大丈夫だ、問題しかないから。 -Toward sky- <2nd Season>   作:白鷺 葵

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幕間.アンドレイ・スミルノフの嫌いな季節

 

 アンドレイ・スミルノフの嫌いな季節がやって来た。

 

 しんしんと雪が降り続くのと対照的に、街は喧騒に満ちている。煌びやかに輝くイルミネーションで満ち溢れていた。

 踊る文字はどれもこれも同じで、クリスマスを祝う文句ばかりであった。アンドレイは、それらすべてが寒々しく思える。

 

 

「今年のサンタさんはサヤたちだからな。頑張れよ」

 

「任せてください! 極楽亭サヤ、落語のオチは完璧です!」

 

「アユルもな。期待してるぞ?」

 

「はい! 極楽亭アユルも頑張ります!! 孤児院のみんなやジン、喜んでくれたらいいな……」

 

「ええ。きっと喜んでくれるわよ」

 

 

 楽しそうに過ごす家族が視界の端を過ぎ去っていく。髪の一房に茶色のメッシュを入れた男性が、2人の娘に笑いかけていた。彼より少し離れた位置から、けれども心の距離には一切の隙間も感じられない程の距離で金髪の女性が続いた。

 あの少女たちと同じ年頃だったときの自分を思い出した。軍人と言う職業柄、両親が揃って休みを取ることは滅多になかったように思う。けれど、両親の休みが一致して、家族団欒を過ごしたことは、心の片隅に残っていた。

 父と母に手を引かれて、雪と光の化粧を纏った街の中を歩いた。2人の手はとても温かくて、優しかった。今となっては色褪せた記憶だ。母は任務中に、父に見捨てられて亡くなった。父はそのことに対して何の弁明もしなかった。それが許せなくて家を出た。

 

 それ以来、アンドレイは実家に帰っていない。父に連絡を取ったこともないし、父から接触してくることもなかった。その事実が、ますますアンドレイの心に影を落とす。

 父親のことなんて大嫌いだったが、不思議なことに、現在の自分の職業は軍人である。期せずして、父と同じ職業に収まったという訳だ。母の職業でもあったのだが。

 

 

「最近、ライルから連絡が来ないの。仕事も辞めちゃったっていうし……」

 

「うわあああ!? 泣かないでアニュー!」

 

「あの野郎、僕らの可愛い妹分を泣かせやがって!!」

 

「……ふむ。これは、ヴェーダを使わざるを得ない」

 

「やめてくださいリボンズさん! スパコンの使用用途間違ってます!!」

 

「大丈夫だよ。イオリアだって、マザーが出産するときは、毎回ヴェーダで母子の生存確率から先天性の病気の有無まで調べてたんだから。ライル・ディランディの行方くらい一発で検索できるさ」

 

「だからと言って、『覇王翔吼拳を使わざるを得ない』のノリで語っちゃダメですよ!!」

 

 

 藤色の髪の女性を励ます美男美女。見た目の差異が大きいことから、彼らは血のつながった家族ではないのだろう。だが、家族以上の絆で結ばれていることは容易に伝わってくる。女性からしてみれば、彼らの行動は過保護の域に入るらしい。その様に辟易しているが、どこか嬉しそうに見えたのは気のせいではなさそうだ。彼らの姿も、あっという間に雑踏に消えた。

 

 

「じいさんへの贈り物、何にするか決まったか?」

 

「悠兄さんは決めたの?」

 

「いや、全然。役に立つものをあげたいんだけどな」

 

「アリスに訊いたら『一鷹さんや悠凪さんから貰えるものなら、博士は何でも喜ぶので問題ありません!』って言われたんだ」

 

「ハルノに訊ねても似たようなこと言われたぞ。何でもいいってのが逆に困るんだよ……」

 

 

 茶髪の青年と緑の髪の少年が、うんうん唸りながらアンドレイの目の前を横切った。かと思えば、立ち並ぶ店のショーウィンドウに沿って歩き始めた。視線は看板や品物へと向けられている。2人の眼差しはどこまでも真剣であった。

 数メートル歩いた彼らは足を止めた。どうやら彼らのお眼鏡に適う店/商品を見つけたらしい。2人は顔を見合わせて頷くと、躊躇うことなく店の中へと足を踏み入れた。その横顔は、プレゼントを贈る相手が喜ぶさまを想像しているかのようだった。

 

 

「なあネーナぁ。何件梯子するつもりなんだよー?」

 

「寄る所すべてで買い物しているのは感心しないな。無駄遣いは控えるようにと言っているだろう」

 

「ごめん! でも、あとはこの品物だけだから! 教官が欲しがってたし……」

 

「マジでか!?」

 

「そう言う話は早くするようにと言っただろう。急ぐぞ」

 

 

 赤い髪の少女に続くのは、青い髪の青年と茶髪で浅黒い肌の青年だ。誰かに贈り物をしようとしているらしい。

 

 ざわめく人の波を流し見ていたアンドレイは、店の中に陳列されていた棚に山積みされていた袋に目を留めた。アレーシュキ――ロシアの焼き菓子である。

 

 

『アンドレイ』

 

『この焼き菓子はね、お父さんが作ってくれたの』

 

『私とお父さんが恋人同士になったきっかけは、このアレーシュキなのよ』

 

 

 幸せそうに笑った母が、アレーシュキを片手にしてくれた話を思い出す。父と母の馴れ初めだ。

 幼い頃はいつもその話を聞きたがっては、父を赤面させていたか。照れる両親を見るのは、とても珍しい光景だった。

 

 しかし、足を止めたのはほんの数秒のみだ。何の感慨も抱くことなく/抱きかけた何かを振り払って、アンドレイは街を歩く。

 

 肌を掠める風はどこまでも冷たいのに、耳に入る笑い声はどこまでも温かい。その差異が、アンドレイの奥底に閉じ込めていた過去を引き出そうとするのだ。

 だから、この季節は好きではない。もう戻れぬ/戻らぬ時間に感慨を覚えたところで、どうしようもなかった。……最も、アンドレイがこの季節を嫌う理由はそれだけではないのだが。

 

 クリスマスで多くなるのは家族連れだけではなかった。周囲を見回せば、恋人たちの様々な姿が、嫌が応にでも目に入ってくる。

 

 

「先輩、あっちにも寄りましょう!」

 

「待てひまり。流石にこれ以上寄り道したら帰りが遅くなるだろう」

 

 

 ほんの一瞬、アンドレイのすぐ横を突風が駆け抜けた。振り返れば、荷物を抱えた男女が店の中へと消えていく。

 しかし、左手は固く繋がれていた。互いに、決して離そうとしていない。羨ましいなとは思ってない。断じてだ。

 

 

「ふふふー」

 

「……どうしたんだよクレア。さっきから、変な笑い方して」

 

「マフラー、お揃いだなーって思って。そう考えてたら、幸せな気分になってさー。笑いが止まらないんだー」

 

「ば、馬鹿」

 

 

 先程の2人の背中を追いかけていたら、それを阻むかのように、別の男女がアンドレイの視界を横切った。

 

 茶髪の男性と青みを帯びた黒髪の少女が、同じ色のマフラーを身に着け、寄り添っている。幸せそうに笑う少女に対して、男性は頬を赤く染めて視線を逸らした。

 男性の口調はぶっきらぼうだが、彼の口元はむずがゆそうに緩んでいた。マフラーに顔をうずめて誤魔化していた男を見て、少女はますますにやける。

 幸せだなぁ、と、吐息のように言葉を続ける。しばしの間をおいた男は同意するように小さく頷いた。その姿もまた、雑踏に紛れて消えてしまった。

 

 

「えーと、あれもこれもそれも買ったし、買い足りないのは……」

 

「待ってくれベル。もう動けないんだが」

 

 

 車椅子を漕ぐ女性の後ろに続く初老の男性は、荒い呼吸を繰り返していた。彼の手には、文字通り「積み上げられた」プレゼントの山。

 ひいひい言いながら女性を呼び止めた彼に、女性は冷たい眼差しを注ぐ。

 

 

「体が鈍っているんじゃないの? 他にも、孤児院のみんなに配るプレゼントは足りないのよ。方々に頼んで買い出ししてもらってるけど」

 

「…………はあ」

 

 

 強い調子で言い返した女性は、すぐに踵を返して車椅子を漕いだ。男性は泣き笑いに近いような表情を浮かべた後、文句ひとつ言わずに彼女についていく。

 

 アンドレイの隣には、誰もいない。ついでにやや前方にも、誰もいない。

 生まれてこの方、プライベートな意味で、女性と並んで歩いたことはなかった。

 

 

(リア充め……!)

 

 

 家族連れを見てもアレだが、恋人たちの姿を見ても(別の意味で)アレである。顔がいかつかったのは父親だが、アンドレイは幸いなことに母親似だ。

 だが、顔がいかつかった父でさえ、マドンナ級と称された母を落としたのだ。母に似た顔つきであるアンドレイが女性と縁がないと言うのはおかしな話ではなかろうか。

 アンドレイは顎に手を当てた。冷たい風が頬を打つ。びょう、という風音が耳を掠めた。足元の枯葉が飛んでいく。寒さが一段と厳しくなったような気がした。

 

 深々と息を吐きだす。やけに、頭上に様々な光がちかちか点灯しているように思えた。見上げれば、大きなクリスマスツリーが鎮座している。

 

 都内で一番大きいツリー、と、物々しい仮面をつけた金髪碧眼の男が、悲壮感を漂わせながら零していたのを思い出す。彼の手には、『恋人と行きたいクリスマスのデートスポット特集』という文字が躍る雑誌が握られていた。彼はその後、派手な着物を着た東洋人女性に腕を絡められ、引きずられるようにして雑踏に飲まれていったか。閑話休題。

 アンドレイは周囲を見回した。どこもかしこもカップルだらけである。アンドレイの体感気温がぐっと下がった気がした。マフラーやセーター、および防寒着でしっかりガードしているにもかかわらず、だ。リア充たち自身だけはぬくぬくしているのは不公平である。最も、世の中と言うものは大抵が不平等でできているものだが。

 

 

「……はー……」

 

 

 アンドレイは遠い気分になった。独りに身クリスマスは毒でしかない。

 そろそろ婚活に励むべきだろうか――アンドレイがふと視線を動かしたときだった。

 

 そこに乙女がいた。透き通ったプラチナブロンドの髪に、青い宝玉を思わせるような双瞼。陶器のように白くてなめらかな肌は、寒さに晒されたせいか、ほんの少しだけ赤らんでいる。彼女が吐き出した息が白くけぶった。

 

 一瞬で、アンドレイはすべての感覚を奪われた。

 呼吸も、鼓動も、何もかもが止まってしまったような錯覚を覚える。

 

 

「か、可憐だ……」

 

 

 今のアンドレイには、そう言葉を吐き出すだけで精いっぱいだった。

 人生初の一目ぼれである。ああ、恋に落ちるとはこういうことを言うのだろうか。

 アンドレイは一端足を止め、方向転換した。ふらふらと可憐な乙女へと歩み寄る。

 

 できることならお近づきになりたい。まずはお友達から、と、アンドレイが脳内で計画を立てていたときだった。

 

 乙女がぱっと表情を輝かせる。

 彼女の視線の先には、向う側から駆けよってくるさえない男。

 

 

「ああ、沙慈ー! 遅ーい!」

「ごめんよルイス。色々あって……」

「許さなーい! 本当に申し訳ないと思ってるなら、今すぐ私にちゅーしれー!」

「ちょっと待ってよルイス! ここ、人がいっぱいで、その……」

「うふふ、そういうところがかわいいのよねー。からかうの楽しいー」

「る、ルイスっ! ……ぼ、僕だって、僕だって男なんだからね」

「!」

 

「…………」

「…………」

 

 

 

 じゃれあっていた2人は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

 幾何かの沈黙の後、どうにか立ち直ったようだ。短く会話を交わしたのち、男が乙女に引っ張られるような形で、彼女たちは雑踏の中へと消えてしまう。乙女の肩に触れようとしていたアンドレイの手は、宙ぶらりんに彷徨っていた。

 物事の理解が追い付かない。頭の中で、何度もバク転を繰り返す――そんな無茶な運動を繰り返したような感覚を得て、アンドレイは1つの結論にたどり着く。アンドレイの出した答えを肯定するかのように、冷たい風が吹き抜けた。

 

 

「………………失恋した」

 

 

 崩れ落ちなかったのは僥倖と言えよう。

 生まれたての小鹿を思わせるような足取りで、アンドレイはツリーの前から歩き出した。

 

 

 

 

 

「アンドレイ……。……強くなれ、息子よ……!」

 

「どうかしたんですか? 大佐」

 

 

 敗北した息子の背中に、届かぬ声援を贈る男がいたことを、アンドレイは知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アンドレイ・スミルノフの嫌いな季節がやって来た。

 

 しんしんと雪が降り続くのと対照的に、街は喧騒に満ちている。煌びやかに輝くイルミネーションで満ち溢れていた。

 踊る文字はどれもこれも同じで、バレンタインディを祝う文句ばかりであった。アンドレイは、それらすべてが寒々しく思える。

 

 

「もうちょっと大きな花束にしたかったな……。もっと節約してればよかった……」

 

「……ジン、流石に80本もあれば充分じゃないか?」

 

「アユルは『100本のバラの花束が欲しい』って言ってたんだぞ。叶えてあげたいじゃないか」

 

 

 紫の髪の少年は、難しそうな顔でバラの花束を睨みつけている。予算不足で、望んだ本数の花束を作れなかったらしい。どこかで聞いたが、3000円で花束を作ってくれと頼むとカスミソウオンリーの花束が出来上がるという話を思い出した。

 対して、鳶色の髪の少年は、完璧主義の友人の背中と花束を複雑そうに眺めていた。彼の抱える花束は、紫の髪の少年と比較すると2回り――否、3回りほど小さい。おそらく、“花束”というカテゴリにぎりぎり収まるほどの大きさ/本数しかなかろう。

 花束の大きさには差はあるが、少年たちが花束を贈ろうとしている相手への想いに差異などない。貰う側はきっと幸せだ。雑踏に消えていく少年たちの背中を見送る。現在、アンドレイがいる国では、2月14日は家族や恋人、親しい人々に花を贈る風習があったことを思い出した。

 

 ちなみに、どこぞの東洋の国では「好きな男性にチョコレートを贈る」なんて風習があるらしい。今では、性別関係なく、お世話になった相手にチョコレートを贈る場合もあるのだそうだ。先程すれ違った浅黒い肌の女性が読んでいた雑誌の表紙にでかでかと書かれていた。

 彼女はどこか寂しそうな眼差しを空に向けながら、赤いマフラーに顔をうずめて通り過ぎて行った。この季節に1人身とはキツイだろう。お仲間は自分だけでなかったことに安堵した、なんて、かなり酷いことを考えたものである。

 

 

「グラン・マに花束贈るつもりなのだが、どんな花にすれば良いだろうか?」

 

「この季節になると、バラの花は人気らしいね。どこもかしこも売り切ればかりだ」

 

「特に赤はな。残っているのは白、黄色、青……」

 

 

 花屋のショーウィンドウに釘付けになっているのは、青い長髪の女性と深緑で短髪の女性2人と、銀髪で赤い瞳の少年だ。

 女2人も侍らせて、だなんて思っていない。しかし、少年が侍らせていた女の人数は2人だけではなかった。

 

 

「ルナは何をプレゼントするか決めたのかい?」

 

「私はチョコレートにするつもりです。以前の無茶ぶり出撃は死ぬかと思いましたが、おかげで給料がっぽがぽ! お財布の潤い具合が半端なくて」

 

 

 少年の問いかけに、短い藍色の髪の女性が現金な笑みを浮かべて答えた。が。

 

 

「それじゃあ、お財布が危なくなったら言って頂戴。頑張ってもらうから!」

 

「お財布が危なくなくても出撃させる気満々じゃないですかぁぁぁぁぁッ! エイミー艦長の鬼ィィィィィ!!」

 

 

 女性の悲鳴が延々と響く。哀れな光景だとは思わないわけではない。そういえば、アンドレイがひっそりと出入している電脳掲示板に『こんな仕事なんて聞いてない』なんてスレッドがあったことを思い出す。事務職で採用されたはずなのに、何故かMSパイロットとして戦う羽目になった女性の愚痴が書かれていた。

 後に、『しばらく会えなかった妹が、再会したら鬼指揮官になってた』というスレッドに出てきた登場人物と被っていたことが発覚し、『アニキと事務員の災難』にスレッドの名を変更し統合した。最近は多忙でスレッドを覗きに行けなかったが、今度久々に覗いてみるとしよう。アンドレイはなんとなくそう思った。

 

 

「ふふ、うふふふふふ……」

 

 

 不意に、不気味な笑い声が聞こえた。声の方向へと視線を向ければ、赤い髪の少女がショーウィンドウを凝視していた。彼女の隣に並び、心配そうに彼女を見ていたのは、杖をついた白髪の老紳士である。

 

 少女は明らかに未成年だった。おおよそ、アルコールには縁のなさそうな雰囲気が漂っている。

 対して、老紳士は積み重ねてきた人生の貫録が伺えた。少女の様子に困惑している様子だったが。

 

 

「酒で人の理性をどうこうできるかなって思うんだけど、おじーちゃんは何かいい知恵知らない?」

 

 

 少女は至極真面目な顔で老紳士に問うていた。

 

 

「酒を混ぜるとすごいことになるって情報を手に入れたのよ。日本語で確か、『チョポン』っていうんだっけ? でも、あたし未成年だから買えなくて」

 

「ワシ、MS論には精通しているが、アルコールによる欲情、およびその因果関係については専門外なんじゃよ。あと、『チョポン』ではなくて『ちゃんぽん』だからの」

 

「とりあえず、度数高いヤツを混ぜまくって責めればいけるかな」

 

「いや、無理だと思うぞ。おにーさんは酒をいくら飲んでも酔わない体質だったし……」

 

「スピリタス、エバークリア、ノッキーン・ポチーン、ハプスブルグ アブサン プレミアムリザーブ、ドーバースピリッツ88……」

 

「聞いとらんな」

 

 

 まるで呪文を諳んじるかのごとく、高アルコール度数の酒の銘柄を呟く少女。

 老紳士は額に手を当てて深くため息をつく。もう諦めの極致に入ったようだった。

 黒魔術でも始めてしまいそうな空気が漂う。無関係を決め込んだ方が良さそうだ。

 

 

「大佐ぁぁぁぁ! 俺と石破ラブラブ天驚拳を一緒に打ちませんかーっ!?」

 

 

 不意に、アンドレイの眼前をつむじ風が横ぎった。鳶色の髪の男が、眼鏡をかけた知的な女性の後ろを全速力で追いかけている。不思議なことに、女性は速足で歩いているだけなのに、全力疾走していると思しき男が追い付けるような気配はなかった。

 高嶺の花を全速力で追いかけている――先程のつむじ風を例えるなら、その言葉がぴったりだろう。追いかける対象がいるだけマシか。残念ながら、アンドレイには追いかけたい高嶺の花もいない。……いや、いないと言うには語弊がある。

 

 クリスマスに見かけた乙女の姿がよぎった。透き通ったプラチナブロンドの髪に、青い宝玉を思わせるような双瞼。陶器のように白くてなめらかな肌は、寒さに晒されたせいか、ほんの少しだけ赤らんでいる。彼女が吐き出した息が白くけぶった。

 

 だが、乙女には既に相手がいた。さえない顔をした茶髪の青年。人生初の一目惚れは、開始わずか数秒で終わりを迎える。

 略奪愛、という単語が脳裏に浮かんでは消えていく。そこまでの畜生になるだけの覚悟は、残念ながら持ち合わせていなかった。

 

 

「……はぁ」

 

 

 びゅう、と、一陣の風が吹き抜けた。枯葉がくるくると舞う。この枯葉もまた、友に踊る相手がいないらしい。似た者同士のようだ。

 枯葉が舞う方向に向かって視線を動かせば、先程とは違う花屋の看板と心配そうに向うを見つめる店員の姿が目に入った。

 店員の方に視線を向けると、襟元にクラバットを結んだ青年が、誰かと押し問答をしている姿が映る。

 

 相手のものと思しき車のトランクには、大量の、赤いバラの花がバケツごと入れられていた。花屋にあったものすべてを買ったのだろう。

 

 青年は、バラの花を譲ってもらいたいと頼み込んでいた。

 頑なに切り捨てる相手に怯むことなく、青年は叫ぶようにして言葉を紡ぐ。

 

 

「貴方程の人物であるならば、プロポーズでYESを引き出すために必要な花と、その色を知っているはずだ!」

 

 

 青年の言葉に、相手は大きく目を見開く。どこまでも真摯な鳶色の瞳に圧倒されたように相手は息を飲んだ。幾何かの間をおいて、相手は微笑み、青年にバラを分けてやる。

 バラの花束を手にした青年は嬉しそうにはにかむと、相手に礼を言って駆け出した。程なくして、男の姿は雑踏に飲まれる。相手も車に乗り込んだ。その後ろ姿は遠ざかって行った。

 

 セリフも気障だが、イケメンが言うなら何でも許されるという風潮がある。先程の青年もその類に相当した。悔しくない。断じて悔しくない。「告白が失敗しますように」だなんて、祈ってない。呪いはかけたかもしれないが。

 

 アンドレイは大きくため息をついた。こんな日に街の中をうろついていても、いいことなんて何もない。

 独り身であることが辛くなるだけなのに、どうして自分はあてもなく街を歩き回っているのだろう。

 吹き抜ける風は冷たい。先程までは粉雪だったはずなのに、いつの間にやら綿レベルの大きさに変わっていた。

 

 

「……はー……」

 

 

 そろそろ婚活に励むべきだろうか――アンドレイが真剣に考えたときだった。

 

 視界の端に、乙女がいた。栗色の髪を首にかかる程度の短髪に、宝玉を思わせるような琥珀色の瞳。凛とした眼差しに宿るのは、真実へのあくなき探求心だ。彼女の屹然とした瞳は、どこか遠くを見つめていた。

 

 一瞬で、アンドレイはすべての感覚を奪われた。

 呼吸も、鼓動も、何もかもが止まってしまったような錯覚を覚える。

 

 

「う、麗しい……」

 

 

 今のアンドレイには、そう言葉を吐き出すだけで精いっぱいだった。人生2度目の一目ぼれである。ああ、恋に落ちるとはこういうことを言うのだ。

 前回の乙女とは人生最短で恋破れてしまったが、今度こそは。アンドレイはふらふらと麗しい乙女へと歩み寄る。

 できることならお近づきになりたい。まずはお友達から、と、アンドレイは脳内で計画を立て始める。伸ばした手が、女性の肩に触れ――

 

 

「どちらさまですか?」

 

「先輩に、何か?」

 

 

 ――なかった。

 

 アンドレイの手が肩に触れるか否かのタイミングで、2人の男性が、女性を庇うように姿を現したためである。

 

 1人は夜闇を思わせるような黒髪と黒目をした青年、もう1人は銀髪に月を思わせるようなブラウンゴールドの瞳が特徴であった。前者はアンドレイよりも身長が低いが、後者はアンドレイとそんなに変わらない。

 しかし、両者とも整った顔立ちをしており、この場にいる誰もが「美人」「イケメン」と称しそうな風貌だった。それだけでなく、彼らはアンドレイに対して不審者を見るような眼差しを向けてくる。

 

 

「セキ、ジョナ。大げさよ」

 

 

 麗しき乙女は苦笑し、肩をすくめる。しかし、2人は威嚇をやめようとしない。

 

 

「先輩もです。単独行動は危険だって、何度も言ってるのに……」

「そうですよ、絹江さん。何かするときは一緒に行動するって約束ですよ」

「だからと言って、引き下がるわけにはいかないわ。ここで諦めたら、ジャーナリストの名折れじゃない」

 

 

 乙女は2人を諌めるつつ、不敵に微笑む。

 

 

「それに、私の身に何かあったら、セキとジョナが助けてくれるんでしょう?」

 

 

 青年2人は虚を突かれたように目を丸くした。ぱちぱちと瞬きしたのち、女性とお互いの顔を見比べる。

 彼女は青年たちを心の底から信頼している様子だ。それを察したのだろう。青年たちは照れたようにはにかむ。

 

 しかし次の瞬間、彼らは悍ましいものを間近で見たかのように、顔面蒼白になった。間髪入れず、女性もさっと顔を青ざめる。刹那、アンドレイの背中に殺意が襲い掛かった。

 慌てて振り返ると、そこにいたのは1組のカップル。片や、アンドレイが恋に落ちたコンマ数秒で失恋した可憐な乙女。片や、可憐な乙女ときゃっきゃうふふしていたさえない青年。

 可憐な乙女は特に問題なかった。問題だったのは、さえない青年の方である。どこまでも濁った鳶色の瞳は、アンドレイを含んだ男たち2人に向けられていた。

 

 

「すみません。姉と貴方方は、どのようなご関係なんですか? 貴方方のいずれかが、僕の、未来のお義兄さんになるんですか?」

 

 

 殺される。返答を間違った瞬間、自分はこいつに殺されるんだ。

 

 アンドレイは直感した。修羅場を潜り抜けてきた軍人だと言うのに、一般人から放たれる圧力に反論できない自分がいる。

 青年2人は情けないことに、麗しい乙女の陰に隠れるように身を縮こませた。できることなら、アンドレイもそうしたかった。

 

 

「すみません。姉と貴方方は、どのようなご関係なんですか? 貴方方のいずれかが、僕の、未来のお義兄さんになるんですか?」

 

「やめなさい沙慈! 私たちはそういう関係じゃないの!! それに、ここにいる人は単なる巻き添えじゃない!!」

 

 

 どうやらこのさえない青年は、可憐な乙女の彼氏であり、麗しい乙女の弟にあたるらしい。運命とは色々な意味で不公平且つ不平等だ。アンドレイは漠然とそう思った。

 

 

「貴方、お義姉さまとはどんなご関係なんですか?」

 

 

 前言撤回。運命は自分に味方してくれた。

 

 可憐な乙女がアンドレイに話しかけてきた。思っても見ない絶好の機会である。乙女と――あわよくば乙女たちとお近づきになるチャンスだ。

 勿論、それを表に出すような、馬鹿な真似はしない。アンドレイは内心あわあわしながら、可憐な乙女の問いかけに答えた。

 

 

「彼女とは初対面だよ。1人で佇んでいたから、心配になって……この周辺は治安が悪いから」

 

「そうなんですかー。最近、世界情勢も混とんとしているから、治安も不安定になってしまうんですよねー。あ、ご職業は?」

 

「軍人を。貴女は?」

 

「私と沙慈は技術者をやってるんです! 公私共に最高のパートナーなんですよー」

 

「……そ、そうなのか……」

 

 

 胸が痛い。ある程度予想はしていたが、恋人に心底惚れている様子は突き刺さるものがある。しかし、めげてはいけない。

 

 

「貴女のお名前は?」

 

「ルイス・ハレヴィといいます。で、あっちで言い合いしている日本人男性が私の恋人、沙慈・クロスロード。彼と言い争っているのが義姉(あね)の絹江・クロスロードです」

 

「へえ……。お2人とも、美し――」

「ああっ、いけない! 沙慈、映画始まっちゃう!!」

 

 

 アンドレイの言葉を消し飛ばすかのように、可憐な乙女――ルイスが金切り声をあげた。彼女の言葉につられ、さえない青年――沙慈・クロスロードが腕時計を確認する。

 麗しい乙女――絹江・クロスロードもそれに便乗し、沙慈を促す。ようやく沙慈は追及することを諦めたらしい。

 

 

「帰ってきてから話はじっくり聞かせてもらうから。姉さん、変なことやったりしないようにね。そこの3人もだよ!」

 

 

 そう言い残し、ルイスと共に駆け出していった。若者2人の背中を見送り、4人は大きく脱力する。さて、話の続きを――。

 

 

「そろそろ移動しましょう。こんな寒い場所じゃ、おちおち話もできない」

 

「誰に聞かれているかわかりませんしね」

 

「それじゃあ、いつもの喫茶店に行きましょうか」

 

 

 乙女の肩に触れようとしていたアンドレイの手は、宙ぶらりんに彷徨っていた。

 物事の理解が追い付かない。頭の中で、何度もバク転を繰り返す――そんな無茶な運動を繰り返したような感覚を得て、アンドレイは1つの結論にたどり着く。アンドレイの出した答えを肯定するかのように、冷たい風が吹き抜けた。

 

 

「………………失敗した」

 

 

 崩れ落ちなかったのは僥倖と言えよう。

 生まれたての小鹿を思わせるような足取りで、アンドレイはその場から歩き出した。

 

 

 

 

 

「……久々に、アレーシュキでも作るかな」

 

「どうかしたんですか? 大佐。そちらは家と反対方向ですが……」

 

「少尉。買い出しに付き合ってくれないか」

 

 

 いかつい顔の男が、銀髪の乙女を伴いマーケットへ向かったことを、アンドレイは知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん?」

 

 

 ポストに何か入っていた。

 

 アンドレイは訝しみながら、“それ”をポストから取り出してみる。小奇麗にラッピングされていた包装紙をはがせば、ビニールの袋が露わになった。中身はロシアの伝統的な焼き菓子、アレーシュキである。

 袋の口に巻き付けられていたカードを見る。差出人の名前を見て、アンドレイは表情をこわばらせた。思わず力が入り、ぐしゃりという音と一緒に袋に皺が刻まれる。幾何かの間をおいて、アンドレイは舌打ちした。

 

 扉を開けて、家の中に入る。迷うことなくゴミ箱へと直行したアンドレイは、まず包装紙をゴミ箱へぶち込んだ。

 続いて、袋ごとアレーシュキを。最後に、包みについていたメッセージカードを放り込む。

 その作業を終えた後、アンドレイは踵を返した。部屋を出ようとして、何故だかわからないが足を止めた。振り返る。

 

 ゴミ箱から覗くアレーシュキ。脳裏を駆けたのは、もう戻らない優しい時間。

 

 

『アンドレイ』

 

『この焼き菓子はね、お父さんが作ってくれたの』

 

『私とお父さんが恋人同士になったきっかけは、このアレーシュキなのよ』

 

 

 何の感慨も抱くことなく/抱きかけた何かを振り払って、アンドレイは部屋を出た。

 

 薄暗くなった部屋の中。ゴミ箱の中に落ちたカード。

 差出人の欄には、セルゲイ・スミルノフという名前が書かれていた。




【参考および参照】
『「覇王翔吼拳」を使わざるを得ないとは (ハオウショウコウケンヲツカワザルヲエナイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科』より、『「覇王翔吼拳」を使わざるを得ない』
『どこかの英会話のCM(ソース不明)』より『プロポーズでYESを引き出すために必要な花と、その色をご存知ですか?(うろ覚え)』
『ペルソナ3 恋愛コミュ』より『3000円で花束を作りたい。え? カスミソウ? ……やっぱいいです(うろ覚え)』
『【危険】世界で一番強いお酒 TOP3発表【注意】 - NAVER まとめ』より、『スピリタス』、『エバークリア』、『ノッキーン・ポチーン』
『意外!世界で最も強いお酒は日本酒だった?! TABIZINE~人生に旅心を~』より、『ハプスブルグ アブサン プレミアムリザーブ』、『ドーバースピリッツ88』

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