ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Act2.クルックシャンクス

 イリスは受話器を戻した。年を経た男の赤ん坊のように泣きじゃくる声が、今もイリスの耳にこびり付いて離れない。高鳴る鼓動を落ち着けるために、彼女は自分の心臓に手を当て、深呼吸した。

 

 ――さっきのは、一体何者だったのだろう。自分が日頃聞き慣れている、独特のイギリス訛りの英語だったから、恐らく魔法界の人間で間違いないだろう。それから、『ブラック』って何だ?イリスは頭を捻った。人の名前だろうか、それとも単純に色?魔法界の人間なら知っている事なのだろうか。電話の前で突っ立ったまま考え事をしているうちに、俄かに玄関のドアが開く音がして、両手に買い物袋を提げたイオが帰って来た。

 

「ただいま。何かあったか?」

 

 ドサッと買い物袋を居間のテーブルに置き、イオは何気なくイリスに問いかける。イリスが口を開こうとした途端、また電話が唐突に鳴り始めたので、彼女は驚いて跳び上がった。イオはその様子に苦笑しながら、イリスの頭をポンと軽く叩いて受話器を取り当てる。

 

「はい、出雲ですが。・・・ああ、アーサーさんか。エジプトはどうだった?」

 

 イオの日本語は、途端に親し気な英語へと切り替わった。イオは手短に電話を終えると、イリスに優しく言った。

 

「さ、イリス。今から荷物をまとめて、明日の朝イギリスへ出発だ。アーサーさんが、一足先に『漏れ鍋』へ来ないかってさ。もう九月まで日数もないし、学用品も揃えないとな」

「うん!」

 

 イリスは元気良く頷いた。ロンたちに会える。心の中いっぱいに幸せの風船が膨らみ、イリスはまるで花が咲くように、愛らしく微笑んだ。

 

 

 明朝、二人は飛行機でイギリスへ飛んだ。大勢の人でごった返す空港や街、地下鉄をやり過ごし、無事『漏れ鍋』へ到達する。――古びたドアを開けると、バーのカウンターにアーサーとロンがいて、その隣にはハーマイオニーがいた。

 

「イリス!」

 

 イリスを見つけた途端、二人は一目散に彼女の元へ駆け寄り、ハーマイオニーがギュッとイリスを抱き締めた。イリスはその時、ハーマイオニーから良い匂いがするのに気付いた。――華やかで上品な薔薇の香りだ。改めて二人の外見をじっくりと見ると、ロンはそばかすの数が前よりもずっと増えていたし、ハーマイオニーはこんがりと小麦色に日焼けしていた。夏休み中、ロンはエジプトへ、ハーマイオニーはフランスへそれぞれ旅行に行っていたのだ。イリスは大好きな親友達に会えた喜びで、ふわふわ浮き上がるような気持ちに身を任せながら、明るい口調で言った。

 

「久しぶり!二人共、エジプトとフランスはどうだった?」

「もう最っ高さ!」ロンが上機嫌で答えた。

「フランスもとっても素敵だったわ。興味深い魔法史の文献をいくつも読んだの。私、それで「魔法史」のレポートを全部書き替えちゃった!」

 

 ハーマイオニーが朗らかにそう言うと、ロンは不満げにため息を吐いた。

 

「ひどいんだぜ、彼女。僕が『書き替える前のをくれよ』って言っても、くれないんだよ」

「当たり前でしょ!」ハーマイオニーが腕組みをしながら、ジロリとロンを睨み付けた。

 

 もう日常茶飯事となったこの二人の口論を聴いているうちに、イリスは陽だまりにいるような温もりを感じて、柔らかに微笑んだ。不意にロンがポケットをゴソゴソ探り、何かを取り出してイリスに手渡した。――それは、硝子製のミニチュア独楽のようなものだった。イリスの掌の上で、先端でバランスを取ってしっかり立っている。

 

「エジプトのお土産。”かくれん防止器(スニーコスコープ)”っていうんだ。胡散臭い奴が近くにいると、光ってクルクル回り出すはずだよ。ハリーのもそれにしたんだ。君たちには特に必要か(・・・・・)と思ってさ」

「ありがとう、ロン」

 

 イリスは”かくれん防止器”をまじまじと見つめた。とても可愛らしい外見だ。それに小さいから、ポケットに入れて持ち歩くのにも丁度良い。イリスが嬉しそうにお礼を言うと、ロンは照れ隠しなのか、鼻を仕切りに擦りながら言った。

 

「でもそれ、ちょっと壊れてるかもしれない。前にエジプトで・・・あーあ!やっぱり!」

 

 ロンが話の途中で、露骨にがっかりした声を出した。”かくれん防止器”がイリスの掌の上で、急にピカピカと光りながらクルクル回り始めたからだ。イリスは驚いて、思わずそれを落としてしまった。丁度ロンの足元までよろよろ歩いて来ていたスキャバーズに、落下していく”かくれん防止器”がぶつかりそうになり、スキャバーズは慌ててロンの足を駆け上がって、彼の内ポケットに収まり事なきを得た。 

 

「まったく!こいつ、僕が近くにいたら、とにかくずっと光りっぱなしなんだよ。エジプトの寂れた露店で買ったから、不良品でも掴まされたかな?」

「あら、貴方が『胡散臭い奴』だからじゃない?」ハーマイオニーがクスクス笑いながら言った。

マーリンの髭(冗談じゃないぜ)!ゴメン、イリス。君たちのお土産もハーマイオニーのと同じ、”香水瓶”にすれば良かったよ」

 

 イリスは驚いて、思わずロンを見上げた。彼の口から”香水瓶”なんてお洒落な単語が出るなんて、思わなかったからだ。ハーマイオニーは何故か少し頬を赤らめ、口元は愛らしくきゅっと上がっている。――しかしその笑みは、ロンの続く言葉で跡形もなく掻き消された。

 

「”かくれん防止器”一つ買ったら、『あと一つ買ったら”香水瓶”をオマケする』って商人が言ったから、買ったんだ。でもこんなことなら、三つとも”香水瓶”にすりゃよかったなあ。”香水瓶”の方がちょっと安かったし。・・・アイタッ!何するのさ、ハーマイオニー!!」

「貴方に、ちょっとでも、期待した方が、バカだったわ!」

 

 ハーマイオニーは今度は怒りで顔を真っ赤に染め、くしゃくしゃに握り締めた”日刊予言者新聞”で、ロンを叩いていた。

 

「期待って何を?」ロンが涙目で尋ねた。

「もういいわよ!行きましょ、イリス。ハリーを探さなきゃ」

「――なら、一緒に行っておいで。金庫の鍵も渡しておくよ。あと、これは預かっておこう」

 

 二人の様子を見ていたのか、今にも吹き出しそうな顔をしたイオが、金色の鍵をイリスに手渡し、”かくれん防止器”を摘まみ上げながら、優しく言った。ようやく落ち着いたハーマイオニーは、”日刊予言者新聞”をきれいに折り畳んで自分のカバンに戻した。イリスは、ハリーのふくろうのヘドウィグと仲良くお喋りを始めたサクラにお別れを言ってから、二人と一緒に『漏れ鍋』を出た。

 

 

 三人は、まず”グリンゴッツ銀行”へ行って、イリスの金庫で今学期必要な分の貨幣を下ろした。その後、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店で、とんでもなく凶暴な「怪物的な怪物の本」なる教科書を始めとした、三年生を迎えるに当たって必要な教科書を買い(ハーマイオニーだけは――驚くべき事に――三年次の全ての授業の教科書及び、それらに関連する本をどっさり買い込んでいた)、マダム・マルキンの洋装店で制服の丈を調整してもらったりした。三人は学用品を買い足す道すがら、ハリーを探して横丁中を彷徨い歩いた。しかし、彼はどこにもいない。

 

 ――ハリーを探している間、イリスはロンから、ハリーについての”驚くべき情報”を聞いた。何でも夏休み中、ダーズリー家に遊びに来た叔母と口論になり、ハリーが激昂した拍子に魔法が暴発して、彼女を風船のように膨らませてしまったらしい。その後、一人ぽっちで家を出たハリーは、イギリスの迷子の魔法使いや魔女の御用達バスと呼ばれる『夜の騎士(ナイト)バス』に運良く乗る事ができ、無事『漏れ鍋』へ辿り着いた。そこへ、ハリーの行方を捜索していた魔法大臣ファッジが合流した。しかし、彼はハリーに注意をしただけで、退学にはしなかったそうだ。――イリスは一連の話を聞き終わると、ハリーの心情を思い、唇を噛み締めた。ハリーは思慮深く優しい子だ。そんな彼を、魔法が暴発するまでひどい言葉で追いつめるなんて。ハリーの親戚は、やはり彼の言う通り、心ない人たちばかりなのだろう。

 

 どれだけ探しても、依然としてハリーの姿は見当たらない。三人はやがて疲れ果てて、一旦休憩を取るために、フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのテラスに落ち着き、チョコレート・サンデーを注文した。日当たりの良いテラスの椅子に腰掛けたところで、不意にロンが嬉しそうに叫んだ。

 

「ハリー!ハリー!」

 

 イリスが振り返ると、通りを往来する人込みの中に、――ハリーがいた。ハリーはテラスに座る三人を見つけた途端、零れるばかりの笑顔を浮かべた。イリスは嬉しくなって席を立ち上がり、一目散にハリーの元へ駆け寄って行った。

 

「久しぶり!元気にしてた?」

「ああ。まあ、残りの二週間はね。あと、プレゼントありがとう」

 

 ハリーの傍まで来ると、彼の背は少し伸び、声も少し低くなっていた。きっと声変わりだろう。ハリーはイリスの頭を愛おしげに撫でると、照れ臭そうに、上質そうな素材のリストバンドをチラッと見せた。――イリスは、いつも汗びっしょりになってシーカーを頑張っているハリーのために、日本製の最高級素材を使った、スポーツ用のリストバンドとタオルセットをプレゼントにしたのだ。

 

「ううん。とっても質が良いのにしたから、どれだけ汗を拭いてもサラサラだよ!」

「助かるよ。これでより一層、頑張れそうだ」

 

 二人が一緒に席に座ると、ハーマイオニーはサンデーをもう一つ注文し、ロンが明るく話しかけた。

 

「僕たち、君を探しに『漏れ鍋』に行ったんだけど、もう出ちゃったって言われたんだ。書店や洋装店にも行ってみたんだけどさ」

「ああ。僕、学校に必要なものは先週で全部、揃えてしまったんだ。それよりも、『漏れ鍋』に泊まってるってどうして知ってたの?」

 

 ハリーが首を傾げながら尋ねると、ロンは「パパさ」と屈託なく答えた。

 

「ねえ、ハリー。貴方ホントに叔母さんを膨らましちゃったの?」

 

 話の流れを切り、ハーマイオニーが大真面目な口調でハリーに問いかけた。何だかそれが可笑しくて、ロンとイリスは揃って吹き出してしまった。そんな二人の様子を見て、つられてハリーも唇の端っこが今にも笑い出しそうにひくひくしながらも、彼女に合わせ、いかにも真面目くさった態度で答えてみせる。

 

「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、僕ちょっと、――キレちゃって」

 

 それがツボにさらに入り込んだのか、今やイリスとロンはお腹を抱えて笑い転げていた。

 

「二人共、笑うような事じゃないわ」ハーマイオニーは窘めるように言い放った。

「ホントよ。むしろ、ハリーが退学にならなかったことが驚きだもの」

「僕もそう思ってる」

 

 ハリーは、その時の状況を思い返しているのか、真剣な表情に戻って言った。

 

「退学処分どころじゃない、逮捕されるかと思った。だって僕、規則を破ったんだもの。去年、ドビーがうちでデザートを投げつけただけで、僕は公的警告を受けたのに。・・・ロン、大臣がどうして僕のことを見逃したのか、君のパパ、ご存じないかな?」

「たぶん、君が君だからだよ。違う?」

 

 ロンが、世の中大抵そんなもんだと言わんばかりに、肩を竦めて見せた。

 

「だって君は『有名なハリー・ポッター』なんだから。いつものことさ。叔母さんを膨らませたのがもし僕だったら、きっとまず大臣は僕を捕まえるのに、スコップを持って来ないといけないだろうね。だって、きっと僕、ママに殺されて、うちの庭にでも埋められちゃってるよ。・・・おい、イリス、笑いすぎだろ。

 とりあえず、今晩パパに直接聞いてみるよ。ハリー、僕たちも『漏れ鍋』に泊まるんだ。だから、明日は僕たちと一緒にキングズ・クロス駅まで行ける。ハーマイオニーとイリスも一緒だよ!」

「ワオ、最高!」ハリーが嬉しそうに叫んだ。

 

 

 その後、四人は届いたサンデーに舌鼓を打ちながら、他愛無いおしゃべりに興じた。ロンは新しく買ってもらった自分用の杖(『三十三センチ、柳の木、ユニコーンの尻尾の毛が一本』と、何度も自慢げに繰り返すので、イリスは耳にタコが出来そうだった)を見せびらかし、『怪物本』をどうやったら読む事が出来るのかについて議論し、ハーマイオニーの取る今期の授業量の多さにびっくりしたりした。話が一区切りついたところで、ハーマイオニーが財布を覗き込みながら言った。

 

「私、まだ十ガリオン持ってるわ。私のお誕生日、九月なんだけど、ママが一足早くプレゼントを買いなさいって、お小遣いをくださったの」

「じゃあ、ご本(・・)なんていかが?」ロンが瞳を瞬かせ、乙女チックな口調で聞いた。

「お気の毒様」ハーマイオニーは動じず、冷静に返した。

「私、ふくろうを買うつもりなの。だって、ハリーにはヘドウィグ、イリスにはサクラがいるし、ロンにはエロールがいるでしょう?」

「エロールは僕のじゃなくて、家族共有のふくろうなんだ。僕にはスキャバーズだけだよ」

 

 ロンはそう言うと、内ポケットからスキャバーズを引っ張り出した。――さっきは動いていたので気付かなかったが、よく見るといつもより随分痩せているし、髭は見るからにだらりとしている。

 

「どうしたの。ずいぶん弱ってるみたい」イリスが心配そうに、横たわるスキャバーズに手を伸ばした。

「ウン。最近、弱っていく一方なんだ。あんまり餌も食べない。どうも、エジプトの水が合わなかったらしくて」

 

 ロンも心配そうにスキャバーズを覗き込んでいたが、やがてパチンと指を弾いて、期待に満ちた目でイリスを見た。

 

「そうだ!イリス、スキャバーズに聞いてみてくれよ。どこか気分が悪いかとか、何をしたら元気になるか、とかさ」

 

 その時、スキャバーズがロンの言葉に反応したかのように、黒い目をパチッと開けてイリスを見た。そしてよたよたと立ち上がると、小さなイリスの手に縋り付こうとしながら、チューチューと鬼気迫る様子で鳴き始める。

 

「・・・あれ?」

 

 しかし、スキャバーズの声は、何時まで経ってもネズミの鳴き声のままだ。”人間の言葉に変換されない”。そんなイリスの事情を知らないスキャバーズは、彼女の手にしっかりと掴まって、依然として何かを一生懸命訴え続けている。――やがて、茫然とスキャバーズを見つめるばかりのイリスに痺れを切らし、ロンが尋ねた。

 

「ねえ、何て言ってるんだい?」

「・・・わからない」

「エ?」素っ頓狂な三人の声がハミングした。

「スキャバーズの言葉がわからないの。どうしてなんだろう?」

 

 イリスは首を傾げた。どうして蛇でもないのに、急に”スキャバーズの声だけ”わからなくなってしまったんだろう。しかし、イリスの言葉はスキャバーズには伝わっているらしく、スキャバーズは見るからに落ち込んだ調子で、テーブルに突っ伏してしまった。

 

「君の言葉は、スキャバーズにはわかってるみたいだね」とロン。

「受信だけ出来なくて、送信だけ出来る状態ってことかしら?」とハーマイオニー。

「でも可笑しいな、ついさっきまで、サクラとお話しできてたのに」

 

 イリスは困り果てて、うな垂れるばかりのスキャバーズを見つめた。――今までどんなに体調が悪くても、蛇以外の動物(果ては植物までも)とは問題なく会話出来ていたはずなのに。もしかして、魔法が一時的に弱くなっているのだろうか。それとも、スキャバーズ自身が弱っている事と、関係性があるのだろうか。スキャバーズを助けてあげたいのに。顎に手を当て、考え込むイリスを見て、ハリーが口を開いた。

 

「ウーン。そうだ、すぐ近くに『魔法動物ペットショップ』があるよ。そこに行かない?そうしたら、イリスはホントに魔法の調子が悪いのか確かめられるし、ロンはスキャバーズ用に何か探せるし、ハーマイオニーはふくろうが買える」

 

 ハリーの言葉は、ごちゃごちゃになった場の空気を、一瞬でまとめ上げた。四人は手早くサンデーの残りを掻き込むと、席を立ち上がった。

 

 

 『魔法動物ペットショップ』の内部は、壁じゅうにびっしりとケージが敷き詰められていて、とても狭苦しかった。色んな動物の臭いがごちゃ混ぜになってプンプンする上に、ケージの中で動物たちがひっきりなしに騒ぐので、とにかく喧しかった。

 

 イリスは店に入った瞬間、自分の魔法が正常に働いている事を、難なく確認できた。――店中の彼方此方から、≪買ってくれ!≫だの≪腹減った!≫だの、好き勝手な動物たちの叫び声が、人間の言葉に変換されて耳に飛び込んで来たからだ。店の奥にあるカウンターでは、店員の魔女が、二又のイモリの世話を先客の魔法使いに教えているところだったので、それを待っている間、イリスは三人に話しかけた。

 

「やっぱり、ちゃんと聴こえるよ。スキャバーズの時だけ、ダメみたい」

「そっか。もしかして、こいつと君の波長が合わないのかな。ていうか、今までこいつと話したことあった?」

 

 ロンに指摘され、イリスは今までの記憶の糸を辿った後、首を横に振った。そう言えば、スキャバーズは今までずっと、寝ているか、何かを一生懸命食べているかで、何かの言葉を発した事すらなかったからだ。やがて二又イモリの先客がいなくなると、ロンがカウンターへ行った。

 

「僕のネズミなんですが、エジプトへ帰って来てから、ちょっと元気がないんです」

「フム。カウンターへバンと出してごらん」

 

 黒縁眼鏡を取り出した魔女に促され、ロンはスキャバーズを内ポケットから取り出し、同類のネズミのケージの隣に置いた。楽しそうに飛び跳ねていたネズミたちは遊びを止め、よく見えるように押し合いへし合いしながら、金網の前に集まった。――スキャバーズは哀れな事に、そのケージ内の毛艶が良いネズミと比べると、より一層しょぼくれて見えた。

 

「このネズミは何歳なの?」スキャバーズを慎重に摘み上げ、魔女は尋ねた。

「知らない。けどかなりの歳。前は兄のものだったんです」

「どんな力を持ってるの?」

「えーっと・・・」

 

 途端にロンは言葉に詰まり、助けを求める様にイリスをチラッと振り返った。しかし、今までスキャバーズとろくにコミュニケーションを取って来なかったイリスに分かるはずもなく、首を横に振るしかない。魔女の目が、スキャバーズのボロボロの左耳から、指が一本欠けた前足へと移った。それからチッチッと大きく舌打ちした。

 

「満身創痍も甚だしい。随分とひどい目に遭ってきたようだね、このネズミは」

「もらった時から、こんな感じでした!」ロンは弁解するように言った。

「あいわかった。まぁね、こういう普通の家ネズミは、せいぜい三年の寿命なんですよ。つまり、老衰だろうね。もっと長持ちするのがよければ、例えばこんなのが・・・」

 

 魔女が意味ありげに言葉を途切らせ、ケージの中の黒ネズミに目配せすると、ネズミは途端に自分の尻尾で縄跳びを始め、ロンに対して盛んに自己アピールをした。しかし、ロンの反応がイマイチなのを見て取ると、魔女は今度は、カウンターの下から小さな赤い瓶を取り出した。

 

「では、この『ネズミ栄養ドリンク』を使って、暫らく様子を見てあげてください」

「OK。いくらですか?・・・アイタッ!!」

≪みんな離れろっ!!そいつは危険だ!!≫

 

 ――その時、耳をつんざくような大絶叫が聞こえて、イリスは思わず耳を塞いだ。彼女の目の前で、何やら大きなオレンジ色のボールのようなものが、一番上にあったケージの上から飛び降り、ロンの頭に荒々しく着地した。

 

 ――それは、オレンジ色の毛がふわふわとした、一匹の猫だった。

 

≪怪しいやつめ!!オレの目は誤魔化せないぞ!!≫

 

 猫は叫びながら、痛みに悶絶するロンの頭から更なるジャンプを強行し、前足に付いた鋭い爪をぎらつかせて、魔女の持つスキャバーズに襲い掛かった。

 

「コラッ!クルックシャンクス、ダメッ!!」

 

 魔女がスキャバーズを抱え込もうとしながら、猫に向かって怒鳴った。身の危険を感じたスキャバーズは、するりと石鹸のようにその手を擦り抜けて、無様にベタッと床に落ちた。そして、出口目掛けて小さな手足を高速で動かし、横丁の人込みの中へ消えていく。「スキャバーズ!」とロンが叫びながら、夢中でその後を追いかけ、脱兎のように店を飛び出し、ハリーも後に続いた。カウンター上で素早く方向転換し、出口へ向かおうとする猫の行く手を、イリスは必死に塞いだ。

 

「やめて、スキャバーズを傷つけないで!」

 

 猫は、研ぎ澄まされた刃のような鋭利さと、豊かな知性の詰まったような、その不思議な瞳を細めて、冷静にイリスを見つめた。――まるで、イリスが動物の言葉を解するのを、最初から知っていて、そしてそれは何でもない事だ、と思っているかのように。そして猫は、静かに口を開いた。

 

≪アンタ、ネズミの飼い主に警告しろ。”あいつの正体はネズミじゃない”≫

 

 そして猫は、呆気に取られるイリスの目の前で、あえなく店員の魔女にがっしりと抱っこされてしまった。

 

「全く!お前ってやつは!ダメでしょ!」

「ま、待ってください!」

 

 抱っこされて身動きが取れず、真正面から怒られるままになっていた猫と魔女の間に、ハーマイオニーが必死で割って入った。

 

「その子、クルックシャンクスっていうんですか?」

「ええ、そうですよ」

 

 魔女は猫からハーマイオニーに顔を向けると、輝くばかりの営業スマイルになっていた。クルックシャンクスと呼ばれた猫は、ハーマイオニーを見た途端、そのとびきり気難しそうな顔が――まるで暖炉の上でドロドロに溶かした美味しいヌガーのように――フニャンと柔らかくなったように、イリスには思えた。ハーマイオニーは魔女と手短に商談を終えると、輝く笑顔でイリスを見た。

 

「この子、とっても可愛いわ。私、この子をペットにする!」

 

 カウンターでハーマイオニーが、クルックシャンクスを迎え入れる手続きをするのを見守りながら、イリスはさっきの彼の言葉を何度も思い返していた。胸がざわざわと騒ぎ、落ち着かない。――”スキャバーズの正体はネズミではない”。この言葉がもし真実だとするなら、一体スキャバーズは何だと言うのだろう。

 

 

 二人と一匹が店を出ると、無事スキャバーズを捕獲出来たロンとハリーに合流した。しかし、ハーマイオニーがクルックシャンクスを愛し気に抱えているのを見ると、二人は驚愕に目を見開いた。

 

「君、まさか、あの怪物を買ったのか?」ロンは口をあんぐり開けていた。

「そいつ、危うく僕の頭の皮を剥ぐつもりだったんだぞ!」

「そんなつもりはなかったのよ。ねえ?」

 

 ハーマイオニーは上機嫌で、愛猫の喉をくすぐった。クルックシャンクスは満足気に喉を鳴らし、愛する飼い主に身を寄せる。その様子を、理解しがたいものを見るような目で見ながら、ロンが辛辣に言い放つ。

 

「全く、スキャバーズのことはどうしてくれるんだい?イリス、そいつによく言い聞かせてくれよ。『スキャバーズはお前の餌じゃない』ってさ」

≪イリス。ロンに”さっきのこと”を言え。オレのところにそいつを持ってきてくれたら、その言葉が真実であると必ず証明してみせる≫

 

 クルックシャンクスが、鋭い目付きで油断なくスキャバーズを睨みながら、イリスに言った。イリスとクルックシャンクスの目が交錯する。――イリスは、彼がとても嘘を吐いているようには見えなかった。イリスは小さな声で囁くように、彼に尋ねた。

 

「スキャバーズの正体がネズミじゃないなら、一体何だっていうの?」

≪わからない。それを確かめるんだ。オレが今の段階ではっきりと分かるのは、”そいつがネズミの皮を被った怪しいやつだ”って事だ≫

「スキャバーズが、他の誰かに成り代わられてるって事?本物のスキャバーズが、どこかに閉じ込められてるの?」

≪だから、それを確かめるんだ≫クルックシャンクスはイライラとした様子で、ふわふわの尻尾を左右に振った。

≪イリス、早くしてくれ。あんな胡散臭いやつを、オレの飼い主に近づけたくない≫

「わかったよ。でも、彼を傷つけないって、約束する?」

 

 クルックシャンクスは微かに頷き、イリスの心は決まった。彼女は意を決して、その場から一歩踏み出し、ロンに言った。

 

「ロン。こんなことを言うと、きっとロンは驚くと思うけど・・・聴いてほしいの」

「何?」ロンが素っ頓狂な声で聞いた。

 

 イリスは真っ直ぐな瞳でロンを見据え、戸惑いながらも、静かにこう言った。

 

「その子が教えてくれたの。”スキャバーズの正体はネズミじゃない”って。”自分のところに連れてきてくれたら、それを証明する”って言ってる」

 

 ――三人は、呆気に取られたようにイリスを見つめた後、一斉に吹き出した。ハーマイオニーも苦笑しながら、腕の中のクルックシャンクスへ、悪戯っ子を見るような眼差しを送る。

 

「えーと・・・君、自分が何言ってるか分かってる?」とロン。

「わかってるよ」

 

 イリスが引き下がる様子を見せないでいると、ロンはスキャバーズを大事そうに抱え直しながら、不機嫌そうに言った。

 

「イリス。何年も僕と一緒にいたスキャバーズより、このポッと出の猫の話の方を信じるっていうのかい?」

「私もスキャバーズのことは大好きだよ。でも、クルックシャンクスが嘘をついてるようには見えないもん」

 

 イリスがクルックシャンクスの方を擁護すると、ロンはますます不機嫌さを募らせた。

 

「僕にはそうは思えないね。”こいつがネズミじゃない”だって?どこからどう見たって、こいつはネズミそのものだよ!きっとその凶暴猫が、スキャバーズを平らげたい為についた嘘だ。馬鹿な僕らが信じ込んで、スキャバーズをそいつの鼻先まで持って行ったら、これ幸いとペロリといっちゃおうって算段だったのさ!」

「まあ、凶暴だなんて!こんなに可愛いのに、なんてひどい事を言うの!」

 

 ハーマイオニーが、ロンに『ネズミ栄養ドリンク』を渡すついでに、彼に食って掛かった。――結局三人は、イリス(というよりクルックシャンクス)の話を、全く信じてくれなかった。余りにも突拍子の無い話は、たとえ真実でも、素直に受け入れられるとは限らない。大事そうにロンの内ポケットに仕舞われるスキャバーズを睨みながら、クルックシャンクスが不満そうに≪失敗した≫と一鳴きした。一体、どうしたらいいんだろう。頭の中で色んな情報が錯綜し、無意識に救いを求める様に彷徨ったイリスの瞳は、やがて動物ショップの外壁に貼られている一枚の紙に吸い寄せられた。

 

 ――それは”指名手配書”だった。写真には、もつれた長い髪の頬のこけた男が映っており、彼はイリスを見てゆっくりと瞬きした。そしてその下には、恐らく写真の人物のものだろう、『シリウス・ブラック』という名前が印字されている。

 

 ――その時、イリスの頭の中を一筋の電流が駆け抜けた。『ブラック』。その言葉が、あの知らない男の警告と、バシッとリンクする。――そうだ。イリスは息を飲んだ。男はイリスに、”シリウス・ブラックに気を付けろ”と言いたかったのだ。イリスはその場に縫い付けられたかのように、暫くの間、動く事が出来なかった。

 

「どうしたの?」

 

 やがてイリスの様子を訝しく思い、近寄ってきたハリーが、ブラックの指名手配書を見て言った。

 

「マグルのニュースにもなってたよ。知らない?・・・日本までは来てないか。最近、アズカバンから脱獄したらしいんだ」

 

 続いてやって来たハーマイオニーが、カバンからまだ少し皺の残る”日刊予言者新聞”を見せてくれた。それには一面の見出しに、こう書かれている。

 

 ――”ブラックいまだ逃亡中”

 魔法省が今日発表したところによれば、アズカバンの要塞監獄の囚人中、最も凶悪と呼ばれるシリウス・ブラックは、いまだに追跡の手を逃れて逃亡中である。・・・ファッジ大臣は、この危機をマグルの首相に知らせた事で、国際魔法戦士連盟の一部から批判されている。・・・魔法界は、ブラックがたった一度の呪いで十三人も殺した、あの十二年前のような大虐殺が起きるのではないかと恐れている。――

 

 イリスは、新聞を持つ手が、恐怖でジーンと痺れ、凍り付いていくように感じられた。まさか、『ブラック』がこんなに――アズカバンで最も凶悪と言われる程――恐ろしい魔法使いだったなんて。しかもあの後、ロンたちに会えるのが嬉しくて、イオに電話の事を言うのをすっかり失念していた事も、イリスを更なる恐怖に駆り立てた。イオに大目玉を喰らう自分の姿が、容易にイメージ出来たからだ。

 

 気が付けば、ハーマイオニーとロンも喧嘩を止め、クルックシャンクスでさえも、心配そうに自分を見つめている。イリスはふと、三人に”隠し事はしない”と約束をした事を思い出した。そして彼女はおずおずと、三人に”電話事件”の顛末を話して聞かせた。――話を聞き終わると、三人の表情は険しくなり、眉間には皺が寄っていた。普段のスネイプ先生にそっくりだ、と不謹慎ながらイリスは思った。

 

「そっちの方が、大事件じゃないか!おばさんに言ったの?」

 

 ハリーの叱責に、思わず肩を竦めたイリスが気まずそうにかぶりを振ると、三人はやれやれと言わんばかりに溜息を吐いた。

 

「貴方って、ホント肝心なところで、いつも抜けてるんだから。とりあえず、スキャバーズの事は置いておきましょう。『漏れ鍋』へ戻らなきゃ」

 

 四人はそれぞれ荷物を持ち直すと、『漏れ鍋』に向かって歩き出した。

 

 

 

 


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