ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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File14.禁じられた森

 翌日、イリスは復活したロンと共に、ハリーとハーマイオニーから事の次第を聞いて愕然とした。ノーバートを無事逃がしたはいいが、その後ハリーとハーマイオニーは不注意からフィルチに見つかり、ドラコが二人を捕まえようとしている事を忠告するために学校中を彷徨っていたネビルと一緒に、マクゴナガル先生に一人五十点も――つまり合計百五十点も、一晩にして減点されてしまったというのだ。――二人を陥れようと同じく寮を抜け出していたドラコが二十点減点された事なんて、今となっては何の慰めにもならなかった。

 

 噂は瞬く間にホグワーツ中に広がった。学校で最も人気があり、賞賛の的だったハリーは、一夜にして突然一番の嫌われ者になってしまった。グリフィンドール生は勿論のこと、レイブンクローやハッフルパフ生でさえ、ハリーの敵に回った。みんな大嫌いなスリザリンから寮杯を奪える事を楽しみにしていたからだ。スリザリン生だけがハリーの味方(・・)で、彼がそばを通り過ぎる度に、みな例外なく拍手し口々にお礼の言葉を送った。

 

 イリスとロンは今まで以上にハリーの傍にいて、彼を励まし続けなければならなかった。彼は一時期クィディッチを辞めることすら考えていたようだが、ウッドに特大の雷を落とされたらしく、チームメイト達に冷遇を受けながらも浮かない顔で練習に励んでいた。苦しんでいたのはハリーだけでなく、ハーマイオニーやネビルも同じだった。しかし二人はハリー程有名ではなかったため、みんなから無視されるだけで(・・・)済んだ。

 

 

 そうする間にも、試験の日は確実に近づいてきていた。やがて生徒たちも試験に集中するようになり、イリスたちは他の生徒と離れて夜遅くまで勉強した。複雑な薬の調合を覚えたり、魔法界の発見や小鬼の反乱の年号を覚えたり・・・四人は無言で勉強に勤しみ、頭の中に入るだけの知識を次々詰め込んだ。

 

 ある日の午後、イリスは図書館でロンと共に、ハーマイオニー作の天文学のテストを書いていた。するとハリーがやって来て、真剣な表情で彼自身が今見聞きした事を三人に伝えた。何でもクィレルが教室内で誰かに脅されているように許しを乞い、すすり泣いていたという。誰にそうされていたのか、何となく三人共察しはついた。

 

「それじゃ、スネイプはとうとうやったんだ!クィレルが自分のかけた、石を守る魔法の解き方を教えたとすれば・・・」とロンが興奮して叫ぶ。

「でも、まだフラッフィーがいるわ」ハーマイオニーが冷静に返すが、ロンの語りは止まらない。

「もしかしたら、スネイプはハグリッドに聞かなくてもフラッフィーを突破する方法を、もう見つけ出しているんじゃないか?・・・何せ、こんなに本があるんだ。どっかにその方法も書いてあるに違いないよ。さあ、どうする、ハリー」

 

 ロンは周りにある何千冊という本を見上げ、それから冒険心にキラキラ輝く瞳で、思いつめた表情をしたハリーを見る。それに警鐘を鳴らしたのは、当然の如くハーマイオニーだ。

 

「ダンブルドアに相談しましょう。何でも自分で動いてしまったら、今度こそ退学になってしまうわ」

「だけど、証拠は何もないんだ!」ハリーは強い口調でハーマイオニーに言った。

 

「クィレルは怖気づいて、僕たちを助けてはくれない。僕たちとスネイプの言う事、ダンブルドアはどっちを信じると思う?・・・僕たちがスネイプを嫌っていることは誰だって知っているし、きっと『僕たちがスネイプをクビにするために作り話をした』と思うだろう。フィルチはスネイプと仲が良いみたいだし、どんなことがあっても僕たちを助けたりしないよ。おまけに、僕たちは石のこともフラッフィーのことも何も知らないはずなんだ。・・・これで、どうやってダンブルドアに納得いくように説明できる?」

 

 結局、一生徒の立場ではこれ以上動けないのだ、とハリーは三人に対して伝えたいようだった。石に危機が迫っているのが解っているのに、四人にできる事は何もなかった。ロンだけは「もう少し探りを入れてみては」と粘ったが、ハリーは「もう十分に探りを入れ過ぎてる」とピシャリと言い返し、天文学の勉強に参加するために木星の星図を引き寄せた。

 

「じゃあ、今日の補習で、もしスネイプ先生がとっても優しかったら――いよいよ石を手に入れる準備が整ったって事だよね」

 

 静かなイリスの声に、三人はハッとした表情で彼女を見た。今日は金曜日だった。

 

 

 イリスは七時前、地下の研究室へ向かった。扉を前にして、イリスは両手を組んで神様に祈った。――どうか、先生がいつも通り不機嫌でありますように。祈りを込めて扉をノックすると、「入りなさい」と柔らかな声がした。・・・『入りなさい』だって?イリスは思わずゾッとした。中に入ると、スネイプが――驚いた事に――取ってつけたような笑顔を浮かべて彼女を迎え入れた。――恐れていた事が起きた。きっとスネイプは、石を守るものの攻略法を全て掌握したに違いない。イリスはそう思って、目の前が真っ暗になった。

 

 そうして授業が始まった。イリスは石の事で頭がいっぱいになってしまい、何度も作業手順を間違えた。しかし、スネイプはそれを咎める事無く「気にすることはない。きっと疲れているんだね」と優しくイリスの肩を叩いた。イリスはスネイプが彼女に対して笑顔を向けたり優しく接する度に、強烈な頭痛・吐き気・眩暈等の諸症状に襲われ、やがて気も狂いそうになった。もはや石の事など考える余裕もない。――スネイプ先生、後生のお願いだから、いつものように嫌味を言い、怒り、罵ってくれ。イリスは切望した。スネイプにいびり倒される事が日常となっている彼女にとって、逆に優しくされる事は非日常の極み――もはや新手の拷問にも等しい行為だった。

 

 やっとのことで授業を終えると、罰則に入る前にスネイプがお茶でもしようと言い出して(お茶をしようなんて今まで言われた事もない)、「ひっ」と驚愕に息を詰まらせるイリスを無視して杖を一振りし、作業机の上にシンプルな茶器を二組とティーポット、それに茶菓子を出した。・・・イリスはこれが最期のティータイムで、自分はこれから先生に殺されるのだろうか、と恐怖で碌に回らなくなった頭で考えた。

 

 スネイプは再び杖を振って椅子を二脚出し、慣れた手つきでティーポットから紅茶をカップに注ぐと、かけて飲むようイリスに勧めた。イリスは必死に平静を保とうとしたが、手が震えすぎて両手に持つカップとソーサーが噛み合わずにカタカタ音を立てるのを止める事ができなかった。スネイプはそんなイリスを加虐心に満ちた目で見つめると、芝居がかった口調で唐突に話し始めた。

 

「君の所属するグリフィンドールの・・・あー、一五〇点もの減点の件だが(スネイプはここだけ一語一句区切るように言った)・・・あれは、実に嘆かわしく遺憾な事だった。元凶であるポッターは愚かにも、自分の寮生だけでなく、我が寮の実に優秀な生徒も一名、犠牲にしてしまったのだから」

 

 イリスは思わずスネイプを仰ぎ見た。彼は相変わらず薄笑いを浮かべているが、目は深い怒りと憎しみに燃えていた。――ここにきて、イリスはようやく理解した。スネイプは機嫌が良いのではない、その真逆だ。人は時に、怒りを通り越すと笑いが込み上げて来ると言う。彼のお気に入りの生徒であるドラコ(スネイプの言う優秀な生徒なんて、彼以外に思い当たらない)も減点対象になったので、それに怒り狂っているのだ。そして彼の憤激も知らずにのこのこやって来たハリーの友人でグリフィンドール生のイリスに全ての怒りの矛先を向け、いたぶって楽しんでいる。――こんなに怒っているなら、まだ彼は、石を守る方法を全て攻略した訳ではないのかもしれない、とイリスは他人事のように思った。スネイプはイリスから目を離さず紅茶を一口飲んでから、猫撫で声で続ける。

 

「実はその優秀な生徒から先日、君に関する報告があってね。何でも君はあの騒ぎがあった後も、自寮に多大な迷惑をかけたポッターを見捨てず、支え続けていると言うではないか。・・・吾輩は実に感動した。君のその美しい友情に敬意を表し、今日の罰則は特別に免除する事にしよう。――その代わり、明日行われるポッター達の罰則に同行したまえ。君は本当に彼が好きなようだからね」

 

 スネイプはにっこり笑った。イリスはこんな恐ろしい笑顔を生まれて初めて見たので、たまらず震え上がった。そして思った。――あいつ、チクったな、と。

 

 

 翌朝、大広間で朝食を取るハリー、ハーマイオニー、ネビル、イリス宛に、手紙がそれぞれ届いた。全員同じ差出人と内容で『処罰は十一時に行われるため、玄関ホールでフィルチと合流する事』と書いてある。

 

「ほんとに、あいつ、ぶん殴ってやりたい・・・」

 

 イリスはハリーたちに自分も処罰を受ける羽目になった経緯を語ると、手紙を強く握りしめ、スリザリンのテーブルで同じ手紙を読んでいるドラコを憎々しげに睨み付けた。ロンがトーストを齧りながら話し掛ける。

 

「君って、本当に凶暴になったよな。最初に列車で会った時は、僕たちの喧嘩にただおろおろしてただけだったのに」

「ハリーとロンのせいだよ」

 

 イリスは八つ当たりするようにじろりとロンを見て、痛烈に言い放った。ハリーとロンは男の子という事もあるが、何かあればすぐ喧嘩や言い争いする方向へ持っていこうとするので、その二人の間でもまれているうちにイリスも――精神的にも肉体的にも――自然と強くなっていったのだった。加えてホグワーツには(ハリーたちも含めて)何かと自己主張の強い人間が多いため、『影響を受けやすい日本人』であるイリスが、それに感化されていったという経緯もある。朱に交われば赤くなるというやつだ。

 

「おい、僕たちかよ!」

 

 イリスの皮肉にロンは目を剥いて反撃し、ハリーは肩を竦めたが、イリスは素知らぬ顔でミートパイにかぶり付いていた。

 

 

 夜十一時、三人は談話室でロンに別れを告げ、ネビルと一緒に玄関ホールに向かった。フィルチはもう来ていた。――そしてドラコも。イリスはドラコを完全に無視した。

 

 フィルチはみんなを怖がらせようとして、意地の悪い目つきで色々と恐ろしげな事を言い続けたが、日頃スネイプに鍛えられているイリスにとっては『小鳥のさえずり』のようなものだった。真っ暗な校庭を横切って、一行は目的地を目指してひたすら歩いた。その内、ネビルがめそめそ泣き出したので、イリスは彼を安心させるために手を繋いであげた。

 

 やがて一行はハグリッドの小屋へたどり着いた。今回の罰則はハグリッドやファングと一緒に行われるようだ。安心しかけたみんなに、フィルチは嫌らしい笑みを浮かべて罰則の内容を伝えた。

 

「あの木偶の坊と一緒にのんびりお茶会でもできると思ってるのかい?これは罰則だぞ。・・・君たちがあいつらとこれから行くのは、禁じられた森の中だ。もし全員無傷で戻ってきたら私の見込み違いだがね」

 

 途端にネビルは低いうめき声をあげ、ドラコもその場でピタッと動かなくなった。

 

「森だって?そんなところに夜行けないよ。・・・それこそ、色んな怪物とかがいるんだろう。狼男だとか」ドラコの声はいつもの冷静さを失っている。

「大丈夫だよ、今日は満月じゃないし」

 

 イリスが余裕たっぷりに言い返して、恐怖に息を詰まらせるネビルの手をしっかり握り直す。彼女はネビルに対する庇護欲とドラコへの怒りとで、脳内に大量のアドレナリンが分泌された結果、怯えるみんなとは対照的に、一時的に恐怖を感じず、ある種のハイテンションな状態に陥っていた。

 

「もう時間だ。俺はもう三十分くらいも待ったぞ」

 

 ハグリッドがフィルチを睨み付けながら、森の茂みを掻き分け、みんなの目の前に現れた。まだ脅し足りないという顔を浮かべたフィルチとしばらく言い争いをした後、彼は無事フィルチを追い払う事に成功した。フィルチは「夜明けに戻ってくるよ。こいつらの体の残ってる部分を引き取りに来るさ」といかにも恐ろしげな捨て台詞を残して、名残惜しそうに去って行った。

 

 

「よーし、それじゃ、よーく聞いてくれ。なんせ、俺たちが今夜やろうとしていることは危険なんだ。軽はずみな事をしちゃいかん。しばらくは俺についてきてくれ」

 

 ハグリッドが先頭に立ち、みんなを引き連れて森の外れまでやってきた。ランプを軽く掲げ、ハグリッドは暗く生い茂った木々の奥へ消えていく細い曲がりくねった獣道を指さした。森の中を覗き込むと、一陣の風がみんなの髪を逆立てた。――何か、森の中に所々、光るものが見える。

 

「あそこを見ろ。地面に光る銀色のものが見えるか?・・・あれはユニコーンの血だ。何者かにひどく傷つけられたユニコーンが、この森の中にいる。今週になって二回目だ。水曜日に最初の死骸を見つけた。みんなでかわいそうなやつを見つけ出すんだ」

「ユニコーンだって、ネビル!」

 

 イリスがネビルを元気づけるように言うが、ネビルはますます顔を引き攣らせて、「うう」と一言唸った切り、再び黙り込んでしまった。

 

「ユニコーンを襲ったやつが、先に僕たちを見つけたらどうするんだい?」ドラコが恐怖の余り上擦った声で尋ねる。

「俺やファングと一緒におれば、この森に棲む者は誰もお前たちを傷つけはせん。よーし、では二組に分かれて別々の道を行こう。そこら中血だらけだ。かわいそうに」

 

「僕はファングと一緒がいい」ファングの長く鋭い牙を見て、ドラコが急いで言った。

 

「よかろう。言っとくが、そいつは臆病じゃよ。そんじゃ、ドラコとネビル(そこで必死の形相のネビルにしがみつかれているイリスを見た)・・・と、イリスは、ファングと一緒に。ハリーとハーマイオニーは俺と一緒に別の道だ。もしユニコーンを見つけたら緑の花火を打ち上げ、困ったことがあったら赤い花火を打ち上げろ。いいか?杖を出して練習しよう」

 

 みんな一斉に杖を引き抜いて、それぞれ緑と赤の花火を打ち上げた。それを見たハグリッドは満足気に頷いて、「それじゃ、出発だ」と言った。

 

 

 森は真っ暗でシーンと静まり返っていた。枝の隙間から漏れるかすかな月明かりが、落ち葉の上に点々と滴るユニコーンの血痕を照らし出す。それをお伽噺でヘンゼルが撒いた光る白い小石のように目印としてたどりながら、イリス、ドラコ、ネビル、ファングは黙々と歩き続けた。

 

 ――ふと何か、スルスルと黒い影のようなものが視界の端を横切ったような気がして、イリスは立ち止まった。

 

「どうしたの?」

 

 気が付くと、傍らのネビルが不安そうにイリスを見ている。先程までのやたらに高揚した気分は、泡のように弾けて消えてしまった。今更になってじわじわ恐怖が込み上げてくるのを、無理やり抑え込む。ここで自分がパニックになったら、ダメだ。深呼吸をしながら必死に言い聞かせる。

 

「いや、何でもない・・・」

 

 今度はどこからか、微かな忍び笑いが聴こえて来た。続いて、囁くような声で自分の名前を呼ばれたような気がして、イリスは総毛立った。何となく誰かに見張られているような嫌な感じがする。気のせいだ、イリスは自分に言い聞かせた。ドラコもネビルも、両方臆病で頼りにならない。ファングと私がしっかりしなくちゃ。

 

「ぎゃあああああ!!」

 

 その時、ネビルが不意に大きな悲鳴を上げたので、イリスは心臓が自分の口から飛び出すかと思うくらいびっくりして、跳び上がった。パニック状態のネビルはイリスを振り払うと、杖を振り上げて赤い花火を夜空に打ち出す。

 

「どうしたの?!」

 

 イリスが身を守るために杖を引き抜きながら、腰を抜かしてしまったネビルに駆け寄ると、彼の後ろにいたドラコが突然腹を抱えて笑い出した。・・・どうやら、ふざけてネビルに後ろから掴みかかって、彼をパニックに陥らせたらしい。

 

「ちょっと、ふざけないで!!ネビルが心臓発作で死ぬところだったでしょ!!」

 

 カンカンに怒ったイリスが笑い転げるドラコの背中を杖で叩くが、彼の笑いは怒り狂ったハグリッドがやってくるまで、治まらなかった。

 

 

 イリスたちは、再びハリーたちと合流した。ハグリッドは大騒ぎしたファング組に対して、怒り心頭だった。

 

「お前たちが馬鹿騒ぎしてくれたおかげで、もう捕まるものも捕まらんかもしれん。よーし、組み分けを変えよう。・・・ハーマイオニーとネビルは、俺と来るんだ。ほれ、イリスから手を離さんか。ハリーとイリスはファングと、この愚かもんと一緒だ」

 

 イリスはホッとした。しっかり者のハリーと一緒なら大丈夫だ。ハグリッドはハリーにだけこっそりとドラコを見張るよう耳打ちし、ハリーはドラコを睨みながらしっかりと頷いた。

 

 再編成したファング組は、ハリーを先頭にして、さらに森の奥へと向かった。だんだんと森の奥深くへ入り込んでいく。・・・三十分は歩いただろうか。木々が鬱蒼と生い茂っているために、もはや道をたどるのは無理になった。一瞬進む道を見失って停滞したドラコを見て、イリスは『ネビルの仇討をするなら、今だ!』と思った。

 

 イリスはドラコの背後にそっと近づいて、その背中を軽く押し「わっ!」と耳元で叫んだ。結果は上々だった。ドラコは情けない声を上げながら、その場に崩れ落ちてしまう程、びっくりしてくれたのだ。その様子が何だかとても可笑しくて、イリスは『騒ぐな』と言うハグリッドの注意も忘れ、涙を流しながら大笑いしてしまった。

 

「お前っ・・・!ふ、ふざけるな!!」とドラコが腰を抜かしたまま怒鳴る。

「ネビルの仕返しだよ!あははっ・・・赤い花火、打ち上げないの?」イリスはお腹を押さえながら、なおもからかった。

「いい加減にしてくれ!!」

 

 そんな二人をハリーが怒りの形相で締め上げ、再び一行は道なき道を進み始める。だんだん血の滴りも濃くなっていて、少し先の大きな木の根元には、今まで見た事のない程大量の血が飛び散っていた。・・・ユニコーンは近いかもしれない。三人は無言で顔を見合わせる。樹齢何千年の樫の古木の枝が絡み合う向こうに、開けた平地が見えた。

 

「見て・・・」

 

 ハリーは腕を伸ばして、進もうとする二人を制止して呟いた。――地面に光り輝くものがあった。三人とファングがさらに近づいてみると、まさにそれはユニコーンだった。死んでいた。こんなに美しく、悲しいものは見た事がない。イリスは言葉もなくただ胸が締め付けられた。力なく四肢を投げ出し横たわったユニコーンに近づいて、真珠色に輝くたてがみを労わるように撫でる。

 

 ――その時、ずるずると滑るような音がした。平地の端が揺れる。暗がりの中から、頭からフードをすっぽりかぶった何かが――まるで獲物を狙う蛇のように、地面を這って来る。

 

 イリスだけでなく、ハリーたちも金縛りにあったように立ち竦み、指一本動かせない。マントを来たその影は、ユニコーンに近づき、その傷口に直に顔を埋め――血を飲み始めた。間近でそのおぞましい光景を見たイリスは恐怖で腰が抜けてしまい、その場に崩れ落ちる。

 

 ふと影が顔を上げ、イリスを見据えた。ユニコーンの血がフードに隠れた顔から滴り落ちる。――その時、イリスは激しい既視感を覚え、強い眩暈がした。クィレルに忘却させられた筈の記憶がイリスの脳内で疼き、彼女に正体不明の警鐘を鳴らし始める。影はイリスへにじり寄り、血に塗れた手で彼女の頬に触れようとした。

 

 刹那、どこからか矢が飛んできて、影とイリスを隔てるように、二人の間の地面へと突き刺さった。

 

「逃げなさい!エルサの娘!」

 

 どこかから朗々たる声がした。その声は、イリスに再び立ち上がるための活力を注ぎ込んだ。彼女は持てる最大限の力を振り絞って立ち上がり、追い縋るように伸ばされた影の手を振り払って、一目散にその場から逃げ出した。――イリスは、もう、ひたすら逃げ続ける事以外に、何も考えられなかった。少しでも足を止めれば、影がすぐそばまで追ってくるような気がして、イリスは我武者羅に走り続けた。

 

 不意に、イリスの走っていた足場が崩れた。あっと言う間に、イリスは地盤が崩れて出来た小さな崖下へと転がり落ち、わずかな間意識を失ってしまった。

 

 

「う・・・」

 

 イリスは間もなく意識を取り戻した。立ち上がろうとするが、片足に強烈な痛みが走り、再びしゃがみ込んだ。――捻挫しているようだ。イリスは泣きそうな顔で、崖の上を見上げた。地上までは高度があり、登りやすそうな取っ掛かりや植物のツルもない。咄嗟に杖の存在を思い出し、ローブを探るが、どこにもない。イリスは恐怖で引き攣った声を上げた。どこかで落としてしまったようだ。――イリスの心の中を、たちまち恐怖と絶望と孤独が支配した。このまま、誰にも気づかれずに、ここで死ぬまで一人ぽっちだったら。

 

「助けてぇ!誰かー!」

 

 イリスはたまらなくなって、何度も助けを求めて叫んだ。しかし、いくら耳を澄ましても、何の音も声も聞こえない。その不気味な静けさはイリスに極度のストレスを与え、彼女を一時的な過換気症候群に陥らせた。イリスはだんだん呼吸が苦しくなっていった。酸素を求めて喘ぐ程、意識は霞んで薄れていく。――やがて崖の上から何者かが滑り降りて来て、イリスに近づいた。それは先程の黒い影のように見え、イリスは呼吸を荒げながらも、必死に這いずって逃げようとした。・・・影はしきりに何かを叫んでいる。

 

「・・・くだ!僕だ!イリス!落ち着け!!」

 

 それは影ではなく、ドラコだった。あの後、イリスと同じく逃げ出したドラコは、崖の付近を偶然通り掛かったおかげで、イリスを発見できたのだった。ドラコはイリスを落ち着かせ、乱れた呼吸を整えるよう言い聞かせた。イリスはあんなに大嫌いだったドラコが、今では白馬に乗った王子様に見えた。安心した拍子に涙がボロボロ零れ出て、イリスはドラコにしがみ付きながらわんわん泣いた。ドラコは一瞬顔を赤らめて狼狽したが、イリスをしっかり抱き締め、頭を撫でた。

 

「もう大丈夫だ。僕がついてる」

 

 冷静な口調で言うと、ドラコは自分の杖を取り出して赤い花火を打ち上げ、イリスを崖から救い出した。ハグリッドの助けが来るまで、二人はその場を動かず静かに待った。

 

「ねえ、あの影はどうなったの?ハリーとファングは?」イリスはこわごわ聞いた。

「わからない。僕もあの後すぐ逃げたから・・・」ドラコがこわばった表情で答える。

 

 森の中は静寂で満たされていて、まるでこの世に二人ぽっちで取り残されているような錯覚さえ覚えた。それは不思議な程、お互いの心をただまっさらに、素直にさせた。

 

「・・・すまない。僕の告げ口のせいで、君を傷つけて、危険な目にも遭わせてしまった。まさか、禁じられた森に行くなんて思ってもみなかったんだ」

 

 イリスはまさかドラコが謝るとは夢にも思わず、驚いて彼を見た。ドラコはバツの悪そうな顔でイリスを見ている。

 

 ――この時、イリスの心の中である心理的効果が働いた。『吊り橋効果』だ。一連の出来事から生じた、不安や恐怖からなる心臓のドキドキを、自分の危機を救ってくれたドラコへの好意によるドキドキだと勘違いしてしまったのだ。確かな手応えを感じたドラコがさらにイリスに何か言い掛けたその時、バリバリと騒々しく木立を掻き分け、血相を変えたハグリッドたちが駆け寄って来たので、ドラコは不満そうに口を閉じた。

 

 

 ハグリッドの小屋で足の手当てをしてもらった後(杖もハグリッドが回収してくれていた。ユニコーンの亡骸付近に落ちていたらしい)、イリスはハリーたちと一緒に談話室に戻った。ハリーは険しい表情を浮かべて、眠り込んでいたロンを激しく揺り動かして起こす。ハリーは落ち着かない様子で、暖炉の前を行ったり来たりしながら、驚愕の事実を三人に告げた。――ユニコーンの血を啜っていたあの影は、ヴォルデモートだと。

 

「・・・待って。『例のあの人』は、ハリーが倒したんじゃないの?」

「違う。ヴォルデモートは死んでいなかった。ユニコーンの血を飲みながら、森の奥で生き永らえていたんだ」

 

 茫然と問いかけたイリスに、ハリーが熱に浮かされたようにぼんやりとした口調で答えた。一気に眠りから覚めたロンが震えながら「その名前を言うな」とたしなめても、ハリーは、彼自身を助けてくれたケンタウロスのフィレンツェやベインの話をして、最後に震えながらこう言った。

 

「賢者の石は『命の水』を作る・・・きっとスネイプはヴォルデモートのために、あの石が欲しかったんだ。

 僕はスネイプが石を盗むのをただ見てればいい。そしたら復活したヴォルデモートがやって来て、ケンタウロスの予言の通りに、僕の息の根を止めるだろう」

 

 四人は言葉で言い表せない程の恐怖の感情に抱きすくめられ、みな一様に口を閉ざした。ハーマイオニーも勿論怖がっていたが、やがて口を開き『予言はあてにならない』等と一生懸命ハリーを慰める言葉を掛け始めた。イリスはハリーの背中を落ち着かせるように撫でながら、色んな情報が錯綜し混乱する頭の中を、必死に整理しようとしていた。

 

 ――本当にあれがヴォルデモートなら、何故自分は見た事があるような気がしたんだろう。そして何故、彼は自分に触れようとしたんだ?そして、あの時助けてくれた声の主は、一体誰だったんだ?あの声は、自分がエルサの子だという事を知っていた――

 

 この凄惨たる事態を終結させるには、四人はただ余りにも幼すぎた。話し込んでいる内に、空は白み始めていた。四人はクタクタになりながら、ベッドに入り、それぞれの思いを胸に秘め、重い瞼を落とした。


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