ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※2:作中の前半、残酷な表現が含まれます。ご注意ください。


Page4.ペトルーシュカ

 ドラコは両親に連れられて、贔屓にしている歌劇場へ訪れた。いつもの貴賓席に座ると、間もなく上演開始を知らせるブザー音が響き、立派なビロードで出来た幕が上がっていく。

 

 舞台の中央には、天井から垂らした銀の糸で四肢の先を繋がれた、少女の形をした精巧な魔法人形がぽつねんと立っている。彼女のそばには、黒いマントを着た魔法使いが一人佇んでいた。目深に被ったフード越しに垣間見えた彼の顔は、不思議な事に一貫しなかった。目を凝らす度に、陽炎のようにゆらゆらと顔の輪郭が揺らめき――若々しいハンサムな青年のようにも、長い髭を蓄えた老人のようにも見えた。

 

 ――ドラコは魔法使いから人形へと視線を戻し、息を飲んだ。最初は人形だとばかり思っていたが、よく見るとそれは――イリス本人だった。しかし――何故イリスがそのような状況に至ったかは不明だが――彼女が公の場で見世物にされているというのに、隣に座る彼の両親は表情一つ変えず、舞台を注視しているままだ。

 

 イリスは無数の観客達の拍手を受け、傍らに立つ魔法使いを戸惑うように仰ぎ見た。――魔法使いは微動だにしない。やがて彼女は悲しそうな表情でぎこちなく客席に向かって礼をし、客席前のピットでオーケストラが奏でる壮麗な音楽と歌に合わせて、煌びやかな衣装を翻しながら踊り出した。

 

 ―― 一時間か、二時間か。途方もなく長い時間が過ぎたような気がした。通常の劇ならば、途中で休憩を挟む筈だ。ドラコは訝しんで周囲を見渡すが、両親を含む観客達は、平然と身動き一つせずイリスの様子を眺めている。音楽と歌は、一向に止まらない。それどころか燃え盛る炎の様に、次第にその激しさを増していく。――やがて、休みなしで動き続けているイリスの体力にも、とうとう限界が訪れたようだった。遠目からでも分かるほど顔を真っ赤にして汗を幾筋も滴らせ、酸素を求めて息を荒げている。その両足は何度ももつれ、その度に体勢を崩して床へ倒れ込もうとするが――彼女が膝をつく寸前に、魔法使いが杖を振るって、糸を操り強制的に立ち上がらせた。

 

 間もなくイリスは、自身を操る糸に抵抗を示すようになっていった。しかし魔法使いも負けていない。彼女が四肢に力を込め、わざと動きを鈍らせる度に、糸の数を増やす。天井から何本もの糸が蛇のように襲い掛かり、彼女の体中に巻き付き縛り上げて、彼女の意志とは無関係に『彼の望む踊り』を続けさせようとする。

 

 ――舞台上の無言の攻防の末、今や、イリスは蜘蛛に囚われた蝶のように、無数の糸に絡め取られていた。糸はただ縛るだけでなく――針金のようにその硬度を増し、衣装を無残に引き裂き、彼女の体のあらゆる箇所から血を滴らせる。容赦なく締め上げられながらも、イリスは歯を食いしばって指先一本動かさない。

 

 やがてその場を動かなくなったイリスに対し、客席からブーイングが上がり始めた。イリスは『もう踊りたくない』と言わんばかりに首を横に振るが、魔法使いは許さない。苛立たしげに彼女に近寄ると、その頬を何度も張り飛ばした。

 

「パパ、イリスが苦しがってる!あいつに言って、やめさせてあげてよ!」

 

 ドラコは堪え切れずにルシウスに懇願するが、彼は満足気な笑みを浮かべて目の前の残酷な光景を眺めているだけだ。対するナルシッサは目を背け、口元を抑え嗚咽を堪えている。両親に見切りをつけ、ドラコは席を立ち、ブーイングを物ともせず前方の客席を通り、ピットをすり抜け、舞台に上がった。血だらけのイリスに更なる暴力を加えようとする魔法使いを押しのけ、彼女を拘束する糸に手をかける。

 

「イリス!早く逃げよう!こんな糸、僕が切ってやる!」

 

 そう言いながら、ドラコが糸を力任せに引き千切ろうとした。――その瞬間、何かが引き抜かれるような嫌な音がして、イリスが耳をつんざくような恐ろしい悲鳴を上げ、耐え難い苦痛に身を捩らせる。――糸の先は、彼女の体に直接(・・)繋がっていたのだ。彼女の皮膚から吹き出す夥しい量の血を見て、ドラコは凍り付いた。弱々しく咳き込んだ拍子に血の塊を吐きながら、イリスは底知れぬ悲哀に満ちた瞳でドラコを見つめる。

 

 ――その双眸は、炎のような真紅に染まっていた。

 

「もう遅いよ、ドラコ。何もかも。どうしてあの時、助けてくれなかったの?」

 

 

 ドラコは息を切らして跳ね起きた。夢だった。いつもの自分の部屋だ。心臓が今にも飛び出しそうな位、大きな音を立てて波打っている。サイドテーブルから水差しを取り、グラスに注いで一息で飲み干しながら、無意識に時計へ目をやった。――あの事件(・・・・)を目にしてから、まだ数時間も経っていない。我に返った彼の胃の底に濁流のように流れ込み、溜まっていくのは、つい先程飲み干した水ではなく――イリスに対する強烈な罪悪感だった。

 

 さっきの夢は、自分の罪悪感が作り出したものだったのだろうか。ドラコはベッドの上に座り込み、汗でぐっしょり濡れた髪を掻き上げた。――だが、夢にしてはあまりにも臨場感があった。引き千切ろうと手をかけた糸の感触を、今でも克明に思い出せるほどに。

 

 ――お前は一切関与してはならない――どうしてあの時助けてくれなかったの?――

 

 父の忠告と夢の中のイリスの言葉が胸の奥で拮抗し、容赦なく彼を責め立てる。ドラコにとって、父もイリスも同じく大切な存在だ。父の命令に逆らうなど考えられない。だが、イリスを助けたい。相反する思いに、彼はベッドの上でじっとしている事ができなくなり、自室を出てイリスの部屋へ向かった。そっと扉を開け――人の気配を感じて思わず声を上げそうになり――慌てて口元を抑える。

 

 驚くべき事に、彼女の部屋には先客がいた。――ナルシッサだ。窓から差し込む淡い月光が、ベッドですやすやと眠るイリスを照らし出している。その脇にナルシッサが腰かけ、悲愴に満ちた表情を浮かべて、涙を流しながらイリスの髪を梳き、彼女に囁きかけていた。――幸いな事に、その様子を扉の隙間から見守っているドラコには気づいていない。

 

「ごめんなさい。イリス。あの人は、貴方とあの子のためだと言ったけれど・・・命の恩人の娘に、私たちは何て惨い仕打ちを・・・」

 

 それはナルシッサの懺悔だった。か細い声で紡がれる言葉は、残念ながら微かにしか聞き取れないけれど、きっとあの事(・・・)を言っているのだろうとドラコは推測する。恐らく父から、事の次第を聞いたに違いない。ドラコは弱り果てた様子で、受け取られる事の無い謝罪を何度も繰り返す母から、目を逸らす事ができなかった。

 

「全てを思い出したら、貴方は――私たちの事をどう思うかしら?あの子は貴方を愛し始めているのに――きっと貴方は――」

 

 イリスは、ナルシッサの底知れない悲しみを知る事もなく、のんきに寝言を呟きながら寝返りを打った。ナルシッサは弱々しく微笑むと、イリスの前髪を掻き上げ、その額に愛しげに口付けた。寝返りを打った事でわずかに乱れた彼女の布団を直し、涙を拭いながら部屋を出ようと立ち上がる。ドラコは慌てて自室に戻り、ベッドに潜り込んで布団を頭から引っ被り、寝た振りをするしかなかった。

 

 

 翌朝、イリスは眠い目を擦りながら起き出した。カーテンを透かして日光が差し込み、外では小鳥がさえずっている。

 

 ――何だかとても大切な事を忘れているような気がして、その感覚はすぐに消え去った。

 

 サイドテーブルに置いた懐中時計を見て、朝食の時間まではまだ時間がある事を確認してから、イリスは身だしなみを整えた。最後に銀色のリボンで鎖骨位まで伸びた髪をポニーテールにすると、ドラコの元へ向かう。

 

「おはよう」

 

 ドラコは――不思議な事に――イリスがいつものように朝の挨拶をすると、『狐につままれた』と表現するしかないような、神妙な顔をした。・・・何か変な事言ったかな。イリスが首を傾げていると、彼は青白い顔を恐怖で引き攣らせながら、恐る恐るこう尋ねた。

 

「君は・・・その・・・昨日の夜の事・・・覚えていないのか?」

「昨日の夜?」

 

 ドラコが固唾を飲んで見守る中、イリスは頭を捻り、昨日の記憶の糸を辿った。――ダイアゴン横丁で一悶着あって、夕食を食べた後――イリスの脳内に、ほんの一瞬、雑音が混じった。夕食後の彼女の記憶がごっそり抜き取られ、書き換えられていく。イリスは捏造された記憶を思い出した(・・・・・)

 

「夕食の後、ドラコと寝るまでチェスをしたよね。うん、覚えてるよ。その事が、何かあった?」

 

 ドラコは絶句した。昨日の夜、彼女とチェスをした覚えなんてない。彼の全身の血の気が、音を立てて引いていく。――その記憶は偽物だ、イリス。君はあの夜、僕のパパに襲われていたじゃないか。そしてきっと、その時に君の記憶も書き換えられたんだ。何も考えず彼女にその事を伝えようと息を吸い込んだところで、理性が急ブレーキを掛けた。

 

 待てよ。彼女にそれを言って、どうなるっていうんだ?今にも喉から飛び出しかけていた言葉が、瞬く間に体の底へ沈んでいく。イリスに包み隠さず全てを伝えたとしよう、きっと彼女は信じてくれる。だが、彼女の素直さは一級品だ。父に隠し通す事なんて彼女には無理だ、バレるのは時間の問題、そうしたら――ドラコは自分の体が凍り付いていくのを感じた――彼女は再び記憶を書き換えられ、余計な事をした自分はどんな目に遭うか分からない。

 

 ドラコは思案を巡らせる。あの時、父は眠るイリスの様子をわざと自分に見せ、『ホグワーツで今後起こる事件には一切関与するな』と釘を刺した。一から説明されずとも、それだけの要素でドラコは大体の事を想定できる。――つまり、今後ホグワーツで何らかの事件を引き起こすのはイリスで、その手筈を整えたのは自分の父だ。きっと父は自分を『嘘の記憶』と関与させた事で、きちんと父の指示を守れるか――隠された真実を告げないでいられるか、自分を試しているのではないか。

 

 知らない振りをするんだ。簡単だ、ただ一つ頷きさえすればいい。ドラコはイリスを見た。だが、真っ直ぐにドラコを見つめる彼女の瞳は、痛々しいまでに純粋過ぎて、彼の良心を容赦なく攻め上げる。――いや、やっぱり事実を言うべきだ。彼女を助けるんだ。ドラコは、緊張でカラカラに乾いた唇を開いた。

 

 その時、控えめなノックが響いた。屋敷しもべ妖精の甲高い声が、二人に朝食の時間が来た事を告げる。――朝食の席には、父もいる。ドラコのなけなしの勇気は、完膚無きまでに砕け散った。

 

 

 食堂室では、ルシウスとナルシッサが身支度を整え、二人を待っていた。ルシウスは愉快そうに目を細めて唇の端を少し上げ、意気消沈した様子で席に着くドラコを一瞥した。ナルシッサは少しばかりやつれた表情で、イリスを心配そうに見る。――それぞれの思惑を胸に秘め、四人は朝食を食べ始めた。

 

 滞りなく朝食が済み、食後の紅茶がテーブルに並ぶ頃、唐突にイリスが口火を切った。

 

「――ルシウスさん。あの、少しお話があります」

 

 日刊予言者新聞を広げたばかりのルシウスは、イリスの言葉に芝居がかった仕草で眉を上げ、無言で彼女に続きを促した。一方のナルシッサとドラコは『何を言い出す気なんだ』とでも言うように、怯え切った目で二人を凝視する。

 

 イリスが聞きたかったのは、他でもない――呪いのコインと手紙の事だ。あの夜、直接ルシウスと対決した記憶のみを消し去られたイリスは、まだ彼が敵――死喰い人だという事も、自分が闇の帝王の関係者だという事も知らない。彼女の本当の記憶は、先日の夕食を終えたばかりの時点で止まっている。――だから、ルシウスに対する不信感と、彼を信じていたいという相反する思いは、未だに彼女の心中に渦巻いていた。そして、イリスなりにそれらの解決策を考えた結果、今度は、あの夜のように書斎に侵入を図るのではなく――本人に直接聞こうという結論に達したのだ。

 

「ドラコから、コインや手紙の事を聞きました。どうして・・・そんなことをしたんですか?」

 

 ルシウスは思案するように顎に細い指を添え、考え込む素振りを見せ、有無を言わさぬ冷たい声音でこう言った。

 

「ああ、その件かね。――もっと別の事かと(そう言って、確認するようにドラコをチラッと見たので、彼は慌てて首を僅かに横に振った)。

 コインを送ったのは、君があのマグル贔屓のウィーズリーの家に行くのを阻止するためだ。私は昨日の騒ぎでお分かりかと思うが、あの一家とは犬猿の仲でね。――確かにあれも我らと同じ純血の魔法族には違いないが、イリス、一つ教えてやろう。純血の魔法族にも、良し悪し(・・・・)がある。君は誇り高き純血の魔女として、マルフォイ家(われわれ)と共にいるべきなのだよ。

 この一年、君の様子を何も言わずに見守ってきたが――君はいまだに、自分に相応しい友人とそうでない友人の区別がついていない。私が君の手紙を整理するに至ったのは、君をこれ以上間違った道に進ませないためだ。これからは私が、魔法界の正しい知識、作法、生き方、そして友達の付き合い方を教えよう。だから、あの一家と付き合うのはやめなさい。あれは底辺の魔法族だ。君が穢れてしまう」

 

 言葉の意味を暫く考え込んでから、言い返そうとするイリスを片手でやんわりと牽制し、ルシウスは一呼吸置いてから、凄まじい爆弾を落とした。 

 

「ところで、イリス。私も、一つ君に聞きたい事がある。もう九月一日まで、三日を切ったが――宿題はやったのかね?」

 

 ――イリスは、頭が真っ白になった。

 

 

「信じられないぞ!何で今までほったらかしにしてたんだ?!」

「ずびばぜんでじた・・・」

 

 イリスは自室に戻り、勉強机の上でみっともなく泣きべそをかきながら、羊皮紙二巻き分もある魔法史のレポートを書き進めていた。毅然とした態度でルシウスを問い詰める等と、決意していた自分が馬鹿みたいだ。イリスは鼻をすすりながらため息を零した。もっと大事な事があったのに。

 

 ――ルシウスがやたらに嫌がるイリスを叱りつけて調べた結果――彼女の宿題は、魔法薬学以外、ほとんど手を付けられていなかったという、恐るべき事実が発覚した。ドラコが彼女のお目付け役となり、今日観に行く筈だった舞台も急遽キャンセルとなった。――イリスは小学校時代も、夏の宿題はギリギリまで忘れて放置するタイプだった。小学校時代は提出が遅れたり踏み倒したりしても多少怒られるだけで済んだが、勉学に対して厳格なホグワーツではどんな恐ろしい目に遭うか――想像に難くない。

 

「ロンの家に行った時、ハーミーに手伝ってもらおうと思ってそのまま忘れてたんでず・・・」

「人に頼るな!宿題は自分の力でやるものだろう!」

「ごべんだだい・・・」

 

 ドラコはイリスの涙ながらの言い訳にぴしゃりと言い返した。彼はホグワーツに入学するまでは、両親の英才教育を受けていたため、きちんと計画通りに全ての宿題を済ませていた。おまけに全ての科目において彼女より上に立っている事は自覚しているので、彼女が躓けば教えてやるつもりだが――自分の宿題を写させるつもりは、さらさらなかった。――彼女のためにならないからだ。

 

 すでに書き上げてある魔法薬学のレポートを手に取りながら、ドラコは内心ホッとしていた。一先ず、宿題に集中していれば、あの事を一時的にでも忘れられる。――父の指示も、イリスの怯えた顔も、夢の中の彼女の言葉も、考えないでいられる。ドラコはただ『現実』から逃げるため、添削目的でそのレポートを一読して――驚愕した。

 

 素晴らしい完成度だった。文体は適度な大きさで小奇麗に整っており、内容も簡潔に――だが詳細にまとめられており、読みやすくわかりやすい。今彼女が書いている魔法史のレポートとは比べ物にならない位、出来が良かった。本当にこれをイリスが書いたのなら、何故彼女がいまだに補習を受け続ければならないのか――理解に苦しむほどだ。

 

「君、本当にこれを自分で書いたのか?・・・ん?あ、おいこらっ!何を読んでるんだ!」

 

 ドラコは感心したようにイリスを見た。――しかし次の瞬間、額に青筋を浮かばせながら彼女を叱り、彼女の手から――こっそり羊皮紙の影に隠れるように読んでいたロックハート著『雪男とゆっくり一年』を奪い取った。――イリスは勉強をしていると、誰かが付きっきりで(特にハーマイオニーが)見ない限り、集中力が途切れて可能な限りサボろうとするタイプでもあった。

 

「全く!油断も隙も無い・・・だから落ちこぼれなんだ!ちゃんと勉強しろ!」

「うう・・・」

 

 最もなお叱りを受け、イリスは恨みがましい目でドラコを睨んだ。――その反省の色が全く見えない様子を見て、ドラコは、純血主義の彼にしては珍しく、ほんのちょっぴりだけ――彼女の勉学の友である、マグル生まれの魔女、ハーマイオニー・グレンジャーに同情した。結局、イリスは夕食が終わった後も、ドラコの厳しい監視の下、宿題をこなし続けなければならなかった。

 

 宿題の量は思った以上に多く、最後にして最大の難関である変身術のレポートを終えた時点で、もう日付は八月三十一日――の夜――になっていた。――本当にギリギリだった。イリスとドラコは、お互いに疲れ切った顔を見合わせて、ため息を零した。

 

「本当にありがとう。ドラコ。おかげで助かったよ」

 

 イリスは心から感謝の言葉を送った。宿題騒動が解決すると、イリスは安心感が芽生え、ドラコには再び葛藤が生まれた。――イリスは、いつものように飾り気のない笑顔で彼を見ている。

 

『全てを思い出したら、貴方は――私たちの事をどう思うかしら?あの子は貴方を愛し始めているのに――きっと貴方は――』

 

 ふとドラコの脳裏に、あの夜母が言った言葉が思い起こされた。――そうだ、彼女は全てを忘れているから、今もこうして自分に笑顔を向けてくれる。――でも、全てを思い出したら?母の言葉の続きは、容易に想像できる。父は彼女を襲い、自分は彼女を見捨てた。その事実は覆しようがない。――ならば、彼女がそれを思い出せば――自分を拒絶するかもしれない。ドラコは何も言わずにイリスの頭を撫でて、爆発しそうな感情を胸の奥に押し込め、浮かない表情で自室へ戻った。

 

 

 イリスは筆記用具類を片付けながら、一人思いを馳せた。――心残りは、結局あの後も、宿題をこなすのに気を取られすぎて、ルシウスときちんと話ができなかった事だった。これからどうやって、彼と接していけばいいんだろう。浮かない顔でイリスはトランクを覗き込み――教科書を確認しているうちに、見慣れない本が挟まっているのを見つけた。引き出してみると、それは古びた黒い革表紙の日記帳だった。――もしかして、やり残した宿題――絵日記か何かか?イリスは一瞬パニックに陥りかけ、疲労で余り働かない脳をフル回転させて、やっと思い出した(・・・・・)

 

「・・・あ!」

 

 そうだ。ダイアゴン横丁を訪れた日、道端で偶然落ちているのを見つけたのだ。使い古された感じの日記帳だし、きっと誰かが落としたのに違いないと思い、後で落とし主を探そうと一先ずカバンの中に入れておいたのだが――結局、書店のどたばたでそのまま持ち帰って来てしまったまま、今まで忘れてしまっていたらしい。

 

「うわー、どうしよう」

 

 きっと本人も探しているだろう。悪い事をしてしまったと、イリスは唇を噛んだ。表紙と裏表紙をじっくり見ても――表紙の文字は消えかけてはいるが、微かに『日記』と銘打たれている事と、裏表紙にはロンドンのとある書店の名前が印刷されている事以外の情報は、何一つわからない。――不思議な事に、マルフォイ家の人々に相談する事は、イリスには憚られた。他の人に聞いてはいけないような気がしたのだ。

 

 ・・・仕方がない、中を見てみようか。迷いに迷った挙句、イリスは思った。もしかしたら、ヒントになる事が何か書いてあるかもしれない。イリスは思い切って、表紙を開いた。

 

 イリスの予想は当たった。最初のページに、持ち主なのだろう――名前が書いてあったのだ。――『T・M(ティー・エム)・リドル』――それ以降のページは、全て真っ白だった。

 

「T・M・リドル」

 

 その名前を呟いて、イリスは不思議な感覚に囚われた。初めて聞く筈なのに、何故か――ずっとずっと昔から、その名前を呼び慣れているような気がしたのだ。今は思い出せないけれど、その人は自分がものすごく小さい時に――友達だったような気さえした。理由はわからないけれど、繰り返して口に出す度に、イリスはその名前に強い親近感を覚えた。イリスは首を傾げながら日記帳を一旦閉じようとして――偶然そばにあった、片付け忘れたインク壺を盛大に引っかけた。

 

「ぎゃあああ!!」

 

 イリスのみっともない悲鳴をあざ笑うように、インク壺は空中に舞い上がり、日記帳の上に着地し、流れ出た黒インクは両開きの真っ白なページを埋め尽くした。――しかし、驚くべき事が起こった。ページの上の大量のインクは、一瞬明るく光り――ページに吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。

 

『君にあげよう。大事に使いなさい』

 

 ――誰かの声が、頭の中で響いた。――そうだ。日記帳なのに白紙なんてダメ、文字を書かなきゃ――使わなきゃ。これは私の物なんだから(・・・・・・・・・・・)。イリスは操られるように、ほぼ無意識に羽根ペンを取り出した。まだ中身がわずかに残っているインク壺に羽根ペンを浸すと、リドルの名前の下に、サラサラと自分の名前を書いた。

 

”イリス・ゴーント”

 

 イリスの名前は一瞬紙の上で輝いたかと思うと、跡形もなく消えてしまった。――そして、そのページから、今使ったインクが滲み出してきて、イリスが書いてもいない文字が現れた。

 

”こんばんは、イリス・ゴーント。僕はトム・マールヴォロ・リドルです。君はこの日記をどんなふうにして見つけたのですか?”

 

 心臓が止まるかと思う位、びっくりした。――これは、魔法仕掛けの日記なんだ。興奮で心臓が早鐘のように高鳴り始める。イリスは徐々に薄まっていくリドルの文字の下に、書き付けた。

 

”こんばんは、リドルさん。先週、ダイアゴン横丁の道端で落ちていたのを見つけました。この日記の持ち主を探しています”

”どうかリドルと。この日記の持ち主とは、僕自身です”

 

 イリスは首を傾げながら、消えかけた自分の文字の上に書いた。

 

”あなたは日記の中に住んでいるのですか?”

”はい。ですが、僕は『記憶の一部』に過ぎません。本物の僕は別にいます。今は西暦何年ですか?”

 

 イリスが今年の年数を書くと、暫くの沈黙の後、真っ白になったページに再び文字が浮かび上がった。

 

”では、僕、つまりこの日記が作られたのは、今から五十年前という事になります。当時ホグワーツの学生だった僕は、『ある目的』のために自分の記憶をこの日記に保存しました”

「ご、五十年前?!」

 

 リドルの言う『目的』の内容よりも、五十年前という事実にイリスは驚いて、素っ頓狂な声を上げた。日記の外見も、道理で古ぼけているはずだ。――イリスは推理した。きっとおじいさんになった本物のリドルが、ダイアゴン横丁を散策しているうちに、この日記を落としてしまったのだろうと。

 

”本物のあなたに会って、この日記帳を返したいのです。きっと探している筈ですから”

 

 また、長い沈黙があった。イリスがただじりじりと待っていると、文字が浮かび上がる。

 

”これを持っていれば、いずれ本物の僕と会えるでしょう。それまでは、君が預かっていてください。できればその間、君が僕の話し相手になってくれると嬉しい”

 

 イリスは一人頷いた。リドルがそう言うなら、自分が持っていても問題はないのだろう。イリスは不思議な位、この日記帳――リドルに対して、警戒心が湧かなかった。むしろ、リドルが『話し相手になってほしい』と言ってくれた事に、計り知れない親しみと喜びを感じていた。

 

”リドルがそういうなら”

”ありがとう。あと、お願いがあります。この日記の事は他の人には言わないで。僕と君だけの秘密にしましょう。他の人に知られると、悪用される危険があります”

”わかりました。じゃあ、おやすみなさい”

”おやすみ、イリス”

 

 不思議な筆談を終えた後、イリスは日記帳を胸に大事そうに抱えて、満足気なため息を零した。――それほどまでに、この体験はイリスにとって貴重で興奮冷めやらぬものだった。日記に宿った魔法の友達ができたなんて、ハリーたちやドラコが知ったら、何て言うだろう?でも、リドルが秘密だって言ったから、誰にも言わないようにしなきゃ。

 

 イリスは――ルシウスによる服従の呪文の相乗効果も合わさった結果――このほんのわずかな短時間ですでに、日記が放つ闇の魔力に囚われ始めていた。彼女にとって、会ったばかりのリドルは親しい友達となり、日記はテディベアのように傍に置くと安らぎを得る事が出来るようなものになっていた。イリスは日記をぎゅっと抱きしめながら、眠りについた。

 

 ――ホグワーツのどこかに存在すると言われている、『秘密の部屋』。そこで何かがとぐろを巻き、永い眠りについて、主の帰還を待っている――




※以下のコメントは作品とは無関係です。色々書きたかった内容を箇条書きにしました。お目汚しすみません…。

①アラン・リックマンさん、ご結婚おめでとうございます!!
ご結婚のエピソードがすごくロマンチックで素敵でした。お幸せに!!

②ガメラ・邪神イリス観ました。
イリスまじカッコよかったです。そして仲間由紀恵…かわいそうに…。

③fate観始めました。
沢山種類あったのですが、最近の『UBW』というのにしました。面白いです!
イリヤ様かわいすぎ!イリスの声は是非、イリヤ様ボイスで脳内ご再生いただけますと幸いです。

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