ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※R-15?と残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


Act3.漏れ鍋にて

 四人が『漏れ鍋』に戻ると、アーサーとイオがバーに座って何事かを話し込んでいる最中だった。

 

「おかえり、みんな。やあ、ハリー君。元気そうだな」イオが振り返り、イリス達に笑い掛ける。

 

 四人はパンパンに詰まった買い物袋をドサリと店の端っこへ置くと、二人の傍に座った。アーサーがテーブルの上に置いた『日刊予言者新聞』から、ブラックの顔が、静かにイリスを見上げている。

 

「どうした、みんな。何かあったか?」

 

 深刻な表情で黙りこくる四人を訝し気に見て、アーサーが声を掛けた。ハーマイオニーに肩をつつきながら「言わなきゃ」と促され、ついにイリスはゴクリと生唾を飲み込み、二人に――特にイオの顔色を慎重に窺いながら――実家であった”不思議な電話”の話をした。アーサーとイオの穏やかな表情が、次第に真剣なものへと変わっていく。

 

 ――イリスの話を聞き終わった後、二人は何も言わず、互いの目を合わせた。やがてイオから視線を外し、アーサーは元の穏やかな表情に戻って言った。

 

「きっとその男は――君の推察通り――”魔法界の人間”で、間違いないだろう。一体どこで君の電話番号を手に入れたのか、という点だけが不可解だが」

「戻ったら、すぐに電話番号を変えるよ」イオが素早く言った。

「ああ、それがいいだろう」アーサーは頷くと、話を続けた。

「イリス。”あの人”が残した戦争の爪痕は、そう簡単に消える事はない。大切な人を亡くしたり、自分自身が傷ついたりして、心を病んでしまった人々がたくさんいる。きっと、電話の主もそういった人だろう。

 まあ、深く気にする事はないよ。今やほぼ全ての魔法族が、彼の言う通り、ブラックに気を付けるべきだろうし。私ももし同じ立場だったら、君に電話して同じ事を忠告するだろう」

 

 イリスは肩透かしを食らったかのように茫然として、アーサーの言葉をすんなり受け入れる事が出来なかった。――きっと二人がかりで真剣に怒られるだろうと踏んでいたのに。アーサーは、この話を適当に流して終わりにしたいような口振りだったし、イリスの事に関しては――特に心配性のイオが、一切の突っ込みを入れず、静かに頷いているばかりなのも不自然そのものだと思った。

 

 やがて、モリー夫人が荷物を山ほど抱えて『漏れ鍋』へ入って来た。その後をパーシーやフレッドとジョージ、ジニーが続き、俄かに店内が賑やかになる。

 

「荷物を整理しておいで。もうじき夕食だ。お前の部屋は、ハーマイオニーちゃんと一緒にしたよ」

 

 イオがイリスの頭を撫でながら言う。イリスはたまらず、イオに問いかけた。

 

「ねえ、おばさん。私の事、怒らないの?さっきの事、言うのを忘れてたのに・・・」

「馬鹿言うな、あんなつまらない事で!」

 

 イオは軽く吹き出して、イリスの髪を乱暴に掻き雑ぜた。まるでさっきの事は、『イリスが炊飯器のスイッチを押し忘れていた』位の下らない出来事だ、と言わんばかりに。――本当にそうなのかな。私の考え過ぎなのかも。”イオおばさんは嘘を言わない”。そう信じているイリスは、信頼するおばのその様子を見て、少し安心したのだった。

 

 

 

 その夜の夕食は楽しかった。『漏れ鍋』の亭主のトムが、食堂のテーブルを三つ繋げてくれて、ウィーズリー家の七人、イリスとイオ、ハリー、ハーマイオニーの全員が、フルコースの美味しい食事を次々と平らげた。――明日はいよいよ、キングズクロス駅へ向かう日だ。めでたく首席となり、ピカピカに磨いた金色のバッジを見せびらかすパーシーを、フレッド&ジョージが思う存分からかい倒すのを見たりしながら、イリスは暖かく楽しい気分に浸っていた。

 

 やがて夕食も終わり、みんな満腹で眠くなった。明日持っていくものを確かめるため、一人、また一人と階段を上って、それぞれの部屋に戻っていく。

 

 イリスがベッドにうつ伏せになって、ニュート・スキャマンダー著『幻の動物とその生息地』を読んでいると、ハーマイオニーがふざけて圧し掛かって来た。続いて、シュッと冷たい霧が首元に掛かり、イリスはびっくりして肩を竦めたが、程無くしてとても良い香りが漂ってくる。――清らかで芳醇な百合の香りだ。

 

「フランスのお土産よ、イリス」

 

 イリスが首を捩じって振り返ると、ハーマイオニーがにっこり笑って、クリスタル製の小さな香水瓶を彼女に手渡した。

 

「貴方に何が似合うかなって一生懸命選んで、百合(リリー)にしたの。私は薔薇(ローズ)

「ありがとう。ハーミー」

 

 ――ハーマイオニーに最初に会った時、良い芳香がしたのは、これだったのだ。イリスは納得して、華奢なデザインの瓶を嬉しそうに眺めた。ふと視界の端で何かがキラッと光ったような気がして、ベッドの脇のサイドテーブルを見ると、イリスのものとは違う、クラシックなデザインの大きな香水瓶が置いてあった。――きっと、ロンのエジプトのお土産”問題の香水瓶”に違いない。ハーマイオニーは自分の香水をそれに移し替えたのだろう。じっと潤んだ瞳で、その香水瓶を見つめるハーマイオニーの横顔は、イリスが思わずドキッとするほど大人びて見えた。

 

「ハーミー、大人っぽくなったね。香水のせいかな?」

 

 ハーマイオニーは思わずキョトンとしてイリスを見つめ返した後、軽く吹き出した。

 

「貴方もよ、イリス」

「私が?」

 

 今度はイリスが驚く番だった。――どう見ても、自分が大人っぽくなったとは到底思えない。背も余り伸びていないし、ハリーやロンみたいに声変わりもしていないのに。まじまじと不思議そうに自分の全身を見つめるイリスを面白そうに眺めながら、ハーマイオニーは頬杖を突いた。

 

「貴方は気づいてないのかもしれないけどね」

 

 親友の指摘通り、イリスの印象はこの一年で劇的に変わった。一年生の時までのイリスは、固く閉じた蓮の花の蕾のように清廉で、中性的な雰囲気を持つ”子供”だった。

 

 しかし、イリスはその次の年、恐怖に怯え、絶望に堕ちながらも、芽生えた愛を命懸けで守った。そういった辛い経験や過去の影が、イリスにわずかな陰りを落とし――ほころび始めた蕾が、艶やかに色付き、甘い香りを纏わせるような――何とも言えない”妖艶さ”を芽吹かせたのだ。百合の、どこか官能的と言えるほど濃厚で、それでいて清らかな香りは、そんな彼女によく似合っていた。

 

 

 その夜、イリスはまた夢を見た。いつもと同じ内容だ。イリスは、塔の中の階段を少しずつ昇っている。塔の中には、あの美しい歌声がこだましている。石造りの外壁には、採光用の窓が等間隔にあって、そこから月や星の光が優しく差し込んで、内部を照らしていた。

 

 やがて、果てのないと思われた螺旋階段が一旦途切れ、踊り場が現れた。そこに、小さな影が蠢いている。

 

 イリスは目を凝らし、アッと声を上げた。――スキャバーズだ。スキャバーズはずいぶん弱り果て、横たわったまま、ゼイゼイと苦し気な呼吸を繰り返している。

 

「スキャバーズ!」

 

 イリスは慌てて踊り場へ駆け上がり、スキャバーズに触れようと、手を伸ばした。しかし、彼女の手が触れるか触れないかのうちに、スキャバーズは弱々しく一鳴きしたのを最期に、彼女の目の前で哀れにも息絶えてしまう。そして、不意に彼の全身が、モコモコと盛り上がり始めた。――まるで内側から、何かが暴れているように。

 

 やがて、ナイロン袋のようにスキャバーズの皮膚を乱暴に突き破り、何か(・・)が生まれ出た。

 

 ――それは、全身にミミズのような触手を無数に生やした、”おぞましい化け物”だった。恐怖の余り腰が抜けて、動く事のできないイリスを、化け物は触手を伸ばして絡め取る。それはイリスの足先から太腿までを冒し、腰辺りでグルグルと何重にも巻き付くと、イリスを自分の傍へ引き寄せた。触手は粘液を引き、ベタベタしていて気持ちが悪い。

 

 化け物には触手の他に、ギョロギョロと忙しなく動く二つの目玉と、無数の牙が生え揃う大きな口があった。それはイリスを自らの口元へ近づけると、獣臭い息を吐きつけながら――年を経た男が不安に泣きじゃくるような――狂気に満ちた声で、彼女に対して懸命に訴えかけ始めた。

 

『ああ、イリス!助けてくれるね?き、君だけが頼りなんだ。君はとても優しい子だ!そうだろう?やつらのように、私を見捨てたりはしないだろう?!ブラックから、私を守ってくれるね?』

「いやぁっ、離してぇ!」

 

 イリスはその声をどこかで聴いた事のあるような気がしたが、化け物への恐怖心が勝り、それについて深く考える余裕など微塵もなかった。最早彼女は、ここが夢だという事も忘れていた。

 

 今や触手はイリスの体中を弄り、蹂躙していた。――まるで彼女の体のどこかに”自分の助かる秘密”が隠されていて、それを必死に探しているかのように。その余りのおぞましさに怖気を震い、イリスは滅茶苦茶にもがき、助けを求めて泣き叫んだ。

 

 ――その時、突如として塔の中に、鼓膜が震えるほどの巨大なサイレンが響き渡った。窓から差し込んでいた優しい光は、禍禍しい夕日へと一変し、内部を血のような真紅色へ染め上げていく。

 

 不意に、化け物の目がギョロリと動いて、螺旋階段の上方で固定された。すると化け物の全身が、恐怖に苛まれたかのように震え始め、イリスを頑強に捕えていた触手が、泥のように溶け落ちていった。イリスは化け物の視線の先を追いかけて、――息を飲んだ。

 

 ”シリウス・ブラック”がいる。階段の半ばで仁王立ちし、化け物を憎々しげに睨み付けている。しかし彼の姿は、写真で見た時のままモノクロで現実感がなく、体の至る所にノイズが走っていた。ブラックは、落ちくぼんだ幽鬼のような双眸をゆっくりと瞬かせ、唇を噛み締めて、――それから、”クルックシャンクスの声で叫んだ”。

 

「汚らわしいやつめ!彼女に触れるな!」

 

 

 ――イリスは目が覚めた。彼女のお腹の上に座っていたのは、もちろんお尋ね者のブラックではなく、クルックシャンクスだった。彼は、寝る前にサイドテーブルに置いた筈の、イリスの”かくれん防止器”を器用に口に咥えていた。それは鋭い口笛のような音を鳴らし、ピカピカ光って回り続けていたが、程無くして沈黙した。イリスは息を弾ませながら、よろよろと起き上がる。

 

「クルックシャンクス・・・助けて、くれたの?」

 

 イリスは、汗でぐっしょり濡れた髪を掻き上げながら、クルックシャンクスに弱々しく礼を言った。今もイリスの心臓は、狂ったように激しい鼓動を繰り返している。――本当に恐ろしい夢だった。あの化け物の触手の感触と言ったら――。イリスは思わず身震いし、少しでも早く夢の記憶を消し去りたくて、体中を乱暴にごしごしと擦った。クルックシャンクスは”かくれん防止器”を元通り、サイドテーブルに戻すと、軽く伸びをした。

 

≪ああ。ずいぶん魘されてたみたいだったからな。・・・まあ、それだけじゃねえが≫

 

 クルックシャンクスの鋭い眼光が、一瞬部屋の隅っこを射抜いた。――まるでついさっきまで、そこに何か(・・)がいたかのように。

 

 イリスは、ハーマイオニーが隣で、先程の”かくれん防止器”の騒音にも負けず、健やかに眠っているままなのを確認すると、静かにベッドを抜け出した。――もう一度寝る事なんて、とてもじゃないが出来そうになかったし、それに単純に尿意を覚えたため、用を足したくなったのだ。

 

 トランクから出したタオルで軽く体を拭き、薄手のネグリジェを取り出して着替えると、イリスは部屋を出てトイレへ向かった。小さな燭台を持って歩いていると、どこからか怒鳴り声が聴こえて来た。――少し先の、十二号室の部屋が半開きになっていて、パーシーが、怒りで顔を真っ赤にしながら叫んでいる。確か十二号室は、彼とロンの相部屋だった筈だ。

 

「ベッド脇の机にあったんだぞ!磨くのに外しておいたんだから」

「いいか、僕は触ってないぞ!」ロンも負けじと怒鳴り返した。

「イリス?」

 

 呆気に取られながら、その様子を見守っていると、ふと近くで新たな声が聴こえて、イリスはくるりと振り返った。――ハリーだ。彼はイリスをじっと見た瞬間、顔をトマト色に染める羽目になった。

 

 イリスは、キャミソールタイプのネグリジェを着ていた。それは花びらのように薄い生地で出来ていて、女性らしい丸みを帯びてきた体のラインが、かすかに透けて見えた。”闇の印”を隠すために巻いている右腕の包帯も、その理由を知る数少ない人間の一人であるハリーには、どこか背徳的で、艶めかしく見えてしまう。浮き出た鎖骨や、控えめなフリルの裾から見える白い肢も、かじる寸前のみずみずしい果実のように感じられ、ハリーは思わず眩暈を覚え、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「どうしたの、ハリー?」

 

 イリスは訝し気に尋ねるが、ハリーは彼女の言葉に答える余裕など無かった。――最初は、”小さな妹”だと思っていた。しかし、今はもう違う。何時の間に彼女は、こんなに美しくなっていたのだろう。イリスの魅力に憑りつかれてしまったハリーの脳裏に、小さい頃、スクールの課外授業で見た”ビスクドール”の姿が浮かんだ。陶器で出来た、綺麗な女の子の人形。あれに命を吹き込んだら、きっとイリスみたいになるのに違いない。

 

 一度、イリスを”女の子”として意識してしまうと、もうハリーはどうする事も出来なかった。体の奥から迸る、熱い感情を何とか落ち着けるために、彼は自分のくたびれた薄手のパーカーを脱ぐと、イリスから燭台を奪い、強引に押し付けた。

 

「着て」

「なんで?」

「いいから!」

 

 イリスは訳が分からなかったが、首を傾げながらも、素直に袖を通す事にした。少し大きめのパーカーにすっぽりと上半身を包まれたイリスを見て、ハリーはようやくホッと息を吐く事が出来た。――これで、彼女の悩ましい体の半分は見ないでいられると。

 

 

 二人がそうこうしている間に、パーシーVSロンの喧嘩は、大盛り上がりを見せていた。――どうやら事の発端は、パーシーが今や『五分に一度は磨いている』と噂される”首席バッジ”が無くなってしまった事らしい。部屋の中全てをひっくり返す勢いでバッジを探すパーシーを、イライラと睨み付けながら、ロンも自分のトランクを開き始めた。

 

「『ネズミ栄養ドリンク』もないんだよ。ハーマイオニーに貰った時、ポケットに入れたはずなんだけどなあ。寝る前に飲ませてあげたいのに」

 

 ロンの言葉を聞いて、イリスの脳裏に、夢の中の”おぞましい化け物”の姿が蘇り、全身に鳥肌が立った。――もし、本当に彼の体に、あんな化け物が潜んでいるとしたら。

 

「ねえ、スキャバーズはどこにいるの?」

 

 イリスが思わず真剣な表情で尋ねると、ロンは素直に口を開きかけ、――それから、ハッとイリスを警戒したような目で見て、恨みがましく言った。

 

「あの猫を追い出したら教えるよ。僕、こんなことなら、スキャバーズを守るためのカゴも買っておけばよかった。そうだ、一緒にバーに降りて、ドリンクを探すのを手伝ってくれない?」

「言っておくが、僕がバッジを見つけるまでは、どこにも行かせないぞ!」

 

 パーシーがあまりの剣幕で叫んだので、三人は驚いて肩を竦めた。ハリーが困り果てたように頭を搔いて、ロンに言った。

 

「僕ら、ドリンクを探してくるよ。イリス、行こう」

 

 ハリーはイリスの手を引き、一階へ繋がる階段を降りた。

 

 

 もうすっかり明かりの消えたバーに行く途中、廊下の中程まで来た時、またしても誰かの言い争う声が聴こえてきた。――今度は、食堂の奥の方だ。イリスはそれがウィーズリー夫妻と、”イオの声”だとすぐにわかった。

 

 ――イオおばさんが、アーサーさん達と喧嘩している?思わず身を固くしたイリスをハリーが心配そうに見たが、ふと会話の中で”ハリーとイリスの名前”が出て来たために――二人は無言で顔を見合わせた後、食堂の近くのドアに近寄って、こっそり耳を聳てた。

 

「やめてくれ、もうたくさんだ!」イオおばさんの声だ。ヒステリックに叫んでいる。

「ただでさえあの子は、去年の事でずいぶん参ってるんだ。これ以上、怖がらせたくない!」

「そうですよ、アーサー。あなたが注意しなくたって、二人は大人しくて、賢い子です。無茶な事なんてしませんとも」

 

 モリー夫人が窘めるようにアーサーに言うが、彼は頑として譲らない。

 

「私だって、いたずらにあの子たちの恐怖心を煽りたいわけじゃない。私はあの子たちに、自分自身で警戒させたいだけなんだよ。今学期は決して、危険な事をしちゃならんのだ。

 いいかい、モリー母さん。相手はあのブラックだ。ハリーが親戚の家から脱走したと聞いた時、私はどんなに心配したか!そしてイリスも、やはり”死喰い人”の残党から電話を・・・」

 

 ――”死喰い人”の残党?アーサーの言葉に、イリスとハリーは思わず首を傾げ、目線を交わした。彼は最初にイリスが相談した時、そんな事は一言も言っていなかったのに。

 

「でも、あの子たちは無事だったわ。だからわざわざ何も・・・」

「ああ、今回は無事だった。――だが、次はどうだ?

 モリー、イオ。シリウス・ブラックは”狂った大量殺人者”だが、アズカバンから脱獄する才覚があった。しかも、不可能とされていた脱獄だ。もう三週間も経つのに、誰一人、ブラックの足跡さえ見ていない。ファッジが『日刊予言者新聞』に何と言おうと、事実、我々がブラックを捕まえる見込みは薄いのだよ。一つだけはっきり我々が掴んでいるのは、やつの狙いが・・・」

「でも、ホグワーツに入ってしまえば、ブラックは手出しできない。二人は安全だわ」とモリー。

「我々は、アズカバンも絶対間違いないと思っていたんだよ」アーサーは弱々しく言った。

「だが、ブラックはアズカバンを破った。なら、ホグワーツにだって破って入れる」

「でも、誰もはっきりとは分からないじゃありませんか。”ブラックがハリーを狙っている”だなんて」

 

 ”ブラックがハリーを狙っている”?モリー夫人の言葉に驚く余り、イリスは軽く咳き込んでしまったが――幸か不幸か――ドスンと荒々しく木を叩く音が被さったため、扉の向こうにいる三人にバレる事は無かった。恐らく、アーサーがテーブルを叩いたのだろう。イリスが恐る恐るハリーの様子を見ると、彼は固い表情で話に聴き入っている。

 

「モリー、何度言えば分かるんだね?新聞にも何も載っていないのは、ファッジがそれを秘密にしておきたいからなんだ。

 ブラックが脱走したあの夜、ファッジはアズカバンに視察に行っていた。その時、看守たちがファッジに報告したそうだ。ブラックがこのところ、寝言を言うって。いつも同じ寝言だ。『あいつはホグワーツにいる、あいつはホグワーツにいる』。――ブラックは、あいつは、狂っている。ハリーを殺せば、”あの人”の権力が戻ると考えているんだ」

 

 重苦しい沈黙が流れた。ハリーとイリスも、可能な限り息を殺し、話の続きを聞き漏らすまいと扉の傍へ張り付いた。

 

「”あの人”がハリーに敗れ去ってから、”闇の陣営”に与する魔法使い達のうち――数少ない――本当に”あの人”と共に闇に沈んでしまった者はアズカバンへ送られ、大多数のそうではない者は、逃げ口上を述べてこちら側へ戻って来た。

 ――だが、”闇の陣営”は、裏切り者を決して許さない。ブラックは、”あの人”の忠実な部下だった。やつが自由の身になった今、本当の狙いを知らない裏切り者達は、きっと報復を恐れているはずだ。『ブラックは自分を殺しにやって来たのだ』とね。彼らは今、やつから自らを守るものを必死に求めている。――イオ。イリスが気を付けるべきなのは、ブラックだけじゃない。今度は、不審な電話だけでは済まないかもしれないんだ」

 

 イリスの心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。――思った通りだった。アーサーとイオは、やはり自分を怖がらせないために、あんな風に誤魔化したのだろう。

 

「あの子にそんな力なんて無い。あの子はただの傷つきやすい、普通の女の子だ」弱々しくイオが言う。

「そんな事は関係ないんだよ、イオ。――ブラックにとっても、連中にとっても。

 メーティスは、”闇の陣営”の活動が本格的になる前にこの世を去ったが・・・それまでは”あの人”に次ぐ実力者だった。”死喰い人”の基盤は彼女が作ったとされているし、いまだに彼女を信仰する者もいるほどだ。ハリーが”生き残った男の子”として見られるように、イリスもまた”メーティスの子孫”という看板を背負っている。その看板だけを重視する愚かな者達には、背負う者の個人の意思など関係ないんだ。

 イオ、君も見ただろう?ハリーとイリスは、本当の兄妹のように仲が良い。――もし二人が警戒心もなく、人気のない場所をふらふら出歩いていたら?潜伏しているブラックが、救いを求める”死喰い人”の残党が、その様子を見つけてしまったら?・・・イリスもまた、無事では済まない可能性があるんだ」

 

 再び、沈黙が辺りを包んだ。イリスは、ハリーがグイと自分を守るように抱き寄せるのを感じた。不意にガタンと椅子が倒れるような激しい物音がして、イオがすすり泣く声がした。

 

「なあ、アーサー。どうすれば、あの子は一番安全に生きていけるんだ?

 あの子は、私の全てだ。あの子が幸せに生きてくれるのなら、わたしは自分の命だって魂だって、何だって差し出す。エルサとネーレウスは『ホグワーツに行くことがあの子のためなんだ』と言った。でもホグワーツへ行く度に、あの子は危険な目に遭って帰って来る。

 最近、あの子が泣いて、震える体を抱き締める度に、強く後悔するんだ。――あの時、最初にホグワーツの手紙が来た時、わたしが何としても破り捨てて、行かせなければ良かったって・・・そうすれば、あの子は今でも笑顔で・・・あんな・・・あんな酷い目に・・・」

 

 イオの嘆きは、やがてくぐもった声になった。「大丈夫よ」とモリー夫人が労わる声がする。――きっとモリーが、イオを抱き締めて一生懸命慰めているのだろう。いつも勝気な、どんなに辛い目に遭ったって涙ひとつぶさえ見せないイオが、不安に泣きじゃくっている。――私の為に。

 

 ”おばさんは、私を愛している”。その事実が、じんわりとイリスの心の中全体に染み渡っていく。イオの愛情が、何よりも強い”護りの魔法”のように自分を包んでいるのを感じると、イリスは不思議な事に――ブラックの事も、電話の事も、夢の事も――少しも怖くなくなってしまった。それよりも、イリスは今すぐ扉を開けて、泣きじゃくるイオを抱き締め、慰めたいと強く思った。

 

「イオ、分かってくれ。あの子が幸せに生きるためには、ホグワーツへ行く事が必要なんだ」アーサーが静かに言い聞かせる。

「わ、分かってる・・・分かってるよ・・・」イオが喘ぎながら囁いた。

「大丈夫よ、イオ。ホグワーツにはダンブルドアがいらっしゃる。アーサー、彼はこの事を全てご存じなのでしょう?」

「もちろん知っていらっしゃる。それにアズカバンの看守たちが、ブラックを捕まえるために、学校の入り口付近に配備される事になった。――校長はその事に、大層ご不満であったがね」

「ご不満?ブラックを捕まえるために配備されるのに?」モリーが怪訝そうに問いかけた。

「ダンブルドアは、アズカバンの看守たちがお嫌いなんだ」アーサーの口調は重苦しかった。

「それを言うなら、私も嫌いだ。しかしブラックのような魔法使いが相手では、嫌な連中とも手を組まなければならんこともある」

「でも、そいつらがブラックから守ってくれるんだろ?」イオが縋るように言った。

「ああ、やつらは非常に執念深い。やつらがホグワーツにいる限り、ブラックは迂闊には手出しできないはずだ」

 

 

 アーサーが疲れた口調で「もう休もう」と二人に持ち掛け、ガタガタと椅子の動く音がした。二人は出来るだけ音を立てずに、急いでバーに続く廊下を進み、その場から姿を消した。暫くして食堂のドアが開き、ウィーズリー夫妻とイオが、階段を昇っていく音が聞こえた。

 

 『ネズミ栄養ドリンク』の瓶は、午後に皆がディナーを摂るために座ったテーブルの下に落ちていた。ハリーとイリスは、それぞれの部屋のドアが閉まる音が聴こえるまで、テーブルの下にしゃがんで静かに待った。

 

 バーの中の静けさは、ハリーに――自分でもどうしてだか分からないが――”家を出た時の記憶”を呼び起こさせた。

 

 静まり返った夏の夜、トランクを引き摺り、息を弾ませ、いくつかの通りを歩いて、マグノリア・クレセント通りの低い石垣にがっくりと腰を下ろしたのを覚えている。まだ治まり切らない怒りが体中を駆け巡り、心臓が狂ったように鼓動していた。誰も助けてくれる人はいない。お金もない。ホグワーツの親友達――ロン、ハーマイオニー、それからイリスの事が、何度も頭をよぎった。爆発しそうな怒りと憎悪、一人ぽっちの強烈な寂しさと、これからどうなるのだろうという漠然とした不安がせめぎ合い、夏の蒸し暑い夜なのに、体と心は氷のように冷たかった。

 

 ――『あの子は、私の全てだ』ふと、あの時のイオの声が、ハリーの耳にこだました。

 

 ハリーは幼い頃からずっと、『両親だけが子供を愛してくれるのだ』と思っていた。バーノンおじさん、ペチュニアおばさん、マージおばさんが意地悪で自分を愛してくれないのは、自分の”両親”ではないからだと。実際、ハリーの周囲は両親がいる子供ばっかりだったし、その子たちは皆、愛されていた。ハリーはそう思う事で、不幸な境遇にある自分を納得させようと努力した。

 

 しかし、イリスのおばは違った。イオはイリスの”両親”ではないのに、イリスを心から愛していた。そんな二人の様子を見るうちに、ハリーは”もしかしたら”と思うようになった。――”両親”ではなくとも愛してくれるのなら、もしかしたら僕だって――。

 

 けれど、それは間違いだと、あの夜、ハリーは嫌という程思い知らされた。どれだけ贔屓目に見ても、ダーズリー一家が自分に愛情の一欠けらさえ見出していない事は、明らかだった。

 

 ハリーは唇を噛み締めながら、残酷な真実を受け入れるしかなかった。――イリスのおばさんは、親戚だ。でも、彼女を愛してる。でも僕の場合は、違うんだ。分かってたことじゃないか、昔から。僕は”愛情”なんて無くても、生きていける。ずっとそうしてきたじゃないか。

 

 ――ハリーは強い子だった。しかし、イリスとイオの関係を見続けた事で、心に少し”綻び”が出来てしまった。それを早く塞がなければ。そうしなければ、そこから今まで我慢してきた”何か”が溢れてきそうな気がして、ハリーはギュッと両手を強く握り締めた。

 

 ふと、ふわりと暖かな感覚と、優しい”百合(リリー)”の香りがした。――イリスが、ハリーを抱き締めている。

 

「どうして?」

 

 ハリーが茫然とした声で尋ねると、イリスは彼の片頬に、自分の頬っぺたを重ねながら言った。

 

「今、ハリーがとても辛そうな顔をしてたから。私、いつも辛い時は、おばさんにこうしてもらうの。そうしたら、落ち着くんだ」

 

 イリスの肩越しに見えたバーの扉が、あっという間に、涙で滲んでぼやけていく。

 

 ――ハリーの心の一番奥の、取り返しのつかない穴が開き、冷たい風が吹き荒ぶ所を、イリスが絆創膏を貼り、塞いでくれたような気がした。ハリーの心の傷は――両親が幼くして亡くなり、冷たい親戚に育てられた辛い記憶の数々は――決して癒される事はない。けれどその時、確かにイリスはそこにいて、労わりを持ってその場所を撫でた。それだけで、ハリーの心はどれほど救われただろう。ハリーは『愛される』というのがどういう事か、少しだけ分かったような気がした。

 

 二人は暫くの間そこにいて、それから瓶を持って引き上げた。踊り場までやって来ると、フレッドとジョージが暗がりにうずくまり、声を殺して息が苦しくなるほど笑っていた。パーシーは、いまだにバッジを探すための大捜索を続けている。

 

「僕たちが持ってるのさ!」フレッドが笑い過ぎで掠れた声で囁いた。

「バッジを改善してやったよ」

 

 ジョージが持つバッジには「首席」ではなく「石頭」と書かれていた。――やおら、ガチャンという大きな音がして、一際大きなパーシーの沈痛な悲鳴が響き渡る。どうやら、何かの拍子に紅茶ポットを落とし、彼のガールフレンドであるペネロピー・クリアウォーターの写真を汚してしまったらしい。もうフレッドたちは、ひきつけを起こしそうなほどに笑い転げていた。

 

 ハリーとイリスは、ロンに栄養ドリンクを渡すついでに『ドンマイ』と言わんばかりに肩を叩いて去り、ハリーがイリスの部屋の前まで彼女を送った。ハリーは帰る道すがら、イリスから返してもらったパーカーを羽織った。――百合の良い香りがした。ハリーはその夜、一向に眠りに着く事が出来なかった。




ピーターの生きる事に対する必死さをイメージしたら、あんな感じに…。
アズカバン編は映画で、急にみんな大人っぽくなってダークファンタジー的な感じになっててめっちゃ衝撃を受けた記憶があるので、このSSでもそんな雰囲気を少し出せるように頑張ります。

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