一刀がいなくなった世界の乙女たち ―― 魏国再臨 前日譚 ―― 作:無月
「それじゃ、今日はよろしくお願いします。劉協様」
そう言って当たり前のように手を伸ばして、曹操から私を任されたあなたは、私の知らないことをたくさん教えてくれました。
あまり話さず、また自分から話すことを苦手とする私に、たくさんの話をあなたはしてくれましたね。
自分のことも、彼女たちのことも、日々の何気ないことも・・・ 本当に多くを教えてくれたあなたに私は最初こそ戸惑い、表情のぎこちない表情をしていたことでしょう。
そんな私を投げ出すこともなく、半ば無理やり街へと連れ出してくれましたね。
「隊長ー、まーた女の子連れ歩いてるんですかい。
今度はなんやぁ? 迷子か? それとも天から降ってきたなんて言わへんよな?」
「もー・・・・ そんな将来美人さんになる子をあんま連れ回しちゃ駄目なのー」
「ばーか、仕事だよ。
真桜たちも、凪にばれないうちに仕事に戻れよー?」
少し街を歩くだけで、人がいる。そして
「旦那ぁ・・・ さすがに節操なさ過ぎじゃねーの?
流石に犯罪だって・・・・ 季衣ちゃんたちだって俺らからしたら駄目だっつうのに」
「ちげぇっつってんだろ! 仕事だっつの!!」
あなたが隣にいるだけで
「嬢ちゃん、可愛いな。
旦那もついでにやるよ、肉まんだ」
「俺、おまけかよ?!
ただで貰うの悪いし、昼用にいくつか包んでもらえるか?」
多くの人が笑いかけてくれました。
「おにいちゃーん、遊んでー。
うわぁ、きれいなお姉ちゃんだね。花冠、あげる!」
たくさんの笑顔が、そこにはありました。
私の知らない笑顔、私の知らない民たち。
私の見ることのなかった遠い遠い人たちの笑顔に、自然と私も笑顔を浮かべていました。
「あっ! やっと笑ってくれた!!」
そんな私を見て、あなたが向けてくれた笑顔はとても優しくて、私のことだというのに嬉しそうにしてくれましたね。
「やっぱり笑った方が可愛いですよ、劉協様」
何故か私は、あなたにそちらの名で呼ばれることを『嫌だ』と感じたのです。
だから私は、今までごくわずかにしか預けたことのない名前をあなたに渡したい。
呼んでほしいと、思ってしまった。
お飾りの皇帝としてでもなく、何も出来ぬ無力な者としてでもなく、私をありのままの
「千重、です」
「えっ? だってそれって・・・」
「私の名は千重、あなたにはそう呼んでほしいのです。天の遣い殿・・・・・ いいえ、北郷 一刀殿」
それはきっと、私があなたに願った最初の我儘。
それはあなたが無意識にしてくれたことでも、私がかつて心の底に沈ませた願い事だったのかもしれません。
あなたの横にいられたあのわずかな時を、私はこれまで生きたどの時間よりも尊いと思ったのですから。
その時抱いた思いがどんなものかを気づいたのはもっと後でしたが、その時はそれだけでよかったのです。
河原で腰かけ、あなたは私の髪を撫でてくれましたね。
「突然・・・・ 恥ずかしいで・・・」
子どもの頃、数える程度しかされたことのない感触に戸惑う私に、あなたは少しだけ言いにくそうに苦笑していましたね。
「ずっと、気になってたんだけどさ。
千重が、不意に悲しそうな顔をする理由を教えてくれないかな?
いや、言いにくかったら・・・・?!」
うまく隠していた筈なのに、表情など消えていた筈なのに、あなたにはどうしてわかってしまうのでしょう?
どうしてあなたは、私の気持ちを
沈めて、自分すらも騙せていた感情の全てが溢れ出していってしまう。
辛いことも、悲しいことも、そして、多くの人の死も見てきました。
母の死、姉の死、そして臣下でありながら友としてあってくれた二人の訃報。行方知れずとなってしまった恋と音々音、華雄。
私が居なければ八重姉様は死ななかったという罪悪感。
あの乱で守ってくれた月たちを守ることも、助けることも出来なかった無力感。
「私なんて! 姉様の代わりに、死ねば・・・ よかったのに!!
でも・・・ 死んじゃ、いけなくて! 守られてしまって! 生き残って・・・」
誰かが私の代わりに死んでいく。
誰もが私を守って消えていく。
何も出来ない私を残して、大切な誰かが、大切になったかもしれない何かが壊れていく。
「私、なんか・・・・ いなければよかったのに!」
「それは絶対にないよ」
私を受け止めてくれたあなたから出た言葉は、触れている優しい手とは違いとても強いものでした。
「それだけは絶対にない。
消えていい人間も、居なくていい人間も、死んでいい人間なんか、この世界中のどこにも居ない」
まるで自分自身に言い聞かせるように、決意や覚悟の中に悲しみを覗かせるあなたの気持ちが私にはよくわかりませんでした。
「だって俺は・・・ みんなに、千重に会えて良かったって思ってる。
この時代に来て、一緒に生きて、話して、こうして触れられて・・・・ そりゃぁいろいろあったけど、ここに来れて、出会えてよかった。
千重がしたたくさんの悲しい思いは俺にはわからないし、それだけ千重のことを自分の命を懸けてでも守りたいと思ってくれた人が居たってことをわかってほしいんだ」
泣いている私を抱きしめて、私の肩を濡らすのがあなたの涙。
守られる側の私にはわからない、守る側の言葉でした。
「だから死ねばよかったなんて、居なければいいなんてこと、そんな悲しいこと・・・ 言わないでくれ」
温かな涙と共に降ってくる、優しい言葉。
あの時の私はただ、あなたの優しさが嬉しかった。
あなたの思いが、あなたの言葉が、私を守ってくれた月たちの思いであることを信じたいと思ったのです。
その後もお互い泣き止んで、少しだけ気まずくなった中であなたは空気を換えるように言ってくれましたね。
「千重は、これからどうしたい?」
「これから・・・・ ですか?」
あなたにそう問われたとき、私は一瞬何を言っているのかがうまく理解することが出来ませんでした。
「そう!
華琳はさ、『覇王』なんて名乗ってるけど別に大陸が欲しいわけじゃないし。千重をこうしてる時点で、千重が決めなきゃいけないんだろうし。
もう千重は、好きに生きていいんだよ」
「好きに生きて、いい?
でも私は・・・・ 皇帝としての生き方しか、知りません」
そう在ることを望まれ、そうしなければならないと運命づけられ、皇帝という名に縛られる。
それが私の人生、そうすることしか道はない。そう思っていたのに・・・
「なら、これから知っていけばいいじゃないか。
もう千重を利用する奴も、命を狙う奴だっていない。
好きなだけ魏に居て、たくさん迷ってゆっくり一歩ずつ、自分で決めていけばいいんだ。
なーんにもなかった俺だって、ここじゃたくさんのものを得たんだ。
きっと千重なら、もっともっとたくさんの素敵なものを得られるよ」
私の手を放さずに街へと駆け出すあなたがとても眩しくて、その笑顔につられるように私も笑うことが出来ました。
何故でしょうね? あなたの言葉は私のどこかにすんなりと落ちていくのです。
「そう、かもしれませんね」
あなたが傍に居るのなら、私は私の在り方を見つけることが出来るのかもしれません。
形骸となってしまったこの皇帝という名をどうするかという答えも、この抱き始めた思いが何なのかもきっと。
そうして私は三国の戦いが終わるまでを魏で過ごし、彼女たちの帰還と同時に彼が天へと還った事実を知りました。
悲しい、寂しい、辛い、多くの思いを抱いても、私よりも近くにいた彼女たちはそこに立っていました。悲しみに暮れる間もなく、多くの感情を曝け出したい筈だというのに、彼女たちはすぐさま三国を守ろうと動き出したのです。
悲しみの中にありながら雄々しく、背を正す立派な姿。
『悲壮』を姿で体現する魏の将に、民もまた立ち上がっていくのを私は見ていました。
その中で私が出来ること、それは形骸となった皇帝の在り方。
それはかつて、彼が語ってくれた天皇というものに近しいものでした。
「君臨すれど、統治せず。
私はこの国の象徴として、民と共に生きたいと思います。
見ていますよ、曹操。
あなたがこれから蜀と呉と共に作っていく世を、彼が愛したこの大陸の先を」
一刀さん、私はあなたが愛したものの行く先を、その傍で見続けましょう。
あなたが一番見ていたかったものを、あなたが私に自慢げに教えてくれた多くのものを、私は語り継いでいきたいのです。
「これからがどうなるかなどわかりませんが、彼が残した多くのものはきっとこの大陸を救い、守るのでしょうね」
でも、どうしてでしょうか? 一刀さん。
あなたが居ないこの大陸は、なんだか少しだけぼやけて映ってしまうのです。
『――――― それだけ千重のことを自分の命を懸けてでも守りたいと思ってくれた人が居たってことをわかってほしいんだ。
だから死ねばよかったなんて、居なければいいなんてこと、そんな悲しいこと・・・ 言わないでくれ』
今思えば、あれはあなたの弱音だったのですね。
あなたはあの時すでに、彼女たちを守る決意をされていたんでしょう?
本当に優しく、ずるい方。
それがあなたの決意なら、誰も反対など出来るわけがありません。
天があなたを消しても、あなたの決意はあなたのもの。
あなたがここに居たという事実だけは、誰にも消すことは出来ないのです。
天の遣い・北郷一刀。
私はあなたの名を残し、語り継ぎましょう。
そうして私は毎日のように街を歩き、多くの方と話し、歴史を描こうとしています。
本当に多くのことを知らなければ、多くの視点を知らなければ歴史を語ることは出来ません。それに私は、大陸の乱の中央に居ながら、何も知らずにこれまでを見てきてしまいました。その分の知識は誰かに教わりながら、直接話を聞くことでしか埋めることは出来ないでしょう。
「劉協様、孔明様より文が」
「はい、今は手が離せないので、そこへ置いておいてください」
動かす手は止めずにそう言うと、こちらを見て少々苦笑している雰囲気を感じました。
「はっ。
執筆もほどほどに、お体を休めるようお願いいたします」
「ありがとう、あなたは私にあわせることなく休んでくださいね」
机で寝てしまった私を運ばせてしまっていることは申し訳ないですから、ほどほどにしないといけません。
「もったいないお言葉です」
「人に向ける言葉に、もったいないものなどありませんよ。
何故なら言葉とした時点で、それは向けた相手へと届いてほしいと思ったものがそこには詰まっているのですから」
私のその言葉に少々驚いたような顔をした世話役に、私は口元に指を当てながら少しだけおどけてみせました。
「ある方の受け売りですが、ね」
「北郷様・・・・ いえ! 何でもありません。
お言葉、ありがとうございます。今日はこれで、失礼いたします」
私がそう言って笑うと世話役は深く頭を下げ、涙をこらえるような顔をして足早に去っていきました。
「本当に、この地であなたを知らぬ方はいないのですね」
苦笑しながら孔明殿から来た書を開くと、そこに書かれていた内容に私は目を伏せました。
『劉協様、突然の文をどうかお許しください。
あなた様が今、魏に滞在し、歴史書の作成をしていることは聞き及んでおります。
ですがそれは、魏によって利用されているだけではないのでしょうか?
そんな使われるだけの立場でよろしいのですか?
あなた様が今一度この大陸を治め、あなた様の手によって采配を決めるあの時代を取り戻したくはありませんか?
どうか、曹操討伐の命を ―――――』
「孔明、あなたはこの大陸で、まだ人の血を流すことを望むのですか?」
街を歩く私が、彼へと事実無根の噂を聞いていない筈がありません。それがどこが流しているかも、この書簡から察するに彼女たちなのでしょう。
私は表舞台に立つべき者ではありません。それに、彼女たちが気づいていない筈がない。
「・・・・ならば私は、見守りましょう」
朝は早くから筆をとり、人が活動していく日中は話を聞くため街を回り、夜は灯りをともして書いていく。
それが今の私の日課であり、日々の過ごし方。
皇帝らしくない生活かもしれませんが、私にはとても満ち足りた生活。
それを終わらせたいとも、以前のような生活に戻りたいなどとは欠片も思いません。
全てのきっかけをくれたのは、彼だった。
多くのことを教えてくれたのは、彼だった。
そして、戦いを終わらせたのは彼の傍にいた彼女だった。
「おそらく歴代の
ねぇ、一刀さん。
あなたはここには居ませんが、あなたはここに生きているのです。
そして私は・・・・ 私たちはこれからもあなたに守られて生きていくことでしょう。
あなたがくれた多くの幸せを、一つでも多く増やせるように、あなたがしてくれた多くを次へと語り継いでいきたいと思います。
だからどうか、心配しないでください。
私たちは今、幸せですよ。
「けれどもし、一つだけ我儘を言っていいのなら・・・・」
どうかあなたが再び、この地へと降り立ってくれますように。