――――西暦2022年2年28日。東京――――
海軍省の地下。地下鉄へと向かうための連絡線を引き込む形で設けられた特設のプラットホーム。飯田の前を歩く大迫の姿を認めた者たちが次々と教科書通りの敬礼で海軍幕僚長を迎えた。大迫は答礼しつつ、近くの軍人――階級章は大尉を示している――に声をかける。
「ご苦労、いつ出せるんだ?」
「後七分ほどだそうです、なんでも遅れているそうで」
適度に照明が抑えられたこの空間には、二両編成の短い車両が待機している。見た目は通勤形車両の二階建て車両と同じだが、要人輸送かつ有事の際の指揮所にもなりうるこの車両にはいくつかの改良が施されている、らしい。らしいというのは、そもそもこういった車両を使うことはないからだ。
ともかく、十人ほどの軍人が段ボールを列車へと積み込んでいく。機密資料というよりかは直近で最低限必要と考えられる資料だろう。統合幕僚会議が統合幕僚本部のある府中でなく入間で行われるとなれば、追加で持参しなければならない資料が増えるのは当然だ。飯田は念のため資料の入った鞄を再確認する。地上勤務のほうが断然多い飯田にとって、弾丸というのはこの
そして大迫海軍幕僚長はその車両の中へと。飯田もそれに続く。ゆったりとスペースの取られた車内はやはりグリーン車の流用らしく、穏やかな色合いの灯で落ち着いた雰囲気が演出されていた。
まるで旅行にでも行くかのようだ……そんな考えが脳裏をよぎり、それにしてはあまりに物々しい旅行だと考えを打ち消す。
「飯田は、これに乗るのは初めてだったな」
「はい」
存在は知っていたが、実際に利用することになるなど思ってもみなかったことだ。
「
大迫の話を聞きながら、飯田は徐々に身構え始めていた。さして重要でない話をやけに長い枕とするのは彼の癖だ。
「……閣下も、ここを使われるのは初めてなのですか?」
それも、重大な話をするときに限っての癖だ。海軍幕僚長は身一つ動かさず次の言葉を放つ。
「ああそうだ。二機艦所属の「雷」が――――
「……!」
その言葉は、いやに自然に、また異様な静けさをもって大迫海軍幕僚長たる大将の口から放たれた。飯田への招集はその直後。つまりそういうことだったのだ。
何も返しまい。何も返せまい。飯田はその言葉をそのまま受け止める。駆逐艦「雷」。村雨型七番艦。今はただ、それ以上でもそれ以下でもない記号。
飯田が言葉を返すことを想定していないであろう大迫は、そのまま淡々と飯田に情報を伝える。
「現在、この事実を把握しているのは二機艦と
データリンクを切らせていたのか。飯田は驚きの目線で上司の横顔を見る。
号令と同時に一気呵成に敵防空網を打ち破る空母機動艦隊。防衛部隊ではなく攻勢部隊という位置づけにあるこの艦隊を日本は見せないことにこそ価値があると考えている。しかしこの時代において姿を見せずに大艦隊が移動するなど不可能なわけで、データリンクを切るリスクはデータリンクを用いるメリットとは比べようもない。それは自らを暗闇に投じるということで、まったくもって悪手なのであるはずなのだ。
だが、それを目の前の海軍幕僚長はわざわざ二機艦に指示していたのだというのだ。いくら派遣先が沖縄沖とはいえ、派遣名目はSEATO諸国の関心ごとである昨今の貨客船破壊を防ぐため……データリンクを行わないことで痛くない腹を探られることになるのは明白だろうに。
「大迫閣下。それで、国内の情報共有の方は……」
「安心しろ、すでに藤巻統幕長がやっていてくれている。統幕本部に管轄が移った時点で首相に指示を仰いで、外務省を通じて同盟諸国に伝達される手筈になっている」
つまり、今頃は総理の耳にも伝えられているということ。それを聞いた飯田は安心した。大迫大将は必要と判断すれば割と無理のある進め方をすることがある男だが、流石に国内にまでリンクを切っているということはなかったようだ。
「失礼しました」
その言葉を待っていたかのようにブレーキの解除音が聞こえ、列車はアナウンスもなく走り出した。
――――西暦2022年2月28日。埼玉――――
軽武装とはいえ屈強な兵士。彼らが退くことで重厚な扉――当然、核爆発の直撃を想定したものだ――への道が開かれる。普段なら閉まっている扉であっても、これだけ多くの人員が出入りするとなれば一々開け閉めするわけにはいかない訳で、観音開きの扉は右側だけが開け放たれていた。
「海軍幕僚長、入られます」
その言葉で道が開ける。複数の影が敬礼し、それに返す大迫。飯田は続くようにして並走してきた尉官へと声をかける。
「どこだ?」
「現時点では何とも。少なくとも同盟諸国ではなさそうです」
「そうか、捕捉はしてるんだな?」
「はい」
「よし、そのデータ回せ。閣下」
飯田の言葉に、大迫は頷かずに答える。
「聞いていた。統幕長はもう来ているのか?」
「第三会議室です」
追加された問いに答えたのは別の人間だ。大迫が歩いた道筋に、海軍幕僚長という役職を支えるべく飯田を始めとする何名もの将校が付き従ってくる。本来集まるべき情報が――これまで見られなかった分余計に――集約され、あるべき一点へと集中していく。
「
歩きながら言葉を紡ぐ大迫。続く形となる飯田の頭上が急に開けた。そこは二階分ほどありそうな高い天井の広々とした空間――――第一統合防空指揮所、『一防』の中枢へと入ったのだ。
あちらこちらにモニターやコンソールが設置され、各要員がそれに張り付いているこの施設は、重厚な扉や彼らの会話からも分かる通り核戦争を想定して作られたもの。仮に帝都東京が核の雨に晒されようと……各地に展開する軍に反撃命令を、そしてその後も軍を、政府を維持できるようにするための施設。もはや東西の宥和が叶ったためにその本領を発揮する瞬間は来ないだろう――というか、来たら困る――が、今日もこの国の安全保障を支える情報集約施設の一つとして機能し続けている。やけに首都から離れているのが玉に瑕ではあるが……。
「それにしても閣下、この様子ですと」
しかし飯田の視界に入ってくるのは平時の指揮所としての風景ではない。段ボール箱が台車により搬入され、明らかにこの場所に慣れていないであろう将校たちがあわただしく歩いていく。海軍省とは異なる空気であった。
「ああそうだ。すでに統幕長は防空警戒態勢を空軍向けに発令している」
「もう3ですか……」
防空警戒態勢。それは統合幕僚本部が設ける核戦争への、そう、
だが、大迫は表情も動かさず言った。
「
沖縄と言えば自衛空軍の設立理由でもある
しかし、なぜ沖縄が……危うくそう言いかけて飲み込む飯田。そう、その戦術には現実味が皆無、というか戦略性が皆無なのだ。なるほど沖縄は
何が目的だ?
そしてその問いに答える者はいない。飯田は自らの上司の前に出ると、第三会議室の扉を開けた。大迫がそこに入るのを見届けてから飯田も中へと入る。
第三会議室は会議中というより物事を整理している段階に見えた。薄暗いテーブルにいくつもの資料を広げ、座ることなく議論を交わす幕僚たち。その中で唯一座る男。
その男に対して、大迫が直立をとった。
海軍大将、いや海軍幕僚長たる海軍大将である彼の上位はなかなかいない……特にこの場においては統合幕僚長たる陸軍大将、藤巻統合幕僚長ただ一人である。全自衛軍をその指揮下に収めることもできる男は、陸海空から均等に選ばれた幕僚たちの議論にじっと耳を傾けていたが、大迫に気づくや否やそちらにじっと目を向けた。
「海軍幕僚長ただいま参りました。遅参の旨、お許しください」
大迫の敬礼に、ゆるりと答礼する藤巻統合幕僚長たる陸軍大将。表情筋をわずかに動かしながら大迫に言葉を返す。
「いやなに、私も今しがた到着したところだ……現場への指示はどうなっている?」
「すでに第二機動艦隊には戦闘配置が発令されています。また即応性が求められることから、連合艦隊は現在第四番作戦に基づいて作戦行動を開始しています」
そう大迫が言うと、やや顔をしかめる統幕長。
「それはつまり、海軍としては交戦状態に突入したという意味か?」
大迫は飯田に目配せ。どうやらそういう意味ではないと説明しろとの命令らしい。飯田は一歩前に出ると、それから口を開いた。
「いえ違います。第四番作戦は東シナ海にて開戦のリスクが非常に高まった際の事前行動であり、目的は戦力の集結です」
とはいうが、この作戦を発動すること自体が海軍に交戦状態に突入したも同然の緊張を走らせることになる。統幕長の言い方はあながち間違っていなかった。
「補佐官、こちらが資料になります」
尉官が運んできた紙媒体はまだ僅かに熱を帯びており、印刷されたばかりであることが伺える。内容は第二機動艦隊の哨戒機による観測、その詳細だ。「雷」を沈めた戦力は現在、沖縄沖に潜伏中。地底の振動と思しき音は確認されるがスクリュー特有の音紋を確認することはできずとある。スクリューを使わないならば……ウォータージェットか何かだろうか? いや地底の振動と併せて考えると水圧に耐えられる戦車のようなものを想定するといいかもしれない。ソビエトの戦車は単独での渡河能力を持つのだ。
「ありがとう、あと二機艦の艦載機の状況を」
「はっ」
敬礼を返して薄闇へと消えていく尉官。
こういった場所では将官である大迫に定位置などは存在せず、それは彼を補佐する飯田も同様だ。彼らは人の行き交う指揮所の適当な位置に陣取り情報収集の体制を整えていた。現代戦においての情報は水よりも流動性が高い。おかしな例えかも知れないが、
余裕を見せるように佇む大迫の横で飯田はもたらされた資料を読む。それは今回の件に関する事象が時系列順に纏められたもの。その資料によれば、ことはいきなり「雷」から始まったのではなく……第二機動艦隊の哨戒機が「砲撃を受けた」ところから始まっているらしい。
砲撃? 砲撃だと? つまり我が軍の哨戒機は砲撃を受けるような位置まで近づいたというのか? しかし哨戒機を砲撃する意味など果たして意味があるものだろうか。そして哨戒機が撃墜されていないのもまた、驚きである。砲撃を受けるということは恐らく待ち伏せを受けたのだろうし……。
だが、それでは話が合わないのである。砲撃を行うということから相手は水上艦、しかも待ち伏せできるような仮装巡洋艦――卑怯な戦術だが、ソビエト・ロシアでなく人民共和国ならやりかねない――に違いない。しかしその通報を受けて向かったのなら、なぜ「雷」は沈没せねばならなかったというのだ。しかもこの書類には、僚艦と二隻で向かったとある。もう一隻はどうなったというのだ。反撃は?
――――だが、それよりも大きな問題がそこにはある。
「……大迫閣下」
「なんだ」
飯田の言葉に大迫は顔も向けずに応じる。指揮所の照明は控えめで、動きもしない彼の姿は周りから見れば普段通り頼もしく、彼をよく知る飯田にしてみればその微動だにしない様子は不気味でもあった。
「今回の件は、今現在も断続的に発生している貨客船への破壊行為の延長線上の事態……という解釈でよろしいのでしょうか?」
恐らくは、それはこの場に居合わせる人間全員の疑問であろう。南シナ海で多発している貨客船の遭難、それも事故調査委員会が「攻撃」と断定するほどの爪痕をはっきり残してのだが生存者は残さない容赦ない破壊活動。最近は被害が東シナ海の方へと徐々にだが動き始め、第二機動艦隊の派遣もそれが理由の一つとされているのだ。
「数週間前より潜水艦司令部よりいくつかの不確定な情報が上がっていた。その状況でこの事態だ。なんらかの目的があっての行動だろう……海軍幕僚部としては、これがいかなる勢力により引き起こされたとしても断固として対処する。それだけだ」
しかし大迫海幕長の返した答えは、露骨なまでに公式発表だった。
「……分かりました」
やはりなにか自身に回ってきていない情報があるのだろう。そう確信するには十分すぎる返答。逆に言えば現時点で与えられた情報で必要分は満たしていると他ならぬ自身の上司が判断したということ。
それを受けた海幕長補佐官は再び情報に目を通し始める。頭の中に描かれるのは日本近海。沖縄方面に展開している海軍戦力は
だが今は「日向」艦載機とその護衛艦、これが海軍の事件で土俵に挙げられる戦力の全て……初動が肝心だ。飯田の思考回路は、軍人としてのそれだった。
『えぇー、帰ってこないのぉー?』
夕方。関東平野を見下ろす山々の向こうに夕日が沈んでいく。東京中心部から適度に離れた入間には未だにヘリの離発着がせわしなく続けられており……携帯を持つ飯田の耳にも、携帯の相手にもその音が届いていることだろう。
「すまない」
しかし謝ったところで、まあ相手方が追撃の手を緩めることはないわけで。
『じゃあ晩御飯どうすんのさぁ、母さん今日帰らないんだよ?』
「あぁ、それに関してはもともと店屋物頼むつもりだったから。一人で頼んでくれ」
『そーいう問題じゃないでしょー!』
電話の向こうにいる娘の不満げな顔がありありと浮かぶが、とはいえ仕事は仕事だ。飯田は宥めるように言う。
「勘弁してくれ、思ったより大事になりそうなんだ。明日帰れるかも分からん」
『ふーん……民間さん相手じゃなかったのぉ?』
「……」
ちょいと小バカにしてくるような娘の声。察しているのか、それともドラマみたいだと勝手に興奮しているだけなのか。
『まあいいけどさ別に。じゃピザ注文させてもらうんで、よろしくね』
それから二三言交わして通話は切れる。自宅と書かれた携帯の表示を消すと、現れるデフォルトから変えていない待ち受け画面。時間はもう間もなく午後五時半を回ろうとしていた。
飯田は小さくため息をつく。そもそも一防が入間という位置に存在するのは東京中心部から適度に離れているからである。核戦争が近いかもしれない――少なくとも軍としてはそれを想定している――この状況。それはつまり、彼の家族もまた危機に晒されているということであった。
しかしその手の対策を怠ったためしはない。彼の家には英国印度の上流階級御用達の別荘のごとく簡易な
それから彼は電話帳を開き、もう一人の家族の番号を見る。親戚たちの間に紛れ込んで消えてしまいそうなフルネームで書かれた名前だが、まさか彼がその名を忘れることはないだろう。明日までは親戚一同と逗子にいるはずで、最悪が起こる可能性は極端に低いはずだった。
「……」
飯田はその画面を消す。そして携帯を仕舞った。政府の要職にあるということは、それだけ政府は保護してくれるということだ。はっきりとは言わずとも家族に仄めかすことは誰も文句を言えまい……とは友人の論。だが飯田は、結局娘に夕食の指示を出すだけに留めたのだった。
「飯田中佐」
と、彼の名を呼ぶ声が。一防の出入り口へと繋がる庁舎から出てきた海軍尉官の服装からだ。
「木更津か、今から戻るところだ」
尉官服の名は木更津。階級は海軍中尉で、飯田とともに海軍幕僚部に勤めている。
「お急ぎください、大迫閣下がお待ちです」
その言葉に飯田は木更津を見る。外の空気でも吸って来いと飯田を追い出したのは大迫だ。
「……どうしたんだ?」
「なんでも官邸は、この件の発表を見送るらしいです」
「なんだと、それは本当か」
無言で頷く木更津。飯田は軍帽を直すようにして頭を押さえた。発表を控えるということは、それだけ部隊を動かしづらくなるということだ。従ってもともと出港予定にない佐世保の四戦は動かせない。実質的に二機艦――――空母1巡洋艦2駆逐艦5の戦力で対処せよということだ。
しかもそれだけではない。もし本当にこの件が貨客船への破壊行為と密接に繋がっているのならば、日本が国際協調を求められる場面において独断専行を行ったと後々非難を浴びるというリスクもこの判断ははらんでいる。
……つまり、軍部には他国の介入を招かず、そして民間に情報が漏れて大事となる前に対処を終わらせることが求められるわけだ。他国に介入されると困る理由が分からなかったが、命令とあればそれまでだ。
沖縄の件は現在展開している戦力のみで十分。総理と海軍大臣の間でどんな会話が交わされたかは知らないが、ともかく「対処しきれる」という判断はもう下されたのである。
「
そんなことを聞かれぬようぼやきつつ、海軍幕僚長補佐官は一防へと消えていく。
状況が一変するのは、その僅か一時間後。
「雷」を沈めた謎の勢力が――――沖縄本島へと進路を変えたのである。