アーチの向こうには、ずうっと遠くまで続く石畳の通りがあり、両脇にはさまざまな小さなお店が並んでいた。そばの店の外に積み上げられた大鍋がキラキラと日の光を浴びて輝いている。
「ドラゴンの肝、三十グラムが十七シックルですって。ばかばかしい・・・」
薬問屋の前で小太りのおばさんが首をふりふり呟いた言葉に、思わずイリスとハリーは目を見合わせ、「ドラゴンの肝だって?」同時にしゃべった。
「さて、まずは金を取ってこんとな。グリンゴッツへ行くぞ」とハグリッドが言った。
☆
グリンゴッツは、小さな店が立ち並ぶ中でもひときわ高くそびえる真っ白な建物だった。その立派な造形を見て、イリスは漏れ鍋を見た時に感じた『魔法界の人々は、古くてボロボロなものを好む』という考えを心の中で撤廃しなければならなかった。
磨き上げられたブロンズの観音開きの扉の両脇に、上品な制服を着こなした奇妙で小さな生き物が立っている。浅黒い賢そうな顔つきに、先の尖った顎鬚、そして手の指と足の先のなんと長いこと。
「さよう、あれが小鬼だ。・・・イリス、じろじろ見るな」
イリスがぽかんと口を開けたまま小鬼を凝視していると、ハグリッドがひそひそ声で言った。三人が進むと小鬼がお辞儀した。中の広々とした大理石のホールに入ると、そこには百人を超える小鬼が細長いカウンターの向こう側で仕事をしている。
三人はカウンターへ近づいた。ハグリッドがハリーとイリスの金庫を開けに来た旨を、ちょうど手の空いたばかりと見られる小鬼に伝える。
「鍵はお持ちでいらっしゃいますか」
「きっとおばさんに渡されたさっきの鍵だよ」とハリーに耳打ちされ、弾かれたようにポケットを探り、イリスは金色の鍵をカウンターに置いた。しかし、たちまちハグリッドがハリーの鍵を探そうとして、盛大にばら撒いた犬用ビスケットの中に埋もれてしまった。
やがて見つかったハリーの鍵と、ビスケットの山からサルベージしたイリスの鍵を小鬼は長い指で(粉だらけのイリスのだけ嫌そうに)摘み、慎重に調べ上げ、「承知いたしました」と言った。
「それと、ダンブルドアからの手紙を預かって来とる」
ハグリッドが手紙を小鬼に渡して二、三会話をしている間に、イリスはハリーに小鬼に咎められないよう声量をできるだけ落として話しかけた。
「ダンブルドアって知ってるよ。手紙に書いてあった。ホグワーツの校長先生でしょ」
「うん。でも『例の物』って言ってるよ。一体何なんだろう・・・」
ハリーは小鬼のグリップフックに案内される間、ハグリッドに『例の物』について聞いたようだが、教えてもらうことはできなかったらしい。残念そうにイリスに言ったが、イリスは小鬼の口笛に導かれてこちらへ元気よく走ってくるトロッコに意識が集中していたので、それどころではなかった。その余りのスピードに、イリスは小さい頃遊園地で絶叫系のジェットコースターに乗り、しこたま吐いたことを思い出していた。
イリスの嫌な予感は的中した。クネクネ曲がる迷路を四人を乗せたトロッコはびゅんびゅんと、冷たい空気の中を風を切って走っていく。最初は幼児向けのジェットコースターみたいなものだと自分を無理やり励まして、トロッコが急なカーブを曲がるたびにハリーと一緒に歓声を上げていたイリスだったが、次第に過激さを増していくコースに空元気はしぼんで跡形もなくなり、代わりにいつまでたってもゴールに着かないのでは?という不安に心を満たされ、顔は青ざめ吐き気がこみ上げてくるようになった。
やっとトロッコが小さな扉の前で止まった頃、イリスはハグリッドと共に通路の脇に立って、膝の震えが収まるのを待たなければならない羽目になった。
結局、ハリーに背中を摩られながら自分の金庫から必要なだけの金を袋に入れ、ハリーが例の金庫を興味深げに覗き込んでいるのを吐き気をこらえながら横目で見つつ、もう一回猛烈なトロッコをやり過ごして、やっとの思いで地上に解放されたのだった。
☆
漏れ鍋で元気薬を一杯ひっかけてくる、とふらふら去って行ったハグリッドを見送って、二人は制服を買いにマダム・マルキンの洋装店へ入った。勝手がわからず二人でどぎまぎしていると、愛想の良いずんぐりした体形の女性が声をかけてきて、一人ずつ順番に案内してくれた。
ハリーに続いて無事仕立てを終えたイリスが外へ出ると、無事復活したハグリッドがにこにこと微笑みながらアイスクリームをイリスに手渡した。イリスはハグリッドに元気よく礼を言うと、二段仕立てのアイスクリームにかぶりつく(ラズベリーとナッツ入りチョコレート味だ)。アイスクリームの冷たさがトロッコ酔いで疲れ切っている体に染み渡った。
ふと隣を見ると、ハリーが仏頂面でアイスクリームをなめていることに気が付いた。
「どうしたの、ハリー。何かあった?」
ハリーははっとした表情で隣を見ると、イリスが心配そうにハリーを覗き込んでいる。
ハリーにとって、イリスは生まれて初めてできた『まともな友達』だった。ダドリーの取り巻きみたいに自分をいじめたり、遠巻きに陰口を言われることもない。気を遣ったりすることもなく、ありのままの自分を見せられるし、等身大で付き合える。その友達に心配されるのは簡単に言葉で言い表せないくらいうれしいことで、もやもやとしていた心がポッと温かくなるのを感じた。
ハリーは二人に洋装店で出会ったという男の子の話をした。
「・・・その子が言うんだ。マグルの家の子はいっさい入学させるべきじゃないって」
「マグルって何?」
「マグルっていうのは、魔法族じゃない人間のことだよ」
ハグリッドがイリスに向けて呆れ顔で何か言う前に、ハリーが少し得意げに教えてくれた。
「お前はマグルの子じゃない。イリス、お前さんもだ。ハリー、お前が何者かその子がわかっていたらなぁ」
そのあとに続く会話で、イリスは『クィディッチ』という魔法界のスポーツがあることや、ホグワーツには『四つの寮』があること、そして何よりも魔法界はとにかく色々と覚えないといけないことが沢山ある、ということがわかった。
☆
買い物は順調に進んだ。フローリシュ・アンド・フロッツ書店で、ハリーのにっくき敵であるダドリーを懲らしめるにはどんな呪いが一番適しているのか、呪いの本を読みふけって熱く語り合ったり(ハグリッドは二人を引きずるようにして連れ出さなければならなかった)、純金製と純銀製の鍋はどっちが使い勝手が良いのかで議論したり、ハリーとイリスはまるで兄妹のように仲良く話し、つまらないことで笑いあった。
「あとは杖だけだな・・・おお、そうだ、まだ誕生日祝いを買ってやってなかったな、ハリー」
「そんなことしなくていいのに・・・」
「え?!今日お誕生日なの、ハリー?おめでとう!」
そういえば初めて会った時、今日で11歳になるって言ってたっけ。イリスがお祝いを言うと、ハリーはますます顔を赤らめて、「ありがとう」ともごもご口の中で呟いた。
ハグリッドは、二人を連れてイーロップふくろう百貨店へやってきた。ハリーが店中のふくろうに目を奪われている間に、イリスは彼方此方にある鳥籠の影や羽音にまぎれて、こっそりと店を抜け出す。ハリーの誕生日プレゼントを見繕うためだ。ハリーは何が好みなんだろう。迷子になる自信があったため、あまり遠くには行かないよう注意しながら歩いていると、ある店に目が留まった。古びたショーウインドーに、さまざまな形状の時計がたくさん積み上げられている。どうやら時計店のようだ。
懐中時計を買う予定だったことを思い出し、緊張しながら店内に入る。
「やあ、お嬢さんはホグワーツかい?もしそうならマグルの時計は壊れっちまうからダメだよ、うちの魔法仕掛けの時計にしなきゃね」
イリスの落ち着かない様子から、マグルの家の子だと判断した店員が、愛想よく話しかけてきた。すすめられるままに、小振りの懐中時計を手に取る。鎖も時計自体も曇りのないきれいな金色で、龍頭を押し込むと上蓋が開き、シンプルな文字盤が現れた。
「あの、これを二つください。一つは友達にプレゼントしたいんですけど」
店員は快く杖を一振りして、ハリー用の箱をカラフルなリボンと包装紙でラッピングしてくれた。
ハリーは驚くだろうか。気に入ってくれるといいな。ラッピングされた箱を満足げに眺めながら、元来た道を帰ろうとしたイリスの頭上に、突如として大きな影が差した。
☆
太陽が隠れてしまったのかと思って見上げると、イリスのすぐ目の前に上品な服装をした英国紳士が立っていた。その人はイリスよりも頭二つ分以上も背が高く、彼が日に背を向けて立っているために作り出された影が、小さなイリスを包み込んでいた。
しわ一つない上質な漆黒のマント(庶民のイリスでさえ、一目見ただけで高級品だとわかった)を着こなし、銀色の髪を頭の後ろで一つに束ねている。イリスはその様子を見て、直感的にどこかの王族か貴族か、それに準ずる身分の高い人に違いないと思った。その直感はあながち間違いではなかったが、それほどまでにこの通りを歩く他の人々と比べて、その男は威厳に満ちていた。
男の冷たい色をした瞳は、なんと驚いたように見開いて――イリスを凝視している。
「・・・・・・」
イリスは見知らぬ男が急に自分の目の前に立っていることにもびっくりしたし、おまけに自分を驚きの眼差しで見つめているのもびっくりだった。驚きの連続で、イリスは蛇に睨まれた蛙のように動けず、男からも目を離せなかった。
イリスと男は、しばらくの間無言でお互いを見つめあっていた。
「こん・・・」
「君の名前は何という?」
沈黙に耐え切れなかったイリスがこんにちはという前に、男は静かな声色でイリスに話しかけた。
「イリス・ゴーントです」
次の瞬間、イリスは信じられないものを見た。いや、体験した。
その男はイリスのフルネームを聞くと、いまだ見開いたままの双眸から一筋の涙を流し、ほんの短い間だったがイリスを引き寄せて力いっぱい抱きしめたのだ。そして茫然状態のイリスを離すと、その冷たげな容姿からは考えられないほど優しい声で話しかける。
「驚かせてすまなかった。私の名はルシウス・マルフォイ、ホグワーツの理事をしている。
・・・君の父上は、私にとって得難い友だった。十年前、両親を亡くした後、魔法界から姿を消した君のことをずっと案じていたのだよ」
「ほ・・・ほい・・・」
間抜けな返事をするイリスを気にすることもなく、ルシウスと名乗った男は自らの後ろにいた男の子を紹介した。父によく似た青白い顔に銀髪をまとめた、上品な容姿の男の子だ。
「私の息子のドラコだ。君とは同学年になる。ホグワーツで何かあれば、この子を頼りなさい」
「ドラコ・マルフォイだ。よろしく、イリス。父から君の話は聞いている。僕が色々と教えてあげよう」
ドラコは強い興味を示した目でイリスを見つめながら、気取った様子で手を差し出した。イリスは彼がよもやハリーの言っていた洋装店で出会った嫌味な男の子だとは露とも知らず、また新しく魔法界の友達(しかもずいぶんと頼もしそうだ)ができたと喜んで、快く握手した。その様子を満足気に眺めながら、ルシウスが言葉を続ける。
「・・・イリス、会えて本当に良かった。今年のクリスマス休暇は、私の屋敷で過ごしてはどうかね。一度君とじっくり話がしたい」
「おーい、どこ行っとったんだ!探したぞ」
イリスが応えようとした時、不意にハグリッドの声が聞こえた。振り返ると、雑踏の中でひときわ目立つ大きさのハグリッドが、真新しい鳥籠を持ったハリーと共に、こちらに向かってこようとしていた。
手を振り返してから改めてルシウスに返事をしようと向き直ると、もうマルフォイ親子の姿はどこにも見当たらなかった。