俺の2メートル目の前にいる、全身が陰のように黒い八つ足の存在。その一本一本は堅そうな甲殻で覆われており、鋭い先端を地面に突き刺して全身を支えている。
「――ギシャァアァァァッ!!」
そんな怪物は、人の腰上にまで届くほどの高さにある顎から気色の悪い甲高い叫び声を上げた。口元で黒い金属質の鋏が左右に素早き、興奮した敵の様子が表に出ている。
蜘蛛型のモンスター、《Sparring Spider》。口元から行動遅延効果を持つ粘着質の糸を飛ばし、前方二つの巨大な足でボクサーのように素早い打撃属性の攻撃を繰り出してくる。女性プレイヤーにとっては存在自体が既に精神攻撃大の相手である。
「とは言っても、これ攻略しなきゃ先に進めないんだが……なっ!」
目の前のモンスターの行動をしっかりと目に捉えつつ、俺は背中から一振りの両手剣を取り出した。一つの石から削りだした様に見える、一切のつなぎ目のない純白の剣。曇り気のないその剣は普通ならば持つことすら困難なほどの筋力値を要求する業物だ。
その柄を両手で握りしめて持ち上げ、地面と水平になるように顔の右側に持ち上げる。
磨き上げられた刀身には鏡のように俺の顔が映り込んでいる。
切っ先を真っ直ぐ相手の方に向け、俺は剣を持つ手に一際強い力を込めた。それと同時に、剣が突如青白い光に包まれる。
コレこそがこのゲームの最大の特徴である技、ソードスキル。
その中の両手剣スキル単発技、『パワー・スマッシュ』。
剣に引きずられるような感触と共に、俺は正面の蜘蛛目がけて地面を強く蹴り出した。
本来の俺の瞬発値では有り得ないほどの加速感が身を包む中、俺はしっかりと標的である蜘蛛に照準をつける。恐るべきスピードを得たまま、直線のコースを変えずにそのまま敵の懐へと飛び込む。
相手側の蜘蛛も当然そのままそこに立ってやられるだけではない。
顎の中を小さく振動させ、その隙間から白いゴムのようなものを除かせる。糸発射のモーション、その前触れだ。このまま突き進んでいけば、俺はそれに身を取られて即座にボクサー顔負けの足フック――否、キックを反撃として食らうだろう。
……だが、正直そんなことは知ったこっちゃない。
奴がその口から粘着質の汚物を吐き出す前に、俺が先にトドメをさせばいい。
「喰らえこの野郎――」
手に持った剣を後ろの方へ振り抜き、全身を独楽のように素早く回転させた。
それによってほんの一瞬俺の視界から奴が外れるが、あの糸を吐くモーションの前は奴は必ず動かない。だから問題は無い。攻撃を喰らわないと解っているので、俺は遠慮無く右足を軸に回転する。それによって遠心力が働き、剣の切っ先の速度が一気に上昇していく。
身体の横を回転するかのように回った剣はその勢いに続いて一旦下方向に下がり――次の瞬間、急に跳ね上がるようにして真上へと方向を変え、俺の上段に構えられた。その剣に続いて俺の身体までもが僅かに浮き上がり、その足下に丁度発射された蜘蛛の粘着糸が着弾する。
そして、前進の勢いと遠心力で最大のスピードの達した剣が、攻撃直後で無防備な状態を晒した哀れな蜘蛛に向かって――振り下ろされる!
「男に白濁液被せて楽しいか茅場のバカヤロォーッ!」
意味不明かつ最低最悪な掛け声と共に――バキョッ!!
甲殻が見事に砕かれる、その音に続いて剣がその勢いのまま蜘蛛の身体を両断していく。
もしその場に他の誰かがいたなら、恐らく完全に斬り裂かれる前の蜘蛛の哀しそうな顔が見えただろう。だが運悪く(?)場にはこの少年一人しかいなかったので誰もその最後を目にすることはなかった。哀れ蜘蛛。
完全に蜘蛛の身体を斬り裂いた俺の剣は地面すれすれで止まった。
そして、動体を真っ二つにされた蜘蛛はその動きを一瞬止める。その上に浮かんだカーソルに表示された青い横線――HPバー――が一気に右側の方へと減衰していき――やがて完全に尽きたその瞬間、その身体は青いポリゴンとなって空中に爆散した。
俺の攻撃は、たった一度相手にヒットしただけで、満タンだった相手のHPを全て削り取った。単発の攻撃力が高い重量系武器を扱うプレイヤーでも、まあ普通はそんなことは出来やしない。
だが俺にはそれが出来る。出来るだけの、力があった。
この世界で選ばれた一人しか持てないユニークスキル等ではないが、他の誰も真似できないようなシンプルな力が。
蜘蛛の身体の最後の一欠片が消え去り、そこにたった今の
立ち上がった少年はそれを見、また手元のウィンドウを操作して開いたアイテムポーチを見て取得アイテムを確認する。
「五〇〇〇、皮と爪一つずつ、四三〇か……ま、こんなもんだろ。多分」
このゲームにおいて最重要な取得コルと経験値をどうでもいいように流す辺り、俺は頭が可笑しいのかもしれない。とは同じ攻略組であるキリトのセリフだ。
そう言われても、このゲームをやるまでこの手の奴をやったことがないからどうなのかなんて分からないんだから仕方がない。モン○ンに経験値なんて概念はないんだよ。
「さてと。今日は結構狩ったし、もう帰るか」
持っていた剣を背中の帯に戻し、俺はゆっくりと立ち上がって背伸びする。
戦闘時の軽い緊張感が柔らかく解けていき、気が抜けて楽になっていく。ついついいつものクセで軽く首を回すが、この世界の身体では全くゴキゴキと音が鳴らない。
一息ついて大きく深呼吸し、俺はこの層の転移門のある町の方向を確認するため手元にマップを開いた。
黒地に探索終了の灰色の道と、俺を表す赤い矢印が表示される。
それを見ながら頭の中で軽く道筋をシュミレートすると、丁度その時、一日の終わりを知らせるかの如く、遥か遠くの水平線で夕日が朱く瞬いた。
その力強い、暖かい光に負けたかの如く、俺はどっかりと後ろに倒れ込むようにして下の草むらに座った。一日中目一杯動いた後の達成感と爽やかな感触が一気に心を落ち着かせ、日常へと俺の中のスイッチを切り替える。
あの光景は昔見た日の入りと同じように、戦闘で疲れた俺の心を癒してくれる。
結果のない猛勉強の日々に追われた現実世界よりも、この仮想世界の方が遥かに毎日を生きてるという感じがする。
忙しい日々から離れ、落ち着いた時の流れと共に過ごすここでの日々もきっと、かけがえのないものなんだろう。
「ゲームで有っても、遊びではない――」
ふと、この世界のキャッチコピーが口をついて出た。
このゲームのマスターが取材者に対して答えたこのセリフは、全てが変わった二年前のあの日は、ここが地獄だということを印象深く与える意味だと考えていた。
ゲームでの死が本当の死を意味するデスゲーム。
遊びのつもりでやっていたら命を失うぞという忠告の意味。
けれど、今は違う。
確かにここは
現実世界で封じ込めていた自身の意志を、思う存分振るうことが出来ている。
だからこそ俺は、日々を死の危険と隣り合わせにしながらも、こう言える。
俺は今この世界を――ソードアート・オンラインを生きている。