ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Act8.ダブル・トラブル

 イリスはスネイプの研究室へやって来た。部屋の奥に古びた黒板が置かれ、ある魔法薬の調合手順が事細かに記載されている。スネイプはイリスを黒板の前まで連れて来ると、独特の囁くような声で説明を始めた。

 

「今日我々が作るのは『トリカブト系脱狼薬(だつろうやく)』だ。非常に複雑な工程を要するものであり、正しく調合出来る魔法使いは数少ない。

 ()()が満月の夜の前の一週間、この薬を飲み続けると、変身した際も理性を失わずにいられる。非常に苦い薬だが、砂糖を入れると効き目が無くなるという事を留意しておけ」

 

 ”人狼”――その言葉を聞いて、イリスは怯えたように立ち竦んだ。「闇の魔術に対する防衛術」の前任、ロックハートが著した『狼男との大いなる山歩き』を思い出したからだ。

 

 そこで登場する人狼は、満月の夜――つまり月に一回――恐ろしい化け物に変身し、本能のままに暴れ回り、物語の舞台となるリュカオーン村を滅茶苦茶に破壊した。

 

 物語の中盤で、常にロックハートを助けていた善良な村の住人が、敵の人狼に噛まれた途端、呪いを受けて人狼に変身し、ロックハートの敵として立ちはだかったのは、涙なしではとても語る事の出来ない、実に印象的なシーンの一つだ。

 

 ロックハートは、ストーリーにより凄味を利かせるために、人狼を”呪いを受けた一人の人間”としてではなく、”人間の皮を被った化け物”として書いていた。だがそれは、彼だけに限った事ではない。昔からマグル界でも魔法界でも、人狼は不当な差別や偏見の対象として見られていた。

 

 つまるところ、単純なイリスはその情報を鵜呑みにし、人狼を――ディメンターと同じ――恐ろしい闇の生物だと思い込んでしまっていたのだ。スネイプは、イリスのその様子を実に楽しそうに眺めながら、驚くべき言葉を放った。

 

「そしてこの薬は完成後、速やかに服用しなければならない。ゴーント、()()()()()()()()()件の人狼の下へ、薬を届けるのだ。そして必ず、人狼が薬を全て飲み干すのを確認しろ。満月までの数日間、この一連の流れを繰り返す事となる」

 

 イリスは驚いて、か細い悲鳴を上げた。ロックハートの作品で登場した人狼は、人間の姿の時でも――それはその人物が、元々ゴロツキだった所為でもあるのだが――血に飢えた獣のように、荒々しい気性のキャラクターだった。そのためイリスは、人狼はみな人間の姿の時でも凶暴なものだ、とも思い込んでいた。

 

 自分が人狼のところへ行って、薬を飲むのを監視するだって?襲われたらどうしよう。ディメンターやまね妖怪ボガートと対峙した時の恐怖を思い出し、イリスは身震いした。

 

 おまけに自分は、英雄ロックハートが、人狼を元の人間に戻す際に使用した『異形戻しの術』も知らないのだ。万一、その人狼が満月に関係なく、自在に変身できる能力を持っていたとしたら――。

 

「せ、先生」イリスは恐怖に震える声で尋ねた。

「もし、お、襲われたら・・・」

「案ずるな、ゴーント」

 

 スネイプはゾッとするような猫撫で声で、やんわりと言った。彼の薄い唇の端は、今にも笑い出しそうなほど、不自然に引き攣っている。

 

「幸運な事に、その人狼はよく飼いならされている。満月の夜以外は、基本的に無害だ。・・・だが用心を怠るな。いつ何時も杖を手放さぬ事が肝要だ」

 

 

 そして『脱狼薬』の調合が始まった。その工程は複雑怪奇極まりないもので――いくらスネイプの下で「魔法薬学」の深淵を覗いて来たとはいえ――一介の生徒に出来る事はほとんどなかった。結局イリスは、ほぼ全ての作業を眺めて過ごした。何しろ、鍋の中身を搔き回す際の杖の動きでさえも、気が狂いそうなほどの精密さを要するのだ。

 

 イリスは、鍋の表面にわずかに吐息が掛かっただけで、スネイプにこっぴどく叱られた。基盤となるトリカブトの塊根を一度目はそのまま、二度目は乳鉢ですり潰し、三度目は粉々に砕いて入れた。それだけではない。イリスの目玉が飛び出る位の高価な材料が、惜しげもなく次々に投入されていく。

 

 最後に、杖を振るって出した魔法の青い炎に、一握りの上質な銀箔をくぐらせて鍋に入れると、鍋の中身全体がほんの一瞬青い炎に包まれ、グツグツと激しく煮え出した。スネイプが鍋に掛けた火を止めても、依然として煙は消えず、煮えたぎっている。

 

「完成だ。純銀製のゴブレットを」

 

 スネイプは、イリスに最高級の純銀製ゴブレットを持って来させると、柄杓で掬った薬を注ぎ入れた。薬はいまだに煙を上げ、煮えているが、ゴブレットはひんやりと冷たいままだ。スネイプはゴブレットの中身を再確認すると、杖を振って後片付けを始めた。

 

 イリスはやっと一安心し、いつも通りの呼吸をする事が出来た。何故かは分からないが、スネイプが作業中ずっと、今までにない位に殺気立っていたからだ。きっととんでもなく複雑な調合だったからに違いない。イリスはそう思い、スネイプの後ろ姿に労りの眼差しを向けた。

 

「ゴーント。その薬を、()()()()()()の下へ持っていきたまえ」

 

 不意に、スネイプが振り返らずにそう言った。余りに何でもないような口調だったので、イリスは言葉の意味をすぐに理解する事が出来ず、ポカンとした表情で首を傾げた。――ルーピン先生が、何だって?

 

「・・・へ?」

「聞こえなかったのかね?」

 

 イリスの間の抜けた反応に気分を害したのか、スネイプはぐるりと振り返り、吐き捨てるように言った。

 

「ルーピン先生の下へ持っていけ、と言ったのだ!」

 

 スネイプは盆の上にゴブレットを載せ、いまだ茫然状態のイリスに押し付けた。そして研究室から追い出すと、扉をガチャンと閉めた。

 

 しかしここに来てもまだ、イリスの”時”は止まったままだった。彼女の周りで動いているものは、ゴブレットから立ち昇る煙だけだ。

 

 ――そうだ。イリスはハッとなり、盆を持ち直した。この薬は、時間が敵なのだ。早く持って行かないと。――そう、ルーピン先生のところに。だってスネイプ先生がそう言ったんだもの。イリスは覚束ない足取りで、ルーピンの自室へ向けて歩き出した。

 

 混乱するイリスの思考は、やがて一つの強引な解釈を生み出した。『きっとルーピン先生のところに人狼が来ていて、その人に薬を届けに行くのだ』と。そうだ、それならば辻褄が合う。先生は「闇の魔術に対する防衛術」の担当だもの。

 

 ルーピン先生が人狼である訳がない。イリスは否定するように、強くかぶりを振った。あんなに優しい先生が、ロックハートの本に出て来るような”邪悪な化け物”に変身するなんて、全くもってありえない話だ。

 

 

 やがてイリスはルーピンの自室へ到着した。控えめにノックすると、奥の方で小さく物音がしてドアが開き、ルーピンが覗き込んだ。

 

「やあ、イリス」

 

 ルーピンはイリスに柔らかく微笑んでから、彼女が持っている盆――の上に載っているゴブレットへ視線を移し、それから恐ろしいほどの無表情になった。

 

 二人の周囲を、沈黙のヴェールが包み込む。――どうして先生が黙り込む必要があるんだ?ルーピンの予想外の行動に、イリスは途方に暮れてまた混乱し始めた。待てよ、もしかして先生はこれが何の薬か知らないのかもしれない。なら、教えてあげないと。イリスは薬の名前を告げるために、おずおずと口を開いた。

 

「先生。あの・・・」

「ありがとう。よかったら入って」

 

 ルーピンはイリスの言葉を遮ると、ドアを大きく開いて、招き入れた。イリスは素直に返事をして、中に入った。きっと人狼がいるに違いない。イリスはそう思い、注意深く部屋の中を見渡して――絶句した。

 

 寮の談話室にいる筈の、ハリーがいたのだ。彼の近くには大きな水槽の中があり――恐らく次の授業で使われるのだろう――グリンデローがこちらを睨んでいる。グリンデローは緑色の歯を威嚇するように嚙み合わせ、隅の水槽の茂みへ潜り込んだ。人狼らしき人物は、どこにもいない。

 

「は、ハリー?」

「イリス?どうして君が・・・」

 

 イリスとハリーはお互いの存在に、たまらず驚きの声を上げた。次いでハリーは、イリスの持つゴブレットに鋭い視線を投げかける。ルーピンは至って穏やかな様子で、イリスの分のカップに紅茶を注ぎ入れると、ハリーの隣に掛けるように勧めた。そして、イリスの盆からゴブレットを受け取った。

 

「スネイプ先生からだね。()()()()()だ。ありがとう、助かるよ」

 

 そしてルーピンは――呆気に取られるイリスの目の前で――ゴブレットの中身を一口飲んで、ブルッと身震いした。

 

「毎回思うんだけど、全くひどい味だ。砂糖を入れられたらいいんだが、そうすると効能がなくなるらしくてね。”良薬口に苦し”とは、正にこのことだ」

 

 ルーピン先生が人狼だったのだ!余りに衝撃的な真実を目の当たりにして、イリスは二の句を告げる事が出来なかった。『いつもの薬』――『砂糖を入れたら効能がなくなる』――彼はこの薬を『脱狼薬』だと理解している。隣からハリーの熱い視線を嫌というほど感じるが、イリスは”全身金縛り術”に掛かったかのように、ピクリとも動けない。

 

「スネイプ先生が、この薬を作ったんですか?」やがて痺れを切らしたハリーが、鋭く聞いた。

「ああ、ハリー」ルーピンは笑顔で応えた。

「私は病を患っていてね。これがないと、とても辛く苦しい思いをするんだ。このおかげで、私はどれだけ救われているか分からない。

 この薬を調合出来る魔法使いはそうそういないから、スネイプ先生がいてくれて本当に助かっているよ」

 

 ルーピンはそう言って、また一口飲んだ。ハリーは話を聞いて納得するどころか、今すぐゴブレットをルーピンの手から叩き落としたくてたまらない、と言わんばかりの顔をしている。

 

 しかしルーピンの正体を知るイリスには、その言葉の意味がよく分かった。彼女は自分の過ちを知り、恥じ入る余り、ソファーの上で小さくなった。体の内側からじわじわと羞恥心が込み上げてきて、白い膚を染めていく。

 

 ――『もし襲われたら』だって?イリスは心の中で、無知だった自分自身を責めた。先生は、人狼の姿になるのは辛く苦しい事だと言っていた。それを抑制する『脱狼薬』と調合したスネイプに、感謝していたじゃないか。

 

 この時イリスは身をもって、知識は全て正しいとは限らない事を思い知った。実際に触れ合ってみなければ、分からない事も沢山ある。ルーピンは確かに人狼だが、ロックハートの本に出て来るような、粗暴な悪党ではなかった。人狼は闇の生物ではなく、呪いを受けた一人の人間なのだ。イリスは激しい自己嫌悪に駆られ、ギュウッと自分の手を握り締めた。

 

 ふと手元に暖かい温もりを感じ、イリスは知らぬ間に俯いていた顔を上げた。ルーピンが労わりの笑顔を浮かべ、イリスの手に空のゴブレットを握らせている。ゴブレットからは、まだ煙が立ち上っていた。

 

「イリス。君は、この薬の手伝いを?」

「・・・はい。でも、ほとんど見ているだけでした」

 

 イリスは、消え入るような声で答えた。ルーピンは感嘆したように唸った。

 

「スネイプ先生は、非常に実力ある人だ。戯れで助手を頼むような事は、決してしない。・・・例え”見ているだけ”でもね」そう言って悪戯っぽく微笑んだ。

「君は素晴らしく聡明な魔女だ。きっとスネイプ先生も、君の事を誇りに思っているだろう」

 

 ――イリスはもう耐えられなかった。自分を恥じ入る余り、熱い涙がボロッと零れて、ゴブレットに滴った。私は聡明なんかじゃない。本の情報を鵜呑みにして、人狼の事を誤解していたのに。

 

「先生、ごめんなさい」

 

 イリスが涙混じりの声でそう言うと、ルーピンは飛び上がらんばかりに驚いた。まるで「ごめんなさい」と言われる事など、今までの人生でなかったかのような反応だった。

 

 やがてルーピンはショックから立ち直ると、どこか神妙な顔つきで、イリスの頭を優しく撫でた。――一連の出来事にただ茫然とする、ハリーとグリンデローを置き去りにして。

 

 

 黄昏時、ロンとハーマイオニーは寒風に頬を染め、人生最高の楽しい時を過ごして来たかのような顔をして、グリフィンドール寮の談話室へ戻って来た。そして――自分達の帰りとお土産を待ち詫びている筈の――親友達の異様な雰囲気に、揃って口を噤んだ。

 

 いつもの特等席――暖炉の近くにある四人掛けソファーの端っこにイリスが座り、青ざめた顔に涙を浮かべて黙り込んでいる。そしてその向かい側でハリーが腕を組み、そんな彼女をじっと睨んでいたのだ。――いつも仲睦まじくいる二人の様子を見慣れているロンとハーマイオニーにとって、この光景は本当に驚くべきものだった。

 

「おいおい、どうしちゃったんだよ?そんなにホグズミードに行きたかったのか?」

 

 ロンはハリーの隣に座り、ハーマイオニーはイリスの隣に座った。しかし二人は微動だにしない。ロンがこれ見よがしに、抱えていた紙袋いっぱいのお菓子をテーブル上にぶちまけても、無反応だ。

 

「ねえ、何があったの?」

 

 ハーマイオニーがイリスの頭を撫でながら尋ねると、代わりにハリーが”ゴブレット事件”を洗いざらい二人に話した。ロンは驚いて、口をパカッと開けた。

 

「ルーピンがそれ、飲んだ?マジで?」

「イリス、教えてくれ。一体、何の薬なんだ?君は現場を見たんだろ?」

 

 ハリーは少し語気を強めて、辛抱強く尋ねた。しかし、談話室で再会してからずっとこの問いを繰り返していたのだが、彼女は決して口を割ろうとしない。

 

 ハリーにしてみれば、イリスの反応は怪しいことだらけだった。ゴブレットを持って部屋に入ってきた時、あからさまに挙動不審だったし、自分を見てギクリとしていた。ルーピンがゴブレットの中身を飲んでいる時は、まさに茫然自失状態だった。そして最後には「ごめんなさい」と言って泣いたのだ。

 

 ――怪しすぎる。そして薬を調合したのは誰あろう、あの憎っくきスネイプだ。間違いない。ハリーは確信していた。あの中身は「薬」じゃない、「毒」なのだと。

 

「”何の”薬かは言えないよ。先生のご病気の事だもの」やがてイリスは、弱々しく口を開いた。

「スネイプは、闇の魔術に関心がある」ハリーが厳しい声で言い返した。

「「闇の魔術に対する防衛術」の講座を手に入れるためなら、何だってするって聞いてるよ」

 

 イリスは思わず俯いていた顔を上げ、ハリーを見つめた。つまり、彼は何て言いたいんだ?まさか――イリスは怒りの感情がゆっくりと心臓を覆い尽くしていくのを感じた――スネイプ先生が『脱狼薬』に毒を盛ったと言いたいのか?

 

「ハリーは・・・スネイプ先生が、薬に毒を入れたって言いたいの?」

「ねえ、そろそろ降りた方がいいわ。宴会があと五分で始まっちゃう」とハーマイオニー。

「イテッ!(ハーマイオニーに足を蹴られた)何だよ、ハー・・・そ、そうだぜ、早く行こう!」とロン。

 

 ハーマイオニーは、二人の雲行きが本格的に怪しくなってきたのを感じ――ボーッとしているばかりだったロンを嗾けつつ――腕時計をチラチラ見ながら、大広間へ促そうと試みた。

 

 しかし、ハリーとイリスは止まらなかった。いつも”百味ビーンズのわたあめ味”並みに甘々な関係だった二人が喧嘩をしている、という前代未聞の光景に、いまや他のグリフィンドール生達も興味深げな視線をちらほらと向け始めている。

 

「そうだ」ハリーははっきり言い切った。

「私、ちゃんと見たよ。薬の調合の工程を。先生はそんなことしてなかった」イリスもはっきり言い切った。

「でも初めての薬だろ?黒板に書いてある内容も、スネイプが書いたものだ」

「ねえ、早く行きましょうよ!」

 

 ハーマイオニーが泣きそうな声でイリスの袖を引っ張ったが、依然として二人は睨み合ったままだった。

 

 イリスはローブのポケットに入ったガラス製の壺を、ギュッと握り締めた。確かにスネイプは嫌味で陰湿な先生だ。しかしイリスが危機に瀕した時、密かに救いの手を差し伸べてくれたのもスネイプだった。

 

 先生は、リドルに捕えられた私を一生懸命助けようとしてくれた。ドラコとの事も考えてくれた。”闇の印”を消す薬もくれたんだ。イリスは目の前の頑固な親友を、強い眼差しで見つめた。スネイプ先生は、とても良い人だ。

 

 対するハリーも、負けじとイリスを睨み返した。ハリーにとって、スネイプは『ホグワーツで一番嫌い』と言っても過言ではない人物だ。何もしていないのに、最初から自分を憎んで嫌ってきた。おまけにいじめをするし、露骨な依怙贔屓もするし、スリザリン寮生以外の全生徒達から毛嫌いされているほどの、本当にろくでもない人物だ。はっきり言って、嫌わない方が難しいくらいだ。

 

 イリスの補習の件だって、ずっとおかしいと思っていた。彼女はもう十分に「魔法薬学」の実力はついている。それなのにスネイプは、わざと低い成績を付けてまで彼女を離そうとしない。露骨な横暴行為じゃないか。それなら、ルーピンを「闇の魔術に対する防衛術」の座から引き摺り落とすために、薬に毒を仕込むなんて事も簡単にしてしまえる筈だ。

 

「スネイプ先生は、絶対そんなことしない。ハリー、それってとっても失礼なことだよ!」

「君はスネイプを信じすぎなんだ!」

 

 ハリーはイライラとした様子も隠さずに言った。――談話室の隅っこでは、悪戯双子のフレッドとジョージが、『ハリーとイリスの口喧嘩、どちらが勝つか』で、グリフィンドールの同級生達とクヌート銅貨を賭け合っている。

 

「そうだよ。私、先生を信じてる!」

 

 イリスはついに立ち上がった。呆気に取られる三人を見下ろし、凛とした態度で言い放つ。

 

「他の誰が何と言ったって、私はスネイプ先生を信じる!」

 

 ハリー側に賭けたフレッドとその同級生達が、残念そうな声を出した。銅貨がチャリチャリとテーブル上にぶちまけられる音に重なるようにして、古びた壁掛け時計が、宴会の始まる時刻になった事を告げる。四人は慌てて談話室を抜け出した。

 

 

 ハロウィーンパーティーは豪勢だった。大広間には何百ものジャック・オ・ランタンが輝き、生きた蝙蝠が群がって飛んでいた。燃えるようなオレンジ色のリボンが、荒れ模様の空を模した天井の下で、何本も鮮やかなウミヘビのように、くねくねと泳いでいた。

 

 食事もとても素晴らしかった。ハーマイオニーとロンは、ハニーデュークスのお菓子でお腹がはち切れそうだった筈なのに、全部の料理をお代わりした。そして二人は――何とも珍しい事に――喧嘩を引き摺って気まずい雰囲気のハリーとイリスが元通り仲良くできるまで、一生懸命フォローしてくれた。

 

 イリスは何となく教職員テーブルを見た。ルーピン先生は楽しそうで、特に変わった様子もなく、「呪文学」のフリットウィック先生と何やら楽しそうに話をしている。イリスはホッと一安心して、表面のカラメルがカリカリに焦がされた、パンプキンプティングを口に運んだ。

 

 宴の締めくくりは、ホグワーツのゴーストによる余興だった。壁やらテーブルやらから一斉に現れて、見事な編隊を組んで空中滑走した。グリフィンドールの寮憑きゴースト「ほとんど首無しニック」は、しくじった打ち首の場面を再現し、みんなに大ウケした。最初から最後まで、ずっと楽しいパーティーだった。イリスとハリーは知らない内に仲直りしていた事に気づくと、お互いに安心したように笑い合った。

 

 四人は浮かれた雰囲気を漂わせながら、グリフィンドール寮の談話室へ戻った。イリスはハリーと一緒に、ロンとハーマイオニーの”ホグズミード村の土産話”を楽しんだり、買って来てくれたハニーデュークスのお菓子を摘まんだりした。二人は、ほとんど村の全ての店を回ったようだった。魔法用具店の「ダービシュ・アンド・バングズ」、悪戯専門店の「ゾンコ」、「三本の箒」では泡立った温かいバタービールをマグカップで引っかけたり・・・などなど。

 

 ベッドに潜り込む頃には、イリスは非常に良い疲労感に包まれていた。ロンに買って来てもらった蛙チョコカードを眺めているうちに、眠気に誘われ、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 ――心地良いまどろみの中、誰かが、小さく肩を揺すぶっている。

 

≪イリス、イリス≫

「う、ウーン・・・誰?」

 

 イリスはうつらうつらしながらも、目をこじ開けた。――クルックシャンクスが真剣な表情をして、目の前に座っている。他のルームメイトが深い眠りに就いている事を確認してから、彼は張り詰めた声でこう言った。

 

≪支度をしろ、すぐ出発だ。みんな祭りの後で浮かれていて、今が一番、学校中の注意が少ない。黒いヤツらも注意散漫のようだ。あいつに会うのは、今しかない≫

 

 

 イリスは、百味ビーンズの箱から”強烈ミント味(※明るい緑色で、軽く触れるだけで指先がスーッとするため見つけやすい)”を摘まんで眠気を吹き飛ばすと、ネグリジェの上にローブを羽織り、”目くらまし呪文”を掛けて姿を消した。クルックシャンクスが先に談話室の穴を出て、透明になったイリスがその後を付いていく。「太った貴婦人」は、いつもの気まぐれ猫が、夜のお散歩に出て来たのだと思い、大きな欠伸をしただけだった。

 

 黒々とした芝生の上を、イリスとクルックシャンクスは黙々と歩いた。月と星の明かりだけが、うっすらと足元を照らしてくれている。

 

 『今学期は絶対に、人気のない場所に行ったり、一人ぽっちで行動しちゃ駄目よ。いいこと?』――不意にイリスの頭の中で、モリー夫人の忠告がこだました。

 

 けれどもイリスは、誰かに助けを求められれば、可能な限り応えようとするお人好しな性格だった。そしてクルックシャンクスと同じように、イリスも彼を信頼していた。『彼と一緒なら危険な事にはならない』――そう信じさせるものが、このオレンジ色の賢い猫にはあったのだ。

 

「ねえ、その動物はどんな子なの?」

 

 イリスは、クルックシャンクスの言う”あいつ”は動物だと思っていた。するとクルックシャンクスは、振り向かないまま、静かに応えた。

 

≪黒い犬だ。大型のな。そしてひどく弱り、痩せている≫

「じゃあ、ハグリッドのところへ連れて行った方がいいかもね」

 

 イリスが心配そうに言うと、クルックシャンクスは暫く沈黙した。それから口を開いた。

 

≪なあ、イリス。ヒトはどうして()()()()?≫

「え?」

≪ヒトはみんな生まれた時は、おれたち動物と同じ純粋な心を持ってる。純粋な心は、隠された悪意を見抜くんだ。

 でもヒトは成長していくのと一緒に、心が濁っていく。周りのヒトや見えないモノばかりを見て、目の前の真実を見落とす。そして嘘を真実だと、悪意を善意だと勘違いするんだ≫

 

 クルックシャンクスの言葉は、イリスの心の奥底へ静かに浸透していった。若い雄猫に見えるけれど、本当はとても長生きなのかもしれない。イリスは彼をじっと見つめながら、そう思った。今の彼は、まるで永い時をたった一人で生きて来たかのような、不可思議な雰囲気を放っていた。

 

 やがて二人は、禁じられた森の近くまでやって来た。ハグリッドの小屋の灯りも消えている。夜風の小さな囁きと木の葉の擦れる音だけが、辺りを優しく包み込んでいる。

 

 禁じられた森は、濃厚な暗闇にどっぷりと沈み込んでいた。イリスは”目くらまし呪文”を解くと、用心のために杖を握り、時折キラリと光るクルックシャンクスの目だけを頼りに歩いた。

 

 ひときわ大きな樹木を通り過ぎた時、目の前の木の根元に、大きな黒い犬が座っている。儚い月明かりが一筋、木々の隙間から入り込んで、犬を照らしていた。クルックシャンクスは振り向いて、こう言った。

 

≪イリス。今から起こる事を見ても、何も考えるな。考える事が、濁るきっかけになる。()()()()()

 

 クルックシャンクスの言葉を合図としたかのように、不意に黒い犬がうずくまった。

 

 ――そして犬は、みるみるうちに”一人の人間”へと姿を変えた。

 

 とても背の高い、痩せた体躯の男だ。汚れきった髪が、もじゃもじゃと肘まで垂れている。垢と泥に塗れた体を、ボロボロの布切れが覆っていた。男はゆっくりと立ち上がり、緩慢な動作で髪を掻き上げて、顔を露わにした。暗い落ちくぼんだ眼窩の奥で、目だけがギラギラと輝いている。それは、まるで生きた骸骨のような有様だった。

 

「ああっ・・・!」

 

 イリスは掠れた声で叫び、恐怖の余り腰が砕けそうになるのを、何とか気力で持ち応えさせた。――自分はこの男が誰か、知っている。目の前の男の顔と、ダイアゴン横丁で見た『シリウス・ブラックの指名手配書』が、バシッとリンクした。間違いない。この男は、大量殺人犯のシリウス・ブラックだ!

 

「イリス・ゴーント。君の事は、この猫から聞いている」

 

 ブラックはイリスを静かに見据えたまま、しわがれた声を出した。声の使い方を長い事忘れていたかのようだった。

 

 自分の名前を呼ばれた瞬間、イリスは反射的に杖を構え、震える手でブラックへ照準を合わせた。――逃げなきゃ。クルックシャンクスはきっとブラックに操られていたのに違いない。彼は、私に害を成そうとしている。

 

 だがブラックは杖を向けられていると言うのに身動き一つせず、イリスをじっと眺めているだけだった。

 

 どうして攻撃してこないんだ?イリスは疑問を抱いた。ブラックはたった一度の魔法で十人余りもの人々を殺めた、凄腕の魔法使いだ。自分を殺してしまう事など、赤子の手を捻るより簡単だろうに。

 

 ――ふと、ルーピン先生の姿が思い浮かんだ。間違った知識を信じ込んだために、傷つけてしまったかもしれない先生の事を――。

 

 ”考えるな、感じるんだ”――クルックシャンクスの言葉が、イリスの背中をグイと押した。イリスは思考を放棄し、感覚を研ぎ澄ます事だけに集中した。周囲の木々のざわめき、何かの動物の叫び声が、たちまち聴こえなくなる。彼女はただ、ブラックの落ちくぼんだ眼窩の奥、光る眼だけを見つめ続けた。

 

 どれほどの時間が経ったのだろう。やがて、イリスはゆっくりと杖を下ろした。――ブラックの目に、悪意はなかった。決して悪者の目ではない。その目はとても澄んでいた。

 

 ブラックは、イリスが攻撃する意志をなくしたのを確認すると、ドサリと力なく地面に座り込んだ。その時、たまたま月明かりが反射しただけなのか、目の奥がキラッと光ったような気がした。次いで彼は、チラリとクルックシャンクスを見て、口火を切った。

 

「今から、君に全てを話す。その上で私に関わりたくないと言うのなら、杖を貸してくれ。君の記憶を消去し、寮へ返す。協力してくれるのなら、私たちと共に”あのネズミ”を捕まえてほしい」

 

 イリスの心臓が、大きく脈打った。――”あのネズミ”とは、きっとロンのペットのスキャバーズに違いない。クルックシャンクスに出会った時の警告、スキャバーズの悪夢、やたらに接触を図ろうとする奇妙な行動、あの黒いギラギラとした目――この全ての謎が結びつくたった一つの真実を、ブラックは知っているのだ。イリスは、ブラックの言葉に耳を傾けた。

 

「あいつはネズミじゃない。魔法使い、『動物もどき(・・・・・)』だ。名前は、ピーター・ペティグリュー」

 

 そしてシリウスは、全ての真実をイリスに明かした。

 

 

 シリウス・ブラックは、「純血主義」を家風とする魔法族の名家で、長男として生まれた。しかし、シリウスはその家風を心底嫌っていた。そのため、狂信的な純血主義者だった両親からは、家風に忠実だった弟と比較されて育った。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校に入学後はグリフィンドール寮に所属し、そして同寮のジェームズ・ポッター、リーマス・ルーピン、ピーター・ペティグリューと親しくなった。

 

 深まっていく四人の友情と反比例するようにして、シリウスとブラック家との確執は年を経るごとに、より大きなものとなっていった。とうとうシリウスは、十六歳の夏休みに実家を飛び出し、ポッター家に転がり込む事となった。そしてホグワーツを卒業後、ダンブルドア校長が”闇の陣営”に対抗するために創設した組織”不死鳥の騎士団”に加わった。

 

 ”不死鳥の騎士団”と”闇の陣営”との争いは、熾烈を極めた。いかに凄腕揃いの魔法使いや魔女たちと言えども、相手はその二十倍もの人数を誇っていた。シリウスたちも団員として日々死と隣り合わせの生活を送っていたが、やがて『ポッター一家をヴォルデモートが狙っている』という情報が流れ、周囲は騒然となった。

 

 シリウスは、ジェームズとリリーと話し合った。その結果、シリウスに”忠誠の術”を掛けて、”ポッター家の所在地”の情報を閉じ込める”秘密の守り人”とする事で話がまとまりかけたが、シリウスはそれを良しとしなかった。万が一の事があってはならないと、親友の一人であるピーターに”秘密の守り人”を変更するように、ポッター夫妻に持ち掛けたのだ。自分は囮として、”闇の陣営”と最後まで戦うと。

 

 しかし――秘密は破られた。ポッター夫妻はヴォルデモートに殺され、ハリーだけが生き残ったのだ。

 

「あの夜、私はピーターのところへ行く手筈になっていた。やつが無事かどうかを確かめるために。ところが、隠れ家に行ってみると、もぬけの殻だ。争った形跡も、密かに連れ去られたような形跡もない。

 私は嫌な予感がして、すぐにジェームズたちの家へ行った。そして、家が壊され、二人が殺されているのを見た時、私は悟った。ピーターが何をしたのかを。私が何をしてしまったのかを」

 

 ――イリスは言葉もなく、ただシリウスを見つめた。喉の奥が詰まり、声も出ない。シリウスの声には涙が混じり、少しの間だけ言葉が途切れた。

 

「私は死に物狂いであいつを見つけ出した。殺すつもりだった。後は自分がどうなろうと、どうでも良かった。

 ついにあいつをマグルの町中で追いつめた時、あいつは道行く人々全員に聴こえるように叫んだ。あいつではない、()()ジェームズとリリーを裏切ったんだと。

 それから、私が呪いをかけるより先に、あいつは隠し持った杖で道路を吹き飛ばし、自分の周り五、六メートルにいた人間を皆殺しにした。そして指を一本切り落とすと、素早くネズミに変身し、下水道に逃げ込んだ。

 私は取り逃がしてしまった。そして魔法省の連中に拘束され、裁判すらなく、すぐさまアズカバンへ放り込まれた」

「そんな!」

 

 イリスは絶望の声を上げた。――余りに一方的過ぎる。マグルの世界では、例えどんな極悪人だって、もう少し融通を利かせてくれる筈だ。

 

「何もしていないのに。あなたは無実だって信じてくれる人は、証明する人はいなかったんですか?たとえ証拠がなくても・・・」

「その時代は、まさに疑心暗鬼ばかりだった。ヴォルデモートは人々の間に不安や疑いの気持ちを抱かせるのが、非常に得意だった。私でさえ、無二の友をスパイだと疑っていたんだ。

 ・・・みんなが、友でさえも、私をそうだと信じた」

 

 シリウスはその時の光景を思い浮かべているのか、再び言葉を途切らせた。――イリスは、シリウスに掛ける言葉が見当たらなかった。最初は、四人は親友だった。けれど、ピーターの裏切りでジェームズたちは死に、あろうことかシリウスがその汚名を着せられ、ルーピンもシリウスがスパイだったと思って助けようとしなかった。固く結ばれていた筈の友情は、たった一夜の裏切りと死で、永遠に引き裂かれたのだ。

 

 シリウスは毒を吐き出すかのように苦しげな表情で、口を開いた。

 

「それからの十二年間は、地獄だった。ディメンターは囚人の幸福な気持ちを吸い取り、次々に狂わせていく。耐え切れずに自ら命を絶った者、吸い尽くされて廃人に成り果てた者も、沢山いた。

 その中で、私がなんとか正気を保っていられたのは・・・『自分が無実だ』と知っていたからだ。その思いは幸福な気持ちではない。だから、あいつらは吸い取る事が出来なかった。

 しかし、私はとても弱っていた。杖なしにはきっとディメンターを追い払うことも出来ないと、諦めていた。

 そんな時、魔法大臣のファッジが査察へやって来た。私は、彼が新聞を持っていたのを見て、興味本位で貰った。クロスワードが懐かしくてね、少しやってみたいと思ったんだ。

 するとそこに――スキャバーズが――”あのネズミ”がいた」

 

 イリスは、ウィーズリー家が”日刊予言者新聞ガリオンくじグランプリ”を見事引き当て、エジプト旅行へ行った事を思い出した。日刊予言者新聞が開催している宝くじなので、もちろん当選者は毎年新聞の一面を飾る事となる。ハリーが「漏れ鍋」で、ロンから貰ったという写真付きの記事のスクラップを見せてくれたのだ。

 

 その写真は、大きなピラミッドの前でウィーズリー一家が全員集合しているものだった。ロンの肩の上には、スキャバーズがちょこんと乗っていた。『指を一本切り落とすと――』不意にシリウスの言葉が蘇り、イリスはアッと声を上げそうになった。魔法動物ショップで見たスキャバーズは、()()()()()()()()()()()()

 

「スキャバーズの飼い主である子供が、ホグワーツでハリーと一緒だという事も分かった。

 ”闇の陣営”が再び力を得たとの知らせが入ってきたら、あいつはすぐさまハリーをやつらに差し出すだろう。自分の保身のためだけに。そのための完璧な態勢だ。

 私は何かをせねばならなかった。ピーターが生きていると知っているのは、この世界で私一人だけだ」

 

 シリウスの瞳の奥で、怒りの炎が燃え盛り、静かな声は激しい熱を帯びた。イリスは「漏れ鍋」で盗み聞きしたアーサーの言葉を思い出した――『あいつはホグワーツにいる、あいつはホグワーツにいる』シリウスは獄中でそう繰り返していた。”あいつ”とはハリーではなく、裏切り者のピーターの事だったのだ。

 

「まるで誰かが、私の心に火をつけたかのようだった。ディメンターはその気持ちを砕く事は出来ない。幸福な気持ちではないからだ。

 しかし、その気持ちが私に再び力を与えた。ディメンターが食事を運んできて独房の戸を開けた時、私は犬に変身してその脇を擦り抜けた。

 幸運な事にやつらは目が見えないし、動物のような単純な感情を理解する事が出来ないので、混乱していた。

 そして私は犬の姿で泳ぎ、島から戻ってきた。北へと旅し、ホグワーツの校庭に入り込み・・・それからずっとこの森に棲んでいた」

 

 

「私は一人でやつを見つけ、殺すつもりだった。しかし、この猫が力を貸してくれた」

 

 シリウスがクルックシャンクスを優しい眼差しで見つめた。猫は、満足気に喉を鳴らした。

 

「そして君の事を教えてくれた。イリス、君がハリーやピーターと最も近い距離にいる事も、動物と話せる事も全て。

 だがこれは危険な戦いだ。君に無理強いするつもりはない。君が嫌だと言うなら・・・」

「私、ピーターを捕まえます」

 

 イリスは強い口調で、シリウスの言葉を遮った。――彼を助けないではいられなかった。想像を絶する孤独と狂気の中、自分の命を賭してでもハリーを守ろうとするシリウスの気高く強い心は、イリスの勇敢な気持ちを燃え上がらせていた。

 

「罪を償ってもらいます。そして、あなたの濡れ衣を晴らします」

 

 ――シリウスは暫く茫然とし、イリスを眺めた。クルックシャンクスの強い勧めで、接触を図ろうとしたのだが、まさかこんなに上手く事が運ぶとは。

 

 本当にこの子は、自分の話を信じたというのか?世間では”大量殺人鬼”として有名な男の話に、みじんの疑いも抱かないなんて。自分を騙すために、嘘を吐いている可能性を考えないのか?よほどの馬鹿か、それとも策士か。判断しかね、シリウスは低く唸った。

 

 シリウスは、イリスの父親であるネーレウス・ゴーントを思い出していた。彼の心に、強い罪悪感と疑念が湧き上がる。

 

 ネーレウスは、年不相応なほどに達観した男だった。品行方正で、誰にも分け隔てなく接する優等生だったが、いつも悲しい目をしていたのを強く覚えている。

 

 シリウスの学生時代は、”闇の陣営”が最も力を発揮していた時期だった。その時代で、”反闇の勢力”を唱えるシリウス達の存在は、同じ志を持つ生徒達にとって憧れの存在だった。

 

 その一方で、ネーレウスは”闇の陣営”側における有名人として、人々から好奇や畏怖の目で見られていた。だが彼は、常に良い人間であろうとし続けた。だがシリウス達も周りの人々も、彼がどんなに良い行いをしても信じなかった。外では良い顔をしておきながら、裏では闇の帝王と密通しているのに違いないと囁いた。それほどにヴォルデモート卿の影響は強かったのだ。

 

 シリウス達はしっかりとした信念を持っていたし、それを最後までやり遂げる胆力を備えてもいた。そして若かった。だがその真っ直ぐな心根は、時に道を違える切っ掛けにもなる。

 

 ネーレウスは”闇の陣営”側の人間ではないと言いながら、スリザリン生であり、”死喰い人”を親に持つ生徒達と親しかった。シリウス達はそれに目を付け、ネーレウスを攻撃した。しかし彼が呪いを受けたり怪我をする事は、一度としてなかった。そしてその結果は、ますますシリウス達を逆上させる事となった。さらに彼らの神経を逆撫でするかのように、宿敵スネイプとのいざこざが始まると、ネーレウスが決まってどこからかやって来て、邪魔立てするようになった。

 

 しかしどれだけネーレウスを怒らせても、決闘をしても、その心の内は見えなかった。投げつけた誹謗中傷の言葉も、放った無数の呪いも全て、彼の悲しい目に吸い込まれて、融けて消えて行くかのようだった。

 

 ――あいつが何を考えているのか分からない。本当は何を望んでいるのかも。だからシリウス達は”不死鳥の騎士団”に入っても、『在学中から籍を置いていた、君たちの先輩だ』と紹介されたネーレウスを信頼する事など出来なかった。本当は”闇の勢力”のスパイなのではないかと、何度も四人で話し合った。

 

 しかし、やがてその話し合いも終結を迎えた。ネーレウスが最初から最期まで”闇祓い”として戦い、魔法省で善良な魔法使いとして真面目に働いた事が証明されたのだ。――娘を守るため、妻と共にヴォルデモートに殺されたという事実が公になった事によって。たちまち彼は今までの優れた功績を認められ、勲一等マーリン勲章を授かった。彼に信頼を寄せていた多くの者達は、世間の馬鹿げた掌返しに憤慨したという。

 

 その数か月後、シリウスの親友のピーターが裏切った。ジェームズとリリーはヴォルデモートに殺され、シリウスは濡れ衣を着せられてアズカバンへ投獄された。

 

 ――シリウス達は誤った人物を信じ、信じるに値する人物を信じられなかった。

 

 

 (ニュクス)は星の光を引き連れて西へ渡り、東から暁の気配が忍び寄る。木々の枝から見える星空が、漆黒から濃紺色へ変わっていく。不意にその空を、黒い影がいくつか飛び去って行った。――ディメンターだ。ディメンターが作った影が、ほんの一瞬二人と一匹を撫でただけで、シリウスは反射的にビクリと肩を跳ね上げた。それほどまでに、アズカバンでの十二年間は、シリウスを弱らせ、深い傷跡を残していた。

 

 その様子をじっと見つめていたイリスは、ハッと思いついたように息を飲むと、ローブのポケットから蛙チョコレートの箱を一つ取り出して、シリウスに渡した。

 

「これを食べて。チョコレートを食べると、気分が楽になります」

「・・・懐かしい。蛙チョコレートか」

 

 シリウスはぎこちなく笑って見せたものの、受け取った箱を開く事は出来なかった。――『もしかして、毒が入っているのでは?』と警戒したためだ。

 

 対するイリスは、シリウスの心の内など知る由もない。彼はきっと細かい作業が出来ない程に、ひどく疲労しているのだ。そう判断したイリスは、代わりに箱を取り上げて開封した。そしてピョンと跳び出したチョコレートを上手く摘まんで、シリウスの口に入れてやる。

 

 ――シリウスは拒否する事など出来なかった。間近で見たイリスの瞳は、生まれたての赤子のように、純粋な輝きで満たされていた。長い間、昏い場所で生きてきたシリウスには、その光は眩し過ぎた。

 

 この目の何と美しいことか!ネーレウスは、この輝きを守るために、命を賭けたのだ。この時シリウスは、やっとネーレウスを理解し、信じる事が出来た。そして、自分の過ちを受け入れた。

 

「ああ、許してくれ」

 

 シリウスは、呆気に取られるイリスの肩に顔を押し付け、咽び泣いた。

 

「君の父親を、最期まで信じる事ができなかった私を!」

 

 イリスは、大人に縋り付いて泣かれる事など初めてだったので、最初の方こそ狼狽していたが、やがてシリウスの頭におずおずと腕を回した。――ハグリッドは、ハリーのお父さんと私のお父さんが、とても仲が悪かったって言ってた。ハリーのお父さんとシリウスは親友だった。だからきっと、シリウスと私のお父さんも――。

 

 イリスはシリウスと自分の父親との仲が悪かったという事実を知っても、シリウスを嫌いにはなれなかった。彼が良い人間であると分かっていたからだ。やがてシリウスが、ネーレウスと自分達との確執の思い出を洗いざらい話しても、イリスの気持ちは変わらなかった。




アズカバン編、登場人物多すぎて淡々とした文章になってすみません(;'∀')
分かりにくい箇所などありましたら、仰ってください。

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