ご心配おかけしましたが、ちゃんと生きております。
更新遅くなってすみません。
来訪者編1
冬を前に乾いた空気が私の頬を撫でる。澄んだ空気は空まで綺麗に映し出し、朝焼けの眩しい空をより高く見せた。
空気を吸い込めば肺に冷たい空気が流れ込み、息継ぎに吐き出す息は白く、青空の下で空気に溶けていく。
静かな朝だ。
ピリッと背筋が凍えるような冷たい空気が私の気も研ぐようだった。
結界が張られた空間では精霊がまばゆい光を伴い、舞っている。
私が練習用の扇を振れば風が吹きあがり、私の体を軽くする。
汗が流れる、息が上がる、足に出来た血豆が破れる。
砂利を鳴らしてしまえばそれは失敗で、もう一度音が鳴らないように地面を踏みしめ直す。
私は舞うことを止めない。
今練習している舞は年末年始が本番で、練習期間はあと1か月程度しかない。
型を真似ることはできても、魔法として成立するにはまだほど遠い。
何十、何百と型を体に染み込ませ、呼吸と同じくできるまで繰り返し、繰り返し練習を続ける。百の練習をしたところでできるとは言えない舞も存在する。
何度目かもわからない動作の繰り返し、細部の修正に追われる日々。
次の動作に移るときに汗で手が滑り、扇が風に吹かれて地面に落ちる。
また失敗してしまったと心の中で舌を打つ。
できない自分に対して怒りと焦りが生まれていた。
「随分と熱が入っているね」
「伯父上」
扇を拾い上げたのは九重寺の和尚で私の伯父である九重八雲だった。
今日は境内を借りて九重神楽の練習をしているところだった。
扇と一緒に渡されたタオルで汗をぬぐう。
気温も湿度も低い冬とは言え、動かした体は火照っていた。
「結界が切れるとは、ずいぶんと荒々しいね。今回は随分と難しい演目なのかい?」
叔父の示す方向に視線を向けると、10m四方に組まれた結界の紐が一部切れていた。地面には梵字の刻まれた10cmほどの木の杭が撃たれ、赤い紐がめぐらされている。
これは朝、溢れんばかりの精霊を閉じ込めるために設置したものだが、私の制御が甘かったため切れてしまった。
精霊はふよふよと私の制御下から離れ、辺りを漂っていた。
「君がここまで練習しなければならないとなれば、随分と太刀川の指導は熱心なんだね」
太刀川とは九重神楽から流派分けをした一派だ。
流石に神楽の練習をするにしても師匠なしではできないため、4代前の舞姫に稽古をしてもらっているのだ。
指導は本家に劣らず厳しいものだが、最近は私の不安定さを見抜かれているのか叱責が多い。
「気持ちを整理してから出直してこいと言われました」
「おや」
私の言葉に伯父が首を傾げた。細めていた眼を開き、私に続きの言葉を求めていた。
「『鬼気迫るものはあるが、何とも人間らしく無様で滑稽である』と言われてしまいました」
「人間らしく無様で滑稽とは、なかなかの言いようだね」
伯父はカカと笑った。
私が演じるのは神の世界。
人でありながら、人らしくあることは許されない。
一切の足音、衣ずれの音、息が上がって肩で呼吸することも許されない。
先ほども砂利の音がしてしまったから、失敗であり、そもそも寒さで白い息になったことも神の所作とは言えない。
「雑念が多すぎると見抜かれてしまいました」
「君の心を悩ませるのは何時だって彼だね」
何処から聞いたのか、はたまた察したのか、伯父は私の現状をよく理解していた。
私と達也の仲は今、何とも言い難い状態にある。
険悪な雰囲気で口を利かないわけではない。
ただ、いつもとは少しだけ距離がある。
鋭いエリカや雫にも見抜かれてしまい、それとなく喧嘩をしたのかと聞かれた。
喧嘩ではない。
分かりきっていたことを私が尋ねて、勝手に自己嫌悪に陥って、神楽の練習にのめり込んだふりをして彼を避けているだけだ。
表面上はいつもと変わりない。それでもどことなく、彼との距離は以前より遠く感じた。
胸の中で渦巻く言葉が喉まで出て押しとどめてしまう。
手を伸ばそうとしても、その手は空を切る。
欲しい言葉は一生かなわないと知っている彼の心の内。
欲張りにそれを私が求めてしまった。彼への想いを自覚してから、聞きたくても聞けなくて、聞いてしまえば思い知らされた絶望。
誰が悪い、というわけではない。
答えられない達也でも、答えを欲した私でもない。
不思議なほど不安定で不確実で、それなのに名前だけは決められた関係に私はいつも不安で臆病だった。
深雪も心配しているし、早く私もこの現状からどうにか抜け出したい。
それでもあと一歩がどうしても怖くて踏み出せなかった。
彼が私に向ける感情が愛情には変わらないとどれだけ自分に言い聞かせても、少しだけでも私と同じ気持ちでいて欲しいという欲が出る。
本当に、自分の心というのは儘ならず、恋愛というものは人の心を惑わせる。
自分の心も上手にコントロール出来なくて、神楽に支障が出るなんてとんだお笑い草だ。
伯父は顎に手を置き、しばし思案した後、私から距離を取り構えた。
「かかっておいで」
「いきなりなんですか?」
この話の流れでどうしうてそうなるのか、意味が分からない。思わず眉をしかめてしまった。
今日は体術の稽古をする予定はない。
この消耗した体で相手をしてもらっても、良いように地面に転がされて終わるだろう。
「八つ当たり上等。君の荒れた心も含めて稽古してあげるよ」
にんまりと笑みを浮かべる伯父に少しだけ呆気にとられた。
何も言わなくても分かってくれる伯父の存在はどことなく兄とも似ていた。
私はタオルを近くの木にかけると、遠慮なく伯父に蹴りかかった。
結果は言わずもがな、気持ちいいほどの惨敗だった。
達也は学校の地下の資料庫に来ていた。
聖遺物の研究資料は第三課のラボで閲覧できるデータベースにあるものは大方集めた。
しかし、それらの資料は既存の失敗実験のデータであり、解明に利用するには不完全といえる。
そうなればもっと古い文献、データにもなっていない図書文献や魔法科高校の秘蔵資料まで幅を広げてみる必要があった。
達也は論文コンペ以前から何度か地下資料庫に来ているが、他の利用者とすれ違ったことはない。
なぜならこの資料庫は利用者が日に1名あるかないかの稼働率だ。
好き好んでこの場に来なくても、授業内容程度の調べものなら図書館のデータベースで事足りる。
部屋の壁際には資料検索用の端末とデータ化された文献の入ったタブレット端末が備え付けられている。空間のほとんどを占めるのは天井まで続く書籍の棚であり、外からの光の入らない地下空間はひっそりと静まり返っている。
紙の書籍を閲覧するための机といすは更にその奥にある。
達也が検索端末に近づいたとき、その先の本棚の間から一人の利用者が顔をのぞかせた。
「おや、私以外にこんなところに来る物好きがいたとは驚きだ」
背はそれほど高くない。腰まである長い髪はずっしりと量もあり、顔立ちは悪くない方だがどこか胡散臭そうに笑っていた。
「行橋先輩ですね」
「そうだよ、司波達也君」
達也は彼女を知っていた。
図書・古典部の元部長であり、古式魔法研究、魔導書研究の分野では有名人だ。
高校生ながら数々の魔法文献の解読、魔法言語学の解析、古式魔法の復刻など研究の数は一高でも随一と言われ、二つ名に恥じない活躍をしている。
しかし本人自体はクセの強い人間のため、一部生徒からは尊敬以上に忌避されている存在でもある。
「なにか?」
達也は自分をただ見ている以上に観察をしているような行橋の視線に疑問を投げかけた。事象改変の予兆もないが、達也を通して何かを見ているような感覚がしていた。
「いや、改めて感じただけさ。【大黒天】の名を持つだけの存在感はあると思ってね」
彼女から発せられた【大黒天】の名に達也は反応した。
「なるほど雅のお目付け役だったんですね」
達也を【大黒天】と呼び、その名を知っているのは四楓院の系列だけだ。
「これでも一応『佐鳥』の一門だよ」
達也の鋭い視線を向けられても本心が掴めない笑みは崩れることはなかった。
「『太刀川』ではなく、『佐鳥』ですか」
「『太刀川』は従兄の方。私はどうも『佐鳥』の血の方が濃く出たようでね。といっても私が読めるのは精々本に残されたものだけれどね」
四楓院家は九重の裏の名前であると同時に、一つの役目を果たす集団の名でもある。九重以外の家はそれぞれ四楓院から与えられた家名があり、『佐鳥』、『太刀川』もその一つだ。
「会ったついでといっては何なんだが、早く雅ちゃんのご機嫌取ってくれないかい。成果が出てなくて本家様に迷惑がかかるんだよ」
大げさに肩をすくめて、行橋はため息をついた。
「ご機嫌取りですか?」
「君の立場上、それは不可欠なんだろう。それに九重神楽がどれだけ繊細でどれだけ演者が心身ともに消耗するか君は承知の上で何時までも現状のままでいるのかい」
行橋は達也との距離を詰めた。
達也はその場から動かず、行橋はつま先がわずかに離れているだけの距離に近づき、達也の顔を下から覗きこんだ。
「千代様が結ばれた縁に文句を言うつもりはないけれど、君の妹と同じく雅ちゃんも人を惹きつけることを忘れてないかい」
目と口に弧を描き達也に迫る行橋に対して、達也の表情は微塵も変わらなかった。
第三者が見たら今にも唇同士が合いそうな距離であり、しばらく二人の間は無言で見詰め合っていた。
「・・・・それじゃあ、頑張ってくれたまえ」
行橋はそれだけを言うと、踵を返し、一度も振り返ることなく地下資料庫から出ていった。
その日の夜、リビングで達也はWebニュースを眺めていた。
コーヒーをテーブルに置き、次々とページを進める様はさながらビジネスマンのようだが、どこかいつもより真剣みが足りない。
おそらく第三者から見ればさして変わらない無表情だが、そんな表情に気が付くのは何時も通り彼女だった。
「お兄様、いい加減にしてください」
秀麗な目元を吊り上げ、声はいつにも増して刺々しいものだった。
深雪は淹れたばかりのコーヒーの載ったトレーを心なしか乱雑に置いた。
机の上に置いてあったものは既に冷めきってしまっている。
いつもの達也なら冷める前に飲みきってしまうのだが、今日はほとんど口を付けられていなかった。
深雪の剣幕に達也は少したじろいだ。
「どうしたんだ」
「悠お兄様から事情は聴きました」
「雅ではなく、悠さんから聞いたのか」
達也は小さくため息をついた。
どこまでも見通す【千里眼】が達也と雅の微妙な距離感を知ることなど、労力とは感じないほど容易いことだろう。
飄々としていている割に、雅には兄として優しく厳しい悠だが、深雪にはめっぽう甘い。それこそ猫かわいがりしていると言っていいほどであり、今回の一件も二つ返事で答えたのだろう。
「お姉様はきっと教えてくださりませんから。今回の一件はお兄様が悪いことはご理解していらっしゃるのでしょう」
深雪は達也が座っていた二人掛けのソファーの隣に座った。
「お兄様、お姉様の愛情に甘えないでください。お姉様がいかにお兄様を大切に、お兄様だけを想っていらっしゃることを深雪は誰よりも知っています。お兄様もお姉様が大切なのではありませんか」
「俺は、深雪以外を大切にできない。そうできている」
達也は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
淡々と事実を述べているようで、その瞳は揺らぎを見せたりはしなかった。
「嘘です」
だが、そんな達也の言葉を深雪は一蹴した。
「深雪は知っています。お兄様がどんな目でお姉様を見ているのか、誰よりも一番近くで見てきました」
深雪は二人の様子がいつもと違うことに気が付いていた。
深雪の前ではいつも通りに見せていたが、その距離が遠いことに深雪は疑問を感じた。
雅は何もないと誤魔化してしまうだろうからと、悠に連絡を取ってみればあまりにも達也が酷いことを言っていたので、深雪も腹を立てた。
兄の鈍さに対して深雪は呆れる以前に、姉を悲しませたことに怒りを抱いていた。
「お兄様にはお姉様しかいらっしゃいません。
私でも、お母様でも、叔母様でも学校の友人でもありません。
お兄様が女の子としてお姉様を大切にしたいと思っているのが、どうしてわかりませんか」
「だが、俺にはその資格がない」
深雪の指摘に達也は小さく首を振った。
彼自身、雅が自分の事を想っていることは十分知っている。
知っているからこそ、不誠実に『好き』だとは言えなかった。
自分は母の魔法によって妹しか強い感情を、愛情を向けることはできない。
達也には雅を大切にしたいと思いたいと思うことはできても、雅と同じ気持ちだと言うことはできない。達也の胸の中に渦巻くチリチリと焦げるような感情はきっと不甲斐ない自分への憤りだろう。
「お兄様、人を愛することに資格なんていりません」
深雪はそっと達也の胸の中心に手を重ねた。
「お兄様はお姉様が大切なのです。九重だから必要だと利己的に感じるまでもなく、お兄様が友愛や信愛と感じていらっしゃる以上に、お姉様を想っていらっしゃるのです」
深雪の言葉を達也はどう解釈するか、判断しかねていた。
前提として達也は雅を愛せないようにできている。
なのに、深雪はまるで達也が雅に好意以上の感情を持っているように語る。
確かに達也にとって雅は特別だ。
その特別が意味する言葉は単に婚約者だからという訳ではない。
だが、愛しているかと問われれば、分からないと達也は答えるだろう。
不確実な名前の付けられない感情が達也の中に渦巻いていた。
--司波家地下室--
地下二階分を丸々魔法演習用に改造したこの部屋の中で、雅は舞っていた。
裸足の指にはテーピングが巻かれ、所々血が滲んでいる。
額からは滝のように汗が流れ、黒い髪を濡らしている。
息が切れるほど、動き続けているのに足音も衣の靡く音も一切しない。
サイレント映画のように静寂の支配する空間は術者を彩る空間だった。
無音の中で舞に合わせて光波振動系魔法が空間を極彩色に飾る。激しい動きにもかかわらず、優美さの薄れることのない舞は完成にほど近い状態だった。
扇を指で遊ばせ、空中で一回転させる。
再び指で扇を掬おうとしたが、汗で扇子が床に滑り落ちる。
扇の落ちる乾いた音が空間に響く。
途端に空中に展開されていた極彩色も消え、辺りは無機質な部屋に戻った。
雅は苦々しく眉をひそめ、ため息を吐きながら扇を拾い上げた。
一旦集中力が切れれば途端に感じる疲労。
魔法の連続使用はその強度にもよるが、肉体的な動作を伴うとなれば魔法力をより消耗をさせる。
小さいころから放課後、土日もほぼ稽古に費やしている雅は人より魔法を使い続けることに慣れている。だが類まれなる魔法力を持つ九重の家系でも、神獣、神を演じる舞は一握りの演者にしかできない神業だった。
雅は持って来ていたタオルで汗をぬぐうと、そのまま壁に縋って座り込んだ。
今年が終わるのもあと少し。期末試験も控えた今、並行して神楽の練習をすることは体力的にも厳しいものがある。
目をつぶってしまえば、このまま眠ってしまいそうになる気がした。
雅は頭からタオルをかぶり、深く息を吸い、吐き出す。
焦っているのは雅自身分かっている。
ここまで舞うことができないとは舞の難易度以上に精神状態もよろしくないのだろう。師にも叱責され、時間も迫る現状は雅の精神をすり減らせていた。
どうにかしなければと思いながらも、きっと達也に謝ったところで心が晴れるわけではない。達也から謝られてもまた惨めになるだけだ。期待して、舞い上がって、自惚れて、勝手に落胆して、そしてまた期待する。
どれだけ同じ気持ちになることはないと理解していても、心の奥底では僅かな希望に縋っていた。
何時か優しく私の手を取ってくれる時があるのではないかと、何時だって憧れていた。
多くは望まない。
そう決めたとしても、たった一言で決意を揺るがされる。
なんと弱く、脆い心だろうか。
これだけ雑念が多すぎるのだから、みっともない舞になってしまうのだと再びため息をついた。
「雅」
不意に肩を叩かれ、顔を上げる。
「え、達也?」
雅の目の前には達也が心なしか心配そうに顔を覗き込んでいた。
普段の雅であればこれほど近くに来なくても気が付くはずだが、思考の海に浸っていたせいで気配に気が付くことができなかった。
「そろそろ12時を回る。」
「あ、もうそんな時間なの?」
壁に設置されたデジタル時計を見れば、あと10分ほどで日付が変わろうとしていた。
稽古のためにこの部屋に入ったのが夜の10時より前の時間だから、2時間近く踊り続けていたことになる。
「熱心なのはいいが、怪我をしては元も子もないだろう」
雅が足の指先を見ればテーピングから滲んだ血が擦れて床に広がっていた。出血量自体は酷くないが、練習に練習を重ねた足は血豆ができてはつぶれていた。
練習のしすぎでボロボロになった足を見られるのが恥ずかしく、雅は裾で足元を隠すように立ち上がった。
「ごめんなさい、直ぐにきれいにするから」
「いや、怪我の手当てが先だ」
掃除をすると言う雅に達也は有無を言わせず、腕を取った。
「でも」
「踊っていた時は気が付かなくても、今は相当痛いんじゃないか」
「歩けないほどじゃないから大丈夫よ」
「ダメだ」
何時にもなく強い達也の語気に押されるようにして、雅は大人しく首を縦に振った。
シャワーで汗と汚れを洗い流し、雅はリビングへ向かった。
着替えは深雪が用意しており、今回の一件も深雪が達也に何か言ったのだろう。
相変わらず気の利く妹に感謝しつつ、着なれた寝巻用の浴衣に袖を通す。
髪を乾かしリビングに向かうと、達也が待っていた。
雅は自分で手当てをすると言ったのだが、達也が譲らず、恥ずかしながら手当を受けている。
雅はソファーに座り、達也が足に新しい包帯を巻いている。
達也も雅も口を開かない。
深雪は部屋にいる様で、二人以外の物音はしない。
「きつくないか」
「ええ、ありがとう」
達也の性格を表したように綺麗にまかれた包帯はぴったりと雅のつま先から足首まで包んでいた。
指先の血豆が潰れただけでなく、寒さでかかとまで切れていたため足首まで包帯を巻かれていた。
一応、この家にも救急箱というものは置いてある。
達也も雅も九重寺で鍛錬をすれば当然、打ち身の一つや二つする。
それを甲斐甲斐しく手当てするのが深雪の日課になっており、意外と使用頻度は高い。
達也が救急箱を片づけるために立ち上がると、雅は達也の背に抱き付いた。
「そのままでいいから聞いて」
突然のことに振り返ろうとした達也を雅は静止した。
達也は大人しく、雅の言葉を待った。
「深雪以上に私を守って欲しいとか、私を大切にしてほしいだなんて言わない。少しだけ、少しだけでいいの。貴方の心を頂戴。貴方を想うことを許して」
雅に許されるのはそれだけだ。
達也は深雪を守ることから逃れられない。
深雪以外に心を割くことは、彼にとってはできない。
達也にとって他人とはいれば物事がうまく進む便利な存在で、最悪世界に深雪さえいればいいのだ。雅だって深雪を守るためにはこの先必要となる後ろ盾だ。
それを理解しているから、達也は雅を拒絶できない。
雅はそれを理解して、利用している。
割り切ることのできない恋という厄介な感情を達也に抱いてしまったその時から、雅はずっと叶わない想いを抱き続けている。
「雅―――」
「謝ったら怒るよ」
達也は再び口を噤んだ。
達也の胸に渦巻く感情が愛着なのか、執着なのか、それとも独占欲というものなのか。
今の達也には判断できなかった。
雅は達也の服をそっと離した。
達也は雅と向かい合う。
雅は泣きそうに笑っていた。
何度も見てきたこの顔は達也の胸に小波を立てる。
達也は雅を腕の中に抱きしめた。
「達也?」
「―――俺は、雅を大切にしたいと思いたいし、大切だと言いたい」
絞り出すような声だった。
生まれてから今まで過ごしてきた年月は達也の中で雅を特別な位置に据えていた。
家族でもなく、妹でもなく、友人でもなく、知人でもなく、敵でもなく、雅に抱く感情と同じ相手はいない。
降り積もった雪のように大地に少しずつ染み渡り、達也の感情の奥底に集っていた。
だが、彼の運命はそれを許さない。
彼がそう思うことを許していない。
与えられた役目から逃げ出し、自分で未来を選ぶだけの力も立場も全て足りない。
それは彼自身が誰より自分に言い聞かせてきたことだった。
雅は達也の背に手を回した。
細く見えてしっかりとした背中は大きなものを背負っていた。
その重みを分け合ってほしいと願って、雅は何時もその手を伸ばしていた。
「今はそれでいいよ。達也の一番は深雪だもの。私の一番は、私の唯一の想いは達也だけにあげる」
伊達に雅は何年も片思いを続けてきたわけではない。
何度も叶わない想いだと現実に打ちのめされても、雅にとっては何より譲れない想いだった。
「いっそ雅も妹だったら、心から大切にできるのにな」
「私は兄と結婚だなんてイヤよ」
くすくすと笑いあう二人にはいつもの雰囲気が戻っていた。
「ねえ、達也。一つだけ我儘言っても良い?」
「なんだ?」
「デートしましょう。私と達也だけよ」
出かけるとなれば大抵3人でのことが多い。
雅と深雪で出かければあちらこちらから声を掛けられるため、二人きりの外出は控えている。
達也と雅でデートらしいデートをしたことは数えるだけしかない。
「喜んで」
「約束よ」
背中から手を離し、二人は手と手をからめた。
世界は二人に優しくない。
それでも優しい現実を作り出すことはできるのだ。
日枝神社初詣
年明けの空は晴れ晴れと澄み渡り、青い空が広がっていた。
初詣を迎える神社は人で一杯だった。
賑やかな露天の店に振り袖姿の艶やかな女性たち、受験合格を祈る学生と親など、思い思いの願いを持つ人たちで溢れていた。
達也と深雪は一旦、九重八雲と小野遥と合流し、都内にある日枝神社に向かった。
鳥居の下ではエリカ、レオ、美月、幹比古、ほのかが既に待っていた。
雫は年明けに控えた留学準備と家の関係で欠席。
雅は終業式が終わった時点でクリスマス会にも出られず、京都に里帰りをしている。
「わあ、深雪さん。素敵ですね」
「ありがとう」
美月は開口一番にそう言った。
深雪も達也も一目で一点ものの高級品だと分かる。
着物も比較的安価で作られるようになった現代では、洗える着物や化繊の着物もあるため日常的に和装を好む人もいる。
しかし、晴れ着と呼ばれる振袖は今でも職人の手作業の品が多く、深雪も当然その類だった。
赤の艶やかな色合いは黒い髪とよく映えており、同じく振袖を着て気合を入れてきたほのかが気後れするほどだった。
「達也、あけましておめでとう」
「今年も、よろしく頼むぜ。なんか達也はどっかの若頭って感じだな」
幹比古とレオが達也の立ち姿を見てそう言った。
黒染の紋付羽織は確かに達也の風格を見れば、少なくとも10代には見えなかった。
「あけましておめでとう。エリカも幹比古も良く来られたな」
「雅の名前を出したら一発だったわ」
「僕もそんな感じだよ。流石に九重神楽の観覧に誘われて断るだけの行事ではないからね」
終業式の時点で雅から日枝神社で行われる九重神楽の観覧券が配られていた。
販売は一切せず、身内だけで配り終えてしまうという貴重な観覧券はプレミアが付いて50万円で取引されることもある。最も、オークションに出された物は全て廃番であり、受付で涙を呑む者も少なくない。
幹比古もエリカも正月は実家の用事に引き出される予定だったが、九重からの招待の方が優先順位は上だった。幹比古に至っては正装しなくていいかと親に心配されたほどだった。
達也は友人たちに八雲を紹介し、本殿に参拝した後、神楽の特設会場へと向かった。
途中、一昔前のギャルファッションに身を包んだ金髪碧眼の美少女に達也たちは見られていたが、物珍しさだろうと余り気には留めなかった。
日枝神社で九重神楽が舞われるのは今回が初めての事だ。
流派分け自体最近の出来事であり、披露できるだけの楽師と演者の確保は至難だったらしい。
本殿からそう遠くない位置に設けられた神楽の舞台は四方を塀と門で囲まれ、外から様子は窺い知ることはできない。
巫女服姿や浅葱色の袴の男性が門の手前で受付をしている。
「おや、あけましておめでとう。九重和尚に司波達也君一行」
「やあ、祈子君。板についているね」
「私も手伝いをしないわけにはいかないからね」
長い髪を髪紐で結った受付の女性は達也たちも知る行橋だった。
「小野先生は引率ですか」
「まあ、そんなところよ」
遥は自分が司波達也一行に加えられたことが気に食わなかったが、表だってそれを言うことは大人の矜持としてなかった。無論表情には出ていた様で、行橋は笑みを深めていた。
「観覧券を拝見します」
今時珍しい紙のチケットを一人ずつ渡し、行橋はそれを一枚一枚確認すると、7人を中に通した。
「行橋先輩はバイトなのか?あの人受験生だろう」
レオは受付を振り返りながら言った。
「京都の九重とは遠縁で、祈子君の実家がここだよ。大学からの推薦も来ているようだから、そうそう受験でしくじることはないはずだよ」
「へー、やっぱすごい人なんだな」
レオの疑問には八雲が答えた。
一部からはオカルト魔女と呼ばれている行橋だが、成績優秀なのは後輩の耳にも届いていた。
会場の観覧席はおよそ150席
舞台の広さは5間(1間=約1.8m)四方の床に朱塗りの柱が設置されている。
屋根は通常の神楽殿より随分と高く、黒い瓦に覆われている。
舞台奥の一面だけ壁があり、楽師が位置するための五色の垂れ幕と敷物が設置されている。
正面に100席、左右に25席ずつ設けられており、達也たちは正面の最後尾の位置だった。
段差がないため見えにくいかもしれないが、人がそれほどいるわけでもなく舞台の高さもあって支障は無さそうだった。
時間が近づけば続々と席は全て埋まった。
大物政治家、大企業の社長など年始だというのに、政財界の有名人が揃っていた。
当然、達也達ほどの年齢層はいない。物珍し気な視線を送られるも、深雪の美貌を一目見るや納得して席に着く者が多かった。
開園時間が近づき、楽師が舞台後方に着くと観客たちも静かに待機をする。始まる前に携帯のマナーモードと観覧のマナーをお知らせするのは、100年前の演劇でも変わらないことだった。
まず初めに可愛らしい巫女服姿の幼女たち4人が神楽鈴を持って、シャンシャンと鈴を打ち鳴らし、円を組み神楽の舞台を回る。
太鼓と笛の音に合せて鈴が鳴り響き、巫女姿の幼女が舞う姿は健気で愛らしい様子だった。
だが、ここまでは前座だ。
場を清めるための余興に過ぎない。
幼女たちが去ると、登場したのは蘇芳色の狩衣に白い袴、黒い烏帽子の男性。顔は額の位置から白い布で隠されており分からないが、背はすらりと高い。
舞台に立っているその姿だけで息を呑むように空気が張り詰める。
楽が始まると男は懐から扇を取り出した。
広げた扇は金箔が施されているが、柄は特に描いていない。
男がそれを近くに植えられた梅の木にかざせば途端に梅の絵が浮かび上がる。
それを客席に向かって一振りすると梅の香りと共に、赤と白の二色の梅が風に流れて扇からあふれ出ているようだった。
「綺麗…」
「梅の花?」
美月とほのかが手を伸ばすと確かに梅の花が手に載っていた。
ゆったりとした舞と共に風に吹かれ、梅の花が舞う。
まるで風を操っているかのように静かに美しい舞は晴れた空によく映えていた。
優雅に時に力強く舞台を踏み鳴らす様子は神楽を初めて見る者にも歓心を抱かせていた。
飛んだり跳ねたり、歌舞伎や狂言のような荒々しさはない。
それでも楽に合わせて翻る装束の美しさや、洗練された動きは見る者を魅了した。
風を自在に操り、花と流れるように優美に舞う姿は顔の見えない神秘さも相まって、美丈夫を想像させた。
10分にも満たない舞を終えると、観客たちは拍手を送る。
魔法に反感までとはいかないが、得体の知れなさを感じていた者も素直に舞台の見事さに魅入られていた。
だが、観客の拍手を打ち消すかのように琵琶と銅拍子の音が高々と空に鳴り響いた。
舞台上の男が足を止め、太陽の上った東の空を見上げる。
釣られるようにして観客たちもその方向を見れば、何かがいた。
飛行機でも鳥でもない。
太陽からこちらに駆けてくる何かがいた。
眩しさに目を細めながら観客たちはそれを注視すると、なにか白い動物の様だった。
その姿がはっきりと視認できるほどになれば、観客は息を呑んだ。
長い
神々しいまでに日を受けて輝く毛並は白銀と呼ぶにふさわしく、ゆったりと空を駆ける様は神々しく、頭上から見下ろすそれはまさに神の使いの様だった。静寂が場を支配する。
魔法師たちの中には圧倒的な想子の輝きに、目を塞ぐ者もいた。
観客の中にはその獣が何と呼ばれているか知る者もいた。
「白澤…」
幹比古は震える唇でそうつぶやいた。
鳳凰、麒麟などと共に徳の高い為政者の前に現れると言う霊獣は観客たちにはわき目もくれず、舞台に音もなく降り立つ。
舞台にいた男はゆっくりと膝を折り、頭を垂れる。
白澤は金色の目を細める。
その鼻先を男の額に付けた。
途端に光が会場に満ち溢れ、観客たちはあまりの眩い光に目を押さえた。
光が収まるとそこに現れたのは全身真っ白の狩衣姿の男だった。
額にも赤く目が描かれており、魔除けを施した赤い目元に白さの際立つ美貌。額には白く伸びた角もある。
切れ長な瞳は伏しており、ゆっくりと瞼を開ければ瞳の色は金色だった。
人ならざる容姿と人ならざる雰囲気。まるで霊獣が乗り移ったかのように、その男は人離れしていた。
男が一歩踏み出せば板張りの舞台に植物が芽吹き、扇を振れば梅の花が風に舞う。
衣を振れば極彩色の光が溢れ、白い着物を染め上げる。
雅楽に合せて舞う姿などまさに圧巻。
ゆるりとした動作で地面に落ちた梅の花を拾えば鶯に変わり、それに息を吹きかければ鳳凰となって空に飛び立つ。
舞台を踏めば地面から野兎や狐、狸、リスや鹿が現れる。
一切の衣ずれの音がしない。
息遣いさえ聞こえない。
足音すら近くにいる観客も聞き取れない。
楽の音に消されているのではなく、文字通り動作に音が伴っていなかった。
動きこそ優美でゆったりとしたものだが、その動作一つにも何かが起こる。
何もない空中に腰かけてみたり、何もない宙で舞ってみたりと音に合わせて動作が彩られていく、
先ほどの静かな舞とは一転、華々しく豪勢な舞は人々を唖然とさせた。
これはなんだ。
これは人であるのか。
これはまさしく神ではないのか。
観客達は息の仕方も忘れたかのように、舞台から視線を逸らすことができなかった。
人ならざる美しき者に呼吸も忘れ、観客は見入っていた。
目を疑うような幻想的な情景に魅入られていた。
一瞬、蕩けるようにその神が笑う。
花が綻ぶように、春を運ぶように、生命が芽吹くように、その微笑み一つで世界が変わる。
心臓を射抜かれたかのように観客たちは打ち震えた。
ああ、これが九重神楽。
神への奉納ではなく、神が舞う神楽なのかと夢心地に舞台を見上げる。
幻想的な風景も、長くあったとしても感覚としては一瞬。
その場に慌ただしく槍を構えた兵士たちが登場する。
兵士たちがやんややんやとはやし立て、その男の周りを取り囲む。
男は優雅に扇で口元を隠す。
囲まれてもその笑みは崩れなかった。
司令官が軍配を振ると槍をもった兵士たちはいっせいに男を串刺しにしたかに見えたが、男の場所からは梅の香とともに一陣の風が吹き抜ける。
男達が風に煽られ、舞台に転げると、男のいた場所には扇だけが残されていた。
一人の兵士が司令官にその扇を差し出した。
それを開けば、無地だったはずの扇にはいつの間にか白澤が描かれていた。
観客は無言だった。
いっそ、手品だったと言われればよかったのかもしれない。
いっそ、これは夢だったと笑われれば良かったのかもしれない。
だが、紛れもなく目の前で起きた極彩色の光景は現実だった。
これが九重神楽。
これが神の系譜に連なる者たち。
周りが呆気にとられる中、達也と八雲は拍手を送った。
その音に釣られるようにして一人、二人と拍手を送る。
舞台は折り重なるように拍手が響いていた。
「すごいわね」
「圧倒されちゃいました」
エリカとほのかが拍手を送りながらそう言った。
観客の中には拝む人の姿や涙を流す人の姿もいた。
前回の菊花水霊祭の時と同じく、美月と幹比古も涙を浮かべていた。
感受性の強い二人にはまた違った世界に見えていたのだろう。
「白澤までできるようになるとは彼女も腕をあげたね」
「彼女?」
「女性だったのですか?」
八雲の言葉に遥と深雪が反応した。他のメンバーも演者が女性だと気付いておらず、驚いた表情を浮かべていた。
八雲はにっこりと達也に笑みを向けた。
「達也君は流石に気が付いただろう」
「雅ですよね。京都にいるはずでは?」
明らかに雅には見えなかった。
男女を越えた神々しいまでの美貌と華奢ながらも背の高い男性を想わせる背格好は女性には見えない。あれほどまで美しい男がいるのも驚きだが、あれほどまで男に見せる技量も並はずれていた。
「太刀川の次男坊が疲労骨折で降板したんだよ。急な代役を務められるのが彼女しかいないだろう」
京都でも同じく九重神楽が行われている。
雅は京都で昼の舞台に出演予定だと達也たちは聞いていたが、どうやら京都の方でも代役を立てたらしい。
「本当に神様みたいでした」
夢心地で美月が呟き、皆それに頷いていた。
「神獣まで舞えるのは九重でも片手の人数だ。今回は危ぶまれていたけれど、どうやらちゃんと調整してきたみたいだね」
八雲の笑みはニマニマと達也に向けられていた。
魔法の行使は精神状態と関わっている。
達也との一件が片付いたことで雅も心理的に安定していたため、舞えるようになったとも言える。
居心地の悪さを感じて、達也は演目も終わったから会場から出ようと声を掛けた。事情の分かっている八雲と深雪は目を合わせてくすりと笑みを深めたのだった。
美月はしばらくは茫然としていたが、友人たちと解散する時には既に夢心地から覚めていた。
美月は自分の部屋に帰り、椅子に座った瞬間、ふと思った。
観客に向けられたあの笑みは、きっと達也に向けられて微笑んだものではなかったのか。
天上の美しさを凝縮して、泉のように慈愛に満ちた、幸福が溢れ出すような笑みだった。
そうだとしたらなんて綺麗な顔で笑うのだろうか。
格好は男の姿でも男性も女性も魅了してしまう、そんな笑みだった。
恋をすると女性は美しくなると聞いた。
それはホルモンの働きであり、本能的な部分で魅力が上がるのだと言う。
愛されると言う幸福はどれほどその人を輝かせるのだろうか。
美月は気が付けばスケッチブックと鉛筆を手に取っていた。
人はあれだけ美しくあれる。
美月はその衝動を胸に真っ白のキャンパスに向かった。
『愛している』とは言わずに、
『好き』とは言わずに、
あふれ出る愛しさを言葉に出来たら素敵だと思います。