うたをつぐもの―うたわれるもの・After―   作:根無草野良

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~第六幕・25~ 夢路・これから【完】

 

 ヤマユラでの騒動から、早十数の日が流れ。

「さて、と……」

 ようやく動くようになった体を抱え、某(それがし)はトゥスクルの城門の前にいた。

 旅の支度も、一人前なら傷に障(さわ)ることもない。

 門を踏み出でる前に、改めて後ろを振り返った。

「では。

 長らくお世話になりました」

 見送りの一同に最後の挨拶を告げる。

『ティティカルオゥル』の皆はおろか、トゥスクルゆかりの方々までがお出でになっておられた。

 それほどのことでもなかろうと、こちらは恐縮のし通しだ。

 まさか賢大僧正(オルヤンクル)にまで見送られることになろうとは。

「本当に行かれるのですか?」

「はい。

 時を経ても覚悟が鈍るだけですから」

「しかし、だな。

 その腕では……」

 案ずる言葉をウルトリィ様はおろか、トウカ姉からも聞かされる。

 そんなに頼りないだろうか?

 いや、それも無理はない。

 

 ただでさえ未熟な某(それがし)が、左の腕まで失くしているのだから。

 

 それでも、これは熟考の結果だ。

 反対もされたが、考えは変わらなかった。

 今の某(それがし)では、皆の荷物になるだけで満足に働く事はできぬだろうし、

 なにより、己を見つめ直すよい機会でもある。

 事の顛末に区切りがついた今こそ好機なのだ。

 しかし、過剰な心配は、さすがに傷つく。

 武士(もののふ)にとって戦の負傷は、誇りこそすれ嘆くことではないのだから。

「トウカ姉らしくもありませんね。

 大丈夫、見た目ほど不自由ではありません。

 確かに、最初は戸惑うこともありましょうが」

「だが、その体で修行を続けるというのは――」

「右腕一本あれば剣は振れます。

 いつか語った言葉に偽りはありません」

 眉を潜めての憂いに対し、考えることなく答えを返していた。

 腕一本失ったからといって、変えねばならぬ道ではない。

 困難はより増すだろうが、ただそれだけのことだ。

 エヴェンクルガの道が険しいことは、生まれる前から覚悟している。

 同じ想いが、トウカ姉の目の中にも浮かんでいた。

「……わかった。

 もうなにも言うまい。

 エヴェンクルガの名に恥じぬ生き様を貫いてこい」

「あるいは死に様を、だな」

 同じ趣(おもむき)の言葉が、ほぼ同時に聞こえてきた。

 トウカ姉の隣から、声は不機嫌を隠そうともしない。

「オボロ殿」

「お前がどんな身でなにをしようと構わんが、

 くたばるなら人に知られることなく朽ち果てろよ」

「兄者様」「なんてことを言うんですか」

「うるさい。

 どうもこいつがいると

 いらぬ面倒を引き寄せる気がしてならん……

 おい、聞いているのかっ」

 オボロ殿と双子のお二方が珍しくも言い争いをはじめていたが、生憎とその内容までは聞いていられなかった。

 ユズカ殿の向けてくる、真摯なまなざしに応えていたから。

 まっすぐでつぶらなその瞳は、別れの辛さと痛ましさに濡れていた。

「タイガ様……

 せっかく再会できましたのに」

「ユズカ殿のおまじないは大したものです。

 元気なお姿が見られて安心いたしました。

 某(それがし)は、まぁ、

 こんな有様で申し訳ないのですが」

 少しでもなごませようと笑ってみたのだが、効果はまるで上がらなかった。

 目の揺れはゆっくりと端に溜まり、無色の玉を形作る。

 だが、落ちそうになる涙の雫を、ユズカ殿は懸命に飲みこんだ。

 恐らくは、前にした某(それがし)に今以上の心配を募らせぬように。

 その強さこそが、嬉しい。

「……私、

 エヴェンクルガの主に相応しい人物に

 なれましたでしょうか?」

「それはもう。

 ゲンジマル様とて、

 今のユズカ殿を前にしては

 刮目せざるを得ないでしょう。

 本当に立派になられました」

「でしたら、

 その、タイガ様の――」

「某(それがし)も、

 一日も早く己の未熟を克服したいものです。

 次に見(まみ)える時までには、必ずや」

 そして、負けてはいられぬと思った。

 やはり早急に旅立たねば、己を鍛え直さねばと。

 見つめ続けた、少しだけ恨めし気だったつぶらな瞳が、ようやくいつもの穏やかさをとり戻した。

「……はい。

 楽しみに、しています」

「ありがとうございます」

 交わす言葉は短くとも、それは破りえぬ約束で、騒ぎ続ける周囲の声にも妨げられはしなかった。

「っと、と?」

 横から抱きついてきた、決して小さくない衝撃にも、なんとか耐える。

「うー、とらー」

 飛びついて来たものを見てみれば、それは満面に不満を湛えたクーヤの姿で、

 後ろにはその保護者一同が並んでいた。

「タイガさん……」

「もうしばらくトゥスクルに

 留まるつもりはありませんか?

 修行ならばこの地でもできるでしょう。

 クーヤとサクヤも、その方が喜びます」

「こっちの手伝いもしてもらえやすしね。

 ボンの剣と名がありゃあ、

 それだけで街の周辺は大人しくなるってもんよ」

 サクヤ殿はもちろんのこと、ベナウィ殿にクロウ殿までおられる。

 政務の調整が忙しさの極みにあるこの時期に、わざわざ某(それがし)のために足を運んでくださったのだ。

 ありがたさよりも申し訳なさを感じてしまう。

 だが、

「お二方にそこまで言っていただけるとは、

 これ以上の名誉はありません。

 ですが、某(それがし)も一人の武人として

 決意したことなのです。

 どうぞご理解の程を」

 温情に満ちた申し出にも、意思は変わらなかった。

 ここで好意に甘んじては、きっといつか後悔する。

 己の愚を自覚しながらも、頭を下げるより他にない。

「……仕方ありませんか」

「そうですね。

 席は空けておくぜ。

 修行に納得がいった時には、

 いつでも戻ってきな」

 それでも返された言葉には、変わらぬ温かさが溢れていた。

「ありがとうございます。

 その折には、必ずや」

「うー」

 抱きついてくるクーヤの身を、なだめてゆっくり遠ざける。

 右腕だけでは難儀したが、なんとか従い、離れてくれた。

 それでも、顔から不満の色が消えることはない。

 その身を預けたカミュの表情も同様だった。

「うー、トラちゃん……」

「なんだ、カミュまで。

 ほっぺたを膨らましすぎると戻らなくなるぞ」

「だって……!」

「カミュにはいつでも笑っていてほしいんだ。

 世に満ちる悲しみも、

 それで少しは救われるだろうから」

 カミュが浮かべた表情に、月夜の舞を思い出す。

 彼女の背負う力の苦悩と、それがもたらす幸福も。

 自然と、言葉も強くなる。

「オンカミヤリューの姫という立場は、

 武士(もののふ)よりもよほど険しい道だろう。

 でも、カミュなら大丈夫だと、某(それがし)は思う。

 そう信じてる」

「トラちゃん……」

「だから、笑顔で、な」

 語る真意を促すためにと、慣れない笑みを作る。

 笑いを誘えると思ったのだが、なぜかカミュは目を伏せていた。

「……やっぱりずるいなぁ」

「ん?

 なにがだ?」

「なんでもないっ。

 大変なんだから、

 戻ってきたらトラちゃんにも

 手伝ってもらうからねっ」

 だが、気にすることではなかったようだ。

 再び上げられた顔には、いつもの笑顔が戻っていた。

「ああ、それはよろこんで。

 しかし、手伝うのは構わないが、

 ウルトリィ様にかけた迷惑の

 始末というのはごめんだぞ?」

「そんなことしないよぅ」

 それはどうだろう。

 疑問に対する答えを求め、姫の従者に言葉を向ける。

「ムティ殿も、その時までがんばってください」

「タイガ様……

 その時まで僕、生きているでしょうか……」

「ムティ!」

 悲壮な返事を散らそうとする怒鳴り声に、某(それがし)は自然な笑みを浮かべていた。

 それが、なにか気に喰わなかったのだろうか。

「ふん。なにをニヤついている。

 自分の絶望的な状況を、

 まるで理解していない馬鹿が」

 声へと顔を向けて見れば、腕を組んだテルテォの、見下すまなざしとかちあった。

 いつも通りのケンカ腰に、自然とこちらも語気が荒ぐ。

「なに?」

「腕一本失くしておいて、

 なにが剣の道だ。

 そんなザマでなにができる。

 戦場で雇兵(アンクアム)に身ぐるみ剥がされ

 野垂れ死ぬのがオチだろうよ」

 歯に衣着せぬ言い草はいつも通りの遠慮のなさで、それ故に残酷な事実を容赦なく突きつけてくる。

 

 言われるまでもない現実は、しかし、幾度となく思案したことだ。

 考えるなという方が無理だろう。

 なにしろ、生まれたときから当たり前のようにあった我が腕が、何度確かめても無いのだから……

 

 襲う不安と恐怖は、刀を失ったとき以上。

 心に生まれた絶望は、日を追うごとに膨れてゆき、

 今でも某(それがし)の内に、深く深く根づいている。

 いずれはこの身を喰いつくし、ただの骸と帰すのだろう。

 

 だが、何度考えても、出てくる答えは同じであった。

 

「……その時は、

 そこが某(それがし)の限界ということだろう」

 死は恐ろしい。

 手を、心を、魂を返り血で赤く染め上げるほどの命を散らしても、決してそれに慣れることはない。

 いずれは某(それがし)も、散らされる一つとなるのだろう。

 それこそが目指す道であり、与えられる当然の報いでもある。

 

 ――だからこそ、見出したいのだ。

 その果てにある、なにかを。

              

「武士(もののふ)として生きる以上、

 その運命(さだめ)は当然受け入れるべきことだ……

 って、テルテォ?」

「なんだ」

「どうした。

 戦いを信条とするお前が、

 戦場での死を恐れるとは」

「べ、別に恐れてなどおらんわっ。

 ただ、その、戦えぬ者に

 うろちょろされるのが目障りなだけだ」

 あらぬ方を見やるその様に、ふと思ってしまった。

 ひょっとすると、此奴は此奴なりに某(それがし)の身を案じているのやもしれぬ、と。

「テルテォ。お前……」

 素直な感想が口から漏れる。

「なんだっ」

「気持ちわるいな」

「っ、かましいっ!

 だいたい貴様はだな……!」

「お前の方がやかましいぞ、テルテォ」

 勢いのまま持ち上げられた双刃の槍は、リネリォ殿の一声で動きを止めた。

「お歴々の御前だ、

 少しは控えろ」

「ハ、ハイ。

 申し訳ありません」

 もはや見慣れた光景に、某(それがし)の怒りも自然と消える。

 長い旅を経た後も、彼等の関係だけは変わらなかったようだ。

「リネリォ殿は、

 しばらくトゥスクルに留まられるのですね」

「ああ。

 この子がもう少し落ち着くまではな」

 答えるリネリォ殿の腕の中には、小さな命が安らかな寝息を立てていた。

 歪んだ生と死に翻弄された旅の中で、この子だけが、某(それがし)たちに誇れる唯一つのものなのかもしれない。

 ラクシャインの、

 いや、ラクシャイン殿の行いが正であったか非であったのか、今の某(それがし)には測りようもない。

 だが、再びの生を得た赤子の寝顔には、確かに心を安らかにさせられた。

 リネリォ殿も同じ思いなのだろう。

 子をあやす様は、面影しか知らぬ母を思い出させる。

「いずれは広き世を見せて、

 それから先は……

 この子自身に決めさせようと思う」

「そう、ですね。

 それがよいでしょう」

「その間がどれほどになるかは分からんが、

 たまには顔でも見せに来い」

「ええ。

 その折には土産(みやげ)でも持って」

「ふん。

 武士(もののふ)を志すというのなら、

 そんな余計は今より強くなってから考えろ」

 横から口を挟んでくる弟は、出会った時から変わらないが。

「せめて俺に勝つ見込みができてからな。

 ……いや、それは酷というものか。

 それでは貴様は生涯トゥスクルの土を

 踏めぬことになるからな」

「な、なんだと、

 言わせておけば……」

「なんだ、片端者(かたわもの)が」

「こ、の……

 貴様ごとき、元より片手で十分だっ。

 なんなら今この場で決着を――」

「マアマアマア、お二方とも。

 別れの辛さはわかりますが、

 ここはどうか穏便に」

「「誰が辛いかっ」」

 割って入ってきた声に返した叫びは、奇しくもテルテォと重なっていた。

 思わず顔を突き合わせ、同時に視線を突き放す。

「「ふんっ」」

 まったく、どこまでも気に食わぬ男だ。

 意識は自然と外した目先、小さな商人へと向いていた。

「ニコルコ。

 お前もトゥスクルに残るのか」

「そうですね、エエ」

 以前なら苛立ちを誘われた笑みも、今では心を落ちつかせてくれる。

 負の色はいまだ濃いものの、某(それがし)が旅の中で得たものが、ニコルコからも確かに感じられた。

「もう少し稼いだら

 色々な街を回ってみようと思っております。

 ワタクシのような者でも、

 お役にたてる場所があるかもしれませんので、ハイ」

「……そうか。

 きっとあるさ」

 それは、『ティティカルオゥル』の皆をつなぐ絆だ。

 ニコルコは大丈夫だろう。

 きっと、大丈夫に違いない。

 それが願望だとは分かっていたが、今はそう思いたかった。

「……しかしな、

 某(それがし)の勘は良い方向に

 当った試しがないし……」

「なにをぶつくさと言っていますの?

 景気のわるい顔をして」

「のわ?」

 思い浮かべていた先行き良くない結末は、膝を崩され、掻き消された。

 呼びかけはいつもの通りのやり方なのだが、いい加減自身の膂力(りょりょく)というものを自覚して欲しい。

「い、いや、別に。

 カリンは、どうするんだ。

 カルラゥアトゥレイに戻るのか?」

「そう、ですわねぇ。

 どうしましょうか」

 カリンは、これから先の行く末を見るように、空へと目を向けた。

 目が痛いほどの青の中、白い雲が流れていく。

 吹き抜ける風と同じぐらい、少女の笑顔は爽やかだ。

「もうしばらくのんびりしていきますわ。

 せっかく口うるさいおじさまから解放されたんですもの、

 楽しめるだけ楽しまなければ損ですし」

「カリンらしいな。

 デリホウライ皇が聞いたら荒れるぞ」

「少し荒れているぐらいが

 おじさまらしいというものですわ。

 クイナさんを泣かすようなロクデナシになったところで、

 わたしが退治してカルラゥアトゥレイをいただく、

 というのもおもしろいですわね」

「は、はは……」

 笑みのまま語る言葉は屈託のない冗談のようであり、心底からの本気であるようにも見える。

 まあ、それでよいのだろう。

 この掴み所のなさが、カリンのカリンたる由縁であろうし。

 笑みが引きつりを覚える前に、その隣へと目を向けた。

 いまだ変化には乏しいものの、それでも穏やかさを覚えた顔に。

「ハクビ」

「タイガさん……」

 表情には影が濃いが、そればかりではない。

 人形のようだった頃に比べれば、はるかに温もりがある。

 それは、確かに生きている証であり、抱える強さを得た証拠だ。

「ハクビも、

 もう大丈夫だよな」

「はい。

 もう死に逃げようと考えてはいません。

 無様に生き抜いてみようと思います。

 ジャカウやラクシャイン、

 それに、リュウガのためにも……」

「兄上の……」

 自身が呼ばれたような錯覚に、失くしたはずの腕が痛んだ。

 某(それがし)の心の内、リュウガ兄は穏やかなまま在り続けている。

 だが、それを伝えた所で、ハクビの想いは変わらないだろう。

 今は、それで良いと思う。

 手を組み祈る仕草には、真摯な想いが込められていた。

 名を告げた者のみならず、関わった者すべてに対する哀悼だろう。

 彼女の歩むこれから先の険しさを、某(それがし)は見誤っていたのかもしれない。

 自身の進む道に対しても、また。

「……それは、某(それがし)とて同じこと。

 共に精進しよう」

「はい。

 できるかどうかはわかりませんが、

 この命が尽きるまで

 出来うる限りの贖(あがな)いをさせていただきたいと思います」「いや、

 それだけでは足りないな」

 自らを顧みない覚悟めいた鋭さに、ふと、異論をこぼしていた。

 彼女を守る、あたたかさを見て。

「え?」

「ハクオロ皇が、そればかりを望んでいるとは思えない。

 ハクビは自身を幸福にして、

 はじめて罪を贖(あがな)ったことになるんじゃないか?」

「幸福に、ですか?」

「ああ。

 どうだろう」

 確信はない。

 だが、予感はあった。

 彼に接した者ならば、きっと同じように想うはずだ、とも。

 驚きの表情は、ほんの一時。

「そうかも、しれません。

 お父様は、優しいお方ですから……」

 言葉も意味も足りなかったが、心はきちんと届いたようだ。

「わかりました、

 がんばってみます」

 ハクビの顔にはようやくの、そして、心からの笑みが生まれていた。

 最後に残った一人とは、正反対の表情でもある。

「…………」

 次第に和(なご)んでいく場の中で、ただ一人アルルゥだけが、いつまでも恨めしげなままだった。

「ア、アル、ルゥ?」

「……うそつき」

「え?」

「うそつき。

 一緒にいるって、言ったのに」

「う……」

 睨みつけてくるまなざしは『怨(オン)』すら孕んでみえる。

 久しく見ていなかったアルルゥの本気の怒りは、恐ろしくも、どこか……嬉しかった。

 たとえ、今この時だけだとしても、某(それがし)に向けてくれるその一心が。

 応える言葉に、心からの想いをこめる。

 ただ誠心誠意だけが、返せる唯一のものだから。

「すまない。

 だが、今の某(それがし)ではアルルゥを守れない」

「そんなの……」

「なによりも、心の強さが足りないんだ。

 今のままでは、きっとアルルゥを傷つける」

 時が経てば血は止まる。

 だが、失ったものが戻ることはなく、これから知るであろう痛みに、某(それがし)は耐えられまい。

 無様を曝したくはないし、それに、これは好機でもあるはずなのだ。

 これしきの苦悩を超えられずして、真の武士(もののふ)になど永遠に届かない。

 それに、

「そんなの、べつに……」

「わかってる。

 皆ならそんな某(それがし)でも

 受け入れてくれるだろう。

 だが、それでは家族とはいえないんだ」

 変わらぬアルルゥの不服な顔に、もう一つの望みで応える。

 彼女に、彼女たちに教えてもらった望みだ。

「家族とは互いに支えあうものだ。

 強さでも、弱さでも」

 ハクオロ皇を前にしたアルルゥは、本当に幸せそうだった。

 カミュも、ハクビも、エルルゥ殿も。

 神と呼ばれる身でありながら、

 彼は全能からはほど遠く、

 それこそが人として、

 本当の強さと弱さを備えたもので、

 

 その姿に、憧れた。

 

「某(それがし)もアルルゥを支えたいんだ。

 わかってほしい」

「……うー……」

 見つめあう時の中で、怒りは姿を潜めていった。

 揺れるまなざしは同じまま、宿す感情だけが変わっていく。

 許してくれたわけではなさそうだが、話は聞き入れてくれたようだ。

 

 瞬きもせぬまま過ぎた、小さな小さな沈黙の後、

 アルルゥは懐から取りだした白い欠片を、某(それがし)に突きつけてきた。

「ん」

「え……?」

 それは硬く、冷たく、滑らかで、

 そして、温もりの残った欠片。

「これ、は……

 ハクオロ皇、の……?」

 二つに分かれた後であっても、見間違えるはずもない。

 

 白い鬼面の片割れだった。

 

「アルルゥ?

 これは……」

「おまもり。

 トラに、貸しておく」

 父と姉の思い出と、その温もりを宿した形見。

 この長い旅のはじまりにして、おわりを飾る世界の欠片。

 

 そして、これからの話の、最初の約束。

 

「ちゃんと返す。

 ぜったい……」

 差しだされた想いの結晶を、残された手で、確(しか)と継ぐ。

「アルルゥ……

 ああ、返すよ。

 絶対に」

 答えとして返されたものを、某(それがし)は生涯忘れない。

 アルルゥの浮かべた満面の笑顔は、

 その名が示す花よりも、

 はるかに美しいものだった。

 

 

 

「それで、どこに向かうつもりだ?」

「そうですね……」

 別れの挨拶を終わらせて、リネリォ殿の問いに、少し考える。

 答えはすぐに出た。

 酔った導きの笑いが聞こえていたから。

 

「北へ。

 ティティカ姉に報告してきます」

 

 最初の一歩は、まずそこから。

 進む次の一歩もまた、そこで教えてもらえるだろう。

 リネリォ殿のほほ笑みも、その考えを認めてくれた。

「そうか。

 よろしく伝えておいてくれ」

「はい。

 皆の分も、きちんと」

「それはよい考えですわね。

 さあ、行きましょうか」

「お、お?」

 見回そうとした体の動きが、引かれた右手に妨げられた。

 身形(みなり)こそ小さくも、ギリヤギナの力には到底かなわない。

「カ、カリン?」

「なんですの?」

「行きましょうかって、お前――」

「わたしも行くことに決めましたわ。

 旅は道連れの方が楽しいですわよ?」

「は?

 い、いや、しかし」

「あー、カリリンずるいっ。

 だったらカミュもー」

「のおわ?」

「姫さまっ」

 油断をした後ろから、カミュが抱きついてきた。

 その豊満な胸を押しつけてくる。

 暴れる某(それがし)を楽しむ様は、カリンと二人して遠慮がない。

「カ、カミュ。

 遊ぶんじゃな――

 ユズカ殿?」

 気がつけばもう一人。

 足の裾引く控えめな力は、始めはゆるく、やがて確かに。

「でしたら、

 わたしも一緒に……」

「ユズカっ?

 お前、なにを、ごっ?」

「まあまあ若様」「いいじゃないですか」

「いいことがあるかっ。

 こら、放せっ、

 ユーズーカー!」

 周囲の騒ぎに乗じるように、更に混乱が飛びついてくる。

「わーい。とらー」

「ぐおあ?」

 落ちてきたクーヤの身を、某(それがし)は辛うじて受け止めた。

「クーヤ様っ。

 いけません、いくら楽しそうだからって」

「こ、これのどこが楽し……

 ハ、ハクビっ。助け、て……?」

 的の外れた言葉を正している余裕もない。

 思わず助けを求めた腕も、その相手にそっと掴まれていた。

「お、おい?」

「いえ、とても幸せそうでしたので、

 私も混ぜていただければと」

「おいー!?」

 掛かる重圧に耐え切れず、ついには膝が崩れていた。

 小さくない衝撃に顔から地面に打ちつけられ、張りついていた皆もようやく少しだけ大人しくなる。

 いや、静まった理由は痛みゆえにではなく、

 ボヤきながら見上げた先にこそあった。

「ええい、まったく、

 なにをするんだお前らは。

 少しは怪我人を労(いた)わろうって気、に、は……」

 批難の声も、掠(かす)れて消える。

 顔を上げた先には、つい先程以上の怒りに目を平めたアルルゥが、なにか、燃えるものを背負い、立っていた。

「ア、アルルゥ……?」

「トーラー……」

「い、いや、違うぞ?

 これは別に、某(それがし)が

 どうこうしたわけではなく――」

「イヤイヤ、さすがタイガ様。

 女泣かせの才がおありですねえ、ハイ」

「女難の才の間違いではありませんか?」

「ふん、自業自得だ。

 誰彼かまわず愛想を振りまきおって」

「その辺りは昔から変わっていないな。

 子供の頃から要領の悪い子であった」

「そういうところは聖上に通ずるものがありますね」

「はは。褒められたぜ、ボン」

「ええいっ、外野が茶化すなっ。

 違うぞアルルゥ!

 すべては誤解の成すところであって……

 って、なぜガチャタラをこちらに向ける!?」

 聞こえてくるいい加減な声に黒い想いをより燃やし、アルルゥは容赦のないまなざしと、両手で抱えたガチャタラを某(それがし)に向けた。

 膨らんでいく剣呑な気配に、圧し掛かっていた重みが消える。

 正確には、逃げる。

「お、おい?」

 それは本当に瞬く間で、身を起こす暇もなく、

「……ガチャタラ、やっちゃえ」

『キュイイイイイイッ』

「のあああああああ!?」

 結局最後の最後まで、アルルゥの怒りから逃れることはできないのであった。

 

 

 

 トゥスクルの城の屋根の上から、その様を眺めている者が一人。

 手酌の酒を舐めながら、カルラは笑みを浮かべていた。

「こんなところから見送りですか?」

「あら」

 近づいてきた穏やかな声に、小さな驚きで振り返る。

 ウルトリィはカルラの隣に進みくると、変わらぬ笑顔を同じ光景に向けた。

「よくここが分かりましたわね。

 法術でも使いましたの?」

「いいえ。女の勘です」

「ああ、それなら仕方ありませんわね」

 盃の一つを手渡しながら、カルラの声が小さく弾む。

 賢大僧正(オルヤンクル)に対してではなく、あくまで旧知の親友(とも)へと向けた声。

 なごやかな雰囲気を味わうように、二人は同時に盃をあけた。

「娘さんはよろしいのですか?」

「あの娘にはあの娘の生き方がありますもの。

 自由にやらせるのが一番ですわ。

 楽しめる道連れも見つけたようですし」

「ええ、本当に」

 肴である眼下の光景は、ますますの活気を広げている。

 別れの場であるはずが、そこはとても楽しげで、カルラに深い息を吐かせていた。

 こめられているのは、呆れと期待。

「これからは、

 あの子たちが時代を作っていくのでしょうね」

「ええ。

 それが、生きていくということですもの」

 ウルトリィのまなざしにも、同じものが宿っていた。

 それは、背負ったものと彼女自身、双方からの願いでもある。

「そうですわね。

 あるじ様の想いや願いも、届きますかしら」

「ええ、きっと大丈夫です」

 答える声には確信的な強さがあった。

 慎重な彼女にしては珍しい、自己を主張するような響きだ。

「賢大僧正(オルヤンクル)のお墨付きなら

 間違いありませんわね」

「いいえ。

 これも女の勘です」

「なら、ますます大丈夫ですわ」

 その明快な自信のほどに、カルラもまた同意する。

 眼下を肴に酒を楽しみ、笑みと酔いを穏やかに深めた。

 

 

 

 青い青い空の下、笑いあう声が響いていく。

 

 戦の傷跡が残る中、それでも生きていく人々の声が。

 

 別れの痛みも、生の苦しみも、そのすべてが命の証で、

 

 正しさも、過ちも、そのすべてが等しく重い。

 

 

 一つ一つが細く、短く、そして尊き、時の音。

 

 過去(これまで)と現在(いま)をつないできた、罪と贖いの綴る歴史(うた)。

 

 それは決して絶えることなく、未来(これから)も紡がれていく。

 

 うたをつぐものたちの手で――

 

                         ~完~


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