「い、イギリス?」
「そうだよ。まずは学校に返事を出さないとな」
電話をかけるのかと思いきや、イオは自分の部屋へ行くと押入れから大きな古びた木の箱(側面に『開封厳禁』のシールがべたべたと貼ってある)を持ってきて居間のテーブルにドンと置いた。そして玄関外へ出て、郵便受けに止まっていたふくろうを捕まえて戻ってきた。
唐突に始まったおばの不思議な行動に目を丸くしているイリスを置いてけぼりにして、イオは木箱の蝶番を開けると、そこから羊皮紙と羽ペン、インク壺を取り出して、慣れた手つきでイリスが入学する旨を書き付けた。くるくると羊皮紙を巻いてふくろうの嘴に加えさせ、足に括り付けられた袋に木箱から取り出した硬貨を数枚入れると、窓を開けてふくろうを空へ飛び立たせる。
「・・・えっと・・・何してるの?」
「ふくろう便だよ」
イリスの問いに、イオはいたって真面目な表情で答えた。
「ふくろう便は魔法界の電話みたいなもんだ。魔法界の連中と連絡を取りたいと思ったら、さっきみたいにふくろうに手紙を届けてもらうのさ。魔法界では電話や電子メールは使えないからね」
「へー・・・なんだか不便そう」
「いーや、そうでもないさ。慣れちまえば電話よりも楽チンだよ。住所がわからない時でも宛名さえ書いときゃあとはふくろうが探してくれる」
悪戯っぽくウインクをしてみせるおばに、聞きたいことは沢山あった。
本当にふくろうが届けてくれるの?その箱は何が入っているの?なんでイギリスなの?イギリス人は全員魔法使いなの?
イリスは頭の中が質問で溢れすぎて、ついに黙りこくってしまった。
☆
二人揃ってパスポートを取った次の週、二人は飛行機に乗ってイギリスのロンドンまで来た。
イリスは生まれて初めての外国に、空港内を落ち着かない様子で見渡す。当然だけど、何もかもが英語だし、周りは外人ばっかりだ。
ロンドンへ来るまでにわかったことは、自分の学用品を買いに行くのに、ホグワーツからハグリッドという人が来てくれるということだけだった。ハグリッドって誰?とイリスがさらに問いかけようとしたけれど、イオはイリスのための諸手続きで忙しくそれどころではなかったのだ。
「英語は大丈夫だな、イリス?」
ロンドン空港を出た瞬間、急にイオが流暢な英語で話しかける。
「うん。大丈夫だよ」
イリスは戸惑いながらも難なく英語で返した。
物心ついた時からおばに「グローバルな感性を身に着けてほしい」という名目で英語の教育をみっちり受けていたために、イリスは11歳にしてバイリンガルだった。
人込みをかき分けながらイオは慣れた調子で地下鉄の入り口へ向かい切符を買って電車を乗り継ぎ、物珍しげに四方八方を見回しては転びそうになるイリスの手を引き、目的地までやってきた。
ちっぽけな薄汚れた酒場だ。両脇にあるレコード店と本屋がとても魅力的で輝いて見える。
「・・・ここは?」
「『漏れ鍋』だよ。魔法界では有名なお店だ。あとイギリスではこういう酒場をパブっていうんだ、覚えときな」
「バブ?」
「入浴剤じゃねーよ、パ・ブ!」
魔法界で有名なお店がこんなにボロい小さなお店なら、有名じゃない普通のお店はどんなにボロボロなんだ?魔法界の人々はさぞかし質素で慎ましやかな暮らしをしているに違いない。いや、もしかしたら古くてボロボロのものが好きなのかも・・・
顎に手を当てて考え込むイリスだったが、イオに促されて恐る恐る中に入る。
暗くてみすぼらしい店内には数人の人がいたが、真ん中に立っている大男にイリスは目が釘づけになった。軽く見積もっただけでも、背丈は普通の二倍、横幅は五倍はある。毛皮のコートを着ていて、ぼうぼうとした黒い髪が頭全体を覆っている。後姿だけでも怖い。
引きつった表情で出口に向かってじりじり後退し始めたイリスとは反対に、イオはなんと・・・親しげにその男に話しかけた。
「おいハグリッド!久しぶりだな・・・十年ぶりか?」
その声に大男は振り向き、イオを見ると毛むくじゃらの顔の中の黄金虫のような目がきらきらと優しげに光り、とどろくような大声を出した。(その声にイリスは危うくちびりそうになった)
「オーッ、イオ!ずいぶんと久しぶりだなぁ!え?!相変わらず別嬪さんだ」
「よせやい照れるぜ。ほら、挨拶しろイリス・・・何してんだお前」
イオが振り返り、イリスが震えながら出口付近のテーブル下に避難しているのを見ると呆れ顔になった。
「オー・・・お前さんが・・・そうか、イリスか・・・」
ハグリッドはイリスを見ると、そのつぶらな瞳を潤ませ、感極まったような声で呟いた。
ドスドスと音を立ててイリスのいるテーブル下に歩み寄り、しゃがみ込んで視線を合わせ、怯えることはないとにっこり優しげに微笑んで見せた。
「俺が見た時はまだ赤ん坊だったのに、大きくなった。怖がらせちまってすまねぇな。俺はルビウス・ハグリッド。ホグワーツの鍵と領地を守る番人だ」
「は、は、はじめまして、イリス・ゴーントです」
ハグリッドは巨大な手を差し出し、震えるイリスの手を握って力強く握手するついでに、イリスをテーブル下から連れ出した。そしてしみじみとイリスを見つめる。
「お前さん、本当にエルサにそっくりだ。目も・・・エルサに似とるが、ちぃと違うかな。不思議な色をしとる。俺のことはハグリッドと呼んでくれ、みんなそう呼ぶんだ。俺らもちょうど来たばかりでな。タイミングがよかった。なあハリー」
そう言うと、ハグリッドは隣に立っていた男の子の肩をばしっと叩き、その子がこけそうになった。くしゃくしゃの黒髪に、明るい緑色の目、やせた男の子だ。
「はじめまして、僕ハリー。ハリー・ポッター」
緊張した様子で手を差し出す男の子に、イリスも慌てて答える。
「初めましてハリー。私、イリス・ゴーント」
二人が握手を交わしている間に、ハグリッドとイオはカウンターに座るバーテンのじいさんに話をしに行ってしまった。
「ハグリッドから聞いたんだけど、君もホグワーツの学用品を買いに来たの?」
ぼんやりとその様子を見つめているイリスに、ハリーが話しかける。優しそうな目をした男の子だ。同年代ということもあって、イリスの緊張が少しほどけた。
「うん。ハリーも?」
「そうだよ」
「そうなんだ。何歳?どこの国から来たの?」
「今日で11歳になったんだ。どこってもちろんイギリスからだよ。イリスは違うの?」
「うん、私は日本から来たんだ。同い年だからお互い新入生だね。ねえ、私の英語訛ったりしてない?大丈夫?初めて外国の人と話すから、不安になっちゃって」
「大丈夫だよ。日本って、アジアの?ずいぶん遠いところから来たんだね」
「さっそく友達ができてよかったな、イリス」
あれこれと二人で話をしていると、にこにこと微笑みながらこちらへやってくるイオの顔がやがて引きつった。
「やれ嬉しや・・・ハリー・ポッター!」
ハグリッドから聞きつけた人々が、有名人であるハリーに握手を求め殺到してきたからだ。
「わたしたちは先に行ってるよハグリッド」
言うが早いかイリスの手を掴み、パブを通り抜けて壁に囲まれた小さな中庭へと抜け出した。
「ハリーは有名人なの?」
もみくちゃにされるハリーを呆気に取られた表情で見ながら、イリスはイオに尋ねた。
「ほら、前に話しただろ?『悪い魔法使い』を倒した、伝説の赤ん坊。ハリーがそうなんだよ」
「・・・えっ、ハリーが?」
ハリーが『悪い魔法使い』を倒した?とてもじゃないけどそんな風には見えない。
伝説の赤ん坊というのだから、もっと筋肉隆々としていて、それこそハグリッドのような外見の強そうな少年を想像していたのに。
そうこうしているうちにやっとこさ抜け出してきたハグリッドたちと合流し、ハグリッドはおもむろに傘を取り出した。何やらむにゃむにゃ呟きながら傘先で壁を三回叩くと、グネグネと壁が歪み、ハグリッドでさえ通れるほどのアーチ状の穴が開いた。
「ダイアゴン横丁へようこそ」
ハリーとイリスは思わず目を合わせ、お互いに驚いていることを知って少しほっとした。
「ここから先はわたしは行けないんだ、イリス」
「えっ、なんで?」
物心ついた時から今までずっと何をするにもおばと一緒だったイリスは、急に見捨てられたような気持ちになり、心細そうな顔でイオを見たが、イオは動じなかった。
「わたしは魔法を使えないからね。自分のけじめみたいなもんだ。漏れ鍋で待ってるよ。ハグリッドたちと行っておいで」
イオはそういうと、金色の鍵をポケットから取り出して、イリスに持たせた。
「魔法界の銀行の鍵だよ。両親がお前に残した金庫の鍵だ。必要な時が来たらハグリッドに渡しなさい。漏れ鍋に戻ってくるまで決してなくしてはいけないぞ」
「うん・・・」
「イリス、これからお前はイギリスに住んで、わたしとはしばらく離れ離れになるんだ。こんなちょびっとの間の別れで泣きそうになってどうする」
イオは苦笑しながらイリスの髪をわしゃわしゃと掻き雑ぜ、努めて快活に言った。
「そうだ、必要な学用品リストにはないが、とびっきり丈夫なふくろうを二羽と、懐中時計を買っておきなさい。ふくろうはお前とわたしとの連絡に必要だし、魔法の懐中時計は何かと便利だ。ホグワーツでも壊れないからね。いいかい、わたしは買いに来れないからな、絶対に忘れるんじゃないぞ」
「わかった!ふくろう、懐中時計・・・!」
責任重大だ。泣きそうになっている場合じゃないぞ!
自分を叱咤して、鍵をズボンのポケットにしっかり入れ(ハリーが羨ましそうな目で二人のやり取りを見ていたが、イリスは気が付かず仕舞いだった)ハグリッドに促されてハリーの次にアーケードを通る。
もう一度イオの顔を見ようと振り返ったが、すでにアーチは元のレンガ壁に戻っていた。