ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

35 / 71
※11/23 文章微調整完了しました。


アズカバンの囚人編
Act1.不思議な電話


 イリスは、九と四分の三番線のホームから魔法の柵を通り抜けた途端、誰かに息が止まるほど強く抱き締められた。

 

「イリス!」

 

 ――イオおばさんだった。今のイリスにとってその声は、世界で一番安心出来るものだった。イオはイリスの肩を掴んで少し体を離すと、涙を一杯に湛えた瞳で、愛する姪を心配そうに見つめ、苦痛に喘いだ。まるでイリスを”秘密の部屋”に送り込んだのは自分だ、と思っているかのように。

 

「どこも怪我は?ああ、わたしが不用心だった!わたしのせいだ、わたしのせいでお前が――!」

「落ち着きなさい、イオ」

 

 取り乱した様子のイオの後方から、穏やかな声がした。イリスが顔を上げると、くたびれたローブを羽織った細身の魔法使い――ロンのパパ、アーサー・ウィーズリー氏だ――が、イオを宥めるように、その肩へ手を置いている。それから彼はイリスに目をやり、朗らかに微笑んだ。

 

「やあ、イリス。また会ったね」

 

 しかしイリスはイオにしがみ付いたまま、返事も笑顔も返す事が出来なかった。

 

 ――それには理由がある。アーサーは、今のところイリスに対して好意的な態度を取ってくれている。だがそれは、”ルシウス・マルフォイもそうだった”からだ。

 

 アーサーさんだって、もしかしたらルシウスさんみたいに――イリスの脳内で、自分に乱暴を働くルシウスの姿がフラッシュバックし、彼女は唇を固く引き結んだ――もう、あんな目に遭うのは嫌だ。”秘密の部屋”事件の経験を通して、イリスは『余り面識がないのに愛想の良い大人は、用心するべき対象だ』という事も学んでいた。

 

 イオはそんなイリスの頭を労し気に撫でると、振り返ってアーサーを見ながら語り掛けた。

 

「イリス。アーサーは大丈夫だ。彼が、あいつの手先からわたしを助けてくれたんだよ」

 

 イリスは、あの時のダンブルドアの言葉を思い起こした。――つまり、アーサーが”偶然観光中だった知り合い”だったのだ。『彼がイオおばさんを助けてくれた。彼は味方なんだ』。イリスは心の中で何度も自分にそう言い聞かせ、おずおずとアーサーを見上げて、謝罪の言葉を口にした。しかし彼は、ゆっくりと首を横に振り、こう言った。

 

「いや、いや・・・私を警戒するのは、当然の事だ。謝りたいのは私の方だよ、イリス。君が連れ去られたと聞いた時、何とかして君を・・・あー、”彼”から離そうと努力したのだが・・・」

 

 アーサーはそこで言葉を区切り、悔しそうに歯噛みした。ルシウスの事を”彼”と濁したのは、イリスに気を遣ったためだろうという事は、誰でも容易に推測出来た。イリスはじっと、縋るようにアーサーの瞳を見つめた。――そこには、かつてイリスが恐怖を抱いたルシウスのような鋭利さはなく、素朴な暖かみだけがあった。

 

 イリスはやっとアーサーを信じる事が出来た。彼は「駅の出口まで一緒に歩こう」とイリスに持ち掛け、前方で待っているイオやモリー夫人、子供たちに、先に行っているよう伝えた。ロンだけは、心配と好奇心を剥き出しにした目で二人を見ていたが、やがてモリー夫人に呼ばれ、彼女の傍へと駆けて行った。アーサーはイリスを促して、人込みを掻き分けながらゆっくりと歩き出す。イリスは、燃えるような赤毛の人々に囲まれるようにして歩くイオの後姿を見ながら、ぼんやりと歩いた。

 

「イリス。おばさんの事は心配ご無用だよ。我々が目を光らせているし、何よりおばさん自身も強い。正直なところ、私の手助けすら、いらなかったくらいだからね」

 

 その目線の先を見透かしたように、アーサーがおもむろに口を開いた。イリスが驚いて見上げると、彼は疲れた顔に少し悪戯っぽい笑みを浮かべている。――フレッドとジョージにそっくりだ、とイリスは思った。アーサーは、両手で空中を殴るようなジェスチャーをしながら、おどけた調子で言葉を続ける。

 

「ボッコボコだったよ。・・・ああ、悪者の方が、だがね。危険だから家に隠れているよう指示したのに、まさか魔法をかけられる前に杖を奪い取るとは驚きだった。それからはマウントを取って、タコ殴りだよ。もう一人に失神呪文をかけた後、私が止めに入らなければ・・・(アーサーはそこでブルッと震えた)全く、君のおばさんの勇猛っぷりは、モリーと良い勝負・・・」

「何ですって、あなた?」たちまち前方から鋭い声が飛んできて、アーサーは縮こまった。

「な、何でもないよ、愛するモリーや」

 

 アーサーは慌てて答えた後、モリー夫人の注意が自分から逸れた瞬間、イリスに「地獄耳だ」といかにも恐ろし気に囁いたので、イリスは思わずプッと吹き出してしまった。彼女がやっと子供らしく笑ったのを見ると、アーサーは少し安堵したように溜息を零した。

 

「ダンブルドアから、今回の事を聞いたよ。――辛い決断だったろう。本当はずっと君と話をしてみたかったんだが、なかなか機会がなくてね。

 何が正しいのか、誰を信じてよいのか、分からない中で・・・君はまさしく”正しい道”を選び取った。本当に良く頑張った。君のご両親もきっと、君の事を誇りに思っているだろう」

 

 ”正しい道”。その言葉が、彼女の心に、不意にズシッと重く圧し掛かる。ダンブルドア先生に言われた時は、何とも不安に思わなかった。――けれど、マグル界へ戻り、頼りになる大人や友人達とも離れて一人きりになった今、それはイリスを勇気づける言葉から、重圧を与える言葉へと変貌してしまった。イリスは戸惑いながら言葉を探し、静かに口を開く。

 

「アーサーさん。・・・あの人が言ったんです。私も、私のお父さんも、本当は彼の”従者”になるのが正しい事なんだって。私のお父さんはそうならなかったから、裏切り者だって。

 でもダンブルドア先生は、何が正しいのかは、人じゃなくて自分が決める事だって仰いました」

 

 イリスは唇を舐め、一瞬言い淀んだ。ダンブルドアがイリスに対して求めているものは、たった十二歳の平凡な女の子が完全に理解するには、まだまだ複雑で、大きすぎるものだった。

 

「あの時は、ハリー達が助けてくれました。私がここにいるのは、みんなのおかげなんです。私一人じゃ、絶対できませんでした。

 でも、もしこれから先、今度は誰の助けもなく、私一人だけで、何が正しいかを決めないといけない時が来たとしたら?そう思うと、私・・・間違わないでいられるか、とっても自信がないんです」

 

 アーサーはイリスの言葉の意図を理解すると、歩みを止めた。イリスも思わず立ち止まり、じっとアーサーを見上げる。

 

「イリス。誰しもが人生において、正しい事と間違っている事の間で迷いながら、歩んでいくものだ。

 だが、君なら絶対に大丈夫だ。案ずる事は何もないんだよ。迷いそうになった時は、自分の胸に手を当てて、心に聞いてごらん。そして君の心の声に、素直に従いなさい。それはきっと”正しい事”だ」

「どうして”正しい”ってわかるんですか?」

 

 イリスは尋ねずにはいられなかった。すると、アーサーはこれ以上ない位に優しい目をして、彼女を頭を撫で、微笑んだ。

 

「君がこうして、元気に生きているからだよ」

 

 二人はまた歩み始めた。出口付近のロータリーで、イオが古ぼけたタクシーのトランクに、イリスの荷物をせっせと詰め込んでいる。アーサーはポケットから小さな茶色い包みを取り出すと、イリスに手渡した。促されて開けてみるとそれは――手のひらに乗る位の、小さなカセットレコーダーだった。

 

「ネーレウスから君へのプレゼントだ。本当は去年の夏に、君が遊びに来てくれた時、渡したかったんだが、諸事情で出来なくてね。元は彼の愛用品だった。私との力作だよ。ホグワーツでも壊れないし、”池電(・・)”要らずだ。おまけに”フォーンイヤー”付き」

 

 イリスは驚いて、それをまじまじと見つめた。お父さんが、こんな何の変哲もないカセットレコーダーが好きだったなんて。アーサーは嬉しそうに頬を綻ばせ、手を伸ばして、再生ボタンを押し込んだ。途端にスピーカーから、陽気で軽快な音楽が流れ始める。

 

「私と君のお父さんの友情は、これ(・・)から始まったんだよ。中のテープには、彼が好んだ音楽が――恐らく、君の一生分じゃないかな――入っている。

 元々マグルには無関心だった彼と、ちょっとした用事のついでに、たまたま話す機会があって・・・その時、私がこの――当時手に入ったばかりだった貴重な――レコーダーでマグル界の音楽を聴かせると、無類の音楽好きだった彼は、たちまち夢中になった。『マグルもこんな素晴らしい曲を作れるのか!』ってね。

 ――イリス。君のお父さんも、君と同じように、時に迷いながら”正しい道”を立派に歩み切った。でもそれには適度な休憩も必要だ。きっと彼にとって、これはそういったものだったのだろう」

 

 

 次の日、二人は無事に日本へ帰国した。イリスは車のフロントガラスから、徐々に近づいて来る出雲神社を見た途端、息を飲んだ。――遠目でも分かる位にはっきりと、鎮守の社である豊かな森林から、淡い光を放つ粒子が空に向かって立ち昇り、神社全体をシャボン玉のように覆っていたからだ。前にはこんなものは無かった筈だ。イリスの様子に気づいたのか、イオが何でもないような口調で、ハンドルを捌きながら言った。

 

「ああ、あれか。結界だよ。まあ用心を兼ねてね。心配すんな、マグルには見えないよ」

 

 やがて二人は実家へ帰り着いた。結界の薄い膜は、通り抜けると水で出来たカーテンのように冷たくて、とても心地良く感じられた。――しかし、イリスはそれを喜ぶ事など出来そうになかった。たった一年で、慣れ親しんだ出雲神社が、跡形もなく変わり果ててしまったような気がしたのだ。他ならぬ、自分自身のせいで。イリスは黙って、服の上から右腕を掴んだ。そして二人は、今までと同じように鳥居をくぐり、手水舎で手を清め、拝殿へ赴き、一年の無事と力を与えてくれた事を神様に感謝した。

 

 

 

 荷物を整理した後、イリスはこの一年の出来事を、ぽつりぽつりとイオに話し始めた。イオは辛抱強く耳を傾け、イリスが途中で言葉を詰まらせたり、泣きじゃくったりすると、決まって何も言わずにギュウッと強く――愛する姪が落ち着くまでの間――抱き締めるのだった。

 

 何とか全てを話し終えたイリスは、カセットレコーダーで音楽を聴く事の他は何もせずに、最初の数日間を過ごした。――ホグワーツでは、連日の忙しさに追われたり、友人達に囲まれていたために、考えないでいられた事が、今更になって重く圧し掛かる。――”秘密の部屋”事件、リドルの事、ドラコの事・・・そして、ダンブルドアやアーサーの言葉の意味を、イリスは何度も考えた。レコーダーが奏でる音楽は、そんな彼女の鬱屈した感情を癒し、和らげるのに役立った。イリスは気になってレコーダーを色々と調べてみたけれど、至って何の変哲もないもので――唯一変わっている事といえば――『本当に一生分入ってるんじゃないか』と疑ってしまう位、テープが回り続ける事と、そのテープをどう頑張っても取り出せない事くらいだった。

 

 ある日のお昼時の事、イリスはダイニングテーブルの椅子に腰掛け、傍らに置いたレコーダーから音楽をぼんやりと聴き流していた。イオはキッチンで、イリスの大好きな海鮮チャーハンを作っている。その時、不意に家の黒電話が鳴り始めた。我に返ったイリスは慌てて立ち上がり、受話器を取って耳に押し当てた。

 

「はい、出雲です」

「もし!!もし!!聞こえ!!ますか?!?!」

 

 受話器から聞こえたのは、紛う事無きロン・ウィーズリーの大絶叫だった。イリスはびっくりしてたまらず跳び上がり、受話器を耳から三十センチも離して持つ羽目になった。

 

「僕!!イリス!!ゴーントと!!話したいのですけど!!」

 

 どうやらロンは、電話をする時の声量について盛大な勘違いをしているようだった。イリスは、ロンが受話器の向こうで息を整えているうちに、素早く受話器に口を寄せる。

 

「ロン。イリスだよ。あのね、ちょっと声が・・・」

「イリス?!?!元気かい?!」

 

 しかしイリスが『大きすぎる』と指摘する前に、ロンの息は再び整ってしまった。イリスは、受話器から放たれる声の暴力に目を白黒させながら、尚も頑張って食い下がった。

 

「ロン、あのさ、声が大きいよ」

「なに?!なんか言った?!?!」

「あのさ!!」

 

 もうイリスも絶叫するしかなかった。――まるでサッカー場のスタンドの端と端に立って会話をしているような、二人の滑稽な様子を目の当たりにしたイオは、昼ご飯を作る手を一時中断し、涙を流して大笑いしていた。

 

「そんなに!!大声で!!話さなくってもいいよ!!普通の声で!!いいんだよ!!」

「だって!!そうしたら!!君の声が!!聴こえなくなるだろ!!」

「それは!!ロンが!!受話器から!!耳を!!離してるからだよ!!」

「ハア、ハア・・・(今や二人共、叫び過ぎて声が枯れ、息も大分上がっていた)・・・え、そうなの?」

 

 すったもんだの挙句、ロンはやっと電話の正しい使い方をマスターした。通常のボリュームに戻ったロンから、『さっきの調子で、一足先にハリーの実家に電話し、保護者のマグルにガチャ切りされた事件』を聞くと、イリスは思わず――ロンではなくハリーに――同情せざるを得なかった。ハリーの親戚は、根っからの魔法界嫌い――つまり常識人だと聞いていたからだ。約束した手前、ハリーには申し訳ないけれど、もう彼の実家に電話するのはやめておいた方が良いだろう。イリスは溜息を零しながら、ロンに言った。

 

「そんな大声で話したから、ハリーのおじさんがびっくりしたんだと思うよ」

「やっちまったなー。マグルがハリーに酷い事しないといいんだけど。ハーマイオニーにも気を付けるように、知らせとかなきゃ」

 

 ロンの声はしょげ返っていた。深く反省しているようだ。――イリスは彼を励ますために、今度は明るい口調で話しかけた。どんな形であれ(※鼓膜が破れるかと思う程の絶叫であれ)、ロンが自分に電話をしてきてくれたことが、単純に嬉しかったのだ。

 

「でも、ロンが電話くれて、嬉しいな。どうして、うちの番号を知ってたの?」

「僕も君の声が聴けて嬉しいよ。でもなんか、変な感じだな。僕は手紙の方が性に合ってるみたいだ。――ああ、パパが君のおばさんから聞いたんだって」

 

 イリスが暫くの間、仲睦まじく魔法界の友人とお喋りしている様子を、イオはじっと見守っていた。

 

 

 ――イリスは、夢を見ていた。満点の星空が見下ろす、果てのない草原に、イリスは一人で立っている。そして、そこからそう遠くはない距離に、大きな塔が建っていた。その天辺はあまりに高く、星空の中に溶け込んでいるのかと思うほどだ。イリスは柔らかな草を踏みしめ、塔に向かって歩き出した。すると、塔のある方向から――ほんの微かにではあるが――美しい女性の歌声が聴こえてきた。

 

 やがて、イリスは塔の近くへと辿り着いた。古びた石造りのその建物は、空に向かって真っすぐにそびえ立ち、繁茂した茨が、鉄条網のように塔全体に絡み合っている。歌声は、間違いなく塔の天辺から聴こえていた。

 

 イリスは――自分でも不思議な位に強く――塔の上に行かなければならない、と思った。『歌声の主に会わなければならない』。それは自分にとって、鳥が空を飛び、獣が大地を駆けるのと同じように、至極当然の事なのだと感じた。塔の根元には扉があり、それを開けると、中には果てのない螺旋階段があった。イリスは歌声に誘われるように、ふらふらと階段を登り始め、やがて――気が遠くなって――目が覚めた。

 

 

 イリスは瞼を擦りながら、枕元に置いた懐中時計を見た。朝の五時だ。まだ太陽は昇っておらず、部屋の中はしんとした静寂と闇に包まれている。

 

 その時、窓のカーテンを透かして、キラキラと七色の光が舞い躍った。イリスは驚いてベッドから勢い良く起き出した。そしてカーテンをこわごわと捲って、外の様子を伺い見るために目を凝らし、息を飲んだ。

 

 ――巫女の衣装に身を包んだイオが、手桶から”何か”を柄杓で汲んでは、結界に向けて撒いている。しかもよく見ると、その”何か”は水ではなく、虹色に輝く”液状の光”だった。イオから光を掛けるたびに、結界の輝きは増し、層はより厚くなっていく。

 

 好奇心をくすぐられたイリスは、自分の部屋を出て、玄関を通り抜け、イオの近くまで一目散に駆けて行った。

 

「起きたのか」

 

 イオは振り返り、イリスを見て微笑んだ。イリスは彼女の持つ手桶の中を見て、思わず感嘆の声を漏らした。――まるでダイアモンドを砕き入れたかのように、美しい輝きを放つ光が、チャプチャプと波打っている。

 

「これ、何?とってもきれい」

「”慈雨”というんだ。出雲家、そして虹蛇様の魔法力を、形にしたものなんだよ。さあ、来てごらん」

 

 イオは、イリスを本殿のそのまた奥にある、小さな庭まで導いた。――そこには、古びた井戸があった。促されてそっと覗いてみると、キラキラと――さっきの”慈雨”と同じ――虹色の輝きが、奥の方で静かに揺れている。

 

「”慈雨”は、出雲家の当主がスクイブだった時に使われる。まあ、要するに”お助けグッズ”さ。これは、虹蛇様が時々降らしてくれるだけじゃなくて、代々の出雲家の魔法使い達も、不出来な未来の子孫たちのために、この中に溜めておいてくれるんだ。わたしの祖父母やエルサも、例に習って、大分多めに溜めてくれたんだよ。

 これがあるから、私はお前にお守りを作ったり、結界を張ったりできるんだ。お前も、もし魔法が有り余ってるなんて事があったら、ちょいと一口分くらい、降らしてくれたって構わない」

 

 やがて日が昇り、辺りを見る間に、美しいオレンジ色に染めていく。二人は再び境内に出て、特に会話をする事もなく、世界が徐々に朝へ変わっていく様子を眺めていた。

 

「イリス。ホグワーツをやめるか?」

 

 イオの突然の発言に、イリスはびっくりして、思わず彼女を見上げた。どうしておばさんは、そんな事を言ったんだろう。ホグワーツをやめるだなんて――。しかし、イオはただ静かに微笑み、イリスを見つめ返しながら、尚も言葉を続けた。

 

「お前が辛いなら、やめたっていい。ネーレウスとエルサは『ホグワーツへ行く事がお前のためだ』と言ったが・・・お前がもう行きたくないっていうなら、全部捨てる。

 虹蛇様も『お前を守るために力を貸す』と言ってくれた。お前を十分守って養っていける位の力を、わたしは持ってる」

 

 イオは、立ち竦むイリスをギュッと抱き締めた。まるで世界の全てから、彼女を守ろうとするかのように。

 

「あまり一人で考え込むな。お前が思う道を進んだらいい。迷ってもいい。道を踏み外しちまってもいい。立ち止まってもいいんだ。

 お前がどんな道を歩もうとも、どんな姿になろうとも・・・わたしはお前の味方だ。わたしが全部、受け止めるよ」

 

 ――イリスがずっと溜め込んでいた、言葉に出来ない苦しみ、不安や迷いを、イオは最初からちゃんと分かっていた。子供の全てを受け入れる親だからこそ、作り出せる”無償の愛”が、イリスの心に慈雨のように染み渡っていく。彼女の心は大きく震え、体が燃えるように熱くなり――気が付くとイリスは、イオに縋り付き、生まれたばかりの赤子のように泣きじゃくっていた。イオは何も言わずに、イリスをしっかりと受け止めた。

 

 固く抱き合う二人を癒し守るかのように、不意に空から、細やかな粒子の雨が降り注いでいく。イオは嬉しそうに目を細め、イリスに話しかけた。

 

「朝雨だ、虹蛇様の”慈雨”だよ。きっとすぐに晴れる(・・・・・・)

 

 イオの言う通り、雨はすぐに晴れ、空には美しい虹が掛かった。イリスはイオに甘えながら、何となく思った。――きっと今頃、井戸の中は”慈雨”で満たされているのだろうと。

 

 

 イリスは、夏休みの残りの日々を、ロンやハーマイオニーと手紙のやり取りをし(とは言っても、日本-イギリス間のため、そう頻繁には出来ないが)、それぞれの旅行先での話を楽しんだり、ハリーの誕生日プレゼントを――ちょうど七月三一日午前零時ピッタリに届けられるように――サクラやウメと綿密なスケジュールを立てたり、イオとちょっとした旅行に出掛けたりして、元気に過ごした。そして後半はやはり、宿題に追われて過ごした。

 

 夏休みの終わりに差し掛かった頃、イリスが居間で「魔法史」の教科書と睨めっこしながら、宿題のレポートを必死に書き進めていると、急に黒電話がジリジリと鳴り始めた。イオは夕飯の買い出しに出かけていて、今は不在だ。イリスは羽根ペンをインク壺に戻し、立ち上がると、受話器を取った。

 

「はい、出雲です」

 

 しかし、相手からの返答はない。受話器の向こうで、相手のものらしき息遣いが、微かに漏れ聴こえてくるものの、それ以外は『ザー』という雑音が続くだけだ。――それはいわゆる、無言電話というやつだった。

 

 訝しむイリスは、やがてピンと来た。イリスの実家の電話番号を知っている魔法界の人間は、ロンとアーサー氏だけだ。二人はこんな悪趣味ないたずらはしない。となれば恐らく、あの赤毛の双子辺りが番号を盗み出し、今現在いたずらに至っているのだろう。受話器を握りながら、フレッドとジョージが声を押し殺し、必死に笑いを堪えている様子が思い浮かび、イリスはムカッとして頬を膨らませた。

 

「もう!フレッド?ジョージ?」

「――イリス」

 

 しかし次の瞬間、その予想は大きく裏切られ、彼女は口を噤んでしまう事となる。――受話器から聴こえたのは、『彼女が全く知らない男の声』だった。男は一瞬の沈黙の後、恐怖のあまり呂律の回らなくなった口調で、イリスに喚き立て始めた。

 

「ああ、イリス!――私は裏切られた、見捨てられた!――私は君を、ずっと見守っていたのに――あいつに殺される、私を見ている――ああ、なんて恐ろしい!怖い!」

「あ、あなたは誰?大丈夫ですか?」

 

 何が原因かは不明だが、とにかく男は強烈な不安と恐怖に駆られて、一時的なパニック状態に陥っている様子だった。イリスが心配して懸命に声を掛けても、それに答える余裕すら無いようだ。やがて男は、ふと我に返ったかのように言葉を止め、不規則になった呼吸を辛うじて整えようと努力しながら、イリスに語り掛けた。

 

「イリス、聞いてくれ!私は・・・」

 

 ――その時、受話器の向こうでバタバタと階段を駆け下りるような忙しない物音がして、男が息を飲む声がした。

 

「ブラックに気を付けろ!」

 

 そして男はそれだけ言い捨てると、電話をガチャンと荒々しく一方的に切ってしまった。――一連の出来事にただ茫然とするイリスを一人、置き去りにして。




アズカバン編をやっと始める事ができて、良かった(;'∀')
カセットテープレコーダーは、「ガーデ〇アン〇オブ〇ャラ〇シー」ネタです。流れる音楽は、皆さまのお好きな音楽をご想像ください。

いつもお読みくださっている方々、お気に入り登録してくださった方々、感想をくださった方々、評価を付けてくださった方々、本当にありがとうございます(*´ω`)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。