本当に四人が仲良しで、闇の帝王にも操られていなかったのだとしたら――親友を裏切れるほどの何かが、ある日突然、彼の身に起きてしまったという事になる。けれどそれは一体、何なのだろう――。イリスは沈みゆく意識を、そっと手放した。

 

 

 イリスはまた”塔の夢”を見た。塔の中の螺旋階段を少しずつ昇っている。天辺からは、あの美しい歌声が優しく降り注いでいた。石造りの外壁には、採光用の窓が等間隔にあって、そこから月や星の光が差し込み、内部を照らしている。

 

 ――もう随分と昇って来たはずだ。イリスはもどかしい気持ちで、真上を見上げた。しかし歌声との距離は、少しも縮まったような気がしない。

 

≪イリスちゃん。これ以上、階段を昇っちゃダメ≫

 

 不意に、かつての夢の中のサクラの言葉が、警鐘のように耳元で鳴り響いた。――そう言えば、どうしてサクラはあんな事を言ったんだろう。イリスは足を止め、考え込んだ。自分の欲求と相棒の忠告の狭間でしばらく悩んだ結果、イリスは階段の端っこに腰を下ろし、少し休憩する事にした。

 

 どれほどの時間が経っただろう。微かに石段を下りる小さな足音がした。イリスのものではない。塔の上部から、それは段々近づいて来て――やがて、イリスの隣にゆっくりと腰掛けた。

 

 イリスは横を向かなくても、それが誰か分かった。恐れたり驚くべきはずなのに、すぐさま立ち上がって逃げるべきなのに、彼女には出来なかった。

 

 代わりに込み上げてきたのは、()()()()()だった。再会の喜び、けれど夢の中の出来事だと分かっている故の悲しさ、心臓が押し潰されるような罪悪感――。

 

「あなたはリドルなの?」

 

 リドルはイリスのすぐ傍で、あの頃と何も変わらない微笑みを見せ、静かに首を横に振った。

 

 ――イリスは咄嗟に呼吸を忘れてしまうほどの悲哀の感情に支配され、苦しみに喘いだ。当たり前だ。彼はもうこの世には存在しない。他ならぬ私が、陛下の崩御に手を貸してしまったのだから!

 

「残念だが、失ったものは決してかえらない」

 

 リドルは美しい声でそう言うと、愛おしげにイリスの黒髪を指で梳いた。彼女はただ自分のしでかした事の罪深さに、咽び泣く事しか出来ない。

 

「だが良い兆候だ。こちらの力が強くなったのか、あちらの力が弱くなったのか。――僕から言える事は、ただ一つ」

 

 リドルはイリスをぐっと強く抱き寄せ、その小さな耳に口付けてから、こう囁いた。

 

「階段を昇り続けなさい。女王が、君を待っている」

 

 イリスが応えようとした途端、窓の一つを突き破り、虹色に輝く巨大な蛇が現れて、リドルに襲い掛かった。リドルが杖を振り上げ、怒りに顔を歪めて何かを叫んでいる。イリスの視界は、あっという間に虹色一色に埋め尽くされた。

 

 七色のきらめき以外、何も見えない、絶え間なく雨粒が降り注ぐ音のせいで、何も聴こえない――みるみるうちに、意識が霞んでいく――

 

 

 イリスは、眠りから目覚めた。とても悲しく切ない夢を見たような気がする。けれどもそれがどんな内容だったのかは、思い出せない。ふと投げ出した手の先に違和感を覚え、イリスは何となく視線をそちらへ向けた。

 

 ――ベッドの傍に置いたトランクが、不思議な事に少しばかり開いていた。そこから、かつてリドルから貰い受けた”空飛ぶ絨毯”の一部が覗いていて、銀色の豊かな房飾りの一つが、指先に絡まっている。イリスが驚いて反射的に手を引くと、房飾りは指先を離れ、するりと独りでにトランクの中へ納まった。

 

 どうしてこんなことに?少しずつ明確になり始めたイリスの意識は、談話室から飛び込んできたロンの怒声で、一気に覚醒する事となる。

 

「見ろよ!」

「ロン、どうしたの?」ハーマイオニーの声だ。ひどく怯えている。

「スキャバーズが!見ろ!スキャバーズが!」

 

 ――”スキャバーズ”だって?イリスは寝間着姿のまま、慌ててベッドから飛び出し、よろよろと談話室の階段を駆け下りた。

 

 談話室には沢山の寮生が寛いでいたが、みんなシーンと押し黙っている。その代わり、好奇心を剥き出しにした彼らの視線だけが、あるところへ一点集中していた。――いつものイリスたちの特等席だ。

 

 ハリーとハーマイオニーが座り、ハーマイオニー側のテーブルには大量の書物が広げられている。そしてその傍にはロンがいて、ものすごい剣幕でベッドのシーツを揺さぶっていた。その余りの勢いに、ハリーは顔が引きつり、ハーマイオニーは仰け反るようにしてロンから離れようとしている。

 

 イリスは一目散にハリー達の下へ駆け寄った。戸惑うような顔をしていたハリーが、ふとロンの持つシーツの一点に、視線を釘づけにした。ハーマイオニーも同じ箇所を見て、息を飲んだ。イリスも不吉な予感がして、二人の視線の先を辿った。シーツの真ん中に、何か赤いものが付いている。それはまるで――

 

「血だ!」

 

 茫然として言葉もない部屋に、ロンの涙交じりの叫びだけが響いた。

 

「スキャバーズがいなくなった!それで、床に何があったかわかるか?」

「い、いいえ」ハーマイオニーの声は震えていた。

 

 ロンはテーブルの上に、何かを投げつけた。三人は一斉に覗き込んだ。――数本のオレンジ色の猫の毛が散らばっている。それは紛う事無き、クルックシャンクスのものだった。

 

 

 イリスは、クルックシャンクスが犯人とは思えなかった。彼は『もう自分の手では不可能だ』と明言していた。それにもし百歩譲って本当にスキャバーズを捕えたとしたなら、協力者である自分に向けて、何かしらの連絡があるはずだ。

 

 しかしイリスの思考はそこで途切れた。目の前で、ロンとハーマイオニーが凄まじい口喧嘩を始めてしまったからだ。その喧嘩の凄まじさたるや、最早二人の友情もこれまでかと危ぶむほどだった。互いに相手に対してカンカンになっていたので、ハリーもイリスも助太刀のタイミングが一向に見えなかった。

 

 クルックシャンクスがスキャバーズを食ってしまおうとしているのに、ハーマイオニーはその事を一度も真剣に考えず、猫を見張ろうともしなかった!とロンは激怒した。しかも、ハーマイオニーも素直に非を認めず、クルックシャンクスの無実を装い、男子寮のベッドの下を探してみたらどうなの、とうそぶくので、ロンはますます怒り心頭になった。

 

 おまけにハーマイオニーは、クルックシャンクスがスキャバーズを食べてしまったという証拠がない、オレンジ色の毛はずっと前からそこにあったのかもしれない、その上、ロンは「魔法動物ペットショップ」でクルックシャンクスがロンの頭に不時着した時から、ずっとあの猫に偏見を持っている、と猛烈に主張した。

 

 残念ながら、ハリーはロンの味方のようだった。確かに状況証拠を見れば、クルックシャンクスが犯人以外、考えられない。イリスもクルックシャンクスから様々な話を聴いていなければ、ハリーと同じ考えをしていただろう。何にせよ、一刻も早く真実を確かめる事が肝要だ。イリスは強くそう思い、ロンの肩にポンと手を置いて、おずおずと言った。

 

「ロン。私、クルックシャンクスに聞いてみるよ」

 

 しかし、ロンはイリスの言葉にますます傷を抉られたようだった。

 

「聞いてみろよ!そしたらヤツは君に、スキャバーズのグルメレポートをするだろうさ!あいつの尻尾を、口の端っこからぶら下げながらね!

 僕、君に何回も、あいつに注意してくれって言ったよな!動物と話せるくせに、何にも助けてくれなかったじゃないか!」

 

 愛するペットを失い自暴自棄になったロンは、目にいっぱい涙を浮かべ、攻撃的な言葉をイリスに投げつけた。イリスは驚いて身じろいだが、何も言い返す事は出来なかった。彼の言う通りだと思ったし、スキャバーズには色々とややこしい裏事情がある。ハーマイオニーはイリスを庇うように傍に引き寄せ、ロンに突っかかった。

 

「ロン!言い過ぎよ!あなたって最低だわ!」

「何言ってんだよ!」ロンは怒鳴り返した。

「君と君の飼い猫の方が最低だろ!」

 

 

 その後、ロンはハリーと共に行動し、ハーマイオニーとイリスには目もくれなかった。イリスはハーマイオニーと一緒に、大広間で朝ご飯を食べた。ハーマイオニーは青ざめた表情で、オートミールの入った大皿に「数占い学」の教科書を立て掛け、羊皮紙に何かを書き付けている。イリスはトーストにブルーベリージャムを塗りながら、彼女に優しく話し掛けた。

 

「大丈夫だよ、ハーミー。私、クルックシャンクスにちゃんとお話ししてみるから」

 

 親友のロンに激怒された事はとてもショックだが、今のイリスにとってはスキャバーズの安否の方が大事だった。――彼は今、一体どこにいるのだろう。イリスはハーマイオニーのゴブレットにオレンジジュースを注いでやりながら、考えた。シーツの血痕は量が多かった。大怪我をしているのだろうか、それとも本当に――クルックシャンクスに食べられてしまったのだろうか。

 

 一方、ハーマイオニーはイリスの気遣うような眼差しを受け止めた途端、両手で顔を覆って、わっと泣き出した。

 

「イリス、どうしよう!ほ、本当にあの子が食べちゃったのかもしれないわ!だとしたら私のせいなのに・・・ついカッとなってロンに、滅茶苦茶に言い返しちゃったの!」

 

 いつも大人びた雰囲気のハーマイオニーが、小さな子供のように、感情を剥き出しにして泣きじゃくっている。その光景にイリスはびっくりして、慌ててハーマイオニーの背中を摩ってあげた。――近くでよく見ると、泣き腫らした彼女の瞳の下には、くっきりとした隈があった。顔色もあまり良くないみたいだ。

 

「ハーミー、大丈夫?なんだかとっても疲れているみたい」

 

 ハーマイオニーはハッとしたような表情で、イリスを見た。それから何かを言いかけたが、ぐっと堪えるように唇を引き結び、スプーンでオートミールを掬って、黙々と口に運び始めた。

 

 

 イリスがクルックシャンクスに再会できたのは、朝ご飯を食べたあとの事だった。朝一番のクラスが行われる教室へ向かう途中、廊下の先の曲がり角に、見覚えのあるオレンジ色の尻尾が見えた。誘うように、左右にふらふらと揺れている。思わずイリスはアッと声を上げて、ハーマイオニーの方を振り返った。

 

「ねえ、ハーミー!クルックシャンクス・・・」

 

 しかし彼女の姿はどこにも見当たらなかった。――可笑しいな。ついさっきまで、自分の後ろにいた筈なのに。イリスは首を傾げながらも、尻尾の方へ駆け足で向かった。

 

≪おれはスキャバーズを食ってない≫

 

 イリスがクルックシャンクスの目線に合わせてしゃがみ込むと、彼はきっぱりとそう言い切った。それから悔しそうに歯噛みし、尻尾を膨らませる。

 

≪あいつはおれたちの会話を盗み聞きしていたんだ。お前が敵になった以上、ロンだけでは力不足だと判断したんだろう。だから自分が死んだということにして、雲隠れした≫

「でも、血は?あなたの毛はどうやって?」

 

 クルックシャンクスはへちゃむくれの顔を、皮肉気に歪めた。

 

≪自分で傷を付けて血を出し、シーツに擦り付けたんだろうさ。シリウスも同じ意見だった。だってあいつは()()()()()()()()()んだから。

 毛はきっと・・・あの時だ。あいつがおれに襲い掛かった時≫

 

 イリスは、その時の光景を思い出した。スキャバーズが凄まじい鳴き声を上げながら、ロンの肩から大ジャンプを決行し、クルックシャンクスに襲い掛かった時の事を。もしスキャバーズがあの騒ぎに紛れて毛を数本引っこ抜いたとしても、誰も――当のクルックシャンクスでさえも――気付かなかっただろう。スキャバーズはクルックシャンクスを口止めしようとしたのでも、気が狂って襲い掛かったのでもない――宿敵を陥れるための道具を奪い取るのが目的だったのだ。

 

≪おれはあいつを見くびっていた。これ以上面倒な事になる前に、あいつの居場所を何としてでも突き止めなくては。

 今回の件で興奮したシリウスを落ち着かせるのに、かなりの時間を費やしたんだ。なあ、何か名案はないか?お前は魔法を使えるだろ?≫

 

 イリスは考え込んだ。――”呼び寄せ呪文”は生き物には使えない。スニジェットに変身して排水管中を探し回るというのも、余りに非効率だ。生憎、ネズミの知り合いもいない。ホグワーツのネズミ事情に詳しい、なんていう知り合いがいればいいのに。イリスは思わずため息を零した。人間でも動物でも何だってかまわない――動物でも?ふとイリスの頭に、ある猫の姿がポッと思い浮かんだ。

 

 

 イリスはその日じゅう、ハーマイオニーと一緒に過ごした。談話室の隅っこで、一人きりで勉強に励むハーマイオニーを残していくのは気が引けたが、イリスには成さねばならぬ使命――脱狼薬の調合のお手伝いだ――がある。特等席でロンとチェスをするハリーに、アイコンタクトで「後をお願い」と言ってから(ハリーは肩を竦めてかすかに頷いた)、イリスは地下牢へ赴いた。

 

 満月の夜は、着実に近づいてきている。イリスが地下牢へ入るや否や、スネイプは相変わらず不機嫌真っ盛りの口調で、黒板に書いてある材料を持ってくるように厳命した。イリスは保管庫へ行って、杖を振っては彼方此方の薬草棚を開け、指定された材料を小さなバスケットに集めた。

 

 イリスは色んな材料がぎっしり詰まったバスケットを見て、大きな溜息を零した。彼女の頭もバスケットと同じように、様々な心配事でいっぱいだったからだ。シリウスは大丈夫なのか、スキャバーズは一体どこにいるのか、クルックシャンクスはロンにいじめられていないか、ロンとハーマイオニーの友情の行方は――。

 

 ガタン。不意に薬棚の一つが大きな音を立てて震え、イリスはびっくりして跳び上がった。風も何もないはずなのに、ひとりでにガタガタと震えている。

 

 ――イリスは、ふとスキャバーズの事を思い出した。バスケットを床に置き、ゆっくりと杖を構える。地下牢と保管庫を繋ぐ扉が閉まっている事を確認してから、彼女は恐る恐る口を開いた。

 

「スキャバーズ?」

 

 棚の動きが、一瞬止まった。それから、一層激しくガタガタと揺れ始めた。イリスは覚悟を決め、杖を振って呪文を唱えた。

 

「システム・アペーリオ、箱よ開け!」

 

 呪文の光線が当たると、棚は丸ごと空中に飛び出した。スローモーションを見ているようにゆっくりと、棚の中にわずかに残っていた薬草が散らばっていく。

 

 そして――そして、ネズミよりも随分と大きな黒い影が、棚の中から飛び出してきて、勢い良くイリスにぶつかった。イリスは思わず悲鳴を上げ、影と一緒に冷たい床に転がり落ちた。痛みと衝撃に顔を顰めた後、彼女はこわごわ目の前の影を見て――驚きの余り、息を飲んだ。

 

「ど、ドラコ?」

 

 ――そう、それは、紛れもなくドラコ・マルフォイだった。

 

 薬棚はせいぜい猫一匹が治まれば良い位の大きさで、決して人間が入れるような余裕はない。冷静に考えれば、先週対決したばかりのまね妖怪・ボガートだと分かりそうなものだ。だがイリスは愛する者に再会した事で、冷静さを欠いてしまった。床に転がった杖を拾う事も忘れ、彼女は大好きな灰色の瞳を見つめ返した。ドラコは彼女を抱き締め、愛おしげにその頬を撫でた。

 

「イリス。僕は君を・・・」

 

 しかしドラコは言葉の途中で表情をこわばらせ、不自然に息を詰めた。そしてあの温かな感触が、イリスの腹部をじわじわと浸食していく。

 

 ――ああ、思い出した。思い出してしまった!イリスは目の前の現実を認めたくなくて、駄々っ子のように泣きじゃくりながら、何度も何度もかぶりを振った。

 

 だがイリスの抵抗も空しく、愛する者の目は急速に光を失っていく。イリスは恐怖の余り呼吸すらまともに出来ず、身も心も氷のように冷たくなっていった。無意識のうちに記憶を辿り、彼の背中を探るイリスの指先は――やがて彼の背中から腹部にかけてを深々と貫く、バジリスクの牙へ到達した。

 

「いやっ・・・いやあ・・・!」

 

 もうイリスは、ここが”秘密の部屋”ではなくスネイプの保管庫である事も、このドラコが本物ではなくボガートだという事も理解できない。彼女は極寒の地にいるかのように震え、いくつも涙を零れ落としながら、ドラコの亡骸をギュウッと抱き締めた。

 

 突如として、イリスは襟首を乱暴に掴まれ、床に引き倒された。

 

 ――スネイプだ。涙でぼやけた視界の中で、前方に立つスネイプのローブ越しに、床に転がったドラコの死体が少し大きくなり、短い銀髪が豊かな赤毛へ変わっていくのが見えた。

 

 スネイプはそれに杖を突きつけ、「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」と怒鳴った。彼の杖先から銀色の輝きが噴き出し、一頭の雌鹿が輝きながら現れた。白銀にきらめく雌鹿が威嚇するように前脚を蹴立てると、赤毛の死体は何千という煙の筋になって、どこかへ消え去った。

 

 イリスはここに来てやっと、あれは本物のドラコではなく、ボガートだったのだと理解した。雌鹿はゆっくりとイリスの前に近づいて来て、親しげに頬を寄せる仕草をした。優しい眼差しをしている。傍にいるだけで、お天道様のような暖かみを感じた。けれどもイリスが撫でようとした時、雌鹿はふっと空中に融けるようにして消えてしまった。

 

「三年目にもなって、ボガート一匹も退治できないとは!かの優秀なルーピン先生は、ボガートと相対した時、ただ泣き喚くだけで退治できると教えたのかね?」

 

 代わりにやって来たのは、スネイプの厳しい叱責の声だった。だがイリスは不思議な事に、その声にも――先程の雌鹿のように――温かみや優しさが含まれているように感じられた。スネイプはまだショックが抜け切っていない様子の彼女を助け起こし、杖を振るって棚と材料を元の位置に戻した。

 

「あの・・・先生。さっきの鹿は、一体何の魔法ですか?」

 

 イリスはスネイプに助けてくれた事のお礼を言ってから、おずおずと尋ねた。――気になってたまらなかった。銀色の鹿は、イリスがどう頑張っても退治できなかった恐ろしいボガートを、いとも容易く退けてみせたのだ。スネイプは彼女に向き直ると、唇の端を皮肉気に歪めた。

 

「”守護霊の呪文(パトローナス・チャーム)”と呼ばれるものだ。非常に高度な魔法で、所謂『普通魔法レベル(ふくろう)(O・W・L)』資格を優に超える。

 我らが親愛なるルーピン先生があのクラスに席を置く限りは、百年掛かってもご教授願えないものでしょうな」

 

 そこでスネイプは「諦めろ」と言わんばかりに、言葉を途切らせた。イリスはどう言えばスネイプにその魔法を教えてもらえるのか、必死に考えながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「私は危機に陥った時、先生に何度も助けていただきました。先生は、闇の魔術や生物に対する術を、誰よりもたくさんご存じです。

 恥ずかしながら私はその・・・出来が悪くって、皆と同じようにボガートを退治する事が出来ません。ですから、ぜひその魔法を教えていただきたいのです」

 

 拙い言葉ではあったが、スネイプの自尊心をくすぐるには足りたらしい。彼は昏い目を輝かせ、細長い鼻の穴をひくつかせた。

 

「フム。いや、ボガートを退治できないのは、君のせいではない。()()()()()()

 では話を戻そう。――”守護霊の呪文”は、主にディメンターから術者を守るための保護魔法の一種だ。守護霊は、純粋なプラスのエネルギーのみで構成される。

 ディメンターはプラスのエネルギーを好物としているが、守護霊は人間のように絶望しない。よって、ディメンターは守護霊を傷つける事ができない。故に、守護霊は術者を守る強力な盾になりえるのだ。

 そして先程のように、ボガートやレシフォールドのような、プラスのエネルギーを嫌う一部の闇の生物にも防衛効果が認められている」

 

 イリスは思わず目を見張り、スネイプを見つめた。この魔法を習得すれば、ボガートだけではなくディメンターすらも退ける事が出来る。あの最悪の記憶を見ずに済むのだ。スネイプは杖を振ってバスケットを部屋の隅に追いやると、イリスに杖を拾うように命じた。

 

「まだ調合までに時間はある。――三十分やろう。何か一つ、幸せだった記憶を強く思い浮かべ、呪文を唱えるのだ。その時、守護霊は現れる」

 

 スネイプは再び呪文を唱え、守護霊――白銀の雌鹿を呼び出した。雌鹿はイリスの周りを楽しそうに飛び跳ねて回ると、銀色の光の粒子をまき散らしながら、壁の向こうへ消えて行った。

 

 イリスは杖を構えながら、頭を捻って必死に思い浮かべた。――”幸せな記憶”。パッとドラコの顔が思い浮かんだ。”秘密の部屋”で想いが通じ合い、頬にキスをしてもらった時の記憶だ。イリスは甘酸っぱくも切ないその思い出で胸を満たしながら、呪文を唱えた。

 

「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」

 

 イリスの杖先から、シュッと、か細い銀色の煙が一瞬吹き出して、消えた。――どうして?一番幸せな瞬間だったはずなのに。戸惑った顔をするイリスをスネイプは目を細めて見つめ、静かに尋ねた。

 

「何の記憶を思い浮かべた?」

「えっと・・・」

 

 イリスは頬を紅潮させ、もごもごと口籠った。しかし無理を言ってスネイプに個人教授をしてもらっているのに、正直に報告しないのは失礼に当たる。ついに彼女は覚悟を決め、口を開いた。

 

「”秘密の部屋”にいた時、ドラコが助けてくれて、それから・・・頬っぺにキスを、してもらった記憶です」

 

 スネイプは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて元の陰湿陰険な顔つきに戻って、こう言った。

 

「誠に残念ながら、その記憶は君の一番幸福な記憶ではないらしい。他の、もっと幸福な記憶がある筈だ」

 

 ――イリスはショックだった。ドラコの記憶が、自分にとって一番幸せな記憶ではないなんて。

 

 イリスはそれから時間の許す限り、ドラコのみならず、ハリー達との様々な記憶で試してみたものの、いずれも失敗続きだった。どの記憶も、確かに自分が幸せだと感じられたものだ。それなのに、守護霊は一向に出てこない。やがて、残り時間は五分を切った。自分の一番幸福な記憶とは、一体何なのだろう。イリスが諦めかけたその時――

 

『お前は私の自慢の娘だ』ふと、イオの言葉が蘇った。

 

 プラットフォームでイリスをギュッと抱き締めながら掛けてくれたものだ。――そうだ。イリスはやっと辿り着いた。

 

 唯一の家族――イオおばさんとの思い出。今まで当たり前にあったために、考えもしなかった。幸福は、すぐそこにあったじゃないか。イリスは、イオが自分を『自慢の娘だ』と言ってくれた時の記憶で、胸をいっぱいに満たすと、杖を構えて呪文を唱えた。

 

「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」

 

 イリスの杖先から、大量の銀色の煙が噴き出した。それはみるみるうちに形を成していき――一匹の大きな双頭の蛇になった。驚いて身じろぎするイリスの足元に優しく絡みつき、尾の中程で二つに分かれた蛇たちは、愛おしげにイリスの頬へ代わる代わるキスをした。スネイプが目を見張り、息を飲んだ。

 

「・・・成功だ。一体、何の記憶を?」

「おばさんが、私を娘だと言ってくれた時の記憶です」

 

 イリスはくすぐったくてクスクス笑いながら、嬉しそうに応えた。スネイプは言葉もなく、彼女の守護霊へ震える指先を伸ばした。片方の蛇がスネイプへ近づき、親しげに指先へ触れた。もう一方の蛇はイリスを守るように、その肩に頭を載せている。スネイプは片方の蛇を凝視したまま、暫く凍り付いたかのように動かなかった。

 

「先生?」

 

 やがてイリスが不安になって尋ねると、スネイプは火傷をしたかのように指先を素早く引っ込めた。同時にイリスの集中力も切れ、守護霊が空中に霧散していく。スネイプはバスケットを拾い上げると、今までに見た事のないくらい穏やかな顔つきで、こう言った。

 

「見事だ、ゴーント。その記憶と感覚を忘れず、毎晩繰り返せ。そうすれば、維持できる時間も増えるだろう」

 

 生まれて初めてスネイプに褒められた事で、イリスは有頂天になった。そしてその高揚した気分は、彼女の自制心のタガを緩めた。イリスは純粋な好奇心が導くままに、研究室へ戻るスネイプの背中に問い掛けた。

 

「先生は、どんな幸せな記憶を思い浮かべたんですか?」

 

 ――それは、決してしてはならない質問だったらしい。スネイプの歩みはピタリと止まり、ゆらりと幽鬼のように振り返る。その顔は怒りに硬直し、目は危険な輝きを帯びていた。イリスはその時、自分の過ちを思い知った。スネイプは黄色い不揃いの歯を剥き出しにし、吐き捨てるように叫んだ。

 

「グリフィンドール十点減点!」

 

 

 第一回目のクィディッチ試合が近づくにつれて、天候は着実に悪くなっていった。しかしそれにもめげず、グリフィンドール・チームは以前にも増して激しい練習を続けた。ハリーは連日、びしょ濡れになって寮に帰って来るようになった。

 

 イリスに出来る事といったら、ロンの目を掠めてハリーの濡れた衣服を乾かしてやる事と、「元気の出る薬」を少し垂らした暖かい飲み物を作ってやる事くらいだった。ハリーは嬉しそうに飲み物を何杯もお代わりしたが、それでも精神的な疲れは、完全に取れ切っていないようだった。何しろ、直前で対戦相手がスリザリンからハッフルパフへ変更になったのだ。それまでスリザリンを相手とした綿密な作戦を立てていたキャプテン、オリバー・ウッドにとって、これは凄まじいバッドニュースだった。

 

 試合前日、風は唸りをあげ、雨はいっそう激しく降った。廊下も教室も真っ暗で、松明や蝋燭の明かりだけが学校内を照らしている。ウッドは授業の合間に急いでやってきては、ハリーにあれやこれやと指示を与えた。イリス達が昼食を終え、「闇の魔術に対する防衛術」のクラスへ向かおうとしている時も、ウッドはハリーがまだろくに飲み食いできていないのを知っていながら、激アツな対ハッフルパフ戦のトークを繰り広げ続けていた。

 

「ウッドったら。私たち、学生なのよ!」ハーマイオニーは机に教科書を置くと、プリプリしながら言った。

「学生の本業は勉学!お忘れかしら」

 

 不意に、扉が荒々しく開く音がした。ハーマイオニーが息を飲む。生徒達の好き勝手なお喋りがピタッと止み、サーッと冷たい空気が教室内に広がった。イリスは教科書に注いでいた視線を教壇へ向け、目を丸くした。

 

 ――教壇にはルーピン先生ではなく、スネイプが立っていた。彼はギラリと暗い目を光らせ、ずいとクラス中を見回した。

 

「ルーピン先生は本日ご気分が悪く、教壇に立てないとのことだ。故に吾輩が、教鞭を取る」

 

 思わずイリスは、頭を抱えたくなった。――今日は満月の日だった!その事をすっかり忘れていた。もう少し早く気付けていれば、ハリーが少しでも早く教室に着けるように、ウッドを説得できた(※かもしれない)のに。

 

 グリフィンドール生達は、みんな話を聞いて納得するどころか、いかにも不満そうな顔つきでざわめいている。スネイプはその後、ルーピンがこれまでどのような内容を教えて来たのか、という記録を残していない事を存分にこき下ろし始めた。そしてその最中に――なんと恐ろしい事に――ハリーが、息せき切ってやって来た。案の定、ハリーは自分の席に着くまでに、優に十点分ほどの()()を見せた。イリスは齢十三年目にして初めて、ストレス性の胃痛を味わう羽目になった。

 

 授業開始からわずか二十分ほどで、生徒達の雰囲気は”過去最低”を謳えるぐらいに悪くなっていた。――みんな、大人しくスネイプの言う通りにしたらいいのに。そうしたら被害は比較的最小限で済む。どうしてみんな、こぞって反抗したがるんだろう。グリフィンドール生達の血気盛んな性格を、イリスはただ嘆いた。ハリーは反抗心を剥き出しにした態度を保ちつつ、不自然なほどにのろのろとしたスピードで、自分の席に腰掛けた。

 

「ポッターが邪魔をする前に話していた事であるが、ルーピン先生はこれまでどのような内容を教えていたのか、全く記録を残していないからして・・・」

「先生。これまでやったのは、ボガート、レッドキャップ、カッパ、グリンデローです。これからやる予定だったのは・・・」

「黙れ」

 

 スネイプは、ハーマイオニーの言葉を冷たく遮った。

 

「教えてくれと言ったわけではない。我輩はただ、ルーピン先生のだらしなさを指摘しただけである」

「ルーピン先生はこれまでの「闇の魔術に対する防衛術」の先生の中で、一番良い先生です」

 

 シェーマスの勇敢な発言を、クラス中が賑やかに支持した。スネイプの顔がいっそう威嚇的になった瞬間、イリスは胃痛で医務室へ駆け込むプランを真剣に考え始めた。

 

「フン、点の甘い事よ。レッドキャップやグリンデローなど、一年坊主でも出来る事だろう。我々が今日学ぶのは・・・」

 

 スネイプは、教科書の一番後ろまでページをめくっていった。――そこに何が載っているのか知る者は、ハーマイオニーとイリスくらいだろう。イリスはとてつもなく嫌な予感がした。少し前にルーピン先生の事をもっと知るために、()()()()を何度も繰り返し読んだ覚えがあったのだ。

 

「――人狼である」とスネイプは言った。

 

 やはりそうだった。イリスはハーマイオニーと深刻な目付きを交し合った。人狼は今学期の一番最後に習う予定の筈なのに、番狂わせも良いところだ。やがてスネイプの強引な命令で、みんなは嫌々と言わんばかりの態度で人狼のページを開いた。

 

 ――イリスは心臓がドクンドクンと痛い程に鼓動を早め、たまらなくなった。何故スネイプ先生は人狼の事を教えようとするんだ?何かの拍子にルーピン先生が人狼だとみんなにバレてしまったら、大事になってしまうかもしれないのに。

 

「人狼と真の狼をどうやって見分けるか、分かる者はいるか?」スネイプが聞いた。

 

 みんなシーンとして身動きもせず、座り込んだままだった。当然だ。まだ習ってもいないのだから、知る筈もない。ハーマイオニーだけが、いつものように勢い良く手を挙げる。

 

「誰かいるか?」

 

 スネイプはハーマイオニーを当然のように無視した。口元にはあの薄ら笑いが戻っている。イリスは教科書だけに視線を注ぎ、忍者のように気配を消す事だけに専念していた。

 

「ゴーント、分かるかね?」

 

 しかしスネイプは許さなかった。スネイプはイリスの傍までやってくると、穏やかな――しかし反論を許さない声で――質問した。彼女は覚悟を決め、ゆっくりと息を吸い込んだ。隣ではハーマイオニーがなるべく唇を動かさないようにして、質問の答えをゆっくりと言ってくれている。

 

「・・・わかりません、先生」

 

 スネイプの唇が、不満気にめくれ上がった。イリスは心の中で、スネイプに許しを乞うた。もちろん彼の推察通り、自分は人狼の知識を有している。

 

 しかしここで自分がすらすらと答えてしまったら――もしかしたら――今学期最後に習うはずの人狼についてすでに知っている者がいる事と、満月の日、そしてルーピン先生の体調不良を関連付け、怪しむ者がいるかもしれない。それに正しく応えたとしても、今現在隣で回答を教えてくれているハーマイオニーも、かつての自分と同じような理由で、巻き添えを喰らうかもしれないのだ。イリスはルーピン先生と親友を守るために、頑なに口を閉ざした。スネイプは面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

「実に嘆かわしいことだ。クラスの誰も、答えを知らないとは。グリフィンドール・・・」

 

 スネイプが今まさにイリスを減点しようとしたその時――ハーマイオニーがイリスを守るために、意を決して口を開いた。

 

「先生、狼人間はいくつか細かいところで本当の狼と違っています。狼人間の鼻面は・・・」

「勝手にしゃしゃり出て来たのはこれで二度目だ、ミス・グレンジャー」

 

 スネイプはいらただしげな視線をイリスから外した後、冷ややかな声でハーマイオニーに言った。減点の対象が、イリスからハーマイオニーへ変更された瞬間だった。

 

「鼻もちならない知ったかぶりで、グリフィンドールから更に五点減点する」

 

 スネイプの余りの非道さにイリスは息を飲み、思わず彼を仰ぎ見た。ハーマイオニーは真っ赤になって、目に涙を一杯浮かべて俯いている。

 

 クラスの誰もが、少なくとも一度はハーマイオニーを「知ったかぶり」と呼んでいる。それなのに、みんながスネイプを睨み付けた。クラス中の生徒が、スネイプに対する嫌悪感を募らせたのだ。ついにロンが顔を真っ赤にして立ち上がり、こう叫んだ。

 

「先生はクラスに質問したじゃないですか。ハーマイオニーだけが答えを知ってたんだ!答えてほしくないんなら、なんで質問したんですか?」

 

 さすがにこれは言い過ぎだ、とみんなが思った。ハーマイオニーは涙に濡れた瞳を驚愕に見開いて、ロンを見つめている。クラス中が息を潜める中、最終的な標的を見定めたスネイプは、じりじりとロンに近づいた。

 

「罰則だ。ウィーズリー。更に、吾輩の教え方を君が批判するのが、再び吾輩の耳に入った暁には・・・君は非常に後悔する事になるだろう」

 

 

 終業のチャイムが鳴る頃に、スネイプは”人狼の見分け方と殺し方”という非常に物騒なテーマについて、羊皮紙二巻き分もの大量の宿題を出した。イリス達は(ちなみにロンは罰則のために残された)、クラスのみんなと外に出た。イリスとハーマイオニーはハリーと一緒に、ロンを待った。

 

「いくらあの授業の先生になりたいからといって、スネイプは他の「闇の魔術に対する防衛術」の先生にあんな風だったことはないよ。一体ルーピンに何の恨みがあるんだろう?」

 

 ハリーが首を傾げながら、ハーマイオニーに問い掛けた。一方のイリスは浮かない表情で、いまだにキリキリと痛むお腹をさすった。――きっとスネイプは人狼が嫌いだから、ルーピンに意地悪をしているのだろう。でもハリー達はルーピンが人狼である事実を知らない。それを知っているのは、自分と先生方だけだ。ああ、何だか今とっても穴を掘りたい。馬鹿みたいな事をイリスは願った。それで穴に向かって思いっきり叫ぶのだ。『王様の耳はロバの耳!!』と。そしたらきっと、とってもスッキリするに違いない。

 

 十分後、ロンがぷりぷりしながら戻ってきた。

 

「聴いてくれよ!あの×××(ロンがスネイプの事を「×××」と呼んだので、イリスとハーマイオニーは悲鳴を上げた)」

「×××が僕に何をさせると思う?医務室のおまるを磨かせられるんだ。魔法なしでだぜ!」

 

 ロンはハリーに向かって拳を握り締め、息を深く吸い込んでから――今更のようにハーマイオニーとイリスの存在に気づき、気まずそうな顔をした。四人の間を、奇妙な静寂が包み込む。仲直りするなら今だ――イリスの頭上にピカッと豆電球が付いた。彼女の気持ちを汲み取ったハリーが、かすかに頷いてみせる。

 

「行こうぜ、ハリー。こんなところにいられないよ」

「アー、ちょっと待って。僕、靴紐がほどけちゃった」

 

 そう言うなり、わざとらしく地面にしゃがみ込み、ハリーはきちんと結ばれていた靴紐を乱暴に解いて、物凄くゆっくりと丁寧に結び直し始めた。イリスは、ツンツンとハーマイオニーをせっついた。聡明な彼女なら、イリスの意図するところは分かったはずだ。

 

 しかし彼女は口をパクパクさせるものの、言葉が一向に出てこない。――どうしてなんだ!イリスは焦った。あんなに怖いスネイプ先生の前でスラスラと意見できるのに、どうしてロンの前で言葉が出てこないのか、イリスにはこれっぽっちも理解する事が出来なかった。そうこうしているうちに、ロンはそわそわしながら「先に行ってるよ!」と言い捨て、足早にその場を去っていく。

 

「私も手伝うわ!」ハーマイオニーの声が、その後を追いかけた。

 

 ロンはポッカリと口を開け、振り返ってハーマイオニーを見つめた。ハーマイオニーの顔は、夕日のように真っ赤に染まっている。

 

「何を?」ロンは素っ頓狂な声で聞いた。

「おまる磨きよ」とハーマイオニー。

「別に、君は関係ないだろ。ただ僕がムカッとしただけさ、あの×××に・・・」

「ああ、ロン!」

 

 ハーマイオニーは感極まり、ロンの首っ玉に抱き着いて、わっと泣き出した。ロンはおたおたして、ハーマイオニーの頭を不器用に撫でた。

 

「スキャバーズのこと・・・本当に、本当に、ごめんなさい!」

 

 ハーマイオニーはしゃくり上げながら謝った。――イリスはびっくりした。彼女はクルックシャンクスが本当にスキャバーズを食べたと思っているのだ。それは違うよ、と言い掛けた時、何かがツンとイリスのローブの裾を引っ張った。

 

≪黙っときな。蒸し返すのは野暮ってもんさ≫

 

 クルックシャンクスだった。彼は器用に片目をパチッと瞑ってみせると、するりと人込みに紛れ、消えて行った。

 

「あー、ウン。仕方ないよ。あいつ、年寄だったし」

 

 今やロンの顔も、ハーマイオニーと良い勝負をするくらい真っ赤だった。ハーマイオニーが鼻をすすりながら離れると、ロンは心底ホッとしたような様子で、胸を撫で下ろした。

 

「ゴメン、結び終わったよ」

 

 ハリーが立ち上がり、靴の爪先をトントンしながら、イリスに向かってニヤッと笑い掛けた。イリスも思わず安堵して、にっこり笑った。――彼女のたくさんある心配事のうち、一つは解決したからだ。

 

 




更新遅くなってすみません(;'∀')
”守護霊の呪文”ですが、『幻の動物とその生息地』で、守護霊がレシフォールドをバリバリ撃退していたシーンがあったので、「一部の闇の生物には有効なんじゃ?」と思い、そんな感じで書いてみました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。