うたをつぐもの―うたわれるもの・After― 作:根無草野良
トゥスクルの都にほど近い、小さくも豊かな山の奥。
穏やかに揺れる梢(こずえ)の音に、混ざり聞こえる小鳥たちの歌声。
風と大地の恵みに満ちたその場所は、常春の世を思わせる。
某(それがし)は緑を湛えたその端に立ち、アルルゥと、カミュと、トウカ姉の背を見守っていた。
誰も動かず、なにも喋らない。
三人はただ黙し、崖の縁に置かれた丸い石に向け、手を合わせていた。
可憐な花に囲まれた、名も刻まれていない小さな墓石に。
礼節を重んじるトウカ姉はもちろんだが、普段はにぎやかなカミュも、この時ばかりは神妙だった。
アルルゥにいたっては、言葉を忘れたような一心不乱で祈っている。
だがそれは、悲痛ばかりを伴うものではなかった。
音もなく、声もなく、しかしなぜか感じる姦(かしま)しさは、温かな雰囲気によるものか。
どこか、旧知の友との再会を思わせる。
長き年月を経てもなお変わらない想いが、彼女たちにはあるのだろう。
理由も知らされず連れてこられた某(それがし)には、離れて黙祷を捧げるぐらいしかできなかった。
感じる微妙な疎外感は、覆(くつがえ)しようのない時の流れによるものか。
見聞きするだけでは知ることのできぬ歴史が、そこにある。
余人には決して触れることのできない歴史だ。
少しだけ、心が重い。
「タイガ。
どうした?」
しばし、そんな想いに気を取られていたらしい。
いつの間にか並んでいた横の気配に、話しかけられるまでまったく気がつかなかった。
「――トウカ、姉。
……なにか?」
「なにか、ではないだろう。
お前も挨拶してこい」
「え、いや、しかし……
よいのでしょうか」
「? なにを言っている。
お前も世話になったのだろう?」
「某(それがし)が、世話に?」
こちらの困惑を気にもせず、トウカ姉は背を押し、促(うなが)す。
本当に、よいのだろうか。
三人の思い出に土足で踏みいるような罪悪感に、どうしても踏みだす足が鈍(にぶ)る。
もっとも、数歩足らずの距離は、どれほど躊躇ってもすぐになくなってしまったが。
気づいたカミュが、前に立つ場を譲ってくれた。
隣では、アルルゥが変わることなく祈り続けている。
かつて見たことがないほど真剣に、かつて見たことがないほど穏やかに。
ますます気が引けてしまう。
「ほら、トラちゃんも」
「あ、ああ。
しかし、名も知らぬ方を相手に拝するのは、
むしろ失礼になるのではないだろうか」
「そんなこと、あるわけないよ」
「ん。
ユズっち、きっとトラとお話したい」
「ユズっち……?
あ、ああ……」
目を閉じたままアルルゥが返してきた言葉に、ようやく思い至った。
彼女たちの親友と、姦(かしま)しさに覚えた懐かしさに。
「そうか。
ユズカ殿の、母上か」
ならば、確かにまったく知らぬ方ではない。
むしろ、拝さぬ方が無礼であろう。
ユズカ殿に教えられた彼女の誇りは、某(それがし)に生きる術を示してくれた。
いわば師とも呼ぶべき方なのだから。
隣に立つアルルゥに倣(なら)い、手を合わせて目を閉じた。
アルルゥとカミュ、そしてユズカ殿の話を思い返し、その人と形(なり)を思いながら。
ユズカ殿とよく似た面立ちの、少しだけ線の細い女性の姿が浮かぶ。
目を閉じた顔に浮かんだ笑みは、知りうる誰よりも優しいものだった。
存在の儚(はかな)さとは裏腹に、確かな強さを秘めた笑み。
不意に、軽やかな音を聞いた気がした。
鈴の音のような澄んだ音だ。
頬を撫でていった冷たくも柔らかな感触に、思わず目を開ける。
人の気配など、もちろんない。
あるのは物言わぬ小さな墓標と、穏やかな春色の風だけ。
その風が、某(それがし)の顔を確かめるように、優しく頬を撫でていた。
「そろそろ、行こっか」
カミュの言葉に我に返る。
鈴の音も、風の気配も去っていた。
小さな驚きは、隣にいる者も同じであったらしい。
少しだけ間を置いてから、アルルゥはゆっくりと頷(うなず)いた。
「……ん」
「それじゃあ、ユズっち。
また来るからね」
「ばいばい」
名残惜しそうに、しかし毅然と踵(きびす)を返した二人を追い、某(それがし)もまた歩きだす。
「……ありがとうございました」
別れの代わりに感謝を述べ、またいつか参ろうと心に秘める。
心は、少しだけ軽くなっていた。