うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
沈黙の時は数拍だけ。
促された言葉に対し、アルルゥの姉上は静かな声で答えた。
「……もう行きましょう、ハクビさん。
ここでの役目は終わりました」
「そうですね。
では」
「おねーちゃん!」
背を向けようとした二人の動きを、アルルゥの悲痛な声が止める。
「おねーちゃん、
どこ、いくの……?」
「アルルゥ……」
「アルルゥ、ここにいる。
カミュちーも、ユズっちも、
おねーちゃんたちもおにーちゃんたちも、
みんな……」
アルルゥの声は震えていた。
響きだけではない。
心そのものが震えているのがわかる。
「みんないっしょ。
アルルゥといっしょ。
だから、おねーちゃんも……」
「でも、でもね、アルルゥ。
ハクオロさんは、いないの……」
だがそれは、向けられたエルルゥ殿も同じだった。
小さな肩も、蒼白な唇も、闇を映す黒曜の瞳も。
告げる想いは、魂の震えすら伝えてくる。
「……おとーさん……?」
「そう……
これは、ハクオロさんが望んでいることなの……
だから、私は、こんな……」
自らの身を抱くその姿は、底知れぬ恐怖に怯えて見えた。
この人は、己の所業の罪深さを知っている。
知っていてなお、その闇を進んでいるのだ。
「ハクオロさんのためなら、
私はなんだってする。
なんだってできる。
おばあちゃんの言いつけを破ることも、
みんなを置いていくことも、
この手を、血で汚すことだって――」
震える言葉は、情念めいた響きに満ちていた。
蒼白の顔のその中で、漆黒の瞳だけが異様な光を放っている。
それは、渦巻く『怨(オン)』そのもの。
「おねー、ちゃん……」
アルルゥの囁(ささや)きは悲鳴のようだった。
気持ちは痛いほどよくわかる。
ただの村娘にしか見えなかったエルルゥ殿が、今は祓(はら)いえぬ禍日神(ヌグィソムカミ)のよう。
刃では抗(あらが)えぬ深く重い念を前に、某(それがし)は一歩も動けずにいた。
突然の爆発に、立つ足場が揺れるまで。
「な、なんだっ?」
「しかけた導火が作動したのでしょう。
火薬の蔵に届くまで、
そう時間はかかりません」
某(それがし)の驚きに、ハクビは平然と答えた。
冷静を損なうことなく、当たり前のように語る。
「な、なに?
お前、なにを言っているんだ?
味方の軍だろう。
そんなことをすればどうなるか……」
「ええ。
貴方がたに勢いを取り戻されるでしょうね。
そして、より大きな戦となる」
「っ、貴様……」
仮面の女は、その因果を十二分に理解していた。
状況を思い出す。
自然と剣を抜き、切先をハクビに向けていた。
体の示した素直な反応に、考えることをやめる。
明確な目的が目の前にあるのだ。
今はただ、敵を討つことだけ想えばよい。
ハクビとの間は十間ほど。
今の某(それがし)なら、一拍で刃を叩きこめる距離だ。
迷いはない。
次に聞こえた爆音に、剣撃の一歩を踏み出した。
妨げえぬ一撃必至の軌跡は、しかし、
天井を踏み抜き現れた巨鳥に、その羽ばたきで落とされた瓦礫の山に、押し潰された。
「ぬあっ?」
『キイイイイイイイイ!』
かき乱された大気は不自然に渦を巻き、暴風となって歩みを妨げる。
濁流にも似た高圧は目を開けていることすら困難で、場に留まるのが精一杯だ。
身動きもままならぬ状況に狭(せば)まる視界の先で、ハクビは悠然と巨鳥に近づいていった。
そうそう逃してたまるか。
踏みしめる姿勢を一つ広げ、支えの足に力を溜める。
「待て、このっ……」
「貴方たちには期待しています。
どうか奮闘してください」
「ふざ、けるなっ!」
踏みこむ動きを利用して、気合の一撃を撃ち放つ。
すくい上げての一閃は、爆発めいた衝撃を伴い、吹きつける風を下から縦に断ち裂いた。
一瞬生まれた、音すら届かぬ領域に踏みこみ、一息で巨鳥に肉薄する。
続けての一撃は、向けられた大気の打撃とほぼ同時に。
瞬間、刃と風が拮抗する。
「ぐ……、のっ!」
「まぁ、
ジャカウの風を斬るなんて」
「なにを企(たくら)んでいるのかは知らぬが、
貴様の掌で踊らされるのはもうたくさんだっ。
この場で決着、を……?」
だが、振り下ろしの一閃は不意の脱力に襲われ、敵まで届きもしなかった。
「な、んだ?
体が、動か……っ」
羽ばたきに体が吹き飛ばされる。
受身も取れぬまま叩きつけられた元の場では、アルルゥまでもが脱力に身を伏せていた。
「ん、むぅ。
これ、ケスパゥの、香……」
「成分は調整してあります。
痺れはすぐに消えるでしょう。
爆発までの間に砦から逃げてください」
その原因は、エルルゥ殿の手元にあった。
立ち昇る紫煙が風によって振りまかれ、某(それがし)たちを囲っていた。
意識のすべてを集中し、四肢に令を伝えるも、体からは一切の力が奪われていて、まるで動こうとしない。
「それでは」
「ク、クソっ。
待て、ハクビっ」
巨鳥の足に取りつき、悠然と空に昇りいくハクビを、某(それがし)は黙って見送ることしかできなかった。
それは、再会を果たした姉妹も同じ。
「……さよなら、アルルゥ」
「おねーちゃん……」
「…………ごめんね……」
交わされた言葉の半ばも、羽ばたきに散らされ消えてしまう。
去りゆくエルルゥ殿がどのような表情を浮かべていたのか、確かめることができなかった。
半刻の後、某(それがし)は燃え堕ちて行く砦の様を、崖の上から見下ろしていた。
横にはアルルゥとムックルがいる。
痺香(ケスパゥ)の効果はすぐに解け、敵兵を撒いたらしいムックルともども、脱出は無事に果たすことができた。
混乱に勢いをえたトゥスクルの軍は、苦戦の末に正門を打ち破り、敵の勢力を制圧しつつある。
トパコの砦の攻防は、これで決着がつくだろう。
聞こえてくる勝鬨(かちどき)の声を聞きながら、しかし、誇る気にはなれない。
すべてはハクビの掌の上。
そんな思いが拭(ぬぐ)えなかった。
「……ふぅ」
溜息の理由は、もう一つ。
そっと隣をうかがい見る。
アルルゥはずっと空を、姉上の消えた北の空を見続けていた。