模倣の決号作戦   作:帝都造営

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艦これのイベント2018冬イベントをクリアです。甲種勲章も頂きましたし、なにより新しい艦娘を迎えられましたし、満足です。

一ヶ月くらいで上げられた……ということにほっと満足の帝都造営です。
久々の日常回で少しばかり地の文の配分が怖い……。


H34.3.14《X-231days》③

――――西暦2022年3月14日。東京――――

 構内に設置されたアナウンスが音楽を連ねる。島式の立川方面ホームには各駅、快速両線が停車するわけだが、高層ビル群の中に横たわる鉄道と駅というのも見方によっては奇妙なものだ。高さとしては四階に相当する総武線ホームからは、線路の向こうへと沈んでいく太陽を見ることが出来た。

 神田川を僅かに北、東京を東西に貫く中央・総武線と南北に貫く京浜東北線。その結節点である秋葉原駅は、ある人にとってしてみれば東京や上野以上の価値を持つ駅である。共産主義者による同時多発テロの反省から各官庁の一部施設――運輸省に至っては第一庁舎までも――が移転したことによりにわかに副都心として発展した立川から僅かに40分、東京駅から5分。地下鉄も日比谷・東西線という重要路線を抱え、さらには00年代には土浦方面の輸送を支えるつくばスカイアクセス線が開通。乗り換え客は数えようにも数え切れない。

 空圧音。全ての車両の扉が一斉に閉まる。架線より供給された電力がモーターを動かし、列車はその巨体を動かし始める……が、それまで。列車はそれ以上加速することは無く動きを止めた。

 

「……非常停止ですかね?」

 

「みたいだな」

 

 発車の合図がなってから数秒。扉の閉まる空圧音は聞こえたものの、駆動音が聞こえる気配はない。その代わりと言わんばかりに耳障りなブザー音が鳴り響く。

 二階建て編成となる中央総武快速二等車の二階。飯田と小河原は陸軍習志野基地よりの帰路の途中、ここ秋葉原駅にて思わぬハプニングに見舞われていた。

 

「事故か? どうなっている?」

 

「さぁてどうでしょう。最近は線路に逃げ込む人間もいると聞きますし」

 

 二人が無責任な会話を繰り広げる中、二等車――グリーン車ともいう――の中には似たざわめきが広がっていく。耳障りなブザーが健在なこともあり、異様さの演出は十分といったところか。

 やがてブザーが止むと、取って代わって車内放送が始まる。

 

『ご乗車中のお客様にお知らせいたします。ただいま駅の非常停止ボタンが押されましたため、中央総武線快速立川行きは運行をただいま停止しております。ただいま状況を確認しておりますので、お客様におかれましては今暫くお待ちください』

 

「人身か?」

 

 飯田のつぶやきが二等車の空間に消えるのと同時に、野次馬めいたざわめきがやや恐れを伴ったものへと変わる。

 

「さっき聞こえた警笛といい、間違いないでしょうね……」

 

 興奮と驚きが入り交じったような小河原の顔を見つつ、飯田は嘆息。まさか人身事故の現場に居合わせるとは。珍しくはあるが、職務中とあっては迷惑でしかない。

 

 再び車内放送が始まる頃には、車掌と思しき声の主の背後にはいくつかの音が入り乱れていた。

 

『ご乗車中のお客様にお知らせいたします。ただいま中央総武線快速の立川行きでございますが、秋葉原駅総武線千葉行きホーム、各駅停車線のほうで人身事故が発生いたしました。総武線ただいま運転を見合わせております』

 

「どうします?」

 

「どうするもこうするも、動かないのだからどうしようもないだろう」

 

「まあ、それもそうなんですが」

 

 そんな会話をしつつも、飯田は時計にちらりと目をやる。現在時刻は四時を少し過ぎたあたり。定時を迎える前に海軍省へと戻れる予定であったが、いつ動き出すかは不明である。となればここは四ッ谷まで向かうという本来のルートを諦め、京浜東北線で有楽町あたりまで出て都電に乗り換えるのが妥当。時間のロスは10分ほどで済むことだろう。

 

 しかし、そんな計画も電車の扉が開かなければどうしようもない。進んだのは数メートル。されど数メートルだ。十五両を数える長大な中央総武線快速となればそれすらもドアを開けられない要因となる。

 

「これいつ動きますかねぇ」

 

「さぁ。どうだろうな」

 

「この手のは動きませんからねぇ……」

 

 車内放送による続報は無い。小河原はもう諦めた様子で鞄を持ち上げると、中に入った書類を整理し始めた。

 中央の廊下を挟んで2列ずつ、合計で4列の席がある二等車は、見た目こそ乗車券のみで乗れる三等車と比べてゆったりしているように見える。しかしいざ座っていると手狭なのは事実で、流石に仕事をする気にはなれない。グリーン車の更に上、ホワイト車と呼ばれる一等車ならば話は違うのだろうが……今それを言ったところでどうしようもない。

 

『お待たせいたしました。ただいま電車を動かします。ご乗車中のお客様電車動かしますので揺れにご注意ください。本車両は動かしまして駅の停車位置に移動の後、ドア開きます』

 

 そのアナウンスと共にブレーキが解除される音が聞こえ、僅かに振動しながら車窓の風景が僅かながら動く。結局列車に下った命令は運転の再開では無く、ひとまず乗客を降ろすことだったようだ。アナウンスと共にドアが開かれ、京浜東北線もしくは地下鉄線で振替輸送を実施するなどと言葉が続く。

 

「開きそうですね。ドア」

 

「だな。京浜か山手で出るか」

 

 その言葉と共に、飯田は荷物を手に持つ。窓の外では列車より吐き出された乗客たちが群がっており、ラッシュ前だというのにラッシュ並みの混みようであった。

 

「このまま動くまで待って、直帰したいですねぇ」

 

「何言ってるんだ。いつ動くかも分からないのに。いくぞ」

 通路側に座った小河原に動くように急かすが、同じ考えの人間が通路に溢れているのだからそもそも動きようがあったものではない。二階建て構造で座席数は確保されているというのに、出口は三等車よりも狭く少ないのだから当然のことだろう。肩をすくめる小河原に、飯田は椅子に座り直した。

 

 一般にホワイト車と呼ばれ、華族への優遇が消えてからはよほど忙しい会社員か政治家くらいしか使わなくなった一等車と違い、二等車というのは安い二等車乗車券(グリーン券)で乗れる意外と手軽な存在である。

 だから降りる乗客の顔ぶれも様々で、中には携帯を片手に遅れるからなんだのと電話を入れる者や、または無駄になりそうなグリーン券について不平を漏らすように降りていく者も居る。

 

 その中に飯田は、同僚の姿を見いだした。珍しいかと言われればそういうことはない。航空母艦から陸戦隊までを擁する海軍は10万の人員を抱える巨大組織であり、東京勤務も少なくはない。

 

 強いて珍しいものを挙げるとするならば、それが女性将校であったということだろうか。

 とはいえ女性士官というものはこの時代となっては珍しいものではない。登用も米国同様進んでいるし、ようやく女性士官が幹部としてのし上がる素地も出来つつあるのである。

 

 背景には世界に広がる同盟国を護るために軍は慢性的な人材不足であるというのもあるが、やはり女性が家に入るものであるという固定観念が打ち砕かれつつあるのである。流石に時代は現代、ここはその先端をゆく先進国日本、というわけだ。

 

 思い返せば、今日飯田に接触を図った神崎中佐など女性将校の中でも出世頭というべき存在ではなかったか。

 彼女は女性としては初めての機甲科将校であり、そして今や近衛で唯一の女性上級指揮官である。女性の軍上層部進出の先駆け……そう考えれば、彼女に飯田への接触を図ってきたのは()()()()()()()側面もあったのかもしれない。神崎家という枠にだけ囚われていては、足下を掬われかねないと自省。

 

 閑話休題。ともかく女性の軍部進出は進みつつある。海軍に至っては既に女性艦長も誕生していることであるし……女性が将官になり「提督」の称号を預かる日は、案外遠くはないかもしれない。

 

 そんな飯田の視線にすら気付くことはないだろう。至極真面目な、職務中といった面持ちで出口へと向かっていく女性将校。彼女が扉から外へと出る頃には車内からはすっかり客が降り、飯田と小河原も流れにのって車外へと出る。

 

 

 問題は、その女性将校が有名な人物であったことだ。

 

 

「中佐。先ほど見かけた方って……もしかして()()()()()()()でしたかね?」

 

「なんだ。お前も気付いていたのか」

 

 小河原がそう言ったのは女性将校も見失った夕暮れ時の有楽町駅。都電乗り換えのために改札をくぐった後の事だった。傾いた太陽により高層ビルの間に長い陰が落ちる。

 

「いやまあ。広報でよく取り上げられていましたし」

 

 一航戦の紅一点。読んで字の如く一航戦――第一航空戦隊――の紅一点、つまり女性航空士である。海軍の戦闘機乗りとしては初の女性パイロット、それも選りすぐりの第一航空戦隊にまで登り詰めて見せた。

 軍というのは男性が未だに大多数を占める組織。それも空を守る海鷲となれば獰猛な人間ばかり。彼女が一航戦に配属されたことに当然妬みも多かったことだろう――海鷲を文字って雌鷲などとは、もはや彼女のためだけに用意された蔑称といえる――しかし広報にとってはこの上ない格好の宣伝材料であった。

 

 だから当然、有名にもなる。

 

 とはいえ彼女が一航戦に身を置いたのは僅かな期間。それも十年も昔の話だ。単なる広告塔で終われば飯田も小河原も覚えてはいなかっただろう。

 

「……第十次上海事変の撃墜王(エース)を、まさか帝都のど真ん中で見ることになるとは」

 

 感嘆を交えるように小河原がそう言い、都電の架線が張り巡らされた空を仰ぐ。大陸で幾度も起こる動乱の、その何十回目かの大きな騒乱である第十次上海事変。それの際に顕著な活躍を収めた彼女。

 報道が逃すはずはなかった。一航戦の紅一点、大和撫子の面目躍如、紙面に躍る文字は、盛んに彼女を褒め称えたものだ。

 

「それにしても、よく覚えていたな」

 そんな彼女だから、軍の広報活動の最先端にも使われていた。ただまあ、そんな大仰な取り上げられ方に不満たらたらの士官は多かったわけで。そのような空気を知っているからこそ、飯田の印象には強く彼女のことが残っている。しかし、小河原はまだ当時は学生だったはずだ。

「丁度兵学校でした。いい息抜きです。あの白山(しらやま)中尉に一目会いたいって、同期がよく騒いでました」

 

「なるほど。そういうことか」

 

 彼女が美人であったことは疑いようがない。

 

「学生なりの息抜きですよ」

 

 しょうがないでしょう、と小河原。国家の威信をかけ命を捧げる軍人であっても、女性である以上はその定めから逃れることは出来ないらしい。

 白山(しらやま)海軍中尉。それが彼女の名前だ。撃墜は戦闘機4、爆撃機3と立派な撃墜王(エース)。海軍において初めての女性戦闘機パイロット。事変の後に中尉に昇進。今ごろはもう大尉に昇進したころだろうか。

 

「そういえば、結婚されたんでしたっけ。じゃあ今はもう名前も白山(しらやま)から変わっているのか」

 

「……そうか。結婚したのか」

 

 それは知らなかった。飯田にとってしてみれば言葉を交わしたこともない個人の人生に口を出す気も、それを知ろうとする気もさらさらないというのに、よく知っているものだと小河原に関心する。

 

「お相手は海軍じゃないって話ですけど……どうなったんだか」

 

 やはり結婚というのも定めの一種であるようだ。本来ならば軍人ほど家庭を持つべきでない職業もない。家庭を持つというのは家庭に責任を持つことであり、軍務以外の責務を負うべきではないはずなのだ。その大変な矛盾を抱えて、独身を謳う者も少なくはない。目の前の小河原がそうだ。昔は飯田自身もそうだったから、それに共感するところも多い。

 

「それにしても……妻や母が戦場に征くという光景は、一個人としては見たくないモノだ」

 

「そこに男女の括りはないでしょう。前時代的ですよ中佐」

 

「そうだろうか?」

 

 置き換えてみて下さいよ。その小河原の言葉に、飯田は短く嘆息。どうやら彼にも、思い当たる節があるようだ。

 

「……軍人が結婚なんて、するものじゃあないですよ」

 

 そんなことを話す間に、都電が停車場へと滑り込む。二人の海軍軍人は無言になって乗り込むと電車は駅前を離れ走り出す。混み始めたように見える自動車の列に紛れて、電停毎に乗客を降ろしたり乗せたりしながら軌道の上を進んでいく。

 ふと、飯田は思い出したように言う。

 

「そうだ。小河原、ウチの(のぞみ)が次で三年になるんだ」

 

「あぁ、望さんがですか? 早いですねぇ。最後に見たのは昨年の暮れでしたか。元気です?」

 

「以前にも増して元気だよ」

 

 懐かしむように小河原が眼を細める。望というのはもちろん飯田孝介の一人娘である飯田望のことで、いよいよ来年度からは高校三年生。国防大学校を第一志望に掲げる受験生である。

 

「……あいつも元はといえば白山中尉が原因でパイロットを目指すなんて言い出したんだ」

 

「あぁ、よく言ってましたね。ここ数年は女性パイロットも増える傾向にありますし、十分いけるでしょう」

 

「しかしなあ。艦隊勤務や地上勤務ならまだしも、パイロットはなぁ」

 

「でも、中佐は止める気ないんでしょう?」

 

 そう言って笑う小河原。飯田も応じる様に小さく肩を揺らす。昔から剣道やら銃剣術やら柔道やら、やけに荒っぽいことばかりに興味のあった娘。見ているこっちとしては危なっかしい限りであるし、こんな時勢だ。海軍(そのみち)を選ばないでほしいと思わないことはない。

 それでも、あれは優秀だ。ぼんやりしているように見えてもしっかり本質をとらえられる子だ。きっと、一航戦の紅一点なんて()じゃない海鷲へと成長してくれることだろう。

 

「本人がやると決めたんだ。やると決めた以上最大限応援する。親子二代で海軍というのもまあ、悪い話じゃない」

 

「先ほどの前時代的な発想はどうしたんです?」

 

「言うな」

 

 ビルばかりが建ち並ぶ窓からの景色はやがて凱旋道路を越え内堀へと変わる。アナウンスが次の停車駅を告げる、桜田門。皇居周りでもよく知られる景色である警視庁の目の前である。

 系列が異なるのでここからは徒歩で海軍省へと向かうことになる。交通系ICカードを使う以上は軍人割引も存在せず、飯田と小河原は定額通りの運賃を支払い都電を降りた。

 

 暗くなり始めた霞ヶ関の官庁街。鉄筋コンクリートをふんだんに使った庁舎に耐震補強の後付けトラスが窓を塞ぐ。95年のダブル震災で露呈したコンクリート建築の欠陥は耐震景気と巷で呼ばれるほどの補強工事需要を生み出したが、果たして来たるべき首都直下への備えは出来ているのやら。

 

「それにしても、親子二代か」

 

 先ほど何気なく言った言葉を反芻してみる。脳裏によぎるのは軍服姿に着替えた娘の姿。軍人であることは国家の名誉たることである。この志願制の世の中においても、祖国のためと己の魂を燃え上がらせる若者たちを留めることは叶わない。本人が征くならば、それを留めることは許されない。

 悪い話ではないではないか。どこの馬の骨とも知らぬ奴の嫁に行かれるよりかマシだとすら思う。

 

 ただしそれは……戦争が起こらなければ、という前提の上に成り立っているだけなのだが。

 

「それで結局、説得はするんですか? しないんですか?」

 

 茶化すように言う小河原は気付いているのだろうか。恐らくは気付いていない。

 無論、当然戦争が起こらないに越したことはないのだ。しかし今現在、その脅威はひたひたと迫ってきている。それが国家同士の戦争ではなく『やつら』との戦いであったとしても、国家の守護者たる軍が(つつ)を取ればそれはそういうことだ。戦争という定義には当てはまらなくとも、それはそういうことだ。

 

 だからこそ。止めることは許されない。ましてや飯田は海軍の身である。己の組織に来るななど、誰が言えようか。

 こちらへ来ればきっと彼女は現実を知ることになる。内地にいれば教養としてだけ知っている現実を、肌の感覚として知ることになる。たとえそうであっても、飯田は止めない。それは祖国に生まれた者の義務であり、ひいては本能ですらあるのだ。

 

 止めることなど許されない。

 

「応援して欲しいが、お前からも忠告してくれ」

 

「矛盾してますって」

 

「そうだな。矛盾してるな」

 

 しかし、だからこそ未来に種を蒔きたいとも思うのだ。

 飯田は口角を吊り上げながら小河原を振り返る。

 

「だからこそ頼むんだ。お前が望の『トクベツ』になれば、あいつも言うことを聞くだろう?」

 

 その言葉を聞いた小河原。既に何度かしている話だが、今回は奇襲だったようで決まりの悪そうな顔をする。

 

「やめて下さい。何度も申し上げた通り、私では娘さんに釣り合いませんよ」

 

 そして中佐には申し訳ありませんが、私は生涯独身を貫くつもりですので。そう言う小河原の抗議を背に受けながら、飯田は歩き続ける。

 

「今はいいが、いずれそんなことも言えなくなるぞ?」

 

「その時に考えることにします」

 

 しかし飯田は知っている。こういう選択肢も数限りない可能性の中に転がっていることを。娘はこの17歳差のおっさん(おがわら)に少なくとも並の男よりかは懐いているし、悪い話ではないと思ってしまうのだ。

 無論、それを決めるのは本人たちであるべきだと思う。だが自分だって祖父が縁談を組まなければ今の伴侶と出会うこともなかった。このくらいのお節介は許されると思っているし、してあげたいと思うのだ。思えば老けたものだ。まだ五十にもなっていないというのに。

 

「まあいい、今度またウチに来い。望だけじゃない、妻もお前に会いたがっている」

 

 好かれているな、いいことだ。そう言えば、小河原が苦笑する。

 

「この件が一段落したら、お邪魔させていただきます」

 

「そのためにも、とっととこの件を片付けよう」

 

「ええ。そうしましょう」

 

 

 

 

 

 海軍省に戻り、室で細やかな書類整理に追われること数十分。駆逐艦沈没事故調査といっても、事態が事態であるしサルベージや潜水調査も行われていない以上は表向きの仕事はほとんどないため、飯田は幸いにも定時を迎える頃にはのんびりと紅茶を飲む作業に没頭することが出来ていた。

 時計が午後五時を告げる。調査室の面々はせわしなさと怠惰の中間点にあった。

 

「朝伝えた通り、今日は定時で帰るぞ」

 

 飯田のその言葉に、特段誰も表情を変えることなく頷く。用意の良い者などは既に鞄を机の下から取り出したりしている。まあ至極妥当な対応といえるだろう。やることが無いのだから、帰り支度以外にすることはない。

 

 別に持ち帰るような書類はない。機密書類は書庫に戻してある。仕事用のパソコンを仕舞い、机の戸棚に備え付けられた小さな鍵つき引き出しに施錠。部下からの帰宅報告ラッシュを受け付けるうちに、室からはたちまち人気が失せてしまう。もちろん飯田も留まる理由はない。そのまま室を閉じると、海軍省庁舎を去る。衛視に見送られて出る霞ヶ関の街は、夕焼けの最後の輝きに包まれていた。

 

「さて……東京に出るか」

 

 街路を歩きながらに考える。頭を悩ませる事柄というのは絶えないものだが、それは就業中にやるべきこと。今の飯田が考えるのは全く別のこと。ここでいう東京というのは東京駅方面、つまり日本橋や銀座といった高級商業地区……要するに、飯田の頭を悩ませるのは買い物の内容であった。

 

 かつてローマ帝国において、禁止されていた出征前の若者達の結婚式を行ったことで処刑されたバレンタイン司祭という人物がいた。それを偲んで設けられたのがバレンタインデー。キリスト教世界ではともかく、神道が主流な宗教として広がっている日本においてはあまり意味を成さない日。

 

 ところが文化とは不思議なもので、現代日本においてはバレンタインデーというのは女性がプレゼントを、というかチョコを送るというのがよく見られる光景である。ここ半世紀にも満たない風習であるはずなのだが、これがよく定着している。

 

 で、その返礼をするのが翌月の3月14日(ホワイトデー)。即ち平成34年は3月14日、今日なのであった。

 

『本日も、東京都交通局をご利用頂きまして誠にありがとうございます。この列車は……』

 

 女性の声を模した自動アナウンスが流れる。

 いつだったか。恋人の日と呼ばれるそのバレンタイン司祭の処刑日(バレンタインデー)に飯田は今の妻――当時でも婚約の段階にはあったが――に花を送ったことがあった。欧州ではこの日に男性が女性に対して愛の品を贈るというのが一般的であり、それにならった訳なのだが……これがなんと不評だったのだ。

 

 どうやら初めてのバレンタインデーということで意気込んでいたらしく、どうにもこちらの贈り物が恩着せがましく感じたらしいが……もちろん、飯田としてはそんなこと言われても、以外のコメントはない。

 

 しかしまあ、そんな出来事も過去の話、今では妻は世間一般に習うようにチョコを用意し、飯田はその一ヶ月後に返礼としてなにか贈り物をしているのであった。

 

 ところが、今回その贈り物が問題なのだ。ホワイトデーといっても、料理に才のない飯田がなにかしらスイーツを作るというのは無理な話で、かといってどこかで菓子を買えばいいというわけでもない。結局贈るのはクリスマスや誕生日と同様の品物(プレゼント)となるのであるが……これをどうしたものか。そうそれを全く考えていなかったのである。

 

 別に忘れていたわけではない。ただ最近忙しかったので思い出せなかっただけなのだ……とは、誰に対する訳でもない弁明。

 

 とにもかくにも贈り物をこれから探すわけだが、果たして今の彼女になにか足りないものはあっただろうか。欲しがっていた化粧品の類いもなかったろうし、今使っている小物類でくたびれているものも特にはないだろう。春物のジャケットは去年買ってしまった。さて妙案はないものか。

 そんなことを考える間にも都電は進む。景色は官庁街からオフィス街、そして商業地区へと。仕事終わりのシーツ姿が闊歩するのんびりとした街路は、既にかつてのガス灯を模した街灯によって照らされつつある。

 

 都電を降りる。しばしの逡巡の後に百貨店へと足を進める。

 

 

 思いつかなければ見つければ良いのだ。飯田は開き直ったようであった。

 

 

 




【補足】95年のダブル震災
 1995年1月17日に発生した兵庫県における「兵庫県南部地震」と1995年5月27日に発生した樺太庁における「樺太庁北部地震」を合わせて指す。いずれも激甚災害に指定される。「平成連続大震災」と一括りにされることが多い。これは両震災が共に横ずれ断層による地震であること、また発生時期が四ヶ月ほどと近かったことにあるが、気象庁は両震災の関連性を否定している。
 また、両震災共に発生直後から交通が寸断され、消火救助活動の遅れたことが犠牲者を増やしたとの認識が一般である。


【メタ補足】
阪神淡路大震災については説明は要らないとは思いますが、同じ95年にロシアのサハリンでも大地震が発生しているんです。詳しくは「ネフチェゴルスク地震」で検索。
……それと、平成連続大震災とかなんとか言ってますけど断層型の地震が連動することはないはずなので、念のため。

それにしても、95年は日本にとって本当に鬼門ですね……。

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