アップルパイを食べ終えた四人は、禁じられた森の端にあるハグリッドの小屋を目指して歩いた。先頭を歩くロンが、唇の端っこに付いたパイの欠片を舐め取りながら、ふと前方を見て、ゲッと呻き声を上げた。
数メートル先に見慣れたスリザリン三人組――ドラコ、クラッブ、ゴイルがいる。三人はいかにも意地悪そうな顔をして、ゲラゲラ笑い合っていた。
気まずそうに目を逸らすハリー達に反して、イリスは穏やかな笑みを浮かべた。――ドラコはディメンターの影響による気分障害から、ちゃんと快復したみたいだ。本当に良かった。そう思い、彼女は安堵のため息を零した。
「魔法動物飼育学」の授業は、グリフィンドールとスリザリンの合同授業だった。ハグリッド先生が、小屋の外で生徒達を待っている。いつものモールスキンのオーバーを着込み、足元にはファングを従えていた。早く始めたくてうずうずしている様子が、遠目からでも伝わって来る。
ハグリッドは興奮する余り、いつもより上擦った声で、生徒達を禁じられた森の近くにある放牧場のようなところへ連れて来た。中は、動物一匹いない。
「みんな柵の周りに集まって、ちゃーんと見えるようにしろよ!」ハグリッドはうきうきしている。
「さーて、イッチ番先にやるこたぁ、教科書を開くこった」
「どうやって開けばいいんです?」ドラコの冷たく気取った声がした。
ドラコはカバンから取り出した教科書を、みんながよく見えるように掲げ持った。頑丈そうな紐で、グルグル巻きにしてある。
それもその筈――ハグリッド指定の教科書「怪物的な怪物の本」は、”名は体を表す”という諺の通り、まるで本物の怪物のように暴れ回る本だった。その凶暴さたるや、読むのはおろか、開く事さえ不可能なほどだ。だから購入した生徒達はみな例外なく――店員が本を何とか抑え込んでくれている間に――ベルトで縛ったり、きっちりした袋に押し込んだりしなければならなかった。
意外な事にイリスもその一人で――どれだけ辛抱強く耳を傾けても、「怪物本」の唸り声が人間の言葉に変換される事は無かった――スペロテープでグルグル巻きにした本を取り出した。みんなのその様子を見て、ハグリッドはがっくりと肩を落とした。
「だ、だーれも教科書をまだ開けなんだのか?」
クラス全員がこっくり頷いた。イリスはハリーと、不安そうに視線を交し合った。ハグリッドの授業の雲行きが、段々怪しくなってきたように感じられたのだ。
不意にドラコが馬鹿にしたように笑って、イリスを指差した。
「待ってください、先生。ゴーントなら知っているのでは?彼女は、獣と話が出来るようですし」
その言葉は、嘲りに満ちていた。イリスが弾かれたように振り返ると、ドラコの嫌らしい笑みはますます濃くなった。ドラコはテープで封じた本が、イリスの手にあるのを知っている。その上で、彼女を辱めたのだ。
――嫌だ、そんな目で見ないで。イリスの心は悲しみ一色で染まり、涙がドッと溢れた。その様子を見たハリー達は、もうそろそろドラコに対して以前のようにブチ切れていいのか、それともまだ我慢するべきなのか判断しかね、何とも形容しがたい表情を突き合わせた。
ハグリッドは、めそめそ泣き始めたイリスを見て、取り成すように慌てて言った。
「アー、じゃあ教科書の開き方だが、
ハグリッドはイリスの教科書を取り上げ、頑丈に縛っていたスペロテープをビリリと剥がした。本はすぐさま口を開けて噛み付こうとしたが、ハグリッドの巨大な親指で背表紙を一撫でされると、ブルッと震えて普通の本のように大人しくなった。
「ああ、僕たちって、なんて愚かだったんだろう!」ドラコが鼻先で笑った。
「撫ぜりゃーよかったんだ!どうして思いつかなかったのかねぇ!」
「やめろ、マルフォイ」ついにハリーが、静かな苛立ちを含む声で言った。
ハグリッドは見るからにうな垂れている。グリフィンドール生とスリザリン生の間で、ピリピリと張り詰めた空気が流れた。
ドラコは、ハグリッドが貶された事に心を痛め、ますます憔悴していくイリスを眺め、満足気に笑った。何故かは分からないが、イリスを傷つけると気持ちが良かった。
――もっと痛めつけてやるべきだ。ドラコは心からそう思った。だって僕はもっと酷い事を――待てよ、”酷い事”って何だ?
しかし彼は、これ以上思考を巡らせる事が出来なかった。また、あの頭痛が襲ってきたのだ。ドラコは眉をしかめて教科書をクラッブに投げ渡し、背表紙を一撫でさせた。
「えーと、そんじゃあ」暫くしてハグリッドは気を取り直したが、口調は随分とたどたどしい。
「教科書はある、と。そいで、今度は魔法生物が必要だ。ウン。そんじゃ、俺が連れてくる。待っとれよ・・・」
ハグリッドは大股で森へと入り、姿が見えなくなった。途端に生徒たちはペチャクチャお喋りを始める。
無意識に俯いていたイリスは、ふと暖かい感触が背中を包むのを感じ、ゆっくり顔を上げた。――ハリーが、自分の肩を抱いている。そして「大丈夫?」と優しく声を掛けてくれた。親友の気遣いが、心に沁み渡っていく。イリスは涙を拭いて、微笑みながら頷いた。
一方、その様子を盗み見たドラコは、言いようのない怒りの感情が、沸々と湧き上がってくるのを感じていた。強い違和感が、その後を追いかける。彼は聞こえよがしに、イライラと声を張り上げた。
「まったく、この学校はどうなってるんだろうねぇ。あのウドの大木が教えるなんて、父上に申し上げたら、卒倒なさるだろうなぁ・・・」
「やめろって言ってるだろ」ハリーは声を荒げた。
ドラコの狙い通り、イリスの儚い笑顔は見事に砕け散った。そしてこちらをチラッと掠め見るなり、彼女は青白い顔で再び俯いてしまった。
――いい気味だ。だが、まだ足りない。ドラコの心から、暗い情念が噴き出した。
ドラコにとってイリス・ゴーントは、視界に入るだけで、不可解な感情や痛みを自分に押し付ける、嫌な奴だった。しかし、彼女が自分以外の人と仲良くするのを見るのは、もっと嫌だった。
”裏切られた”、”捨てられた”、”許さない”――何の関連性もない気持ちが、次々と湧き上がっては、形をなくして消えていく。ドラコはイリスをどこか人気のない、誰にも邪魔をされないところへ連れ去りたいと思った。そして、存分に痛めつけるのだ。だって僕にはその権利がある。僕だけに――”僕だけに”?しかしまたしても彼の思考は、すぐさまやって来た頭痛に、ドロリと溶かされた。
不意にラベンダーが放牧場の向こう側を指差して、大きな歓声を上げた。イリスも思わずその方向を見て、息を飲んだ。
イリスが今まで見た事の無い、奇妙な生き物が十数頭、早足でこちらへ向かってくる。胴体、後ろ脚、尻尾は馬で、前脚と羽、そして頭部は巨大な鳥のように見えた。鋼色の残忍な嘴と、大きくギラギラしたオレンジ色の目が鷲そっくりだ。前脚の鉤爪は十五、六センチと、見るからに殺傷力がありそうだ。それぞれ分厚い革の首輪をつけ、それを繋ぐ長い鎖の端をハグリッドが全部まとめて握っていた。
ハグリッドは鎖を振るい、ヒッポグリフたちをイリスたちのいる柵の方へと追いやった。イリス以外、みんながじわっと後ずさりした。
「ヒッポグリフだ。美しかろう、え?」
ハグリッドは上機嫌で言った。確かにヒッポグリフは美しかった。輝くような毛並みが羽から毛へと滑らかに変わっていく様子は見応えがある。それぞれ色が違い、嵐の空のような灰色、赤銅色、赤ゴマの入った栗毛、漆黒など、色とりどりだ。
「こんにちは」
イリスはおずおずと、一番近くにいた灰色のヒッポグリフに話しかけた。ヒッポグリフはじっとイリスを見つめた後、大きな嘴を静かに開いた。
≪君に悪意はない。そして、礼節も弁えているようだ。・・・ああ、こんにちは≫
ヒッポグリフは頭を下ろし、柵の間から嘴を覗かせた。イリスが嘴を優しく撫でると、ヒッポグリフは気持ち良さそうにとろりと目を閉じる。ハグリッドは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「よーくやった、イリス!お辞儀なしで心を通わせるなんざ、お前さんぐらいのもんだ。えらいぞ、バックビーク!」
イリスは照れ臭そうに微笑んだ。バックビークと呼ばれたヒッポグリフは、誇らしげに何度か蹄を鳴らした。ハリー達を筆頭に、グリフィンドールの生徒から喝采が上がる。
「決めた!僕、君の後ろにいるよ!」
イリスの背後にサッと隠れながら、ロンが叫んだ。イリスが知らない間にヒッポグリフと心を通わせていた事で、すっかりいつもの調子を取り戻したハグリッドは、両手を揉みながら嬉しそうに言葉を続けた。
「さーて、そんじゃ。今回の授業は、イリスが手本を見せてくれたように・・・『ヒッポグリフに触ること』だ。まずイッチ番最初に知っておかなきゃなんねえのは、”ヒッポグリフは誇り高い”ってこと。・・・イリス、そいつはお前さんに何て言ってた?」
急に話題を振られ、イリスはもたつきながらも、チラリとバックビークを見て、口を開いた。
「えっと・・・”私に悪意はない”、”礼節も弁えてる”って言ってた・・・言っていました、先生」
「その通り!」ハグリッドは頷いた。
「ヒッポグリフにゃあ、”こっち側に悪意がない”ってことを見せなきゃなんねえ。相手の誇りを傷つけねえように、”礼儀正しく”な。そのために必要なのは、お辞儀だ。お辞儀をすりゃあ、どんな生き物だって、そいつが礼儀正しくて悪意がないってーことが分かる。・・・そんで気を付けろ、ヒッポグリフはすぐ怒る。間違ってもこいつらの目の前で、侮辱するようなことだけはしちゃなんねえぞ」
ハグリッドは真剣な表情で、ヒッポグリフと触れ合うための手順、諸注意を説明した。
しかしドラコはろくに話も聴かず、クラッブやゴイルと何やらヒソヒソ話をしている。それを見咎めたハリーは、ロンやハーマイオニーと不安そうに視線を交わし合った。どうやったらうまく授業をぶち壊しにできるか、企んでいるように見えたのだ。
「よーし、誰が一番乗りだ?・・・ああ、お前さんはもういいぞ」
ハグリッドが、手を挙げたイリスに丁重に断りを入れてから、嬉しそうに聞くと、みんな答える代わりにザザッと後ずさりした。ヒッポグリフは――イリスと仲睦まじくしているバックビーク以外――鎖に繋がれている事自体が気に入らないのか、猛々しい首を振りたてたり、たくましい羽をばたつかせたりして、落ち着かない様子だったからだ。
やがて、誰も名乗りを上げないのを見て、不安そうな顔をするハグリッドを見兼ね、ハリーが手を挙げた。
「僕、やるよ」
「頑張ってね、ハリー」
イリスは元気づけるように、ハリーの背中を軽く叩いた。仲睦まじい二人の様子を見て、ドラコが忌々しく舌打ちする。
ハリーは放牧場の柵を軽々と乗り越え、バックビークと対峙した。慎重にバックビークと視線を合わせ、ゆっくりとお辞儀をする。すると驚いたことに、バックビークも鱗に覆われた前脚を折り、お辞儀のような恰好をした。どうやらハリーもイリス同様、バックビークに認められたようだ。
「やったぞ、ハリー!」ハグリッドは狂喜した。
「よーし、きっとそいつは、
”お前さんたち”?思わずキョトンとするイリスの頭上に、大きな影が差した。――ハグリッドだ。ヒョイとイリスを片手で抱きかかえ、バックビークの背中に乗せた。
「わ、わ・・・!」
イリスは何度も滑り落ちそうになり、必死でバランスを取ろうと努力した。何しろ目の前は一面の羽根で覆われ、ツルツルしていて、どこを掴んだらいいのかも分からない。そうこうしているうちに、巨大な翼の付け根に足を掛けて、ハリーがイリスの前にひらりと飛び乗った。さすが現役のシーカーだけあって、抜群の運動神経とバランス能力を有している。
≪翼に足をかけるな。飛べなくなる≫
「ご、ごめんなさいっ」
バックビークに注意され、イリスは思わず足を退けてから、考え込んだ。――”飛べなくなる”?ということは、今から飛ぶのか?いやいや、そんなのあり得ない!イリスは不穏な考えを振り払おうと、首を横に振った。だって手綱も何もない、不安定な状態だもの。まさかバックビークの言う通り、このまま飛ぶなんて――。
「二人共準備はいいな?よし、そーれ行け!」
しかし、イリスの恐れは現実となった。ハグリッドは二人の返事をろくに聞こうともせず、バックビークの尻をバシンと叩き、飛行の合図を送ったのだ。
「待って、ハグリッド!う、嘘だろ・・・っ」
ハリーの狼狽した声は、バックビークが広げた両翼の、力強い羽ばたき音に掻き消された。覚悟を決めたハリーは、バックビークの首に両腕をしっかりと回し、後ろにいるイリスに「僕に掴まって!」と怒鳴った。イリスが無我夢中でハリーに抱き着いた瞬間、バックビークは大空へと舞い上がった。
バックビークは二人を乗せて、放牧場の上空をゆったりと一周した。イリスはいつ振り落とされるかと、ずっとヒヤヒヤしっぱなしだった。どう頑張っても足が翼に引っかかるし、ツルツルした羽や毛のおかげで、踏ん張る事もできない。リドルがくれた空飛ぶ絨毯の旅とは大違いだった。イリスは持てる力の最大限を使い、目の前のハリーにギュッとしがみ付くしかなかった。
一方のハリーも、バックビークと行く空の旅の不便さを身に染みて感じていた。箒とヒッポグリフどちらが好きかと聞かれれば、間違いなく前者だと答えるだろう。
しかしハリーは、この空の旅を嫌いにはなれなかった。――背中を覆う心地よい温もりに、幸せを感じていたからだ。バックビークが気ままに旋廻する度に、イリスは悲鳴を上げて、ますますハリーにしがみ付く。もっとバックビークが乱暴な飛行をすればいいのに。ハリーは不謹慎にも、そう願った。
やがて、バックビークは地上へ戻った。イリスは心底安心した表情で、ハリーは少し残念そうな表情で、それぞれバックビークから降りて来ると、生徒達から拍手と歓声が上がった。
「よーくできた、二人共!さて、他にやってみたいもんはいるか?」
二人の成功に励まされ、みんなおずおずと放牧場へ入ってきた。ハグリッドは手際良くヒッポグリフを解き放ち、生徒達への指導を始める。ロンとハーマイオニーは、イリスとハリーの見えるところで、栗毛のヒッポグリフとお辞儀の練習をした。
「フン。簡単じゃないか」
不意に近くで気取った声がして、イリスは振り返った。ドラコがクラッブとゴイルを従え、バックビークの嘴を撫でている。どうやら彼も無事認められたらしい。――しかし、バックビークを見る彼の目は嘲りに満ちていた。嘴を指先でコンッと軽く弾き、馬鹿にしたような口調でこう言い放つ。
「お前、全然危険なんかじゃないなぁ。そうだろ?醜いデカブツの野獣君」
≪私を侮辱したな!≫
ドラコの行いは当然、バックビークの逆鱗に触れた。激昂したバックビークは鋭い鉤爪を振り上げ、タブーを冒したドラコへ襲いかかる。
鉤爪はドラコの腕を浅く切り裂いた。彼は情けない悲鳴を上げながら地面に転がり、ローブがみるみるうちに血で染まっていく。
イリスの脳内で、ディメンターに呼び起こされた”あの忌まわしい記憶”が鮮やかにフラッシュバックした。パニック状態になったイリスは、何も考えずにバックビークの首に縋り付いた。
「やめてぇ!乱暴しないで!」
≪黙れ!邪魔をするな!≫バックビークが吼えた。
「イリス、何しとる!お前さんは離れとけ!」
ハグリッドは必死の形相で、イリスの襟首を掴んで後方へ引き離した。そしてバックビークに首輪を付けるため、奮闘し始めた。もうイリスだけでなく、クラス中がパニック状態に陥っている。
「死んじゃう!僕死んじゃう!」
ドラコは傷ついた腕を抑えながら、泣き喚いた。腕には長い切り傷があり、そこから血がドクドクと流れ、草を伝って地面に染み込んでいく。イリスはドラコに”癒しの呪文”を掛けようと、杖を引き抜いて歩み寄った。しかしそれを阻むように、誰かがイリスを軽く突き飛ばした。
「ドラコっ、大丈夫?!」
――パンジーだった。蒼白な表情でドラコに縋り付き、ハンカチで傷口を抑えようとしている。生徒達が、二人の周りにワッと集まった。イリスは輪の外から、二人の様子を見守る事しか出来ない。
違う。イリスの青い目が不安定に揺らめいて、ポロッと涙が零れ落ちた。ドラコの傍にいるのは、あの子じゃない。私の筈なのに。
不意に大気が魔法力を帯び、イリスのやり場のない思いと同化するかのように、熱を上げていく。涙でぼやける視界の中で、ハグリッドがドラコを抱きかかえ、城へ向かって駆け上がっていくのが見えた。
「生徒に怪我をさせるなんて、信じられない!すぐクビにすべきよ!」パンジーが涙ながらに訴えた。
「マルフォイが悪いんだ!」ディーンがきっぱり言い放つ。
「ねえ、何だか暑くない?」ネビルがおどおどと言った。
ネビルの言う通りだった。何時の間にか周囲の気温は、まるで真夏に戻ったかのような熱気を帯びていた。生徒達は額に浮かび始めた汗を拭い、首を傾げながら、一人一人城へと戻っていく。
ハリーは、茫然と突っ立ったままのイリスを促そうと、肩に手を掛け――それから、驚いて悲鳴を上げた。
「イリス。とりあえず、城へ・・・熱ッ!」
「・・・えっ?」
――イリスの体温は、炎のように熱くなっていた。
イリスの”血の戦い”は現在も進行中であり、魔法力は増大の一途を辿っている。今の彼女の体には、一人前の魔法使いを軽く凌駕するほどの魔法力が循環していた。しかし十三歳の平凡な少女にとって、その力はまだ重すぎた。
かつてイリスの魔法力を育て上げ、完全に制御していたリドルは、永久に消え去った。完璧な司令官を失った魔法力は、少しずつイリスに逆らい始めた。イリスが精神的なストレスを強く感じ、激しく心を乱す度――コップに並々と注がれた水が、少しの振動で零れるように――体から溢れ出し、彼女の意志と関係なく暴走するようになってしまったのだ。
幸い、ハリーの声で注意を取り戻したイリスの体温は、一瞬で元に戻った。イリスは、ハリーが赤くなった手をフーフーと必死で冷ましているのに気づき、眉をひそめた。
「大丈夫、ハリー?どうしたの?」
ハリーは何も答えず、ただ確かめるように、そっとイリスの頬に触れた。――ちゃんとした人並みの暖かさだ。さっきのは、気のせいだったのだろうか。ハリーは訝しんで、軽い火傷のあとが残る自分の手を見つめた。
☆
その日の夕食は、四人の喉をろくに通らなかった。ドラコはいまだスリザリンのテーブルへ戻っておらず、教職員テーブルにハグリッドの姿もない。
「ドラコ、大丈夫かな」
イリスが所在なげにマッシュポテトを口に運びながら、心配そうに言った。ハリーは、嫉妬の炎が心を軽く焦がしていくのを感じながら、少し乱暴な口調で答えた。
「そりゃ、大丈夫さ。マダム・ポンフリーは、切り傷なんてあっという間に治せるよ」
イリスは安心し、口の中のポテトを飲み込んだ。医務室の守護神であるマダム・ポンフリーの腕は確かだ。イリスも様々な病気や怪我を短期間で治療してもらったことがある。ロンは頭を無造作にガリガリ搔きながら、困ったように言った。
「だけど、ハグリッドの最初の授業であんなことが起こったのは、やっぱりマズイよな?」
「ハグリッドをクビにしたりしないわよね?」ハーマイオニーも不安そうだ。
「そんなことしないといいけど。でも、マルフォイのやつ、引っ掻き回してくれたよなぁ。あいつ、君がいないと、ホントのホントにクズ野郎だ!」
ハーマイオニーが眉をしかめて暴言を窘めるが、ロンは「ホントの事じゃないか!」と譲らない。落ち込むイリスの皿に、大きめに切り分けたステーキ・キドニー・パイを乗せ、ハリーが提案した。
「これを食べ終わったら、ハグリッドのところへ行かない?たぶん、家にいるはずだ」
☆
まだ湿り気を帯びたままの芝生が、黄昏の中でほとんど真っ黒に見えた。ハグリッドの小屋へ辿り着き、ノックをすると、中から「入ってくれ」とうめくような声がした。
ハグリッドはシャツ姿で、洗い込まれた白木のテーブルの前に座っていた。ファングが慰めるように、彼の膝に頭を載せている。
一目見ただけで、相当深酒していることが分かった。バケツ程の大きさのある錫製のジョッキを片手に、ハグリッドは焦点の合わない目付きで四人を見た。
「こいつぁ新記録だ」ハグリッドはどんよりと言った。
「一日しかもたねえ先生なんざ、これまでいなかっただろう」
「ハグリッド!まさか、クビになったんじゃ・・・」ハーマイオニーが悲鳴を上げた。
「いんや、まだだ。だけんど、時間の問題だわ、な。マルフォイのことで・・・」
「あいつ、そんなにひどいの?」ロンが咎めるように聞いた。
「マダム・ポンフリーができるだけの手当てをしたんだが、マルフォイはまだ疼くと言っとる。包帯グルグル巻きで、うめいとる」ハグリッドは呂律が回っていない。
「ふりをしてるだけだ」
ハリーが即座に言った。――もうハリーとロンは、ドラコとお互いをいがみ合う昔の関係に、すっかり戻ってしまったようだった。
「学校の理事たちにも知らせがいった。俺が最初から飛ばし過ぎたって、理事たちが言うとる。ヒッポグリフはもっと後にすべきだった。みんな、俺が悪いんだ」
悲しみに暮れるハグリッドは、いつもより一回りも二回りも小さく見えた。イリスは大好きなハグリッドを、何とか元気づけてやりたかった。ハグリッドの手に自分の両手を重ね、真剣な表情でこう言った。
「ハグリッドは悪くない。悪いのは、ドラコの方だよ。侮辱したりすると危ないって、ハグリッドは最初にちゃんと注意してた。バックビークも、ドラコが侮辱したから怒ったんだよ。注意を守らなかったドラコが悪いよ。それに、ハグリッドの授業はとっても面白かった。私、次の授業が楽しみだよ。だから元気出して」
「そうだよ。ハグリッド、心配しないで。僕たちがついてる」
ロンが明るい口調でそう言うと、ハリーとハーマイオニーも口々にハグリッドを激励しながら、彼の傍に近寄った。
ハグリッドの真っ黒な黄金虫のような瞳から、涙がボロボロ零れ落ちた。彼は四人を引き寄せ、骨が砕けるほど強く抱き締めた。やっとのことで解放された四人が、胸をさすりながらフラフラと元の席に戻ろうとすると、ハグリッドはやおら席を立ち、小屋の外へ出た。
「な、なにしてるの?」ハリーが弱々しく聞いた。
「水の入った樽に顔を突っ込んでる」窓の外を覗いたロンが、喘ぎながら言った。
やがて長い髪と髭をびしょ濡れにしたハグリッドが戻ってきた。犬のように頭をブルブルッと震わせ、水気を飛ばした後、ハグリッドは嬉しそうに言った。
「なあ、お前さん達。会いに来てくれてありがとうよ。本当に俺・・・」
そこでハグリッドは急に立ち止まり、目を限界まで見開いて、イリスとハリーを交互に見つめた。まるで二人がいるのに、今初めて気づいたかのように。
「お前さん達、一体何しちょる!えっ?!」
ハグリッドが余りに大きな声を出したので、みんな驚いて三十センチも飛び上がった。その様子を気にも留めず、ハグリッドは呆気に取られる四人を強引に立ち上がらせ、城へ引っ立てた。
「二人とも、暗くなってからウロチョロしちゃいかん!ロン、ハーマイオニー!お前さん達も、この二人を出しちゃいかん!ええか、もう二度と、暗くなってから俺に会いにきたりするんじゃねえ。俺にそんな価値はないんだ」
☆
ドラコは木曜日の昼頃、グリフィンドールとスリザリン合同の「魔法薬学」の授業が、半分ほど終わった頃に姿を見せた。包帯を巻いた右腕を吊り、ふんぞり返って地下牢教室へ入って来る様子は、まるで恐ろしい戦いに生き残った英雄のようだ。ハリーとロンは腹立たしげに互いの顔を見合わせたが、イリスはドラコのその様子を見て安心した。――本当に大怪我をしたならば、そんな余裕綽々の顔でいられない筈だからだ。
「座りたまえ、さあ」スネイプが明るく言った。
『座りたまえ?』ロンは目をギョロリと回し、口パクでハリーに訴えた。もし遅れて来たのが自分達だったら、『座りたまえ』なんて言うどころか、厳罰を科すに違いないと思ったからだ。
ドラコはクラッブとゴイルの隣ではなく、ハリーとロンのテーブルに自分の鍋を据えた。それから自分の「縮み薬」のための材料を二人に切らせるようにと、スネイプに頼んだ。あっという間に険悪なムードに包まれていく三人の様子を、イリスがハラハラと見守っていると、隣の席にいるネビルに肩を弱々しく突かれた。
「い、イリス!どうしよう!色がおかしいんだ!」
イリスはネビルの鍋をそっと覗き込んで、首を傾げた。本来なら明るい黄緑色になる筈の水薬が、なんとオレンジ色になってしまっていた。
――「魔法薬」は手順だけでなく、材料の数や量ですら、ほんの少し間違えただけで失敗作となるか、運が良ければ全くの別物となる。恐らくネビルも何かを間違えてしまったのだろう。しかし失敗は誰にだってある。イリスも補習授業の時は、数えきれないほど失敗作を生み出す。そうしながら、少しずつ成功への道を辿っていくのだ。
イリスは今までの補習で得た知識をフル回転させ、やがて水薬がオレンジ色になった原因を特定した。――つまりこの原因は、”ネズミの脾臓とヒルの汁を多く入れてしまった事”にある。
「ネビル。ネズミの脾臓を・・・」
「フム。オレンジ色か。ロングボトム」
いきなり背後から凍り付くように冷たい声が降って来て、二人はピタッと動きを止めた。スネイプはイリスの頭上から手を伸ばし、ネビルの鍋から柄杓で薬を掬い上げ、高々と流し入れて、みんなが見えるようにした。
「オレンジ色。君、教えて頂きたいものだが、君の分厚い頭蓋骨を突き抜けて入っていくものがあるのかね?吾輩ははっきり言った筈だ。ネズミの脾臓は一つでいいと。聞こえなかったのか?ヒルの汁は少しでいいと。明確に申し上げたつもりだが?いったい吾輩はどうすれば君に理解して頂けるのかな?」
ネビルは赤くなって小刻みに震えている。今にも涙を零しそうだ。
しかし不思議な事にスネイプは、ネビルがどんなにひどい失敗――それこそ、”落ちこぼれ”時代のイリスに匹敵する位の大事件を引き起こしても――こんな風にクラス中の晒し者にしたり、罰則を命じたりするものの、補習授業に参加させる事は決してしなかった。今回もスネイプは『授業の最後、トレバーにネビルの失敗作を飲ませる』と脅しつけだだけだ。そして恐怖で息も出来ないネビルを残し、その場を去っていった。
「助けて!トレバーが、トレバーが死んじゃう!」ネビルはパニック状態だ。
「ネビル、落ち着いて。大丈夫だよ」
イリスは一先ず、ネビルを落ち着かせる事にした。今の状態では、たとえ正しいやり方を教えても、また失敗してしまう可能性が高いからだ。そしてイリス自身も注意しなければならない。――以前ネビルを助けようとした時、それを見咎めたスネイプに減点を喰らってしまったのだ。イリスはなるべく唇を動かさずに、小さな声で言った。
「ネビルは「魔法薬学」が嫌い?」
ネビルはおどおどと周囲を見回し、スネイプが近くにいない事を確認してから、自信なさげに呟いた。
「き、嫌いじゃないけど・・・。スネイプ先生が、怖いんだ。だから僕、余計にへまをしちゃって」
「確かに先生は怖いよね」
イリスとネビルは、申し訳なさそうにニヤッと笑い合った。
「でもそのおかげで、気を引き締めて作業するから、大きな事故をしなくてすんでるんじゃないかな。って、思うんだ。「魔法薬」は出来上がるまでの工程が、とっても複雑で危険だもの。誰だって間違えて当たり前だよ。私も、補習で何回もミスしちゃうもの」
イリスが朗らかにそう言うと、ネビルは安心したように肩の力を抜いた。顔色も少しずつ良くなってきたみたいだ。イリスはネビルの前に教科書を置いて、「縮み薬」のページを開いた。
「ネビル、教科書をよく読んでみて。少しずつでいいから、今までの自分の手順を思い出してみて。・・・大丈夫。ネビルは「薬草学」が得意で、色んな植物を覚えてるじゃない。きっと思い出せるよ」
「うーん・・・」
随分と冷静になってきたネビルは、教科書を指で辿り、アッと声を上げた。
「僕、ヒルの汁を大さじ三杯も入れちゃった。ネズミの脾臓も二つ。・・・どうしてこんなことしちゃったんだろう?」
「たぶん緊張してたからじゃないかな。これからは、事前にしっかり薬の材料や、手順を予習しておくのがいいよ」
こうしてネビルはイリスの指導の下、終業時間ギリギリで無事、水薬をオレンジ色から明るい黄緑色へ戻す事に成功した。スネイプは生徒達をネビルのテーブルへ集め、トレバーに薬を飲ませたが、トレバーは当然のようにオタマジャクシの姿に
「グリフィンドール、十点減点。出しゃばるなと再三警告してきた筈だ、ゴーント。授業終了」
スネイプは、ネビルの水薬の色が通常よりも少し明るくなっているのを見た瞬間、イリスの介入を見抜いた。
――スネイプは前学期末の補習授業の段階で、すでに三年次の「魔法薬」の内容をイリスに予習させていた。その際、「縮み薬」を本当に正しく調合するのには、ネズミの脾臓を”教科書通り”に一つ入れるのではなく四分の三だけ入れるのが肝要だと、イリスに教えていた。そうする事で、効能は変わらず口当たりだけがまろやかになり、完成色はより明るい黄緑色になるのだ。――今のネビルの薬のように。
グリフィンドール生達から、笑顔が一瞬で消え去った。みんなはイリスとネビルに同情的な視線を送り、スネイプへ反感を込めた視線を叩きつけた。それをものともせず、スネイプは平然とした態度で杖を振り、地下牢教室の後片づけを始める。
ネビルが――まるでディメンターの接吻を受けたかのように――魂の抜けた顔で立ち竦んでいる一方で、イリスは比較的ケロッとしていた。二年間の補習授業を通して、彼女は「魔法薬学」の豊富な知識だけでなく、スネイプに対する耐性も身に付けていた。イリスは茫然自失状態のネビルの片付けを手伝ってやりながら、彼を一生懸命慰める事に終始した。
イリス達は地下牢教室を出て、大広間へ向かうため、玄関ホールへの階段を昇った。――ハリーは真剣な表情で、何かを考えながら歩いている。ロンはさっきの事がまだ腑に落ちない様子で、怒り狂っていた。
「水薬がちゃんとできたからって十点減点か!君も黙ってなんかないで、ネビルが一人でやりましたって言えばよかったのに!ハーマイオニーも何か言って・・・アレ?」
後ろを向いたロンが、素っ頓狂な声を上げた。イリスとハリーもつられて振り返り、一様に首を傾げる。――さっきまで一番後ろを歩いていたはずのハーマイオニーの姿が見当たらないのだ。階段の一番上で立ち止まった三人を追い越し、ハッフルパフの上級生たちが大広間へと駆けていく。
「どこに行っちゃったんだ?すぐ後ろにいたのに」ロンも首を傾げた。
暫くして、ハーマイオニーが
「どうやったんだい?」
ロンが不思議そうに聞くと、三人に追いついたハーマイオニーが息を弾ませながら「何を?」と問い返した。
「君、ついさっきは僕らのすぐ後ろにいたのに、次の瞬間、階段の一番下に戻ってた」
「え?えっと、私、忘れ物を取りに戻ったの。アッ!あーあ・・・」
ハーマイオニーが小さく悲鳴を上げた。カバンの縫い目が、急に破けてしまったのだ。中には大きな重い本が、少なくとも一ダースはギュウギュウ詰めになっている。荷物を一旦整理するために、ハーマイオニーがロンに本を数冊渡している間、イリスは杖を振るってカバンの破れ目を修復した。
「ありがと、イリス」とハーマイオニー。
「でもさ」ロンは疑わしげに、本の表紙をジロジロ眺めた。
「今日はこの科目はどれも授業がないよ。午後に『闇の魔術に対する防衛術』があるだけだろ?」
「ロンったら、私がどんなに沢山の授業を取っているか知ってるでしょ。その予習復習のためよ。・・・さ、お昼ご飯食べにいきましょ!美味しいものがあるといいわ」
ハーマイオニーは矢継ぎ早に話し終えると、はち切れそうなカバンを抱えて、一人大広間へスタスタ歩いて行った。
「あいつ、何か僕らに隠してると思わないか?」
ロンが訝しげに問いかける。イリスはあからさまに目を逸らしながら、「さあね」と濁した。
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ギルデロイ・ロックハートは、イギリスの魔法界において、非常に有名な魔法使いとして知られている。自分の活躍を記した数々の著作により、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員になり、勲三等マーリン勲章を授与される等、様々な輝かしい経歴を持っている。容姿もとてもハンサムで、『週刊魔女』チャーミングスマイル賞を五回連続で受賞しているほどだ。
しかし実際のところは、ロックハートはペテン師だった。彼が自慢げに語る英雄譚は、自分で掴み取ったものではない。全て、他者から盗み取ったものだ。
――ロックハートは、魔女の母とマグルの父の間に生まれた。気の強い母親は三人の子供のうち、唯一魔法力を示したロックハートだけを可愛がり、甘やして育てた。母親の過剰な愛情は、彼に『自分は特別な存在だ』と思い込ませるのに、十分なものだった。
やがて十一歳になったロックハートは、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学した。確かに彼はホグワーツでも優秀だった。しかしそれはあくまで”平均以上”というだけだった。
首席やメダルを取る事も出来なければ、クィディッチで選手になるほど卓越した才能を発揮させる事も出来ない。とりわけ聡明な者ばかりが集うレイブンクローにおいて、平凡な彼は目立たない存在だった。『自分は特別な存在ではない』――俄かに信じがたい真実を目の当たりにし、彼は強いショックを受けた。
二人の姉は、母親や弟を見返すために、マグルの世界で一生懸命努力して、勉強やスポーツで優れた成績を残した。そして、魔法の学校で鳴かず飛ばずの弟を『あんたのどこが特別なの?』と嘲笑った。母親はロックハートを抱き締め、『この子は特別なのよ!あんたたちとは違う!』とヒステリックに叫んだ。
母の言葉は、ロックハートの心に重く圧し掛かった。そうだ、僕は特別だ。いや、特別にならなければならない。何としても。――彼の子供らしい純真な心が、徐々に歪み始めた。
愛する母の期待に応えるべく、ロックハートは『自分の中で間違いなく特別だ』と思えるものを模索し、発見した。――ハンサムな容姿だ。彼はその長所を最大限に利用し、とにかくみんなの注目を集める事で『特別になろう』と考えた。クィディッチ・ピッチに長さ六メートルの文字で自分のサインを刻んだり、自分の顔の形をした巨大な光る映像を打ち上げたり、自分宛に八百通ものバレンタインカードを送って、フクロウの羽や糞などで朝食が一時中止になる事態を招いたりもした。
たちまち”目立ちたがりの問題児”として、ロックハートの名がホグワーツ中に知れ渡った。教師や生徒達が向ける視線は決して良い意味を含んでいなかったが、どんな形であれ、みんなの関心を集める事が出来て、彼は本当に幸せだった。一部の物好きな生徒達がファンクラブを作り、熱心に彼を誉めそやした。溢れるほどのファンからのラブレターを母親に渡すと、『やっぱり貴方は特別な子だわ』と褒めてくれた。
やがてロックハートは、ホグワーツを卒業した。あっという間に彼は、平凡な人間へ戻った。ただの”目立ちたがりの問題児”を、魔法省や有名な企業が雇い入れる筈がない。地味な仕事は、ロックハートが嫌だった。かといって、芸人や舞台俳優になれるほどの演技力を有しているわけでもない。彼は余りにも平凡過ぎた。
ある日のこと、ロックハートはいつものように仕事を探してダイアゴン横丁を彷徨い歩き、へとへとに疲れ果てて、「漏れ鍋」のバーのカウンターに腰を落ち着け、深酒をしていた。しばらくすると、隣の席に冴えない容貌の男がやってきた。酒の勢いも手伝い、二人はすぐに仲良くなった。
男は、世界中を旅する魔法地質学者だった。彼は酒の肴にと、アイルランド地方にある小さな村で、泣き妖怪バンシーに出会った話をしてくれた。
――本来ならば、人が死にゆく時にしか泣かない筈のバンシーが、ある日を境に、四六時中ずっと泣き叫び続け、村の人々は深刻な不眠症に悩まされていた。男は、村長にバンシーの駆除を頼まれたが、ふと嫌な予感がして周辺をよく調べてみると、なんと村を支える地盤が緩んでいる事が分かった。バンシーはもうじき起きる地崩れを予言し、その時に死ぬ被害者達のために泣いていたのだ。男の助言で、無事避難し災害を免れた村人たちは、男に深く感謝したという――
ロックハートはその話を聞いた時、素直に感動した。『もっと周りの人々に自慢するべきだ、君はもっと有名になれる』そう助言したが、男は『そんなものに興味はない』と笑い、バタービールを飲み干すだけだった。
ロックハートは全くもって理解出来なかった。こんなに輝かしい功績を有効活用しないなんて。宝の持ち腐れも良いところだ。――私なら。ロックハートは懐の杖をギュッと握り締めた。私なら、もっと上手く使える。ああ、喉から手が出るほど、その経験が欲しい。もしこの男ではなく私が、村人を救っていたら。――その時、ロックハートの心に悪魔が囁いた。
ロックハートは男と交友を深め、しばしば一緒に飲む仲になった。その一方で、彼は自分の能力を『忘却術』だけに一点集中させた。血の滲むような努力の末、彼は『忘却術』を――ただ忘却させるのではなく、人の記憶を丸ごと抜き取り、奪い取る――といった、より高度なものへと昇華させた。奪い取った記憶は、ロックハートの心の世界で、好きなだけ眺める事が出来た。
そして、一年後。ロックハートは男を呼び出し、酒を飲ませて酔わせ、油断した時を見計らって、泣き妖怪バンシーの記憶を盗み取った。そして盗んだ記憶を元に本を書き、『自分の経験である』と偽って、魔法界でも著名な出版社に提出した。出版社は大喜びで受け取り、本として出すや否や、イギリスの魔法界で大ヒットした。
こうしてロックハートは一躍有名人となり、幸福な気分にどっぷり漬かることが出来た。記憶を奪われた友人の行方がどうなったかなど、気にもならなかった。これに味を占めたロックハートは次々と同じ手法で新作を出し、その度にますます知名度を高めていった。母親は本を抱き締め『やっぱり私の息子は特別だわ』と喜んだ。しかし二人の姉は冷たくせせら笑うだけだった。――彼女たちは、ロックハートの本質を見抜いていたのだ。
ロックハート自身も、全く良心に欠けていたわけではない。何度もやめようと思った。しかし『もうこれっきりにしよう』と決意を固め、新作を出す度に、魔法界中の人々が自分を偉大な魔法使いだと認め、ますます熱狂的に誉めそやす。たちまち彼の決意は消え去り、少しでも早くまたその快感を得るために、ロックハートは新たな犠牲者を求めた。
そうしながら、ロックハートの心は少しずつ腐っていった。――母親も他の人々も、本当の自分を認めているわけではない。『盗んだ記憶があるからこそ、特別でいれるのだ』。そして『特別』でいなければ、誰も平凡な自分に関心を抱かない。母親も愛してくれない。だからこそ彼は、もう後戻りなど出来なかった。ロックハートは更なる名声や名誉を求め、人知れず犯罪を重ね続けた。
――だが、ロックハートは気づかなかった。口ばかりが達者で、優秀な魔法戦士に相応しい行動が伴わない彼の存在を、疑問に思う者が徐々に増え始めている、という事を。
☆
さてイギリスはスコットランドを遠く離れ、ウィルトシャー地方にある、なだらかな丘の上に建つマルフォイ邸では。客人として招かれたロックハートが、当主のルシウスと共に昼食を楽しんでいた。
美しい銀の装飾皿に盛り付けられた、ローストビーフとヨークシャープティングに舌鼓を打ちながら、ロックハートはルシウスに求められるままに、自らの英雄譚を話し続けた。
去年、危うく”秘密の部屋”の”継承者”と決闘されかけ、這う這うの体でホグワーツから逃げ出したロックハートは、性懲りもなく次なるターゲットを探し、やがてダイアゴン横丁で見つけた。
――ワルデン・マクネア、魔法省で働く危険動物の処刑人だ。マクネアが休暇中に偶然訪れたニュージーランドで、暴れ者のドラゴン(オーストラリア・ニュージーランド・オパール種)を羊と羊飼いから守ったという話は、ロックハートにとって非常に魅力的なものだった。だから彼は、マクネアから記憶を奪い取った。しかもそれはつい最近の事なので、まだ出版社にも出していない新ネタだ。
ロックハートが勿体ぶった口調でその話をすると、ルシウスは食事の手を止め、非常に興味深そうに聴き込んだ。――『やはりこの話をして良かった』そう思い、ロックハートは密かにほくそ笑んだ。ルシウス・マルフォイは大変な大金持ちであると同時に、魔法大臣に意見する事が出来るほどの有権者だ。そんな彼に気に入られる事は、自分にとってメリット以外の何物でもない。
ルシウスは自慢げに鼻を鳴らすロックハートに、愛想の良い微笑を浮かべながら、指をパチンと鳴らしてこう言った。
「いや、いや。実に素晴らしい。そして興味深い。
次の瞬間、ロックハートはナイフとフォークを取り落した。不意に食堂室のドアが開き、彼が記憶を奪った筈の――マクネアが出て来たからだ。
「お前が奪った、俺の記憶はニセモノだよ。ペテン師め!」
マクネアは大柄でがっちりとした体を鷹揚に動かしながら、ロックハートを見てニヤッと悪辣に笑った。
――”はめられた”!ロックハートはやっと気づいたが、もう何もかもが遅かった。身を守ろうと振り上げた杖は、マクネアに手首ごと捻り上げられ、没収されてしまった。情けない悲鳴を上げるロックハートを見物しながら、ルシウスは優雅な動作で葡萄酒を飲んだ。
「どうやら君の悪事にも、ようやくツケを払う時が来たようだな。君に疑問を持つ者は、意外に多くいるのだよ。言い訳をしても結構。なに、君を魔法省へ突き出し、つぶさに調べれば分かる事だ。
何なら真実薬を飲ませてやってもいい。すぐにそれを用意できる優秀な知り合いが、私に一人いてね」
ロックハートは、目の前が真っ暗になった。今までコツコツと積み上げて来たものが、たった一瞬で跡形もなく吹き飛ばされてしまう。母親がヒステリックに自分を罵り、二人の姉がさも愉快そうに高笑いし、魔法界中の人々が自分を嘲って石を投げる光景が、ロックハートの頭の中を埋め尽くした。何も支えるものがなく、奈落の底へ転げ落ちていく気持ちだった。
「助かりたいかね、ロックハート?アズカバンへ行きたくないか?」
――ルシウスのその言葉は、今のロックハートにとって天使の囁きに聞こえた。ロックハートは赤子のように泣きじゃくりながら、何度も何度も頷いた。するとルシウスは、分厚い羊皮紙の束を投げてよこした。
「ならばこの通りに本を書き、出版しろ。君が途中で逃げ出した、ホグワーツの”秘密の部屋”に関する真実が記してある」
ロックハートはおずおずと羊皮紙を取り上げ、文章に目を通した。そして、驚愕に息を詰まらせた。ストーリーの主人公はもちろん自分だが、ヴィラン役がいつも通りの怪物や妖怪などではなく――”ある一人の女生徒”だったからだ。
そうだ、”あの子”だ。ロックハートは女生徒のスペルを指先でなぞりながら、去年の記憶を呼び起こした。自分の熱烈なファンであるハーマイオニー・グレンジャーの後ろにいた、大人しい女の子だ。有名人のハリーポッター、お調子者のロン・ウィーズリー、優秀なハーマイオニー・グレンジャーの影に隠れたような子だった。彼の体は、不安に戦慄いた。
――ロックハートは他者の記憶を奪い取る時、いつも緻密な情報操作を怠らない。なるべく社会交流の少なそうな人物をターゲットに選んだし、ターゲットと仲の良い人物がその記憶に関わっている場合は『忘却術』を掛けたりもした。可能な限り痕跡を消し、辻褄を合わせておかなければ、後でどんなトラブルが起きるか分からないからだ。
しかし今回の話は、全くのイレギュラーだ。ヴィラン役の女の子が、もし本当に”秘密の部屋”事件に関わっているとするなら、ロックハートがこの件とは一切無関係な事を知っている筈だ。そして『この話はデタラメだ』と訴えられたら、一巻の終わりだ。最悪の場合、このストーリー自体が全くのでっち上げという可能性も考えられる。どちらにせよ、その時点で自分はおしまいだ。
ロックハートは自分の保身に躍起になり、不用心に口を開いた。
「この話は、本当に真実なのか?」
――その瞬間、凄まじい衝撃がロックハートを襲った。
いつの間にか背後に回ったマクネアが、ロックハートの後頭部をがっしりと掴み、テーブル上に渾身の力で叩きつけたのだ。彼の意識がバチッと音を立てて消え、やがてじんわりと回復していく。ゆっくりと明瞭になっていくロックハートの視界は、どろりとした赤い色に染まっていた。ご自慢の形の良い額がパックリと裂け、そこから流れ出た血がテーブルクロスを汚している。マクネアがさらに力を加えると、彼の頭蓋骨はギシギシと嫌な音を立てて軋んだ。
「私は」ルシウスはゆっくりと口を開いた。
「君に、質問する事を許したかね?」
ロックハートは恐怖におののき、声にならない声で何度もルシウスに謝罪した。マクネアの手から解放されても、ロックハートは真冬の海に沈められたかのような、激しい震えを止める事が出来なかった。
――ここで逆らえば、間違いなく自分は殺される。人を殺す事に躊躇のない優秀な闇の魔法使い二名を相手にするには、『忘却術』しか能のないロックハートは余りに無力だった。血で汚れたテーブルクロスを、屋敷しもべ妖精に片付けさせると、ルシウスはクリスタル製のグラスを三つとウィスキーの大瓶を用意させた。それから三つのグラスに、ウィスキーを注いだ。
「では君の新作を祝って、乾杯するとしよう。君の好きなオグデンのオールド・ファイヤだ。味わって飲みたまえ」
ロックハートは乾いた笑みを張り付けながら、グラスに震える口を付けた。いつも美味しく飲んでいるはずのウィスキーは、血の味がした。