ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中に少し残酷な表現があります。苦手な方はご注意ください。
1/16 文章を微調整致しました。



Act4.ディメンター

 翌朝、イリスは穏やかな気持ちで目が覚めた。足元で眠っているクルックシャンクスに布団をかけてやってから、身支度を済ませる。最後の仕上げに香水を一吹きし、朝食を取るために階段を降りた。

 

 一階には、パンやソーセージの焼ける芳ばしい香りが立ち込めている。バーの端っこでは、アーサーが眉根を寄せながら『日刊予言者新聞』の一面記事を読んでいた。その表情からすると、まだブラックは捕まっていないようだ。

 

「ねえ、イリス!こっちよ」

 

 ハーマイオニーの明るい声がして、イリスは視線を向けた。――モリー夫人が窓際の方の席で、ハーマイオニーとジニーと一緒にクスクス笑っている。

 

「あなたもいらっしゃいな」

 

 モリー夫人が屈託なく笑いかけ、イリスを招き寄せる。――モリー夫人は、自分が娘の頃に作った『愛の妙薬』の話を聞かせている最中のようだった。『愛の妙薬』、つまり惚れ薬。尊敬するスネイプ先生が、決して教えてくれないだろうジャンルだ。イリスも興味を惹かれ、ハーマイオニー達と共に焼き立てのクッキーを摘まみながら、聴き込んだ。

 

「恋する気持ちは、時に人を暴走させるのよ。私が、あの人の愛を何とか自分へ向けるために、こっそり『愛の妙薬』入りのケーキを食べさせちゃうくらいにね。ケーキ作戦は大成功、彼はたちまち私に夢中になった。最初はとても幸せだったわ。

 ・・・でもね、作戦は三日も持たなかった。私は気づいてしまったの。薬が効いている間は、確かにあの人は私を愛してくれる。でもそれは、結局”仮初めの愛”。空しいだけなんだってね」

「そんなことはないわ」

 

 不意に、小さく強張った声が、和やかな空気を凍らせた。――ジニーの声だ。イリスが驚いて彼女の方を見ると、心なしかその瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

 

「薬でも何でも、本当にその人が私だけを愛してくれるのなら。私・・・」

 

 ジニーはそこで言葉を詰まらせ、隣に座るイリスをキッと睨んだ。乱暴に席を立ち上がると、鼻をすすりながら洗面所の方へ駆けて行く。

 

「まあ、どうしたのかしら。ジニー!」

 

 モリーは慌てて席を立ち、ジニーの跡を追った。――そして後には、一連の出来事にただ茫然とするイリスと、神妙な表情を浮かべるハーマイオニーのみが残された。

 

 

 どうして、ジニーは私を睨んだんだろう?イリスがその事を必死に考えていると、件のジニーがモリー夫人と共に食卓へ戻って来た。しかし、イリスがジニーに声を掛けようと近づいた途端、彼女は露骨に目を逸らしながら、ロンのところへ行ってしまった。――まるでイリスをわざを避けているかのように。

 

 イリスの頭上に、ますます大きなクエスチョンマークが浮かんだ。『愛の妙薬』の話を聞くまでは、至って普通に仲良くしていたはずなのに。

 

 単純な性格のイリスは、他者の感情の機微を読み取ることが苦手だった。――つまり、ジニーの隠された恋心と嫉妬を察する事など出来る訳がなかった。

 

 困り果てたイリスは、ハーマイオニーに相談してみようかとも思ったが、やがて始まった――ホグワーツへの旅立ちのごたごた騒ぎで、それどころではなくなってしまった。『漏れ鍋』の狭い階段に苦労しながら、全員分のトランクを汗だくで運び出して、出口近くに積み上げたり、みんなのフクロウやら猫やらが入った籠をそのまた上に乗せたりと、何やかやでずっと忙しかったのだ。

 

 山のような荷物は――アーサー曰く、魔法省からのご厚意で出してもらった――古めかしい車二台のトランクに、ちゃんと収まった。みんなはそれぞれの車に乗り込んで、キングズクロス駅へ向かった。車は渋滞の中や、自転車がやっと通り抜けられる位の狭い道をすいすいと進み、二十分程度の余裕を残して駅に到着した。

 

 イリスはいつもの通り、イオと一緒に9と4分の3番線の固い金属の障壁を通り抜け、ホームに到達した。紅色の蒸気機関車がモクモクと白い煙を吐いている。その下で、ホーム一杯に溢れた魔女や魔法使いが、子供たちを愛情を込めて見送り、汽車に乗せていた。

 

「あ、ペネロピーがいる!」パーシーが叫んだ。

 

 胸に輝く「首席」のバッジを愛するガールフレンドが絶対見逃さないようにと、ふんぞり返って歩くパーシーを見て、イリスとジニーはパッと目が合うや否や、同時に吹き出した。――イリスは心底ホッとした。明るくチャーミングな、いつものジニーだ。きっと朝の事も、私の勘違いだったんだろう。ハーミーに相談しなくて良かった。イリスは浅はかな自分を恥じ、頬を少し赤く染めた。

 

「行こう、ジニー。空いてるコンパートメント、まだあるかな」

 

 ジニーを促し、汽車へ向かおうとするイリスの服の袖を、誰かがツンと引っ張った。イリスは思わず歩みを止めて振り返り、息を飲んだ。

 

 美しい鳶色の目を潤ませたジニーが、切なく悲しい表情を湛えて、イリスを一心に見つめている。――まただ。あの朝の時と同じ顔をしている。勘違いなんかじゃない、やっぱり私がジニーを傷つけるような事をしてしまったんだ。イリスは強い罪悪感に苛まれ、たまらず尋ねた。

 

「ゴメン、ジニー。私、何か・・・」

「・・・イリス。あのね」ジニーはイリスの言葉を途中で遮り、苦痛に喘ぐように言った。

「あなたとハリーは・・・」

「ジニー!イリス!早くこっちへいらっしゃい!」

 

 しかしモリー夫人の大きな呼び声が、ジニーの言葉の上にもろに(・・・)被さってしまったため、結局イリスは話を少しも聞き取る事が出来なかった。ジニーは気まずい表情でイリスから顔を逸らし、母の下へ駆けていく。――ジニーは何を伝えたかったんだろう。イリスもモヤモヤした気持ちを抱えながら、彼女の後を付いていくしかなかった。

 

 モリーはまず子供たち全員に、それからハーマイオニー、ハリー、イリスの順に、愛情を込めたキスをした。暖かな陽だまりのような匂いがして、イリスは幸せで満たされた気持ちになった。

 

「イリス。今学期は絶対に、人気のない場所に行ったり、一人ぽっちで行動しちゃ駄目よ。いいこと?」

 

 モリーは潤んだ目を何度も瞬かせながら、そう言い聞かせた。続いて彼女が、みんなのために作った昼食用のサンドイッチを配り始めた時、イオがイリスを呼んだ。イオは柱の陰にイリスを誘った。――視界の端で、ハリーがアーサーにどこかへ連れて行かれる様子が、チラッと垣間見えた。イオは真剣な表情で唇を舐めてから、イリスの小さな肩に両手を置き、言った。

 

「お前が出発する前に、どうしても言っておかなければならない事があるんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、イリスの頭の中に、あの夜――扉の向こうで不安に泣きじゃくっていたイオの声がこだました。きっとイオが伝えたいのは”その事”に違いない。正直に事の次第――ハリーと一緒に盗み聞きしてしまった事――を報告すべきか迷って、イリスはイオの目をじっと見た。――おばさんは私の全てを受け入れてくれた。彼女に隠し事はなしだ。イリスは意を決して、口を開いた。

 

「ブラックと”死喰い人”が、私を狙ってるって事?」

「お前、どうしてそれを・・・」

 

 イオは驚きを通り越して、一瞬絶句してしまった。焦って早口になりながらも、イリスは言葉を続ける。

 

「おばさん、ごめんなさい。あの、おばさんたちが昨日の夜、話してるのを聞いちゃったの。・・・その、ハリーと一緒に」

 

 イオは観念したように目を深く閉じた後、特大のため息を一つ吐いた。それからイリスを気遣わしげに、じっと眺める。

 

「できればお前には、もうちょっとオブラートに包んで言いたかったんだがな。・・・怖いか、イリス?」

 

 しかし、イリスは首を横に振った。――漠然とした恐怖や不安な気持ちは、あの夜に感じたイオの愛情が、きれいさっぱり消し去ってくれていた。

 

「ううん。怖くない。だって、私、無敵のイオおばさんの子供(・・)だもん」

 

 ――しまった。イリスはハッと小さく息を飲んだ。”姪っ子”だと言おうとしたのに、自分でもどうしてだか分からないが、”子供”だと言ってしまったのだ。けれどもイリスは今更、それを言い直そうという気にもなれなかった。

 

 対するイオは大きく目を見張り、イリスを食い入るように見つめた。そして、どうして良いのか分からず、気まずそうに固まっているイリスを、潰れる程きつく抱き締めた。

 

「そうだとも。ああ、そうだとも。お前はわたしの自慢の娘だ。たとえ傍にいなくとも、わたしはいつもお前の心の中にいる。わたしだけじゃない。ネーレウスもエルサも虹蛇様も、みんな見守ってる。お前は、決して一人じゃないんだ」

 

 『きっとこの瞬間が、今まで生きてきた中で一番幸福なものだ』、イリスはそう確信した。イオが自分を”自慢の娘”だと言ってくれた、その事をイリスは一生忘れないだろう。体中が幸せな感情で満たされて心地良く、イリスはそのまま風船みたいに浮き上がって、フワフワと世界中のどこまででも飛んでいけるような気がした。

 

 ――モリーが、羊飼いが群れを追うように、みんなを汽車の中へと追い込んでいる。イオはイリスの額にキスをして、汽車の中へ促した。汽車がシューッと煙を吐き、徐々に動き出す。イリスはみんなと一緒に窓から身を乗り出して、イオとウィーズリー夫妻に向かって、汽車がカーブして三人の姿が見えなくなるまで大きく手を振り続けた。

 

 

「四人だけで話したいことがあるんだ」

 

 汽車がスピードを上げ始めた時、ハリーはイリス、ハーマイオニー、ロンに向かって真剣な表情で言った。

 

「ジニー、どっかに行ってて」

「あら、ご挨拶ね」

 

 ロンがたまたま近くにいたジニーにそう言うと、彼女は当然の如く機嫌を損ね、ぷりぷりしながら離れて行った。その拍子に、さっきの事を思い出したイリスが「後でね、ジニー」と声を掛ける。しかし、彼女は振り返りも返事もしなかった。

 

 四人は誰もいないコンパートメントを探して、通路を歩いた。どこも一杯だったが、最後尾にただ一つ、空いたコンパートメントがあった。

 

 ――但し、先客が一人いる。男性が一人、窓側の席でぐっすり眠っていた。四人は驚く余りたじろいで、入り口で中の様子を注意深く確かめた。ホグワーツ特急はいつも生徒のために貸し切りとなっているため、食べ物をワゴンで売りに来る魔女の店員以外は、車中で大人を見た事がなかったのだ。

 

 見知らぬ客は、あちこち継ぎの当たった、かなりみすぼらしいローブを着ていた。疲れ果て、病を患っているようにも見える。おまけに、まだかなり若い筈なのに、鳶色の髪には沢山の白いものが混じっていた。

 

「この人、誰だと思う?」

 

 窓から一番遠い席を取り、静かに引き戸を閉め、四人がそれぞれの荷物を片付けて落ち着いた頃、ロンが声をひそめて聞いた。

 

「ルーピン先生」ハーマイオニーがすぐに応えた。

「どうして知ってるの?」イリスとハリーの声がハミングした。

「カバンに書いてあるわ」

 

 ハーマイオニーは澄まし顔で、男性の頭上にある荷物棚を指差した。男性の所有物であろう――くたびれた小振りのカバンが、きちんと繋ぎ合わせた紐でグルグル巻きになっている。そしてそのカバンの片隅には、ハーマイオニーの言葉通り、”R・J・ルーピン教授”と剥がれかけた文字が押してあった。

 

「何を教えてくださるのかな?」イリスが首を傾げ、向かいの席にいるルーピン先生の青白い顔を見て言った。

「決まってるじゃない、『闇の魔術に対する防衛術』よ。だって空いているのはそれしかないもの」

「ま、この人が教えられるならいいけどね」ロンは完全なるあきらめ口調だ。

「杖でチョンと突っついただけでも倒れそうじゃないか?・・・ところで、ハリー、何の話なんだい?」

 

 ハリーは主としてロンとハーマイオニーに、先日のウィーズリー夫妻とイオの話や、先程アーサーが警告した事も全て、話して聴かせた。――イリスは、ホームでの話を聞いて納得した。やはり、アーサーもイオと同じ忠告を、ハリーにしたらしい。全部を聞き終わると、ロンは愕然とした様子で口をポッカリ開け、ハーマイオニーは両手で口を押えていた。やがてハーマイオニーは手を離し、掠れた声でこう言った。

 

「ああ、何て事なの。本当に気を付けなきゃ。二人共、自分からわざわざトラブルに飛び込んで行ったりしないでしょうね?」

「僕、自分から飛び込んで行ったりするもんか」ハリーはじれったそうに言った。

「いつもトラブルの方が飛び込んでくるんだ」

「その通りだよ、ハリー」

 

 イリスはハリーの言葉に、心から同意せざるを得なかった。『自分達を取り巻く環境や人々、出生のせいで、何かとトラブルに巻き込まれやすい』という特殊な境遇を持つ二人は、強い連帯感を感じ、示し合わせたように握った拳をコツンと合わせる。その様子を呆れたように見守っていたロンが、不意に口を開いた。

 

「何の音だろう?」

 

 三人は思わず息を潜め、耳を聳てた。口笛を吹くような音が、微かに聴こえてくる。四人はコンパートメント内を注意深く探し回り、やがて音の元凶を二つに絞った。――イリスのカバンとハリーのトランクからだ。

 

 案の定、それは”かくれん防止器”だった。今や二つのそれが、プレゼンターであるロンの手の上で激しく回転し、眩しい程に輝いている。

 

「ねえ、それってオンオフに出来るスイッチとかないの?」

 ハーマイオニーが、ロンの持つ”かくれん防止器”に、興味深そうに手を伸ばしながら言った。

「”すいっち”?よくわかんないけど、とりあえずハッキリしてるのは、これが安物の不良品だってことさ」

≪フン。安物の不良品なのは、お前のオツムだろ≫

 

 小さな籠に押し込められたクルックシャンクスが、間髪入れずに毒を吐いたので、イリスは思わず肩を竦めた。どうやら、ロンの飼っているスキャバーズだけでなく、ロン自身も余り好いてはいないらしい。

 

「とりあえず、何とかしなきゃ。じゃないと、先生が目を覚ましちゃうよ」とハリー。

 

 ロンは二つの”かくれん防止器”を、ハーマイオニーが機転を利かせて差し出した分厚い皮袋に詰め、紐でギュウギュウに縛って、ハリーのトランクの一番奥に入れて蓋を締めた。

 

「これでよし。僕、ホグズミードであれを修理してもらってくるよ」ロンが息をついて、席に座り直した。

「『ダービシュ・アンド・バングズ』の店が、魔法仕掛けの機械とかに詳しいんだって。今朝フレッドとジョージが教えてくれたんだ」

「ホグズミードのこと、よく知ってるの?」

 

 ”ホグズミード”とは、端から端まで魔法族だけが住んでいると言われる小さな村だ。今年三年生になったイリス達は、保護者のサイン入りの許可証を提出すれば、ホグワーツ城の近辺にあるその村へ、週末に何回か遊びに行ける事になっていた。ハーマイオニーが好奇心に目を輝かせ、身を乗り出した。

 

「イギリスで唯一の完全にマグルなしの村だって、本で読んだけど」

「ああ、そうだと思うよ」ロンは、そんな事などどうでもいい、といった様子だった。

「僕、『ハニーデュークス』に行ってみたいだけさ!」

「ねえ、それって何?」

 

 直訳すると『 Honey Dukes(はちみつ公爵) 』だろうか。何だか美味しそうな名前だ。単純に興味をそそられて、イリスが尋ねた。

 

「お菓子屋さ」ロンは夢見る表情で、舌なめずりした。

「なーんでもあるんだ。激辛ペッパー・・・食べると口から煙が出るんだ。それにイチゴムースやクリームがいっぱい詰まってる大粒のふっくらチョコレート・・・それから砂糖羽根ペン、授業中にこれを舐めていたって、次に何を書こうか考えているみたいに見えるんだ」

「大粒のふっくらチョコレート・・・砂糖羽根ペン・・・」

 

 何て素晴らしい響きなんだろう。日本で生まれ育ったために”食べる事”が人生における喜びの大半を占めているイリスも、うっとりとロンの言葉を繰り返した。

 

「それに蛙チョコも、『ハニーデュークス』で買ったやつの方が、当たりがいいんだって。僕、奮発して五個は買うかな。君も買うだろ?」

「うん!」イリスは元気よく頷いた。

 

 ハーマイオニーが諦めずに『魔法の史跡』という本で読んだ”ホグズミード村に関する史実”をロンに語り続けるが、彼の口から出るのは『ハニーデュークス』のお菓子情報だけだった。やがてハーマイオニーは、ロンに話を聞いてもらう事を諦め、浮かない表情をしているハリーに向き直った。

 

「ちょっと学校を離れて、ホグズミードを探検するのも素敵じゃない?」

「だろうね」ハリーは沈んだ声で言った。

「見てきたら、僕に知らせてくれなくちゃ」

「え?」三人の素っ頓狂な声がハミングした。

「僕、行けないんだ。ダーズリーおじさんが許可証にサインしてくれなかったし、ファッジ大臣にも頼んでみたけど・・・ダメだった」

 

 イリスはショックの余り、口をポカンと開けた。――今年の週末、ホグズミードでみんな仲良く遊ぶのを本当に楽しみにしていたのに。けれど、この四人の中で一番残念に思っているのは、他でもないハリーの筈だ。イリスが労しげにハリーを見ると、彼は力なく笑ってみせ、モリー夫人からもらったサンドイッチをモソモソ口に入れた。

 

「そりゃないぜ、ハリー!マクゴナガルがきっと、許可してくれるさ。じゃなきゃ、フレッドとジョージに聞けばいい。あの二人なら、城から抜け出す”秘密の道”を全部知って・・・」

「ロン!無責任なこと言わないで!ブラックが捕まっていないのに、ハリーはこっそり城から抜け出すべきじゃないわ」

 すかさずハーマイオニーの厳しい声が飛び、ロンの言葉を遮った。

「ウン。まあ、マクゴナガル先生に頼んでも、きっと先生はそう言うだろうね」とハリー。

≪イリス。お取込み中すまないが、おれを籠から出してくれるように頼んでくれないか≫

 

 不意に籠の中から、クルックシャンクスの落ち着き払った声がして、イリスは何も考えずに、怒り心頭中のハーマイオニーに提言した。

 

「ハーミー、クルックシャンクスが出たいって」

 

 途端に柔らかな笑顔になったハーマイオニーが喜んで籠を開け、愛する猫を抱き上げる。ハリーを一生懸命説得していたロンが、その光景を見るや否や、狼狽して叫んだ。

 

「おいっ!そいつを出すな!」

 

 ――だが、時すでに遅し。何時の間にかロンの内ポケットから抜け出し、窓の桟を伝って、斜め向かいに座るイリスの膝に乗っかろうとしていたスキャバーズは、チュウッと叫んで猛スピードで駆け戻り、元の場所へと治まった。そのわずか数秒後に、飼い主の腕からスルンと抜け出したクルックシャンクスがロンの膝に飛び乗った。さらに、内ポケットに前足を伸ばそうとしたクルックシャンクスを、ロンが怒って払い落とす。

 

「ロン、やめてよ!」ハーマイオニーが怒鳴った。

「そうしなきゃ、スキャバーズが喰われてたよ!イリス、君も何でこいつのいう事なんか・・・!」

≪イリス、そいつは放っとけ≫

 クルックシャンクスが、空いている席に飛び乗りながら、ロンを鼻先で指した。

≪あのネズミもどきから、とても邪悪な気配がした。おれが助けなきゃ、あいつはお前のローブに潜り込んでた≫

 

 イリスは思わずゾッとして、全身が粟立った。――『漏れ鍋』で見た、恐ろしい夢を思い出したのだ。

 

 あの悪夢の影響で、イリスは知らず知らずのうちに――スキャバーズに警戒心を抱くようになっていた。スキャバーズに対する得体の知れない恐怖心と、まだ『ロンの愛するペットのネズミだ』と信じていたい、と言う思いが拮抗し、イリスが慎重に言葉を選んでいたその時――ルーピン先生がもぞもぞ動いた。四人はギクリとしてルーピンを見たが、彼は頭を反対側に向けただけで、わずかに口を開けて眠り続けた。

 

 

 ホグワーツ特急は順調に北へと走り、外にはだんだん雲が厚く垂れ込めてきて、車窓には一段と暗く、荒涼とした風景が広がって行った。コンパートメントの外側の通路では、生徒が追いかけっこをして往ったり来たりして、賑やかだ。クルックシャンクスは優雅に箱座りを決め込んだ後、ぺしゃんこの顔をロンへ、黄色い目をロンの内ポケット――の中にいるスキャバーズ――へと向けていた。

 

 一時になると、ふくよかな体つきの魔女が食べ物を積んだカートを押して、コンパートメントのドア前へやって来た。その際、『ルーピン先生を起こすべきかどうか』で一悶着あったが、魔女が「必要な時は、いつでも一番前の車両にいる」と教えてくれたので、結局起こさない事に決めた。みんなは銘々自分の好きなお菓子を買い、ハリーが買った大きな魔女鍋スポンジケーキを一山、切り分けて食べた。

 

 昼下がりになり、車窓から見える丘陵風景が霞むほどの雨が降り始めた時、――事件は起きた。不意に通路で足音がして、ドアを開けたのは――スリザリン寮の同学年であるドラコ・マルフォイと、彼の腰巾着であるビンセント・クラッブ、グレゴリー・ゴイルだったのだ。

 

 イリスは、持っていた蛙チョコカードをバラバラと取り落とした。ハリーもロンもハーマイオニーも、息を飲んで目を見張り、一様に静まり返っている。

 

 ――ドラコの冷たい色をした目は、イリスを見た途端、狼狽したように大きく揺らいだ。イリスも何も言えず、呼吸する事すら忘れて、彼を見つめ返す。

 

 その時、イリスの心の中で色んな思いがせめぎ合い――やがて一つの希望的観測を見出した。こんなにじっと私を見つめている。もしかしたら、私の忘却術は不完全だったのかも。そして彼は、何かの拍子に記憶を取り戻したのかもしれない、と。イリスの心が期待に震え、わななく唇が今にも微笑みそうになった。

 

 一方のドラコは、イリスに目を留めた瞬間、強烈な違和感に打ちのめされ、暫くの間言葉を失う羽目になった。

 

 イリスがその長い黒髪を、流れるままにしているのも――その体から、ふわりと優しい百合の香りがするのも――彼女の隣に、ハリー・ポッターが寄り添っているのも――全てが違う。とにかく全部が違うんだ、と強く感じた。そして何より、気に食わない知人でしかない筈のイリスをじっと見ていると――全くもって発生原因など不明だが――深い悲しみや苦しみ、絶望が、じわじわと心に染み出してきて、居てもたってもいられなくなってしまうのだ。

 

 ――ドラコの額を冷汗が伝い落ちる。今まではこいつを見ても、こんな不快な気持ちにはならなかったはずなのに。彼は一刻も早くいつもの調子に戻るために、冷たいせせら笑いをして、嫌味ったらしく気取った口調で言い放った。

 

「へえ、誰かと思えば。ポッター、ポッティーのいかれポンチと、ウイーズリー、ウィーゼルのコソコソ君じゃないか!」

 

 クラッブとゴイルは、チラッと一瞬イリスを窺い見た後、示し合わせたようにトロール並みのアホ笑いをした。

 

「おまけに、”血を裏切る者”と”穢れた血”までいる。フン、ここだけ空気が淀んでいるな」

 

 しかし、いつもの調子で嫌味を言っているというのに、四人は突っかかってくるどころか――葬式に参加しているような暗い顔でドラコを見つめるばかりだった。ドラコはその反応をとてつもなく不気味に感じて狼狽し、救いを求めるように視線を彷徨わせる。やがて彼は、窓際の席にいるルーピン先生に目を留めた。

 

「そいつは誰だ?」

「・・・新しい先生だ」いち早く混乱から立ち直ったハリーが答えた。

「マルフォイ、今何て言ったんだ?」

 

 ドラコは面白くなさそうに目を細めた。先生の鼻先で喧嘩を吹っかける程、馬鹿ではない。彼は苦々し気にクラッブとゴイルを促し、姿を消した。

 

 ――嵐が去った後、三人は大きなため息を零した。

 

「ホントに危なかったよ。僕、もう少しで『ごきげんよう、マイベストフレンド』って言っちゃうところだった」ロンが肩を撫で下ろした。

「仕方がない事よ。だって、マルフォイのためなんだもの。直にきっと・・・」

 

 ハーマイオニーは一旦そこで言葉を区切り、チラッと気遣わし気に俯いたままのイリスを見て、「慣れるわ」と自信なさげに呟いた。

 

「イリス。大丈夫かい?」

 

 見かねたハリーがイリスの肩にそっと手を置こうとするが、彼女はそれより早く席を立って、窓際の席へと避難した。――今優しい事をされたら、赤ちゃんみたいに泣きじゃくってしまう確信があったからだ。

 

 ――『君は、耐えられるのか?』イリスの頭の中に、かつてのスネイプ先生の言葉が蘇った。

 

 イリスの都合の良い希望は無残に打ち砕かれ、潰えた。窓硝子をそっと指先で撫でると、雨はより一層その激しさを増していく。硝子の外側に雨粒がいくつも叩きつけられ、その影がイリスの顔に映り、涙のように零れ落ちていった。

 

 『迷いそうになった時は、自分の胸に手を当てて、心に聞いてごらん。そして君の心の声に、素直に従いなさい。それはきっと”正しい事”だ』

 

 ふとアーサーの助言が、イリスの心に、神託のように鳴り響いた。――そうだ。イリスはすぐさま胸に手を当て、心の声を探した。いや、探さなくたって分かる。これは”正しい事”だ。だから、私は耐えなくちゃ。

 

 ――そうだよね?イリスは自分の心に問い掛けた。けれども、心は何時までも沈黙したままで、答えを得る事は出来なかった。 

 

 

 汽車は、さらに北へと進んでいく。窓の外は、雨足が微かに光るだけの灰色一色だ。やがてその色も墨色へと変わり、通路と荷物棚にポッとランプが灯った。汽車はガタゴトと忙しなく揺れ、雨は途切れる事なく降り注ぎ、風はビュウビュウと唸りをあげた。それでもルーピン先生は、身動き一つせず眠っている。

 

「もう着く頃だ」

 

 ロンが空腹を訴える腹を摩りながら、身を乗り出し、ルーピン先生の体越しに、もう真っ暗になっている窓の外を見た。――不意に、汽車が速度を落とし始めた。

 

「調子いいぞ」ロンが嬉しそうに言った。

「まだ着かないはずよ」ハーマイオニーが時計を見ながら答えた。

「じゃあ、何で止まるんだ?」ハリーが首を傾げた。

 

 汽車はますます速度を落とした。ピストンの音が弱くなり、窓を打つ雨風の音が一層激しく聴こえてくる。やがて汽車はガクンと止まった。どこか遠くの方で、ドサリ、ドシン、と荷物棚からトランクの落ちる音がした。そして、窓際でぼんやり物思いに耽っていたイリスが我に返り、慌てて立ち上がろうとした瞬間に――車内の明かりが一斉に消え、辺りは真っ暗闇になってしまった。

 

「イリス、大丈夫かい?・・・アイタッ!」

「わあっ!ゴメン、ハリー!」

 

 イリスは、彼女の身を案じる余り、手探りで近づこうとしていたハリーと正面衝突し、二人仲良く席へ倒れ込んでしまった。

 

「故障しちゃったのかなあ?」ロンの間延びした声がする。

 

 キュッキュッと何かを引っ掻くような音がした。何とか窓際までやって来たロンが、服の袖で窓の曇りをまるく拭き、そこから外の様子を眺めている。

 

「何だかあっちで動いてる。誰かが乗り込んでくるみたいだ」ロンが目を細めながら言った。

 

 イリスは暗闇の中で、一人首を傾げた。――誰が乗車してきたんだろう。もしかして乗り過ごしてしまった学生達だろうか。しかし、今までそんな事は無かったはずだ。

 

 急にコンパートメントの扉が開く音がして、何か重くて大きなものがドサッと倒れ込んでくる音と振動がした。

 

「ごめんね!」ネビルの声だ。

「ごめん!何がどうなったかわかる?」

 

 ネビルは、ハリーとイリスに手探りで助け起こされた後、空いている――と思っていた――席に腰掛けようとして、先客のクルックシャンクスに思いっきり引っ掻かれ、悲鳴を上げていた。ハーマイオニーは機転を利かせ、運転士のところまで行って現状を確認してくると言い、ドアを開けようとした。しかし、タイミング悪くやって来た”新たな登場人物”と思い切りぶつかって、仲良く倒れ込んでしまう羽目になった。

 

「大丈夫、ハーミー?」イリスが心配そうに叫んだ。

「平気よ。あなた、だあれ?」

「じ、ジニーよ。ロンはどこ?」ジニーの不安そうな声が聴こえた。

「ジニー!僕はここだ。こっちへ来いよ!・・・イテッ!コラ、クルックシャンクス!やめろっ!」ロンは色々と忙しい様子だった。

「静かに!」

 

 突然、聞き覚えのないしわがれ声がした。――ルーピン先生が、ついに目を覚ましたらしい。先生のいるであろう奥の方で、何かゴソゴソと動く音がした。みんなが押し黙り、息をひそめる。

 

 やがて柔らかなカチリという音がして、灯りが揺らめき、コンパートメント内を照らした。ルーピン先生が、掌一杯にオレンジ色の炎を持っている。炎が、先生の疲れ切って覇気のない灰色の顔を照らしていた。けれども、その目だけは油断なく周囲を警戒している。

 

「動かないで」

 

 ルーピンはそう言うと、ゆっくり立ち上がり、掌の灯りを前に突き出し、ドアに向かって歩き出した。しかし彼が到達する前に、ドアが外側からゆっくりと開いた。

 

 炎に照らし出され、入り口に立っていたのは――マントを着た、天井までも届きそうな”黒い影”だった。顔はすっぽりと頭巾で覆われていて、見る事が出来ない。マントから突き出している手は、灰白色に冷たく光り、汚らわしいかさぶたに覆われている。みんな凍り付いたようにピクリとも動けず、その影を見つめる事しか出来なかった。

 

 やがて、頭巾に覆われた得体の知れない何者かが、ガラガラと不快な音を立てながら、ゆっくりと長く長く息を吸い込んだ。――まるでその周囲から、空気以外の”何か”を吸い込もうとしているかのように。

 

 たちまち、ゾーッとするような冷気が、全員を襲った。イリスは、急に呼吸が出来なくなった。パニックになって足掻こうとするが、イリスの皮膚の下、深く潜り込んだ強烈な寒気が――指先一本動かす事さえ許してくれない。そうこうしているうちに、冷気はイリスの胸の中を満たし、そのもっと奥を冒していく。

 

 真冬の海の底に沈められたかのように、耳の中でゴボゴボと水の音がする。下へ下へ、奈落の底へと引き込まれていく――

 

 ――真っ暗闇の中、かすかな息遣いが聴こえた。弱り果て、今にも途絶えそうな程の。『愛してる』――ドラコの声だ。イリスに、愛の言葉を囁いている。力なく座り込んだ石の床は、全ての熱を根こそぎ奪っていきそうな程、冷たかった。両手で抱き締めているドラコの体が、みるみるうちに温もりを失っていく。血が止まらない。ドクドクと彼の体から流れ出し、イリスの腹部や膝を濡らしていく。――嫌だ、死なないで・・・。イリスは滅茶苦茶にもがいたが、指先一本動かす事ができない。濃い暗闇が、イリスの周囲に渦巻いている。何も見えない。――ああ、死んでしまう。血が、血が止まらない。私を置いて、どこかへ行かないで、死なないで、死んでは駄目・・・――

 

「イリス、しっかりして!」誰かが、イリスの頬を叩いている。

 

 ――イリスは、薄らと目を開けた。床が、ガタゴトと揺れている。

 

 汽車が再び動き出し、車内はまた明るくなっていた。イリスは自分でも知らないうちに、座席から床に滑り落ちたらしい。ぼんやりとした意識の中で、ハリーも同じように床に座り込み、ロンがその脇に屈んで懸命に介抱しているのが見えた。

 

 ハーマイオニーがイリスの前髪を掻き分け、タオルで拭いた。イリスの額は冷汗でびっしょりと濡れていた。おまけに、今にも吐きそうなほど気分も悪い。

 

 イリスは明るくなったコンパートメント内を、ぐるりと見渡した。ドア付近の席にいるジニーとネビルが蒼白な表情でイリスを見つめ返し、ハーマイオニーの頭の上からはルーピンの疲れた顔が覗いている。

 

「貴方、氷みたいに体が冷たいわ」ハーマイオニーは、イリスに自分のマントを巻き付けた。

 

 ――不意にパキッという大きな音がして、みんな飛び上がった。ルーピンが、巨大な板チョコを割ったのだ。

 

「さあ、お食べ」

 ルーピンは優しい声でそう言うと、イリスとハリーに特別大きな一切れを渡した。

「食べるといい。気分が良くなるよ」

 

 受け取った六人の中で、一番最初にかじったのはイリスだった。するとチョコレートの甘さと一緒に、たちまち手足の先まで一気に暖かさが広がった。無心で二口目に突入したイリスを見て、みんなもおずおずとチョコレートを食べ始める。その様子を安心したように見守りながら、空の包み紙をくしゃくしゃと丸めるルーピンに、ハリーがこわごわ聞いた。

 

「あれは何だったのですか?」

「”吸魂鬼(ディメンター)”。アズカバンの看守だ」

 

 みんなは食べる手を止めて、一斉にルーピンを見つめた。――イリスは思い出した。あの夜、アーサーが『アズカバンの看守たちがブラックを捕まえるために、学校の入り口付近に配備される事になった』と言っていた事を。まさかそれが、あんな恐ろしい化け物だったなんて。イリスは思わず、ぶるっと身を震わせた。

 

「地上を歩く生き物の中でも、最も忌まわしいものの一つだ。やつに近づき過ぎると、楽しい気分も幸福な思い出も、一欠けらも残さずに吸い取られてしまう。そして、心に”最悪な記憶”しか残らなくなってしまうんだ」

 

 ルーピンはそこで一旦言葉を区切ると、労わるような眼差しでハリーとイリスをじっと見つめた。

 

「ハリー、イリス。君たちの”最悪の経験”は、本当に酷いものだったのだろう。君たちと同じ経験をすれば、どんな人間だって気を失ってしまう筈だ。・・・つまり、決して恥じる必要などないんだよ」

 

 ルーピンは最後の言葉を、主にハリーに向けて言ったようだった。――好きな女の子の前で気を失ってしまった事を、密かに恥じていたハリーは少し顔を赤らめながら、俯いた。

 

「さて、私は運転士と話をしてこなければ。・・・失礼」

 

 ルーピンが去った後、チョコレートを頬張り終えた六人は、真剣な顔を寄せ合った。

 

「一体、何があったんだい?」

 

 改めてハリーが尋ねると、ハーマイオニーがこわばった表情で答えた。

 

「ええ、あれが・・・あのディメンターが・・・あそこに立って、ぐるりと周囲を見回したの。顔が見えなかったけど、そんな風に感じたわ。そうしたら、貴方達が・・・」

「僕、君らが引きつけか何か、起こしたのかと思った。急に硬直して、座席から落ちて、呼んでも返事をしなくってさ」ロンが助け舟を出す。

「そしたら、ルーピン先生が真っ直ぐにディメンターの方へ歩いて行って、杖を取り出したの。そしてこう言ったわ。『シリウス・ブラックをマントの下にかくまっている者はいない。去れ』って。

 でもあいつは動かなかった。すると、先生が何かを唱えたの。そうしたら、ディメンターに向かって銀色の煙みたいなものが飛び出して・・・あいつは背を向けて、すーっといなくなったわ」

「ひぐっ。こ、怖かったよお」ネビルの声が、いつもより上擦っていた。

「あいつが入って来た時、どんなに寒かったか、みんな感じたよね?」

 

 ――重苦しい沈黙が、暫くの間、コンパートメント内を支配した。ロンは気味悪そうに肩を揺すりながら、『もう一生楽しい気分になれないんじゃないかと思った』と呟いた。

 

 イリスは、先程のルーピンの言葉を思い返した。彼女にとっての”最悪な記憶”とは、”秘密の部屋でドラコが死にかけた記憶”だったのだ。――あんな経験を二度としたくないから、彼の記憶を消したのに。ディメンターは、イリスの一番触れて欲しくない繊細な場所を暴き、踏み散らしたのだ。再び、じわりと涙が滲んできて――イリスは乱暴にマントの裾で目元を拭った。

 

 やがてルーピンが戻って来て、あと十分でホグワーツに到着する事を教えてくれた。周囲がホッとしたような空気に包まれかけたその時、バタバタと廊下を駆けてくる忙しない足音がして、誰かがドアを乱暴に開けた。

 

 ――イリスと同学年のスリザリン生、”パンジー・パーキンソン”だ。いつもツンと取り澄ましている表情が、恐怖で大きく歪んでいる。パンジーは形振り構わない様子で、イリス達を気にも留めず、ルーピンのローブに縋り付いた。

 

「ああ、あなた、先生なんでしょ?!た、助けて!ドラコが、ドラコが、あれを見た途端・・・引きつけを起こしたの!すぐに来てえ!」

 

 イリスは頭を誰かに思いきり殴られたような衝撃を感じ、よろめいた。ドラコもディメンターを見て、気を失ってしまう程の”最悪な記憶”を引き摺り出されたのだ。だが、一体何の記憶だと言うんだ?自分と関わった事以外で、彼にとって”最悪な経験”があったというのか?

 

 ルーピン先生はローブを翻し、すぐにパンジーの後を着いていった。イリスは何も考えられなかった。ふらふらと覚束ない足を懸命に動かして、コンパートメントを飛び出し、駆け出した。

 

「駄目だ、イリス!」

 

 ハリーの叫ぶ声が、後ろから追いかけてくる。けれども、イリスは足を止める事など出来なかった。

 

☆  

 

 ――時を少し戻し、スリザリン生が多く集まる車両では。コンパートメントの一つを占領したドラコは、クラッブとゴイル、パンジーとノット等の”いつもの取り巻き”を周囲に置いて、他愛無い世間話に興じていた。

 

 ”イリスとの愛の記憶”を失って出来た、その深く大きな穴を埋めるために――ドラコはもっと沢山の自分のプライドを満たすものを求めるようになった。取り巻き達がみんな自分に従い、媚びへつらうような視線を送る度に、ドラコは歪んだ満足感を感じた。そして彼は、以前よりもっと傲慢で冷たくなった。

 

 けれどもドラコは、いくら周囲にちやほやされても、完璧に満たされた気持ちになる事は出来なかった。――何かが、絶対的に足りないのだ。まるで自分の影が消えてしまったかのような、漠然とした寂しさが心の奥に焼け付いて、一向に消えようとしない。しかも、それについて真剣に考えようとすると、決まって頭が爆発するのではないかと心配になる位、痛むのだ。

 

 そんな時、ドラコはいつも手首に巻いている”銀のリボン”を撫でた。冷たくて滑らかなその感触は、ドラコの頭痛をすぐさま和らげてくれる。すると彼は、途方もなく安心するのだった。

 

 

 夜の帳が下り始めた頃、汽車が不意に速度を落とし、ガクンと止まった。そして何の前触れもなく、明かりが一斉に消え、辺りが真っ暗闇になった。

 

「何だ?!」

 

 ドラコは怯えて立ち上がろうとするが、パンジーが怖がってしがみ付いてきたために、再び着席する事になってしまった。ノットだけが素早く杖を取り出し、杖先に光を点す。

 

 すると音もなく、ドアが開いた。――入り口に立っていたのは、マントを着た、天井までも届きそうな”黒い影”だった。顔はすっぽりと頭巾で覆われている。頭巾に覆われた得体の知れない何者かは、恐怖に打ち震えるスリザリン生達の様子を静かに見回し、ガラガラと音を立てながらゆっくりと息を吸い込んだ。まるでその周囲から、空気以外の”何か”を吸い込もうとしているかのように。

 

 ノットの杖がカランと床に転がり、光が消えた。暗闇と共に、強烈な冷気が全員を襲った。ドラコは自分の息が途中でつっかえたような気がして、必死に喘いだ。――冷たい水の中に沈められたかのように、呼吸が出来ない。身を切るような寒気がドラコの皮膚の下を通り抜け、彼の心臓をギュウッと鷲掴みにした。そしてそのもっと奥へと浸食していく――

 

 ――ドラコは、自分の心の中の世界にいた。ドラコの世界は、彼が世界で一番安心できる”マルフォイ家の屋敷”の形をしている。

 

 自室の窓際の席で、ドラコはイリスと魔法使いのチェスを楽しんでいた。『愛している』ドラコが何度も言うたびに、イリスの姿をした”イリスの記憶”は、頬を赤らめて恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 ドラコはその様子を見て、胸がこれ以上ない位にときめくのを感じた。ずっと一緒にいるんだ。彼女を守って生きていく。ドラコはイリスの柔らかな頬を撫でた。決して離さない。こんなに満たされた気持ちは、生まれて初めてだ。

 

 ――不意に、バキバキと何かが砕けるような大きな音が轟いて、二人の時間を引き裂いた。庭園の方からだ。何事かと訝しんだドラコは窓から外の景色を眺め――そして、恐怖の余り絶叫した。

 

 見渡す限りの青空や、美しく手入れされた庭園、立派な造りの門扉や塀が、みるみるうちに色を失い、無数の罅(ひび)が入って粉々に崩れ、消えていく。そしてその跡には、空虚な暗闇だけが残された。

 

「逃げろ!”侵入者”だ!」

 

 ――何者かが自分の心の世界へ入り込み、手当たり次第に破壊している!そう確信したドラコは、怯えるイリスの手を引っ張って、無我夢中でその場を飛び出した。その数秒後、ドラコの後ろでバキバキとあの恐ろしい音がした。ドラコが走りながら振り返ると――粉々になった彼の部屋の残骸が、一つ残らず暗闇の中へ消え去っていくところだった。

 

 ドラコは、怖がるイリスを宥めすかしながら屋敷中を逃げ回り、一番頑丈な”地下の秘密の部屋”に逃げ込んで、鍵を掛けた。イリスを抱き締め、何度も『大丈夫だ』と囁き、落ち着かせる。重厚な扉の前を――父親が持つ”闇の魔術の道具”の形を模した――ドラコの防衛本能達が固め、バリケードを築いた。

 

 ――もう、あいつはここまで来れやしないだろう。ドラコは安堵し、ため息を零した。しかし彼の予想は、無残に踏みにじられる事となる。

 

 不意に、ドン!と扉が激しく叩かれる音がした。ドラコとイリスは恐怖に息を詰まらせ、お互いをきつく抱き締める。扉は何度も荒々しく叩かれ、その度に大きな亀裂が走った。壁や天井からはパラパラと埃が落ち、蜘蛛の巣のような罅(ひび)が広がっていく。

 

 一体、侵入者は何を狙っているんだ?ドラコは必死に考えた。ほぼ全ての記憶は、部屋の外にある。もう残っている記憶は、この腕の中にある”イリスの記憶”しかない。

 

 ――その時、ドラコは全てを理解し、全身の毛が逆立った。()()()()()()()()()()()()()()()()。彼は潰れる程強くイリスを抱き締めながら、ドアの外の侵入者に向けて泣き叫んだ。

 

「やめてくれ!何でもやる!他の記憶なら何だってくれてやる!これだけはやめてくれ!僕の全てだ!全てなんだあああ!!」

 

 しかし願いも空しく、扉は崩れ去った。――扉があった場所には、小さな魔法使いが一人立っていた。次々に襲い掛かるドラコの防衛本能達を、その魔法使いは杖の一振りで粉砕してしまった。

 

 魔法使いが杖をもう一振りすると、イリスはドラコから強引に引き離され、宙に浮いた。そしてみるみるうちに硝子細工のように透明になり、闇の中へと消えて行った。

 

「がああああああっ!!」

 

 ドラコは石の床に爪を立て、理性の欠片もない野獣の様に泣き叫んだ。――愛する者を失った今の彼には、侵入者に対する深い憎しみと怒り、殺意しか残されていない。

 

 正気を失いかけた目を血走らせ、血が滲むほど唇を噛み締め、その身から凄まじい殺意を迸らせながら、ドラコは魔法使いに飛びかかり、力任せに組み伏せた。その細い首筋に両手を掛け、力を込める。――こいつはイリスを、僕から奪った。許せない。ググッとドラコの手に力が籠もる。殺してやる。

 

 魔法使いは苦しそうにもがいた。その拍子に、顔をすっぽり覆っていたローブがはらりと解け、床に広がる。その正体が明らかになると――ドラコは驚愕に目を見開き、思わず手を緩めた。

 

「そんな・・・」ドラコは掠れた声で唸った。

「どうして、君が・・・」

 

 ドラコの問いに、魔法使いは答えなかった。彼女は無言で涙を流し、悲しみに顔を歪ませたまま、杖先をドラコの額にピタリと当てた。

 

 

 イリスは車両を繋ぐドアをいくつも通り過ぎ、スリザリン生の固まる車両の手前までやって来た。ドアの硝子面から、ルーピン先生がパンジーに手を引っ張られ、コンパートメントの一室へ入っていくのが見える。息を弾ませながらドアを開けようとするイリスの目の前を――突如として、誰かが塞いだ。

 

「おっと。これ以上は駄目だよ、お嬢様(マイ・レディ)

 

 イリスたちと同学年のスリザリン生、”セオドール・ノット”だ。ノットは氷を削り出した仮面のように、冷たく不気味な微笑みを浮かべている。

 

「君は僕らの敵なんだろ?」

 

 その言葉はイリスの心に氷水のように流れ込み、彼女の今にも爆発しそうなほど興奮した気持ちを落ち着かせた。――そうだ、彼の言う通りだ。今の自分がドラコの傍へ行ったって、余計な混乱を招くだけだ。イリスは唇をギュッと噛み締めた。――しかし、ドラコを案ずる気持ちが消える事はない。彼女は、儚く消え入りそうな声でノットに頼んだ。

 

「お願い。ドラコが無事かどうか、教えてほしいの」

 

 ノットはドアを開け、件のコンパートメントの中へ入っていった。その間、イリスは両手を組んで、ドラコの無事を祈りながら待った。やがて戻ってきたノットは、穏やかな声でこう言った。

 

「マルフォイは無事だ。後遺症もない。ルーピン先生の介抱で、意識を取り戻したようだ。それから、今は・・・パーキンソンの膝の上に頭を乗っけて体を休めてる」

 

 イリスの頭の中で『パンジーとドラコが仲睦まじく過ごしている光景』が、パッと思い浮かんだ。たちまちイリスの全身を、激しい嫉妬の炎が包み込む。その双眸が一瞬ルビーのように美しい真紅色に燃え上がり、また元の青色へ戻っていく様子を、ノットは興味深そうに鑑賞していた。やがて彼は唇を皮肉気に歪め、再び口を開く。

 

「イリス。もう分かっただろ?君は弱い。今からでも遅くない、マルフォイ氏に許しを乞うんだ。そうすれば全てが丸く治まる。そして君は再び、愛を得る事ができる」

「そんなの間違ってる。私、貴方たちに屈したりなんてしない」対するイリスの声は、余りに弱く小さかった。

「馬鹿な事を!」ノットはせせら笑った。

「本当に望んでいる事が、間違いだって言うのか?――お嬢様、どうか賢明なご判断を。気が変われば、いつでも僕宛にフクロウ便を送ってくれ」

「・・・待って」

 

 芝居がかった動作で小さくお辞儀し、ドアを開けようとするノットの腕をイリスが掴んだ。イリスはローブのポケットから蛙チョコレートの新品の箱を一つ取り出すと、訝しむノットの手に握らせる。

 

「お願い、これをドラコに渡して。チョコレートを食べると、とても気分が良くなったから」

 

 対するノットは――イリスの言葉の意図を図り兼ねているかのように――暫くの間、一切の動きを停止した。そしてイリスの心の奥底を探るかのように、彼女の青い瞳を覗き込んだ。

 

「・・・ああ、わかった」

「ありがとう」

 

 ノットが了承すると、イリスは弱々しい笑顔を浮かべ、お礼を言ってから、元来た道をよろよろと帰って行った。ノットは箱を握り締めたまま――イリスの後姿が次の車両へ消えていってしまうまで――その姿をじっと見つめていた。

 

 

 ルーピンの手際の良い介抱の結果、ドラコは無事に意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。

 

 列車は再び動き出し、車内がまた明るくなっている。パンジーが不安そうに泣きじゃくりながら膝枕を提案したため、ドラコはそれを受け入れる事にした。しかしそれでも、ひどい流感の病み上がりのような気分の悪さや、震えは止まる事がない。

 

 ――今になってドラコは、あの得体の知れない影がディメンターだったのだと分かった。汽車に乗る前に、父が『ブラックを捕まえるために、ホグワーツにディメンターが派遣される』と教えてくれた事を思い出したのだ。けれどもまさかそれが、あんなに恐ろしいも化け物だったなんて。

 

 ドラコはあの時、間違いなく『この世で一番恐ろしい経験をした』と思った。しかし、その内容がどんなものだったのか思い出そうとした途端、あの頭痛がやってきた。たまらず彼は唸り声を上げ、パンジーの膝の上で文字通り頭を抱える羽目になってしまった。

 

「無理をしない方がいい」ルーピン先生が言った。

「僕は、一体・・・」ドラコが痛みに朦朧とする意識の中、茫然と呟いた。

「あなた、あれを見た途端、席から滑り落ちて、白目を剥いて痙攣し出したの。わたし、あ、あなたに何かあったらどうしようかと・・・」

 

 しゃくり上げながらドラコを抱き寄せようとするパンジーを押しのけ、ノットが強引に二人の間を割って入った。

 

「マルフォイ、これを」

 そしてノットはドラコに、蛙チョコレートの箱を差し出した。

「・・・何だ?蛙チョコレートじゃないか」

 

 ドラコは胡散臭げにジロジロと箱を眺めた。――こいつは、何で僕が頭痛で苦しんでる時にチョコレートなんか寄越したんだ?しかしドラコの疑問と不満は、すぐに解消された。ルーピン先生が感嘆したように、ノットに向けてこう言ったのだ。

 

「ディメンターの対処方法をよく知っているね。ちょうどチョコレートの在庫が足らなくて。助かったよ」

「いいえ、僕のじゃありません」ノットは静かに首を横に振った。

「じゃあ誰が?」

 

 ドラコが箱の包装を慣れた手つきで解きながら、ノットに何気なく問い掛けた。――しかし、ノットからの返事は一向にない。面倒臭くなったドラコは、話をそこで終わらせた。ドラコは包装を解き終わると、逃げようとする蛙チョコをパクンと口に入れる。たちまち体が暖かくなり、頭痛は跡形もなく消え去り、気分はとても良くなった。

 

 




明けましておめでとうございます(*´ω`)
新年早々、詰め込み過ぎて2万字弱になってしまいました。すみません…。

お気に入り登録してくださった方々、感想をくださった方々、評価を付けてくださった方々、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。くじけそうな時、とても励みになります。

今年もどうぞ宜しくお願い致します!!

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