ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※残酷な表現、人を不快な気分にさせる恐れのある表現が含まれます。ご注意ください。
※9/23 文章微調整完了致しました。文章の内容をもう少し詳細にしました。


Page17.リドルとの戦い

 ハリーは細長く奥へと延びる、薄明りの部屋の端に立っていた。蛇が絡み合う彫刻を施した石の柱が、上へ上へとそびえ、暗闇に吸い込まれて見えない天井を支え、妖しい緑がかった幽明の中に、黒々とした影を落としていた。早鐘のように鳴る心臓を押さえ、ハリーは凍るような静けさに耳を澄ませる。――バジリスクは柱の影の暗い片隅に潜んでいるのだろうか。イリスはどこにいるのだろう。

 

 杖を構え、左右一対になった蛇の柱の間を前進する。一歩一歩そっと踏み出す音が、薄暗い壁に反響した。ハリーの背後で、石の壁が静かに閉じられる音と共に、二人分の微かな足音が追いかけて来る。それだけが、彼の恐怖でくじけそうな心を支えてくれる。

 

 最後の一対の柱のところまで来ると、部屋の天井に届く程高くそびえる石像が、壁を背に立っているのが目に入った。年老いた猿のような顔に、細長い顎鬚が、その魔法使いの流れるような石のローブの裾辺りまで伸びている。その下に灰色の巨大な足が二本、滑らかな床を踏みしめていた。そして、その前には石造りの祭壇があり、そこに寝間着姿の小さな黒髪の女の子が横たわっていた。――イリスだ。

 

「イリス!」

 

 ハリーは駆け寄り、祭壇の傍に跪いて、イリスを揺さぶった。

 

「イリス!お願いだ、目を覚まして!」

 

 イリスの顔は白磁のように白く、瞼は固く閉じられたままで、痛々しい涙の痕がいくつも残っている。体が氷のように冷たい。微かに呼吸を繰り返してはいるが、ハリーがいくら強く揺さぶっても、耳元で呼びかけても、彼女はピクリとも動かなかった。

 

「彼女は目を覚まさないよ」

 

 ふと、すぐ傍から落ち着き払った声が聴こえた。ハリーが横を見ると、背の高い黒髪の青年が、隣の柱にもたれて此方を眺めている。――リドルだ。しかし、ハリーが記憶の中で見た時と違い、彼はまるで曇り硝子の向こうにいるかのように、輪郭が少し奇妙にぼやけていた。リドルはイリスの杖を弄びながら、彼女の寝顔をじっと満足気に眺めた。

 

「幸せそうに眠っている。そうは思わないか?ハリー・ポッター」

 

 どう見てもリドルの言う通り、彼女が幸せそうに眠っているとは到底思えない。ハリーはリドルがますます不気味に思えた。彼が何を考えているのか分からない。ハリーは杖を構え直し、イリスを守るように祭壇の前に立つと、リドルと対峙した。

 

「幸せそうに?君は可笑しなことを言うね、リドル。イリスは衰弱してる。一刻も早くここから連れ出さなきゃならないんだ」

「それは僕が決める事だ」リドルは厳かに応えた。

「イリスは君のものじゃない」

「彼女は僕のものだ。彼女が生まれる前から、それは決まっている」

 

 それは謎めいた言葉だった。ハリーの脳裏に、職員室で盗み聞いたマクゴナガル先生の言葉が、不吉に木霊する。

 

 ――ですが、あの子の『血』は特別です。・・・あの子は、”例のあの人”の・・・――

 

 ハリーの心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。リドルもまた、自分達の知らない”イリスの秘密”を知っているのだろうか。スリザリンの制服に身を包んだ美しい青年の周囲を、薄気味悪いぼんやりした光が漂っている。ハリーが記憶の中で見た十六歳の時のまま、一日も日が立っていないかのように、彼はそこにいた。ハリーはゴクリと生唾を飲み込んで、恐る恐る口を開いた。

 

「言っている事がわからないよ、リドル。君は・・・君は、何者なんだ?」

 

 リドルは何も言わず、笑みを深めた。それから彼は柱から身を離し、ゆっくりと歩き始めた。

 

「ハリー。真実はすぐ近くにあったんだよ。だが、誰も気付く事が出来なかった。――五十年前も、そして今も。思い出してごらん。「特別功労賞」の盾には、誰と誰の名前が書いてあった?」

 

 ハリーの頭の中で、ロンの憤慨した顔と一緒に、キラキラ光る盾の姿がパッと浮かんだ。そこには、”T・M・リドル”と”メーティス・ゴーント”――二人分の名前が刻まれている。だが不思議な事に、”メーティス・ゴーント”なる人物は、リドルの記憶の中には一切登場していなかったため、ついさっき彼に指摘されるまで、ハリーは彼女の事について深く考えた事など、一度もなかった。

 

「そう、それは」リドルの口調は柔らかだ。

「五十年前、”秘密の部屋”を開けた者たちの名だ」

 

 ハリーは愕然とし、暫く二の句を告げる事が出来なかった。

 

「そんな・・・じゃあ、ハグリッドは・・・」

「ハリー。優等生の僕の言う事を信じるか、問題児の半巨人のを信じるか、ディペットじいさんは二つに一つだった」リドルは冷笑した。

「君は・・・わざと、ハグリッドをはめたのか?」ハリーはわなわなと震える拳を握り締めた。

「僕は、君が勘違いしていただけだと思っていたのに」

「君と同じように、ほとんどの人間は僕を信じたよ。だがたった一人、「変身術」のダンブルドアだけが、ハグリッドは無実だと考えた。あの木偶の坊を学校の森番にするよう説得したのも彼だ。学校中の教師達は、みな僕がお気に入りだったが、ダンブルドアだけは違ったようだ」

「きっとダンブルドアは、君の事をとっくにお見通しだったんだ」

「そうだな。ハグリッドが退学になってから、彼は確かに僕の事をしつこく監視するようになった」

 

 リドルは事も無げに言った。

 

「在学中に”部屋”を再び開けるのは危険だと、僕は判断した。だが、偉大なるサラザール・スリザリンの崇高なるこの仕事を、闇に葬り去るつもりなどない。僕は日記を残し、十六歳の自分をその中に保存しようと決意した。いつか再び、その時が巡ってきたら、”部屋”を開くに相応しい者を僕が見出し、この仕事を成し遂げさせるつもりだった」

「君は結局、それを成し遂げてなんかいないじゃないか」

 

 ハリーは勝ち誇ったように言った。

 

「イリスは継承者に相応しくなんてないし、誰も死んでない。猫一匹たりとも。あと数時間すればマンドレイク薬ができあがり、石にされた者はみんな無事、元に戻るんだ」

「まだ言っていなかったかな?」

 

 リドルは静かに言った。

 

「”穢れた血”の連中を殺す事は、僕にとってどうでもいい事だって。僕の狙いはあいつらじゃない。最初からずっと、君だったんだ。ハリー」

 

 リドルは貪るような目付きで、ハリーの額の傷跡を眺めた。

 

「どうして、僕が?」

 

 ハリーは狼狽し、口ごもった。

 

「日記をトイレで拾うまで、僕は君のことなんて知らなかった。会ったこともないのに」

「いいや。僕らはかつて、出会った筈だ。そして僕は倒れ、君は生き残った」

 

 ハリーの心臓が音を立てて波打ち始める。ドラコは道中、こう言っていなかったか?――リドルが自らを”闇の帝王”と名乗っていたって。リドルは彼の表情を見透かしたかのように、艶然と微笑んだ。

 

「ようやくわかったね?ハリー・ポッター。僕が何者なのかという事を」

 

 リドルは杖で空中をなぞり、文字を書いた。三つの言葉が揺らめきながら淡く光る。

 

 TOM MARVOLO RIDDLE(トム・マールヴォロ・リドル)

 

 彼が杖を一振りすると、文字はその並び方を変えた。

 

 I AM LORD VOLDEMORT(俺様はヴォルデモート卿だ)

 

「この名前はホグワーツ在学中に使っていた。もちろん親しい者にしか打ち明けてはいないが。母方の血筋にサラザール・スリザリンの血が流れているこの僕が、汚らわしいマグルの父親から取った名を、いつまでも使い続けると思うかい?

 ハリー、答えはノーだ。僕は自分の名前を自分でつけた。ある日必ずや、魔法界の全てが口にすることを恐れる名前を。その日が来ることを僕は知っていた。僕が世界一偉大な魔法使いになるその日が!」

 

 ハリーは恐怖で頭が痺れたまま、リドルを見つめる事しか出来なかった。この青年がやがて大人になり、ハリーとイリスの両親を、そして他の多くの魔法使いを殺したのだ。

 

「そして僕はもう一つ、まだ君に言っていなかった事がある」

 

 リドルの視線が、ハリーの肩越しに、イリスを絡め取った。

 

「ハリー。君は間違っている。イリス・ゴーント、彼女こそ、部屋の継承者に相応しい人間だ」

「何を・・・」

「”部屋”を開けたのは僕だが、僕をそこまで導いたのはメーティス・ゴーントだ。彼女も、蛇語こそ喋れなかったが同じスリザリンの血族者であり、最初にして最も忠実なる”死喰い人(デスイーター)”だった」

 

 ”ゴーント”。その言葉が何度も、ハリーの頭の中でリフレインする。リドルは身動きの取れないハリーに、残酷な真実を突きつけた。

 

「イリス・ゴーントは、その子孫。彼女は生まれながらにして、闇の帝王の”従者”となる宿命を背負っているのだ」

 

 ――ホグワーツの先生方が言いかけていた事は、この事だったんだ。ハリーの頭の中で、イリスとの楽しく幸福だった記憶の数々が、グルグルと回る。彼は無我夢中で叫んだ。

 

「そんな、彼女はそんなこと、一言も言っていなかった!リドル、君は嘘をついている。それに、彼女の両親はヴォルデモート卿に殺されたんだ!」

 

 リドルは愛想良く微笑し、小さな子供に言い聞かせるように、柔らかな声音で言った。

 

「僕は嘘など吐いていないよ。彼女は自分の出生を知らされなかっただけだ。自分が英雄だと知らされずに育った、ハリー、君のようにね。彼女の両親は、ヴォルデモート卿を裏切ったんだ。それ故に殺された。当然の報いさ」

 

 リドルは忌々しげに唇を歪めた。

 

「僕が見つけた時、彼女は正視に堪えないほど、みすぼらしい有様だった。彼女を警戒したダンブルドアの手により、名誉ある”従者”の使命を伏せられ――下らない――マグルかぶれの普通の女の子として生かされていたんだ」

「ダンブルドアはイリスを恐れていたんじゃない」

 

 ハリーは両手が痛くなるまで握り締めた。

 

「イリスを守っていたんだ」

「守っていた?」

 

 リドルはせせら笑った。

 

「違う。ハリー・ポッター、君もご存じの通り、彼女は僕と出会うまで、ホグワーツ一の”落ちこぼれ”だった。ダンブルドアは彼女を貶めていたんだ。その証拠に、僕の教授で彼女は目覚ましい成長を遂げた。あの老いぼれやホグワーツの役立たずな教師共、”穢れた血”では、決して成しえなかった事だ。

 僕だけが、”本当の彼女”を見つけ、汚名を払拭し、再び”従者”として育て上げる事ができた。――だが、その道は非常に困難を極めたよ。時の流れは状況を変える。これは良い方にも、悪い方にもと言う事だ」

 

 

「最初は彼女は、主たる僕の事を何も知らなかった。僕は怒りに震えたよ。だが、我慢した。十一歳の女の子の他愛のない悩み事を聞いてあげるのは、全くうんざりだったがね。

 でも僕は辛抱強く返事を書いた。同情してあげたし、親切にもしてあげた。イリスは僕に夢中になった。イリスは僕を家族のように、友達のように、恋人のように慕うようになった」

 

 リドルは声をあげて笑った。端正な容姿に似つかわしくない、冷たく甲高い笑い声だった。ハリーは全身の毛がよだつような恐怖に駆られた。

 

「やがてイリスは僕に完全に心を明け渡し、魂を注ぎ込み始めた。――イリスの魂、それこそが僕の欲しいものだった。彼女が心に深い傷を負ったり、強い不安や恐怖に駆られる度、魂は闇に蝕まれていく。それを喰らい、僕はどんどん強くなった。

 僕は彼女を操り、”秘密の部屋”を開け、学校の雄鶏を絞殺し、壁に脅迫の文字を書き込み、二人の”穢れた血”やスクイブの猫にバジリスクをけしかけた。

 彼女は最初、自分のやっていることを全く自覚していなかった。彼女に”真実の記憶”を戻した時、彼女はなかなか面白い反応を見せてくれたよ。ハリー、君にも見せてあげたかった」

 

 ハリーは爪が掌に喰い込む程、ギュッと拳を握り締めた。そうでもしなければ、煮え滾る怒りを抑える事など出来そうになかったのだ。

 

「自分の立場をようやく自覚したイリスに、僕は”従者”たるに相応しい教育を始めた。殊更矯正しなければならなかったのは、ダンブルドアが与えた”下らない友人関係”だ。だが、彼女は愚かな事に、君たちとの友情を頑なに捨てようとしなかった。どんなに難しい試練を与えても、彼女はその友情とやらを守るために、命懸けで達成した。

 ――どうしたものかと考えあぐねていたら、自らチャンスが飛び込んできたよ。ハリー。君たちの親友の”穢れた血”だ。彼女は、僕らの関係に首を突っ込もうとした。そして馬鹿なイリスは、それに迎合しようとした。

 君に一つ、良い事を教えてあげよう。人間を本当に支配する方法は、”服従の呪文”ではない。心を一度、粉々に砕く事だ。だから僕はそうしたよ。――”穢れた血”を石に変え、イリスを責めた。あれを石にしたのは君なのだと。彼女が壊れてしまうまで、何度も、何度もね」

「がああああああっ!!」

 

 それは獣の咆哮だった。ハリーが驚いて振り向くと、ロンが隠れていた柱から飛び出し――今や、彼の顔も目も怒りで歪み、髪の毛と同じくらい真っ赤だった――両手を風車のように振り回しながら、リドルに襲い掛かろうと駆け出していた。だが、リドルが杖を軽く振ると、ロンは見えない巨大な手に叩きつけられたかのように、べしゃっと床に激しく打ち付けられてしまった。

 

「殺してやる!お前なんか、殺してやる!!」ロンはジタバタもがきながら叫んだ。

「残念ながら、殺すのは僕の方だ。ロナウド・ウィーズリー。――やはり鼠が紛れ込んでいたか」

 

 リドルは冷淡に言い放ち、何故かイリスの杖を忌々しげに睥睨した。ロンは床に押さえつけられたまま、涙ながらに叫んだ。

 

「人でなしめ!イリスとハーマイオニーは親友だったんだぞ!なんてひどい事を!」

「親友。”穢れた血”とイリスが親友だなんて。ゾッとするね。そんなふざけた事を二度と言えないように、口を縫ってしまおうか」

 

 リドルは再び杖を振ったが、ロンは一瞬苦しそうに身を捩っただけだった。ついにリドルは不満げに杖を睨んで、言い放った。

 

「ポンコツめ。何故僕に従わない。イリスの杖でなければ、今すぐに折ってしまいたいよ」

「それはイリスのお母さんの杖だ」ハリーは熱い思いを込め、言った。

「イリスを傷つけているお前が使っているからだ。杖が嫌がっているんだ」

「ほう。それは面白い意見だ」リドルは微笑んだ。

「ならばこの杖は壊さず、事を終えた後、彼女へ返すとしよう。彼女だけに忠実なこの杖を使って、彼女にはまだまだやってもらいたい事があるからね」

 

 

「お前なんかにイリスは渡さないぞ!」

 

 睨み付けるハリーを意にも介さず、リドルは唐突に、穏やかな口調で話し始めた。

 

「彼女の瞳はまるで宝石のようだ。星空をそのまま封じ込めたかのように、神秘的に煌めいている。――あれは、彼女の体から溢れ出る豊富な魔法力の影響によるものだ」

 

 リドルが杖を振るうと、空中に虹色の蛇と銀色の蛇が、ふわりと煙の様に浮かび出た。

 

「これは、彼女の魔法力の有様を体現している。虹色が”出雲家”の血、銀色が”スリザリン”の血だ。相反する固有魔法を持つこの二つの血は、互いを拒絶した。そしてこうして――」

 

 やがて二匹の蛇はそれぞれの尾っぽを噛み、グルグルとその場で回り続けた。――それはまるで、ウロボロスの輪のように見えた。

 

「互いを喰らい、浸食しながら、回り続けている。この争いは、どちらかが勝つまで終わらない。彼女の魔法力は膨れ上がる一方だ。そしてそれを受け入れる彼女の体質は”依代”。魔法界で”神”と呼ばれる、膨大な魔法力エネルギー体を受け入れるのに、最も適している体だ。

 ――わかるかい?彼女は”芸術品”なんだ。こんな素晴らしいものを、僕がみすみす手放すと思うか?」

 

 もうハリーは我慢ならなかった。ハリーは杖を振り上げ、リドルに呪いを掛けようとした。しかし、敵の方が数枚上手だ。ハリーの手に熱い痛みが走り、彼の杖が遠くへと弾き飛ばされる。

 

 ――だが、ハリーの目的は、リドルと決闘する事ではなかった。彼の注意を一時的に、日記から逸らす事だ。ハリーの傍をロンが駆け抜け、リドルの足元に落ちている日記を後方へ蹴り飛ばす。リドルが舌打ちをして杖を振るうが、放たれた光線は直前でロンを逸れた。

 

「受け取れ、マルフォイ!」

 

 柱の影からドラコが飛び出し、スライディングする日記を受け止める。彼はローブのポケットから剣を取り出し、鞘を抜いて、思い切り日記の表紙に突き立てた。

 

 

 ――しかし、壊れたのは、日記ではなく、剣の方だった。

 

「そ、そんな・・・っ!」

「おい、紛い物かよ!」ロンが腹いせ紛れに叫んだ。

「そんなわけがない!どうしてだ!」

 

 リドルが堪え切れないといった調子で、腹を抱えて笑い始める。一方の三人は、絶望に塗れた表情を突合せた。――通常の呪いの道具であれば、その剣で破壊出来ただろう。しかし、三人は知らなかった。リドルの日記は、人の魂そのものを封じ込めた非常に強力な呪いの道具――”分霊箱”だという事を。

 

「当然だ。僕の日記を壊すなら、もっと”特別なもの”を持ってくるべきだったな。――裏切り者め。これで鼠は全て出揃ったか。仲良くバジリスクに丸呑みにされる前に、さて、ハリー。君に聞きたい事がある」

「何を?」

 

 ハリーは吐き捨てるように言った。

 

「二回も――君の過去に、僕にとっては未来にだが――僕たちは出会った。そして、二回とも僕は君を殺し損ねた。君はどうやって生き残った?長く話せば、君たちはそれだけ長く生きていられることになる」

 

 ハリーは素早く考えを巡らし、勝つ見込みを計算した。リドルの所持するイリスの杖は、主への並々ならぬ忠誠心を持っているらしく、甚大な被害を与える事はできないようだ。――だが、彼にはバジリスクがいる。ドラコの作戦も失敗した。恐ろしい怪物相手にたった三人で、意識のないイリスを抱えながら、太刀打ちできるのだろうか。状況は圧倒的に不利だ。しかし、ハリーがそうこうしているうちにも、イリスの命はますます擦り減っていく。グズグズ迷っている暇はない。彼は意を決して口を開いた。

 

「君が僕を襲った時、どうして君が力を失ったのか、誰にもわからない。僕自身もわからない。でも、何故君が僕を殺せなかったのか、僕にはわかる。――母が、僕をかばって死んだからだ。母は普通の、マグル生まれの母だ」

 

 今やハリーの体は、爆発しそうな怒りを押さえつけるのに、わなわなと震えていた。

 

「君が僕を殺すのを、母が食い止めたんだ。僕は本当の君を見たぞ。去年の事だ。落ちぶれた残骸だ。辛うじて生きている。君の力の成れの果てだ。今だって変わらない。何も知らない可哀想な女の子の魂に縋り付いていなければ、君はこうして立っている事すらできない!君は逃げ隠れしている!醜い!汚らわしい!」

 

 リドルの顔が、醜く歪んだ。それから無理矢理、ぞっとするような笑顔を取り繕った。

 

「そうか。母親が君を救うために死んだ。なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だ。結局君自身には、特別なものは何もないわけだ。実は何かあるのかと思っていたんだ。ハリー・ポッター、何しろ僕たちには不思議と似たところがある。君も気づいただろう。二人共混血で、孤児で、マグルに育てられた。偉大なるスリザリン様ご自身以来、ホグワーツに入学した生徒の中で、蛇語を話せるのはたった二人だけだろう。見た目もどこか似ている。

 しかし、僕の手から逃れられたのは、結局幸運だったからに過ぎないのか。それだけ分かれば十分だ」

 

 三人はリドルが今にも杖を振り上げるだろうと、身を固くした。しかし、リドルの笑みはますます濃くなった。

 

「さて、ハリー。少し揉んでやろう。サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿の力と、有名なハリー・ポッターとその仲間たちの力とを、お手合わせ願おうじゃないか」

 

 リドルは蒼白な表情でハリーの傍へ駆け寄ってくるロンとドラコをからかうように、チラッと見てその場を離れた。ハリーは感覚のなくなった両足に恐怖が広がっていくのを感じながら、リドルを見つめる。リドルは一対の高い柱の間で立ち止まり、ずっと上の方に、半分暗闇に覆われているスリザリンの石像の顔を見上げた。横に大きく口を開くと、シューシューと言う空気が漏れるような奇妙な音が漏れた。ロンとドラコは一様に恐怖で声を引き攣らせたが、ハリーだけはリドルが何を言っているのかわかった。

 

「バジリスクが来る。僕らを殺すつもりだ。――戦うしかない」ハリーは二人に言った。

「僕が何とかして食い止める。その隙に、二人はイリスを連れて逃げてくれ」

「食い止めるったって、どうやって・・・」ロンの言葉は途中で途切れた。

 

 ロンはスリザリンの巨大な石の顔を見つめていた。今、それが動いている。恐怖に打ちのめされながら、ハリーは石像の口がだんだん広がっていき、ついに大きな黒い穴になるのを見ていた。何かが、石像の口の中で蠢いている。何かが、奥の方からズルズルと這い出してきた。

 

「目を閉じろ!」ドラコが叫んだ。

 

 三人は部屋の暗い壁にぶつかるまで、固く目を閉じ、後ずさった。何か巨大なものが部屋の石の床に落ち、床の振動が伝わって来た。何が起きているのか、ハリーには分かっていた。巨大な蛇がスリザリンの口から出てきて、とぐろを巻いているのが目に見えるような気がした。リドルの冷酷な蛇語が、ハリーの耳元に恐ろしげに纏わりつく。

 

〖あいつを殺せ〗

 

 バジリスクがハリーに近づいて来る。隣にいるロンが、切羽詰まった声で”雄鶏の鳴き真似”を繰り返しているが、残念ながら、本物でなければ効果がないらしい。埃っぽい床を、ずっしりした胴体を滑らせる音が聞こえた。リドルの笑う声がする。随分と綺麗な声だ。いや、違う。ハリーは耳を聳てた。あれは――音楽だ。

 

 音楽はだんだん大きくなった。妖しい、背筋がぞくぞくするような、この世のものとは思えない旋律だった。やがてその旋律が高まり、ハリーの胸の中で肋骨を震わせるように感じた時、彼の真上で狂ったようなシューシューという音と、何かがのたうちまわって柱を叩きつけている音が聞こえた。――もう我慢できなかった。ハリーはできるだけ薄く目を開け、何が起こっているかを見ようとした。

 

 まず見えたのは、巨大な蛇だった。毒々しい鮮緑色の、樫の木のように太い胴体を、高々と空中にくねらせ――その巨大な鎌首は酔ったように、柱と柱の間を縫って動き回っていた。次に見えたのは、美しい炎の塊だ。ハリーは息を飲んだ。白鳥ほどの大きさの真紅の鳥だ。クジャクの羽根の様に長い金色の尾羽を輝かせ、まばゆい金色の爪にボロボロの包みを掴んでいる。その鳥を、ハリーは不思議な事に、どこかで見たような気がした。

 

「不死鳥だな」

 

 リドルが鋭い声で言い放った。憎々しげにその鳥を睨んでいる。

 

「違う。僕じゃない」

 

 ハリーと同じく、何時の間にか目を開いていたロンが、期待の眼差しでドラコを見つめている事に気づき、彼は気まずそうに返事した。

 

「フォークスだ」

 

 ハリーは、炎を散らすその美しい姿を見つめ、茫然と呟いた。――そうに違いない。ダンブルドアのペットである、不死鳥フォークス。その本来の姿は、こんなにも美しいのか。その不思議な旋律は、三人になけなしの勇気を奮い立たせた。三人が固唾を飲んで見守る中、フォークスは蛇の鎌首の周りを飛び回り、対するバジリスクはサーベルのように長く鋭い毒牙で、狂ったように何度も空を噛んでいた。

 

「見ろ!目が!」ドラコが息を飲んだ。

 

 ドラコの声に反応したかのように、バジリスクは三人が目を閉じる間もなく、こちらを振り向いた。――大きな黄色い球のような目は、今や、両眼共にフォークスに潰されていた。そこからおびただしい量の血が流れ、バジリスクは苦痛にのたうち回っていた。

 

〖違う!〗リドルが忌々し気に蛇語で叫んだ。

〖鳥にかまうな!放っておけ!小童共は後ろだ!匂いで分かるだろう、殺せ!〗

 

「匂いで僕らを追いかける気だ!」ハリーが叫んだ。

「ハリー!ここは僕らで食い止める。イリスを頼む!」ロンはポケットをゴソゴソしながら怒鳴った。

 

「兄貴たちが『音のしないきれいな花火』だってくれたんだけど、絶対嘘だ。こいつを使う!」

 

 ロンはバジリスクに向け、何かの包みを放り投げた。何か不穏な気配を察知したフォークスは、その場を離れる。包みはバジリスクの鼻先に触れると同時に――爆発し、無数の火花を周囲に撒き散らした。火花の一つ一つは、それぞれ様々な趣向を凝らした花火となり、ドーム状の天井を色とりどりに染め上げる。ロケット花火は銀色の星を噴射し、緑と金色の火花のドラゴンが音を立てて飛び回る。――それは、後の『ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ』で発売される『ウィーズリーの暴れバンバン花火』の試作品であった。

 

「次はクソ爆弾だ!」

 

 ロンがやけくそ(・・)になって叫び、クソ爆弾をバジリスクの鼻先にぶつけた。リドルは舌打ちをし、花火に杖を向け「失神呪文」を唱えたが、何故かそこら中の花火が大爆発し、「消失呪文」をかけるとそれぞれの花火が増えてしまった。今や十匹のドラゴンが、バジリスクの周囲に犇めいている。バジリスクは強烈な音と煙の匂いで、一時的に動く事も儘ならず、立ち竦んでいた。リドルはやがて、その元凶であるロンに杖を向けた。彼が得意とする”死の呪文”は唱える事は難しいだろうが、ロンに致命傷を負わせる程の魔法なら、確実に使用できると判断したためだ。

 

 だが、その先を阻むように、リドルと対峙する者がいた。杖を構えたドラコだ。唇を真一文字に引き結び、恐怖と怒りを宿した瞳が、リドルを見据えている。

 

「僕に決闘を挑むか。自ら死に突き進むとは、実に愚かしい。君はスリザリンに向いていないな、ドラコ・マルフォイ」

 

 リドルは冷たくせせら笑った。

 

 

 ロンの巻き起こした凄まじい花火パーティーは、イリスの意識を図らずも呼び覚ました。リドルの言う通り、彼女の”血の戦い”は、休まず続けられている。その結果、彼女が再び意識を取り戻す程度の力を回復させる事が出来たのだ。イリスはゆっくりと瞳を開いた。おぼろげな意識と視界が明確になると共に、見えた現実にイリスは息を飲んだ。

 

 周囲は幻想的な程の光と音に包み込まれていた。色鮮やかな光に照らされたバジリスクが、花火で出来たドラゴンたちと交戦している。その近くにはロンがいた。柱の傍では、リドルとドラコが杖を向け、睨み合っている。リドルが放った光線は、不意にドラコの目の前を飛んできたフォークスが、寸でのところで飲み込んだ。ゲプリと黒い煙を嘴から吐いて、フォークスはまるでドラコを守るように、彼の肩にずしりと止まった。

 

「イリス!イリス!目を覚ましたんだね」

 

 ふとすぐ近くから、暖かな声が聴こえた。イリスの大好きな声だ。

 

「ハリー・・・」

 

 起き上がろうと身じろぎするイリスの体を抱え込み、ハリーは油断なく周囲を見渡しながら、優しくイリスに言った。

 

「みんな、リドルから君を助けに来たんだよ。一緒に帰ろう」

 

 イリスは驚愕と喜びに打ちのめされた。様々な感情が綯交ぜになり、言葉の代わりにボロボロと熱い涙がいくつも零れ落ちて、祭壇に滴り落ちる。

 

 ――”貴方を置いて行きはしないわ”――

 

 だが、安堵しかけたイリスに向け、警鐘を鳴らすように――”ハーマイオニーがバジリスクに襲われた時の記憶”が、鮮やかに彼女の脳裏にフラッシュバックした。――今でも克明に思い出せる。彼女の温もり、暖かな言葉、そして――凍り付いた瞳を。その強烈な罪の記憶は、冷たく頑強な檻へと変わり、イリスを固く閉じ込めた。――もう二度と、私のせいで大切な人を失いたくない。差し出された手からそっと視線を逸らし、イリスは弱々しく首を横に振った。

 

「・・・無理だよ」

「どうして?」ハリーが戸惑うように尋ねた。

 

 イリスの心は、リドルによって粉々に砕かれ、深い絶望の海の底に沈められていた。もうイリスに浮上する気力など残されていない。――もしこの先、リドルに勝てたとしても、私はもう”今までの平凡なイリス”じゃない。右腕に焼き付けられたこの印を見たら、みんなはきっと私を拒絶するだろう。――そうだ、その方が良い。イリスは暗い気持ちで、寝間着の右腕の袖を捲ってハリーに”闇の印”を見せた。このままでは、みんなリドルに殺されてしまう。”悪い魔女”である私を助ける必要なんかない。愛想を尽かして、みんな逃げてくれた方が良いんだ。――ハリーの顔を怖くて見る事が出来ず、イリスは唇を噛み締め、俯いた。頭の上で、彼が息を飲む音がした。

 

「わ、私、悪い魔女だったの。ハリー。この印の意味、わかるよね。もうみんなとは、一緒にいられないんだ」

 

 ハリーは長い間、その印をじっと見つめていた。しかし、やがて穏やかな声でこう言った。

 

「僕と一緒だね。イリス」

「え・・・?」

 

 何を言っているんだろう。言葉の意図が掴めず、茫然とイリスがハリーを見上げると、彼はおもむろに前髪を掻き上げ、額に残る稲妻型の傷跡を見せた。ハリーは労りに満ちた笑顔で、イリスを見つめた。

 

「僕もこれを、ヴォルデモートに付けられた」

「い、一緒じゃないよ!意味が違う!」

「一緒だよ、イリス。僕の目を見て」

 

 ハリーはきっぱりと言い切って、イリスの両肩を掴み、彼女の瞳を真正面から見つめた。

 

「印や傷跡、血筋なんかで、何もかも決められてたまるもんか。自分の事はいつだって、自分が決めるんだ。君がヴォルデモートの”従者”の末裔だと分かったって、僕らの友情は変わらないよ。ハーマイオニーは石化する寸前に、これを僕らに託した。彼女も同じ思いだ」

 

 ハリーはポケットから皺くちゃの紙切れを出し、イリスに見せた。イリスはそれを見た途端、喉に熱いものが込み上げてきて、何も言う事が出来なかった。それは、バジリスクについて書かれた本のページを破り取ったもので、端っこには”リドルは嘘つき、イリスを救って”と書かれている。――あの絶望的な状況下でも、ハーマイオニーはただイリスを救う一心で、二人に向け、命懸けのメッセージを託したのだ。

 

 「漏れ鍋」で初めて会った時のように、二人はじっと見つめ合った。たったそれだけで、ハリーが何を伝えたいのか、イリスにはもう十分理解する事が出来た。――ハリーやロン、ハーマイオニーと過ごした日々、育んだ友情は、何物にも覆す事は出来ない。イリスは確かにスリザリンの血族者であり、ヴォルデモート卿の”従者”の末裔なのかもしれない。だが同時に、イリスはハリー達の”親友”であり、自分で自分の道を選び歩む事の出来る、一人の人間なのだ。

 

「イリス、君はどうしたい?君の意見が聞きたい」

 

 ハリーは冷たくかじかんだイリスの両手をぎゅっと握り締めた。

 

「ヴォルデモートの部下の末裔としてじゃない。イリス。君自身が出す答えだ」

「わたし・・・」

 

 イリスを覆っていた、冷たく鋭い檻は砕け散った。心の中に、暖かいものが流れ込んでいく。

 

「わたし、みんなといっしょに、いたい」

 

 それは絞り出すような声音だった。ハリーは何も言わず、イリスを強く抱き締めた。

 

 

 不意に、柱の一つが破壊される、凄まじい轟音が鳴り響いた。二人が驚いて音のした方向を見ると、バジリスクがその巨体を波打たたせ、狂ったようにそこら中の柱の破壊を始めている。崩れ落ちる瓦礫の中に、見覚えのある赤毛が一瞬見えたような気がした。土煙に飲まれるように、豪勢な花火たちが、急激に威力を弱め、消えていく。

 

 続いて、祭壇に何かが叩きつけられる鈍い音が炸裂し、二人は飛び上がった。――フォークスだ。フォークスは祭壇の上に舞い上がり、ハリーの膝にポトリとボロボロの包みを乗せた。それは――組分け帽子だった。

 

「返せ!それは僕のっ」

「黙れ」

 

 リドルは「武装解除呪文」で奪ったドラコの杖を振るうと、ドラコの声はたちまち聞こえなくなった。彼を魔法で出したロープで縛り上げ、リドルは涼しい声で言った。

 

「ああ、これの方が随分と扱いやすい。さあ、イリス。ハリー・ポッターを僕に渡せ」

 

 イリスは首を横に振り、ハリーは彼女を庇うように抱き締めた。

 

「そうか。――ならば、力づくで引き離すまでだ」

 

 リドルの背後から、巨大な影が伸び上がり、首をもたげた。――バジリスクだ。蛇はその恐ろしく大きな口を開き、二人に襲い掛かった。イリスは死を覚悟して、目をぎゅっと瞑った。

 

 しかし、すぐ近くで、血腥い吐息が掛かり、シューシューという大きな音が聞こえるものの、覚悟していた攻撃は一向にやってこない。イリスはそっと瞳を開き、驚愕した。

 

 ――ハリーだ。彼は何時の間にか、眩い光を放つ銀色の剣を手にしていて、それをバジリスクの右頬に深く突き刺していた。彼の足元には、組み分け帽子が転がっていた。

 

「イリス」ハリーは喘ぎながら言った。

「組み分け帽子から、剣が――」

 

 次の瞬間、ハリーは剣ごと、バジリスクに振り払われた。遠心力ですっぽ抜けた剣と一緒に、ハリーも瓦礫だらけの床の上を、何度も跳ねながら転がっていく。バジリスクは、全身を強く打って動けないハリーに這い寄ると、その尾っぽを容赦なく叩きつけようとした。

 

 その時、ハリーの痛みで朦朧としている視界の中を、見慣れた金色の光が掠めた。――スニッチだ。ハリーは直感的にそう思った。彼がいつも試合中、無我夢中で追いかけるスニッチが、バジリスクの周囲を飛び交い、蜂のように彼方此方を突き刺して注意を逸らしている。

 

「イリス!愚か者めが!」

 

 リドルの鋭い叱責の声と共に、呪文の光線が放たれる。それは狙い違わず、スニッチに命中した。それは金色の光を辺りに放出しながら、床にポトリと墜落して――傷だらけのイリスへと姿を変えた。――イリスが、スニッチに変身していた?痛みの余り、幻覚でも見ているのだろうか。ハリーは無意識に目を瞬いた。リドルは苛立たしい様子を隠そうともせず、彼女に近寄ると、その胸倉を掴み上げる。今や、彼の双眸は、熱した石炭のように真っ赤に染まっていた。

 

「何故だ!何故・・・!君が救うのはこいつじゃない!この僕である筈だ!」

 

 リドルは、イリスが一向に、自らに付き従う様子を見せず――それどころか、よりによってその宿敵であるハリーを助けようと命を投げ出した事に、激しい憤りを感じているようだった。ハリーの目の前で、リドルはイリスの頬を張り飛ばした。イリスのひび割れた唇の端から、一筋の血がスッと零れていく。しかしイリスは、怯える事も臆する事も無く、リドルを見据え、静かにこう言った。

 

「リドル。わ、わたし・・・メーティスじゃ、ないよ」

 

 日記のリドルの記憶と同期(リンク)した時、イリスは彼の”知られざる苦悩”を知った。あの時、リドルとメーティスの間には、”愛情”が芽生えかけていた。本当に望めば、二人とも同じ場所にいれた筈だ。だが、そうはならなかった。二人があの後どうなったのか、イリスには見当もつかない。時の流れは全てを変える。二人の関係性にも変化が訪れたかもしれない。

 

 けれど日記のリドルだけは、時間から切り離されて、何十年も一人ぽっちで取り残されていた。”あの時”の苦しみや絶望を抱えたまま。――リドルはどんなに辛かっただろう。自分だったら決して耐えられない。あれ程恐れていたリドルが、今、自らに対して激昂しているというのに、イリスは不思議と恐怖を感じなかった。

 

 その時、彼女はリドルに共感し、憐れみの感情を抱いていた。それは、彼の全てを受け入れたイリスだからこそ、そして彼女が愛されて育ったからこそ、出来た事だった。イリスの瞳からポロリと暖かな涙が零れ、彼の腕に滴り落ちていく。 

 

「私が、そばにいる。もうあなたを、一人ぽっちにしない。だから、もうこれ以上、私の大切な人を、傷つけないで」

 

 その涙には、イリスがリドルに向けた”愛情”が含まれていた。――”愛情”。それは柔らかく暖かで、けれどしっかりとありのままの自分を受け止めてくれるもの。望めばいくらでも注がれるもの。どんな魔法よりも人を強くさせ、成長させるもの。そして、今までそれを受けずに育ったリドルが――彼自身こそ、そうだと自覚していないものの――本当は魂の奥底で何よりも、渇望していたものだった。

 

 だが、彼の魂は禁術によって、歪に変性してしまった。長い間、肉体から切り離されていた”魔法の心臓”が、再び体内に戻り、暖かな血を巡らせて脈打つ事が出来ないように――魔法の魂も、もう二度と”愛情”を受け入れる事ができない。それを一度受け入れてしまえば、”分霊箱”は意味を失くし、”闇の帝王”と恐れられたヴォルデモートは永遠の命を得られず、滅びる。――彼が死の恐怖を乗り越えて愛を選ばない限り、”愛”は”死そのもの”だ。

 

 イリスの涙から、”愛情”がリドルの魂に染み込んでいく。彼の魂の一部――まだ人間である部分が、無意識に”愛情”を求めて幼子の様に手を伸ばす。しかし、すぐさまそれは、灼熱の業火にも等しい激痛に変換され、彼の体を拷問の様に責め苛んだ。リドルはその苦痛に耐えきれず絶叫し、イリスを床へ乱暴に投げ落とした。

 

「イリス・・・っ!」

 

 ハリーは立ち上がろうとするが、瓦礫に足が挟まれて、動く事ができない。彼は我武者羅にもがいた。リドルは息を弾ませ、真紅に燃える双眸でイリスを睨み付ける。

 

「裏切り者め、僕に・・・僕に何をした!」

 

 主の敵と判断したバジリスクが、やおら巨体をくねらせ、リドルが止める間もなくイリスに襲い掛かった。――もうおしまいだ。その時、絶望に塗れた瞳のイリスと、大口を開けたバジリスクの間を、何かが阻んだ。

 

 

「イリス、血が出ているぞ!大丈夫か!」

 

 ドラコの鬼気迫った声が、すぐ近くで聞こえた。イリスが震えながら目を開けると――目の前に、ドラコの顔があった。彼は先程ハリーが持っていた剣を握っていて、その先は、蛇の口蓋を深く貫いていた。彼が剣を離すと同時に、バジリスクはドッと横様に床に倒れ、ひくひくと痙攣し始めた。彼が自分を守ってくれたのだ。

 

 ――”血”?イリスは自分の体を見つめた。彼の言葉通り、ぐっしょりと大量の血で濡れている。だが、体のあちこちを触っても、痛みもないし、傷口も見当たらない。自分の血ではないのだ。――イリスはゾッとして、思わずドラコを見て、息を飲んだ。彼の腹部には――蛇の牙が、深々と突き刺さっていた。そこから、夥しい量の血が吹き出し、イリスの腹部を染め上げていたのだ。血の出所は、彼だった。イリスは無我夢中でドラコにしがみ付いた。

 

「ど、ドラコ・・・!血が・・・!」

 

 一方のドラコは、イリスの目線の先を見て、ホッと安堵の笑みを浮かべた。

 

「なんだ、僕の血か」

 

 安心したのか、ドラコの体は弛緩し、イリスに力なくもたれかかる。イリスは泣き叫んだ。

 

「いやっ!嫌だよ、お願い、死なないで!」

 

 イリスの願いも空しく、ドラコの体はどんどん冷たくなっていく。牙を引き抜こうとしたイリスの手をドラコが掴んだ。

 

「駄目だ、イリス」

 

 彼は渾身の力で自らの腹部に刺さったそれを引き抜くと、イリスの手の届かない所へ放り投げた。

 

「牙には・・・毒が・・・君に、触れたら・・・」

「ごめんなさい!ごめんなさい、私のせい、私のせいで!」

「イリス。謝るのは・・・僕の方だ・・・君は・・・何も・・・」

 

 ドラコの伸ばした手を、イリスは必死に掴んだ。――もう何もかも遅すぎる事は、ドラコにはよく分かっていた。傷口からズキズキと、灼熱の痛みがゆっくり、しかし確実に広がっていた。死がすぐ傍までやって来ているというのに、彼には不思議と恐怖は無かった。ドラコの目が、急速に霞んでいく。ドラコは自分の手の感覚がなくなる前に、彼女の頬を愛しげに撫でた。

 

 ぼんやりした暗色の世界で、青い美しい瞳が二つ、満月のように輝いていた。それは彼だけを見つめている。――イリスの目だ。なんて美しいんだ。ドラコは幸福に酔いしれ、微笑んだ。君に、ずっと言いたかった言葉がある。それを言わなければ。ドラコは粘つく口内を開き、もつれる声で最期にこう言った。

 

「愛してる」

 

 その言葉を言った切り、ドラコの唇は、再び開く事は無かった。ドラコの瞼が、力なく閉じられた。彼の手から、力が抜けた。背後から足音が響き、イリスの頭上からリドルの声がした。

 

「当然の報いだ。イリス。君を娶りたい”純血”の者なら、いくらでもいる。彼に似た者がいいなら、ルシウス・マルフォイにもう一度、作らせればいい」

 

 ――リドルは何を言っているんだろう。

 イリスは、愛する者を失い、真っ白になった頭で考えた。

 ――ドラコの”代わり”なんていない。いらない。私は彼を愛していたのに。リドルは何を言っているんだろう――

 

 その時、イリスの心の奥底で、何かが生まれた。――それは、身を焦がす程の激しい怒り、憎しみ、激情、殺意、残酷な気持ち。今までの彼女の人生では一度も生まれた事の無い、どす黒く、身の毛もよだつような恐ろしい感情たちだ。それはマグマのように彼女の心の奥底から沸き上がり、煮え滾り、吹き上がって、噴火した。それを、イリスは明確な言葉に変換する事など出来なかった。

 

 イリスは天井を仰いで、声の限り慟哭した。そして、それに呼応するように、ザザッとリドルの体にノイズが走った。ぐらり、と彼の体が不安定に揺れる。訝し気にイリスを見やったリドルの顔が、驚愕に歪んだ。彼女の双眸が、ルビーのように真っ赤に染まっている。――激昂した彼女の主と同じように。イリスの心から生まれた、おぞましい感情たちは、彼女の魔法力のリミッターをいとも容易く外してしまった。リドルの目の前で、彼女は恐るべき速さで成長していく。彼女の体から異常に増殖した魔法力が噴き出し、ビリビリと周囲の石像や柱、石壁を反響させる。

 

 ――怒りの余り、彼女の魔法力が暴発している――!

 

 そう判断したリドルがイリスに手を伸ばそうとした時――――彼の口から、何の前触れもなく、大量の血が零れ落ちた。いや、血ではない、それは――黒いインク(・・・・・)だ。

 

「なっ・・・?!」

 

 体から力が抜け、思わずよろめいたリドルの視界の端に飛び込んできたのは――体中に瓦礫の欠片をくっ付けたロンが、日記を床に押さえつけ――ハリーが、バジリスクから引き抜いたあの銀色の剣で、その表紙を貫いている光景だった。小鬼製のその剣は「自身を強くするものを吸収する」という特性を持つ。それは、ドラコがバジリスクを倒した時、その毒を吸収していたのだ。リドルが提言した”特別なもの”を、この剣だと判断した二人の推察は、図らずもリドルを死へと導いたのである。ハリーは、リドルを睨み付けながら、もう一度深く突き立てた。

 

「――――――――――っ?!」

 

 リドルは声にならない悲鳴を上げ、身を捩った。彼の端正な顔立ちは、今や見る影もなく、ゴボゴボと息をするごとに黒いインクが溢れ出す。――自らが消えていく!”死”は何よりも、”愛”を知らない彼にとって恐れるべきものだった。その恐怖に打ちのめされ、彼は死の間際、無意識の内に、唯一の”愛”の象徴であるメーティスを――その面影を色濃く残すイリスを求め、手を伸ばそうとした。

 

 しかし、その手すらも、霞のようにぼやけて消えていく。リドルはもがき苦しみながら、やがて体を全て、彼の根源たる黒いインクに変え、この世から消滅した。

 

 

 ハリーとロンは、荒々しく日記と剣を投げ捨てると、一目散にイリスとドラコの元へ駆け寄った。

 

「イリス・・・」

 

 イリスは咽び泣きながら、命の灯が消えゆくドラコの体を抱き締めた。――もう、何も考えられない。彼を失うなど、イリスにとって耐えられない事だった。ハリーは何と声を掛けていいのか分からず、立ち竦み、ロンは目を激しくこすりながら、鼻を啜った。

 

≪案ずることはない。お嬢さん≫

 

 ふと、舌足らずな子供のようにも、年を経た老人のようにも聞こえる不思議な声が、イリスのすぐ肩の上で聞こえた。ずしっとイリスの肩に、暖かな重みが生まれた。――フォークスだ。フォークスは頭をもたげ、真珠のような涙をいくつも、その艶やかな羽毛を伝わせ、ドラコの傷跡に零れ落としていく。それは不思議な事に、傷口の周りをぐるりと取り囲み、やがて、その傷そのものを消してしまった。

 

「癒しの涙だ」ハリーが茫然と呟いた。

「ダンブルドアが言ってた。不死鳥の涙には、癒しの力があるって」

 

 三人が固唾を飲んで見守る中、ドラコの瞼が痙攣し、彼はやがて――意識を取り戻した。イリスの頭の中で色んな思いが鬩ぎ合い、彼女は赤子のように泣きじゃくり始めた。強く彼を抱き締めて、気が付けばイリスは、何度も何度も同じ言葉を叫んでいた。

 

「愛してる。愛してるの。私も、大好き!」

「・・・ああ、わかってる」

 

 ドラコは優しく呟き、イリスの頭を抱き寄せ、頬にキスをした。

 

「次は僕らの番だぜ、ハリー。アルファベット順だと次は君だな」

 

 ようやく一息ついたロンが、二人の仲睦まじい様子を茶化して、ハリーに話しかける。しかし、当のハリーはむっつりとして黙り込んだままだった。何だか、イリスが他の男の子と仲良くしているというその事実が、どうしても許せなかったのだ。

 

 ――リドルの言う通り、彼とハリーは不思議と似通った点がある。リドルは孤児院で、ハリーは親戚の家で、それぞれ”愛情”を受けずに育てられた。リドルと同じように、ハリーもずっと”愛情”に飢えていた。彼にとって、一番最初に出会い、純粋に彼を慕い、”親友”として友情と愛情を惜しみなく注ぎ続けるイリスの存在は、彼が自覚している以上に、遥かに特別で、大きなものとなっていたのだ。気が付けば、ロンに『イリスの父親みたいだ』とからかわれてしまう位に、彼女を常に気にかけ、執着してしまう程――ハリーはイリスを愛していた。

 

 ハリーの魂の一部が、彼に囁き掛ける。”あれは僕のものだ”と。その考えは、ハリーの魂そのものを浸食し、奥底へ深く深く根付いていく。”愛情”は人を強くする――それは、良い方向ばかりであるとは限らない。”愛”が時に人を狂わせるように――”愛情”に目覚め始めたハリーは、ただ我武者羅にそれを――その根源たるイリスを求めようとしていた。

 

「イリスは僕のものだ」

 

 ハリーは声に出さずに呟いた。隣でのんびりと様子を見守るロンは気づいていない。ハリーが、かつてのリドルと同じように、イリスへ執心の眼差しを向けている事を。

 

 ――そう、彼女は僕のものなんだ。




よく考えたら六つ巴でした(フォークス含む)…。
しんどすぎてエタるかと思った…( ;∀;)良かった、投稿出来て(*´ω`)

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