翌日の朝、前夜に降り出した雪が大吹雪になり、学期最後の「薬草学」の授業は休講になった。スプラウト先生がマンドレイクに靴下をはかせ、マフラーを巻く作業をしなければならないからだ。厄介な作業なので、誰にも任せられないらしい。
グリフィンドールの談話室の暖炉のそばで、イリスはロンとハーマイオニーの魔法のチェスを眺めて過ごしていた。しかし、彼女の顔は凡そ健康とは言い難い程に青白く、唇は真一文字に引き結ばれている。――それは当然の事だ。イリスは、昨日の出来事を親友達に告白したかった。だが、そうは問屋が卸さない。ハーマイオニーの隣に座るイリスの真向い――ロンの隣には、リドルが腰かけていて、イリスをじっと監視しているのだ。だから、イリスは何もできず、チェスの盤上で、ロンのビショップがハーマイオニーのナイトを馬から引き摺り下ろして、盤の外までズルズル引っ張っていくのを、まんじりともせず眺める事しかできなかった。
「ハリー、お願いよ」不意にハーマイオニーが口火を切った。
イリスがふと、一人掛けのソファに座るハリーに目をやると、彼はイライラとした調子で、肘掛け部分を忙しなく指先でトントン叩き続けている。彼は眼鏡の奥から、緑色に光る目でハーマイオニーを見返し、激しい口調で言った。
「やっぱり、ジャスティンのあの反応はおかしいよ。僕が蛇をけしかけた、だって?どう考えたらそんな見方ができるっていうんだい?僕は、蛇から彼を守ったんだ!」
「わかったわよ。そんなに気になるんだったら、貴方からジャスティンを探しに行けばいいじゃない」
ハリーはどうしても、昨日の『決闘クラブ』での出来事が腑に落ちないらしい。――彼は今や”スリザリンの継承者”どころか”その末裔”だという噂まで流れ始めているし、正義感の強い彼にとって、どうあってもその誤解は解きたいものなのだろう。イリスはぎゅうっと自分のスカートを握り締めた。ハリーは確かにスリザリンと同じパーセルマウスだが、”部屋”を開いた犯人ではない事は、イリスが誰よりもわかっていた。
ハリーはハーマイオニーの言葉を聞くと、急いで立ち上がり、談話室の出口へ早歩きで向かった。きっとジャスティンを探しに行くのだろう。――イリスは凄まじい罪悪感に押しつぶされそうになり、心身に強いストレスが掛かった結果、すうっと気が遠くなった。どこか遠くで、ロンとハーマイオニーが自分の名前を叫んでいるのが聴こえる。イリスは糸の切れた操り人形のように、ソファに崩れ落ち――彼女の視界と意識は、深い闇に包まれた。
☆
イリスが再び意識を取り戻した時、彼女は医務室のベッドに横たわっていた。――どうして目が覚めてしまったんだろう。イリスは自分を呪いたくなった。このまま永遠に目覚めない方が良かったのに。
「こんにちは、イリス」
不意に穏やかな声がして、イリスは横を向き――そして、驚きと嬉しさの余り、心臓が止まりそうになった。ベッドの脇には何と――ダンブルドアがいた。全てを見透かすような淡いブルーの瞳で、イリスをじっと見つめている。イリスにとって、彼の登場はまさに”神の降臨”そのものだった。イリスは一刻も早く真実をダンブルドアに伝えようとして、乾き切った唇を開くが――気が急いて空回りするばかりで、言葉は一向に出てこない。
「最近君は、体調が著しく優れないようじゃな。君の親友たちも、わしも、マダム・ポンフリーもみな、君を案じておるのじゃよ。・・・もちろん、スネイプ先生もじゃ。イリス、何か困っている事はないかね?わしでよければ、どんな些細な事でも構わぬ、何でも言っておくれ」
ダンブルドアはイリスの手を取り、労しげに撫でた。イリスは大急ぎでキョロキョロと周囲を見渡した。リドルの姿はどこにも見当たらない。――イリスはごくりと生唾を飲み込んだ。今なら言える。ダンブルドアに言うんだ。そして、この惨劇を終わらせるんだ。イリスが意を決して、口を開いた時――
不意に自分の首根っこをグイと掴まれ、後ろへ力任せに引き摺り倒された。その余りの勢いたるや――彼女はゴムボールのように床を何度か弾んで、壁にぶち当たって、べしゃっと倒れてしまった位だった。全身を襲う痛みに思わず涙が零れ、弱々しく咳き込みながら、イリスが状況を把握するため前方を見上げると――そこには、驚くべき光景が広がっていた。
先程までいたベッドに、イリス自身が――何事もなかったかのように――ベッドに寝ているのだ。自分が二人いる?イリスは思わず、自分の体を見返した。――よく見ると、自分の体はゴーストのように半透明になっていた。しかし、ベッドにいる方のイリスは、しっかりと実体がある。そして、彼女の後ろには、リドルがいて――今までに見た事の無い位、余裕のない、こわばった表情をして、ダンブルドアを睨み付け、口をパクパクと動かしていた。実体のある方のイリスは、リドルの口の動きに合わせて、『本当に大丈夫です。何でもありません』というような事を、ダンブルドアに向かって語り掛けていた。ダンブルドアは、思慮深い眼差しで、イリスの様子を見つめては、時々相槌を打っている。――イリスは全身が粟立つような恐怖に駆られた。リドルはあの時、『体の主導権は僕にある』と言っていた。”彼が、自分を操っている”。
「いやっ、助けてください!!私はここです!!先生!!」
イリスは立ち上がり、会話を終えて席を立とうとしたダンブルドアに向かおうとした。しかし、その直前で、リドルがイリスに向けて手を鞭のように振るうと、彼女は見えない壁にぶち当たったかのような強い衝撃を受け、再び床に転げ落ちた。そうしている間に、彼女の切望も空しく、ダンブルドアは医務室を去って行ってしまった。唯一の希望は潰えた。――リドルは、恐怖と絶望に喘ぐイリスを憎々しげに睨み付ける。その双眸は、熱した石炭の様に赤々と燃えていた。彼は怒りに震える声で、こう言い放った。
「裏切り者め!君は僕を怒らせた」
リドルが手を翳すと、ベッドに寝ていた筈のイリスが、むくりと起き上がる。そのままイリスの体を操り、”目くらまし呪文”を掛けさせると、リドルは彼女を伴って医務室を出た。
「待って、リドル!何をするの!私の体を返して!」
リドルは冷たくせせら笑っただけで、必死に後ろを付いていく半透明のイリスを振り返りもしなかった。リドルの操り人形と化したイリスは、”秘密の部屋”のある三階の女子トイレへ向かう。――イリスはゾッとした。”部屋”を開ける気だ。
「お願い、リドル、やめて・・・!」
リドルは、”部屋”の入り口である――蛇の絵が描かれた蛇口まで、彼女を連れて行くと、蛇語で〖開け〗と唱えさせた。その瞬間、蛇口が白い光を放ち、回転し始め、手洗い台そのものが動き出す。台が丸ごと床下へ沈み込み、見る見るうちに消え去った後に、大人一人が滑り込めるほどの太いパイプが剥き出しになった。やがてパイプから、緑色の恐ろしい大蛇が姿を現した――バジリスクだ。
バジリスクはリドルの命令に従い、その身をくねらせて、排水管の中へ姿を消した。リドルはイリスを操り、女子トイレを出て、いくつか階段を上がり、その先の廊下へ出た。そこは一段と暗く、嵌め込みの甘い窓ガラスの間から、激しく吹き込む氷のような隙間風が、松明の明かりを消してしまったようだった。
ふと、突き当りの長い廊下の端から、ハリーが探し求めていた人物――ジャスティン‐フィンチ・フレッチリーが、ひょっこり姿を現した。彼の傍らに浮かぶ「ほとんど首無しニック」と、何かを熱心に話している。リドルは口角をきゅっと上げ、微笑んだ。二人は当然のように、姿を消したイリスには気づいていない。イリスは震え上がり、声の限りに叫んだ。
「だめえっ!ジャスティン!逃げてええええ!!」
しかし、リドルに自分の体から追い出され、か弱い精神体と化したイリスの叫びは、ジャスティンには届かなかった。排水管を通り、天井の隙間から突如として現れたバジリスクが、二人を不気味な黄色い眼で射竦める。二人の表情は明らかな恐怖に歪み――イリスの見る間に、ジャスティンは全身がガチガチに凍り付き、床にバタンと倒れ伏した。「ほとんど首無しニック」は、淡い真珠色だった体の色がみるみるうちに黒く煤け、空中に縫い止められたかのように、ピタリと動かなくなった。
「ああ・・・」
――イリスは、腰が砕けて、その場に力なく崩れ落ちた。リドルは面白くなさそうに舌打ちをし、蛇語で何事かを命じると、バジリスクは天井から床へ、その巨体を難なく着地させた。そしてそれは――大人一人をまるごと飲み込める位、恐ろしく大きな口を開くと――動く事の出来ないジャスティンに狙いを定めた。イリスは形振り構わず、無我夢中でリドルに縋り付いた。
「お願い、リドル!もうやめて!何でもする、何でもするから!」
「”リドル”?”やめて”?」リドルは冷たく嘲笑い、イリスの言葉を繰り返した。
「この期に及んで、君はまだ、僕の”友達”のつもりでいるのか?何のために、記憶を見せたと思っている」
イリスは懸命に記憶の内容を、頭の中でなぞった。リドルが自分に対して求めているものを理解すると、イリスはガクガクと震えながらも跪いて、彼のローブの端を摘まみ――かつてメーティスがしていたように――口付けた。
「どうか、どうか、お願いします・・・!”
今にもジャスティンを丸呑みしようとしていたバジリスクの動きが、ピタリと止まった。頭上から、リドルの厳しい声が降って来る。
「問おう。僕は君の何だ?”友達”か?”家族”か?”教師”か?」
イリスは絶望にすすり泣きながら、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、”陛下”。あなたは、わ、私の――”ご主人様”です」
リドルはその答えに満足したようだった。バジリスクは、天井から排水管へと戻ると、どこへともなく姿を消した。――しかし、石になったジャスティンと「ほとんど首無しニック」は、変わらずそこにいる。泣き腫らした目で二人の様子を見つめるイリスに向け、リドルは冷たく言い放った。
「僕はどうやら、君を甘やかし過ぎたようだ。――君を再教育する。来なさい」
☆
イリスの意識が一瞬途切れ、再び、取り戻した時――彼女は、かつてリドルと数えきれない程、授業を行った「闇の魔術に対する防衛術」の教室にいた。イリスは慌てて両手を見た。今度は、ゴーストみたいに半透明ではなく、しっかりと実体がある。教壇には、同じく実体を持ったリドルが立っている。しかし、彼の瞳は今や、ルビーのように赤く、激しい怒りに燃え盛っていた。
「イリス。もう僕は、君を甘やかし、褒めそやす事などしない。今後はホグワーツに則り、点数形式で、君を厳しくも公平に評価する。点数がなくなった時点で、君への戒めとして”犠牲者”を新たに出す。――まずは、今までの君の行いを評価する事にしよう」
リドルが空中に手を翳すと、大広間の出入口付近で見かける、グリフィンドール寮の大きな砂時計が一つ、浮かび上がった。顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまったイリスに向け、リドルは優しげな微笑みを見せた。
「イリス。安心しなさい。君は良い事も沢山行っているんだよ。まず、君は、僕に魔法力と魂を存分に注ぎ込んでくれた。”
大きな砂時計の中に、五十粒分のルビーが注ぎ込まれていく。リドルはその調子で、次々とイリスの良い行いを讃えては、加点していった。――リドルの授業をよく理解し、実力を上げた事。リドルに忠実に従った事。上級生でも難しい”目くらまし呪文”や”防護呪文”を取得出来た事。空飛ぶ絨毯を使いこなせた事・・・。瞬く間に、砂時計は無数の輝くルビーで満杯になった。――助かった?そう言わんばかりに、明らかに安堵の表情を浮かべたイリスを見て、リドルはこう言い放った。
「――だが君は、悪い行いも同じ分だけしてしまっている。そうだな。まず君は、”グリフィンドールに入った”。誇り高きスリザリンの末裔にも関わらず、だ。裏切り者め。グリフィンドール百点減点」
百粒分のルビーが、ごっそりと消え去っていく。砂時計の中のルビーは、一気に八割程まで減ってしまった。イリスは全身の血の気が引いて、心臓が芯まで凍り付いていくのを感じた。
「そ、そんな――」
「口答えをするな。グリフィンドール五点減点。――そして、君の父親は、君の記憶を盗み見るに、愚かにも・・・未来でヴォルデモート卿を裏切ったようだ。親の不始末は子の責任だ。さらに百点減点」
ルビーは度重なる大幅な減点が容赦なく続けられた結果、ついには底の隅っこに、ほんのちょっぴり残っているだけになってしまった。イリスの脳裏に、大好きな親友・ハーマイオニーの笑顔が浮かび、彼女の心臓は不安にキリキリ絞られ、飛び出す位に激しく鼓動を打ち始める。――しかしリドルは、これで終わらなかった。
「最後に、君はどうやら”穢れた血”のハーマイオニー・グレンジャーを親友と慕っているようだな。”血の裏切り”め、恥を知れ。グリフィンドール、五十点減点だ」
とうとう、ルビーは一粒残らず無くなってしまった。イリスは目の前が真っ暗になり、茫然と空っぽになってしまった砂時計を見つめ続けた。リドルは芝居がかった様子で片眉を上げ、「おや」と呟いた。
「ルビーが無くなってしまったね。処罰実行だ、イリス。――次の”犠牲者”は、丁度良い、君の親友の”穢れた血”ハーマイオニー・グレンジャーにしよう」
まるで、『今日の晩御飯はカレーにしよう』とでも言うような、気軽な調子でリドルは言った。イリスは恥も外聞もなく、赤子のように泣き叫びながら、薄笑いを浮かべるリドルの足元に縋り付いた。
「”陛下”!何でもします!何でもしますから、どうか、どうか・・・彼女だけは傷つけないで!・・・わ、私を殺してください!私ならいくら酷い目に遭ったって平気です!悪いのは私です!」
ついには激しく泣きじゃくり始めたイリスを優しく抱き締めると、リドルは言った。
「イリス。それでは処罰にならないだろう?君の一番大切なものを壊すから、処罰になるんだ。――グレンジャーが、君の目の前でゆっくりとバジリスクに飲み込まれ、もがき苦しみながら消化されていく様子を見たら、いくらトロール並みに馬鹿な君でも反省するだろう?」
「ゆ、許して!どうか、お願いします!も、もう二度と、誰にも言いませんから!何でもします!ごめんなさい!ごめんなさい!」
リドルの怖気を震うような処罰を想像し、たまらず震え上がるイリスを見て、彼は食欲をそそられたかのように、ペロリと舌なめずりをした。
「イリス。君はさっき、”何でもする”と言ったな。――ならば、一度だけチャンスを与えよう」
酷くしゃくり上げながらも、見上げたイリスの頬を愛しげにひと撫でし、リドルは言った。
「かつてメーティスは、在学中に『
「『動物もどき』・・・」
「そうだ。結果発表日は――そうだな、クリスマス休暇が終わった後の日、にしよう。もしその時、君がまだ『動物もどき』になれていなかったら・・・グレンジャーは、バジリスクの一足遅いクリスマスディナーになる」
『動物もどき』。この言葉を、イリスは「変身術」の授業で、マクゴナガル先生から聞いた事があった。実際、マクゴナガル先生自身も『動物もどき』で、トラ猫に変身する事ができる。――この能力を持つ者は、特定の動物(当人の素質に最も相応しいもの)に、杖なしで変身する事ができる。だが、この能力を身につけるのは非常に難しいと聞いた。リドルが提示した習得までの期限は、わずか一月足らずだ。出来る訳がない、と絶望に打ちひしがれるイリスの頭の中で、優しく微笑むハーマイオニーの顔が浮かんだ。――彼女を守るためなら、何だってする。イリスの心の中で、狂気を孕んだ執念の炎が燃え盛った。彼女は一人、唇を噛み締めた。
☆
ジャスティンと「ほとんど首無しニック」の二人が一度に襲われた事件で、これまでのように単なるおぼろげな不安感では済まなくなり、ホグワーツ中はパニック状態となった。奇妙な事に、一番不安を煽ったのは「ほとんど首無しニック」の運命だった。ゴーストにあんなことをするなんて一体何者なのかと、寄ると触るとその話だった。クリスマスに帰宅しようと、生徒達が雪崩を打ってホグワーツ特急の予約を入れた。
「この調子じゃ、居残るのは僕たちだけになりそう」
ロンが三人に言った。今年のクリスマス休暇は、四人揃って――ポリジュース薬作戦のために――ホグワーツに残って過ごす事になっていたのだ。
「イリス。朗報だ。マルフォイ、クラッブ、ゴイルも残るんだって。肝心の息子が戻ってこないんじゃ、君を屋敷に拉致る理由がないよ」ロンがイリスに明るく話しかけた。
「今年のクリスマス休暇は安全って事だ。良かったね」ハリーがイリスの頭を撫でる。
その時、ルシウス・マルフォイに無理矢理組み伏せられた記憶が心中にフラッシュバックし、イリスはビクッと肩を跳ね上げた。――安全だって?とんでもない。もうイリスは、魔窟の中心に捕えらえているのだ。イリスを助けてくれる者は、誰もいなかった。
ハリーは一刻も早くクリスマス休暇が来る事を心待ちにしているようだった。廊下でハリーに会うと、みんな、まるでハリーが牙を生やしたり、毒を吐き出したりするとでも思っているかのように、ハリーを露骨に避けて通った。みんな、ハリーがジャスティンと『決闘クラブ』でもめ事を起こした事を知っているし、しかも何とも間の悪い事に――石化したジャスティンと「ほとんど首無しニック」の第一発見者がハリーだったものだから、彼こそが”スリザリンの継承者”だと信じて疑わなかったのだ。しかし、悪戯好きなフレッドとジョージにしてみれば、こんなに面白い事はないらしい。二人でわざわざハリーの前に立って廊下を行進し、芝居がかった口調で先触れした。パーシーが厳しく注意しても、二人はどこ吹く風だ。
「笑いごとじゃないぞ」
「おい、パーシー。どけよ。ハリー様は早くいかねばならぬ」とフレッド。
「そうだぜ。牙をむき出した召使とお茶をお飲みになるので、”秘密の部屋”にお急ぎなのだ」とジョージが嬉しそうに続けた。
ハリーもロンもハーマイオニーも、二人がハリーを”スリザリンの継承者”だと思っていないが故の行動だと知っていたので、いつものジョークだと軽くいなしていたが、イリスだけは違った。イリスは、自分のせいでハリーが犯人扱いされているという罪の意識に耐え切れず、いつも弱々しく泣き出してしまうのだった。
「は、ハリーは犯人じゃないよ。やめてよ・・・!」
だが、イリスはそれ以上は、決して言えない。ハリーは慌てて、自分よりも一回り程小さなイリスを抱きしめて、「僕は気にしてないよ。大丈夫」と優しく言って聞かせるのだが――イリスはただ、泣きじゃくるだけだった。ロンはその様子を呆れたように眺め、ハーマイオニーは何かを思案するように静かな目で、イリスをじっと見つめているのだった。
☆
いざクリスマス休暇が始まると、イリスは、『動物もどき』について勉強をするために、図書室に足繁く通い詰めた。リドルはイリスに試練を与えた次の日から、彼女の前に――夢の中でも現実世界でも――一向に姿を見せなくなってしまった。しかし、それは逆にイリスの不安を助長させた。イリスは、医務室や自室に『体調が悪い』という理由でしょっちゅう閉じ籠もり、その時間を勉強に費やしていたので、クリスマス休暇に四人で過ごす事は殆どなくなってしまった。おまけに、四人で細々と制作していた”ポリジュース薬作戦”にも、全く参加しなくなってしまった。
イリスは図書室で、『動物もどき』に関するあらゆる書物を読み漁った。”ハーマイオニーを救う”――ただその一心で、眠気や疲労感もかなぐり捨てられた。今までの彼女では考えられない位、集中力や知性も、ぐんぐんと増していくのが感じられた。しかし、イリスは勉強に没頭する余り、最早、まともに睡眠や食事すらも取れなくなってしまった。『動物もどき』になるのには、どんなに魔法に長けた者でも、習得までに数年の年月がかかるという。――イリスは思った。正攻法ではダメだ。とてもじゃないが間に合わない。どんな手段を使ってでも、不可能を可能にするんだ。イリスはもう、善悪の区別がまともに出来ない程に追い詰められ、衰弱していた。
イリスはその夜、”目くらまし呪文”で自らの姿を消し、図書室の『禁書』の棚に忍び込んだ。ハーマイオニーを守るためなら、どんな悪事にだって手を染めてやる覚悟だった。イリスの予想通り、『禁書』に置いてある本は、彼女に『動物もどき』になるに必要な、多くの知識を教えてくれた。彼女はスネイプの保管庫にも忍び入り、即効性があり、作り溜めする事のできる”栄養剤”や”集中強化剤”、”睡眠抑止剤”の材料をいくつか盗んだ。翌日、スネイプが気色ばんだ様子でホグワーツ中を練り歩き、”盗っ人”を探していたが、イリスは知らない振りを貫いた。――皮肉な事に、そういった忍びの行動に必要な魔法は全て、リドルが教えてくれていたのだ。努力の甲斐あって、イリスは少しずつ――自分の体を動物へと変化させる事ができるようになっていた。
☆
クリスマスイブの夜、イリスは、興奮した様子のハーマイオニーに談話室の片隅に呼び出された。
「イリス。ついにポリジュース薬の完成よ。明日の朝、煎じ薬にクサカゲロウを加えたら、いよいよ作戦決行だわ」
「そう。私は行けないから。ごめんね」
イリスは素っ気なく返事を返すと、踵を返して自室へ戻ろうとした。イリスはもう『動物もどき』の事で頭が一杯で、余裕がなかったし――ルシウスの魔の手から自分を救ってくれなかったドラコが、スリザリン生に扮した三人に真実を告げるようなリスクを冒すとは到底思えなかったのだ。しかし、その手をハーマイオニーはしっかりと掴み、離さなかった。
「ねえ、イリス。貴方、ホントに最近様子がおかしいわ。休暇が始まってから、ろくに顔を合わせていないじゃない。ハリーもロンも、とっても心配しているのよ。いつも青白い顔をしてるし、今にも倒れそうだわ」
「体調が悪いから、しょうがないよ」
「しょうがなくなんてないわ。私、マダム・ポンフリーに相談したの。そうしたら、貴方を聖マンゴに一度連れて行くって・・・」
イリスは思わず頭がカッとなり、感情的に叫んだ。
「どうしてそんな余計な事をするの?!」
ハーマイオニーは驚きの眼差しで、イリスを見つめた。イリスは彼女をイライラと睨み返す。今ここで、聖マンゴなんかに連れて行かれたら・・・習得までの期限なんか、あっという間に過ぎる。つまり、ハーマイオニーが殺されてしまうんだ。私の気持ちも知らない癖に!イリスは思わず心の中でハーマイオニーを呪い、詰め寄った。
「ハーミーって、ホントにおせっかい焼きだよね!!私に断りもなく勝手に・・・私のお姉ちゃんにでもなったつもり?!」
「ご、ごめんなさい、イリス、でも私、貴方の事が心配で・・・」
「私のことが心配なら、もう私に関わらないでよ!!」
イリスは自室に駆け込むと、荒々しくドアを閉めた。――そして、彼女は、扉を背にして力なく座り込み、しくしくと泣き出した。こんな筈じゃなかった。ハーミーたちに『メリークリスマス』って言って、ハリーやロンから聞いた魔法のクラッカーやおもちゃで遊んで、クリスマスのご馳走を四人で仲良く食べて、クリスマスプレゼントを交換して・・・。イリスの心中で、決して叶う事の無い未来予想図が浮かんでは、キラキラ輝いて消えていく。――現実は、イリスは食事も睡眠もろくに取らず、三人とはほぼ絶縁状態で、一人ぽっちだった。ハーミーはきっと、意地悪な私を嫌うだろうな。それでいいんだ。イリスは一人、寂しく笑った。闇の帝王の血縁者であり、その手下にされてしまった自分と、一体誰が仲良くしてくれるっていうんだ?
☆
その夜、イリスは、寝静まったハーマイオニーのベッドの脇に、そっと立った。
「ごめんね。ハーミー」
それは、イリスの素直な謝罪だった。たちまち胸の中に熱い感情が込み上げて来て、ボロボロと大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
「ハーミー。大好きだよ。だから、・・・た、助けたいの。守り、たいの。う、うぅ・・・」
本当は、ハーマイオニーとずっとずっと、この先ずっと、仲良く過ごしたかった。でも、彼女の無事を考えるなら、イリスはもう、ハーマイオニーと関係を断たねばならなかった。ハリーやロンともだ。
「がんばって、『動物もどき』になるからね。・・・絶対、絶対、ハーミーの事、守るから」
その時、最後のお別れの言葉を囁き続けるイリスは気付かなかった。横を向いて、静かな寝息を立てていたと思っていたハーマイオニーが――薄目を開け、同じく静かに涙を流していた事を。
☆
翌日、スリザリン寮の前で、三人のスリザリン生たちが佇んでいた。――その正体は、ポリジュース薬で見事変身に成功した、ハリーとロンとハーマイオニーだ。彼らはそれぞれ、ゴイル、クラッブ、ミリセントに変身していた。本物のゴイルとクラッブは、ハーマイオニーお手製の眠り薬入りケーキを食べ、箒用の物置で長い眠りについている。ミリセントは実家に帰っているので、ホグワーツ内で彼女と出くわす危険性はない。
「効果は六十分しか続かないわ。早くしなくちゃ」ハーマイオニーがイライラと足踏みをしながら、二人を急かした。
「そんなこと言われたって、合言葉を知らないもの」ハリーは囁く。
「君、ちょっとプリプリしすぎだぜ。イリスじゃないんだからさ」ロンが混ぜっ返す。
ロンの言葉が切っ掛けとなり、三人はそれぞれ、今朝のイリスの様子を思い返して、落胆のため息を零した。ハリーが代表して、最近ろくに会話すら出来ていないイリスに話しかけた途端、彼女はわざとらしいまでにゴホゴホと咳き込みながら、自室へ引っ込んでしまったのだ。
「やっぱり、ジャスティンとニックが襲われた事が、相当ショックだったんじゃないか?だって、あの事件からあいつ、明らかに様子が・・・」
言い掛けたロンの脇腹を、ハリーが慌てて小突き、顎である方向を差した。――三人が求めていた人物が、そこにいた。ドラコ・マルフォイだ。ドラコは、いつも青白い顔をより一層白くさせ、目の下には薄らと隈が出来ていた。思いつめた表情で、スリザリン寮の前までやって来て――やっと、三人の存在に気づき、眉をひそめた。
「おまえたち、こんなところにいたのか。――ブルストロード?君、帰って来てたのか?」
「え、ええ。そうなの」ハーマイオニーは出せうる限りの野太い、意地悪そうな声を出した。
「そうか」
ドラコは特にミリセントに対して、疑問は抱かなかったようだった。というよりも、そんな事などどうでもいい、といったような調子だった。彼は湿った剥き出しの石が並ぶ壁の前で立ち止まり、「純血」と実にスリザリンらしい合言葉を唱えた。すると、壁に隠された石の扉がスルスルと開く。ドラコがフラフラとそこを通り、三人がそれに続いた。
スリザリンの談話室は、細長い天井の低い地下室で、壁と天井は荒削りの石造りだった。天井から丸い緑がかったランプが鎖で吊るしてある。前方の壮大な彫刻を施した暖炉では、パチパチと火が弾け、その周りに、彫刻入りの椅子に座ったスリザリン生の影がわずかに見えた。
「おまえたちに面白いものを見せてやる。ちょっとそこで待っていろ」
「私も一緒に見たいわ」とすかさずハーマイオニーが言った。
ドラコは三人に暖炉から離れた空の椅子を勧めると、自室へ向かい――暫くして、日刊予言者新聞の切り抜きを持ってきた。ハリーに手渡したので、三人はそれぞれ額を突合せてそれを眺める。それは、『魔法省での尋問』と銘打たれた記事で、ロンの父親であるアーサー・ウィーズリー氏が、マグルの自動車に魔法をかけた廉で、五十ガリオンもの罰金を言い渡されたという内容だった。
「面白いだろう?」ドラコは弱々しく笑った。
三人はそれぞれ、苦心しながらも――特にロンは、二人が制止しなければ、危うくドラコに殴りかかるところだった――笑った振りをした。ドラコはそんな三人の反応を気にも留めず、虚ろな表情で言葉を続けた。
「こんなマグル贔屓の下らない一族の、下らない記事が取り上げられているっていうのに、どうして日刊予言者新聞は、今回の事件を報道しないんだ?」
三人は思わず顔を見合わせた。――今回の事件とは言うまでもなく、”秘密の部屋”の事だ。ハーマイオニーは素早く頭を巡らせ、質問した。
「ねえ、今回の事件。裏で誰が糸を引いているのか、あなたに考えがあるんでしょう?」
その時、ドラコは――能面のように一切の感情を消し去った。そして彼は、ハーマイオニーと目を合わさずに、不快そうに言い放った。
「いや、ない。同じ事を何回も聞かないでくれ、ブルストロード」
「過去に”部屋”が開かれたって、本当?」ハリーが機転を利かせ、質問の内容を変える。
「ああ」ドラコは本当に嫌そうに頷いた。「だがこの話を聞かせるのは、今回で三回目だぞ、バカゴイル」
「父上から聞いた話だが、今から五十年前に、スリザリンの継承者によって”部屋”が開かれたらしい。その時、”穢れた血”が一人殺されたとされている。だから今回も――ウッ」
驚くべき事態が起こった。ドラコはおもむろに両手で口元を抑え、込み上げる吐き気を堪えようとしたのだ。ハーマイオニーはハンカチでガードした手で腫れ物に触るようにドラコの背中を撫でさすり、ハリーとロンは、互いの目を見合い、首を傾げた。――何故”純血”のドラコが、ここまで”秘密の部屋”に対して吐き気を催す程に、怯える必要性があるんだ?
「すまない」
「いいのよ」
ハーマイオニーはそう言いつつ――ドラコには見えないように――ハンカチを指先で嫌そうに摘み、ロンのローブのポケットに突っ込んで、彼のローブで自分の手を念入りに拭いた。「おい、マジでふざけんな!」と言わんばかりの、ロンの殺意に満ちた眼差しを平然と受け止めながら、彼女は次の質問に移る。
「過去に”部屋”を開いたスリザリンの継承者は、どうなったの?」
「ああ、誰だったにせよ・・・追放された。たぶん、まだアズカバンにいるだろう」
「アズカバンってのは、魔法使いの牢獄さ」ロンが二人に辛うじて聞こえる声で囁いた。
「じゃあ、今回のスリザリンの継承者も・・・いずれは殺人者になって、アズカバン送りになるって事よね」
ハーマイオニーは、いやに挑戦的な目付きで言い放った。その声には、わずかに怒気が含まれている。ドラコの表情が明らかにこわばった。
「そ、そんなこと、僕がさせない」ドラコは蚊の鳴くような声で言い返した。
「”させない”?」ハーマイオニーは容赦なく追撃する。「やっぱり貴方・・・」
しかし、彼女の攻撃はそこまでだった。ハリーが慌てて、元の豊かな栗色の髪に戻りつつある彼女の肩を小突いたからだ。隣に座るハリーの瞳が、徐々に緑色へと変わっていく。ロンの髪の色も、元の赤色を取り戻していく。――タイムアップだ。三人は大急ぎで立ち上がった。
「胃薬だ。さっき食ったケーキ、腐ってた」ロンが呻いた。
三人は振り向きもせず、スリザリンの談話室を端から端まで一目散に駆け抜け、石の扉に猛然と体当たりし、廊下を全力疾走した。――何卒、マルフォイが何にも気づきませんように――と三人は祈った。三人は次第にダボダボになっていくローブをたくし上げつつ、クラッブとゴイルを閉じ込めて鍵をかけた物置(中から、激しくドンドンと戸を叩くこもった音がしている)の前に靴を投げ置き、再び「嘆きのマートル」の住む三階の女子トイレへ戻った。
「まあ、全くの時間のムダではなかったよな」ロンがゼイゼイと息を切らしながら、トイレの扉を閉めた。
「ムダどころか――今回の件で、私、確信がいったわ」とハーマイオニー。
「確信って何のことだい?」ハリーがひび割れた鏡で、完全に元に戻った自分の顔を見ながら問いかける。
ハーマイオニーは何にも答えず、自分の着替えを持って個室に入り、鍵を閉めた。
☆
一方のイリスは、自室で一人、双眸を固く閉じ、集中していた。彼女の座るベッドには、図書室から借りて来たのだろう、無数の書物が広げられている。つい先ほど飲み干したばかりなのだろう薬瓶や、少しかじった痕のある薬草も転がっていた。
イリスは全身に魔法力を行き渡らせる。――途端に、彼女の体を金色の光が包み込み、見る見るうちに小さく小さく縮んでいく。クルミ程の大きさになると、金色の光は細かな粒子になって弾け飛び――そこには、イリスではなく、精緻な金細工と見まごうばかりの、素晴らしく美しい、丸みを帯びた小鳥がいた。長い嘴に、ルビーを嵌め込んだように煌めく、つぶらな瞳。
イリスは、ひと月足らずで見事リドルの試練を達成し、魔法界で絶滅危惧種に指定されている魔法生物『ゴールデン・スニジェット』に変身したのだった。
イリスは嬉しくなって、美しい羽の関節を自在に切り替え、部屋中をキュンキュンと高速で飛び回った。彼女にとっては、スニジェットだろうが、蛇だろうが、ナメクジだろうが、『動物もどき』になれさえすれば、何でも良かった。――これで、ハーミーをバジリスクから守る事ができる。元の人間の姿に戻ると、イリスは明るい笑い声を上げて、沢山の本が山積になったベッドの上へダイブした。
「やったよ!ハーミー!これで、これで・・・君を守れるんだ!」
すぐ傍で、リドルが邪悪な笑みを湛え、その様子を見守っている事も知らずに。
リドルが鬼畜過ぎて、書いてて気分悪くなってきた・・・。
頑張れ、山場はあと三話くらいあるぞ!先週行ったTDLの楽しい記憶を思い出すんだ・・・エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!