初等部最終学年である六年生になってから、私はどこかそわそわしていた。特に冬の足音が聞こえてきた最近は、その傾向が強かったと言える。
別に、焦っていたわけではない。
二年生のときに立てた中期目標は、それなりに達成されている。苦手だった理数系分野の勉強もおおむね終わり、葉加瀬さんのツテを頼って、世界樹をこよなく愛する会の人との顔合わせも済んでいる。時期的なキリがいいとのことで、中等部に進学したらサークル活動への参加許可を取ってくれると、会長さんからの確約も得た。
友人も増えた。というか、知り合えそうな場所を選んでうろうろしていたのだから、半分以上は反則みたいなものだけど。もちろん、長瀬楓や綾瀬夕映、ザジ・レイニーデイなど、どうやらまだ麻帆良に来ていないっぽい人もいるし、神楽坂明日菜や近衛木乃香の様に、所在は分かっていても知り合うことができなかった人もいるが、それは仕方ないことだろう。
では、私がいったい何にそわそわしていたかというと、簡単な話、そろそろ超鈴音が麻帆良に現れるのではないかと思っていたからだ。
麻帆良に現れる以前の超の足取りはまったく不明(当たり前だ、この時代にいないのだから)と高畑先生が言っていた覚えがあるけれど、それは二〇〇一年三月以前、という意味ではないはずだ。
絡繰茶々丸の完成が来年の一月、起動が四月だったはずなので、つまりそれ以前に超はこの時代に跳躍してきていると思うのだ。魔法と科学を融合させた動力炉とか、エヴァンジェリンの従者にさせるとか、そういうのは葉加瀬さんのみでは達成のしようがない。
というか、戸籍の偽造とか入学手続きとかがあるはずだから、そっちの方面から考えても、時間移動が三月末ぎりぎりということはないと思っていた。
もちろん、超が中等部入学前に麻帆良へやってきたからといって、軽々しく接触をとる予定はなかった。そもそも、私の立てた作戦は超と私が無関係であること、私が掛け値なしの一般人であることを前提としているので、考えるまでもない話だ。
考えるまでもない話の、はずだった。
体育用具室のちょっとかび臭いマットに寝かされて気を失っている、シニヨンで髪をお団子にまとめた女の子。作戦の第一段階に音を立ててヒビが入った。関わってしまった、思いっきり。
十二月一日の放課後、ちょっと困ったことになったので力を貸してほしいと、そのような内容のメールが四葉さんから届いた。
呼び出された場所が体育用具室だったのは少し不思議だったけれど、例えば捨て猫を拾ってしまってそこで保護しているとか、四葉さんならいかにもありそうな話だと思った。
まさか、人間を拾って保護してるなんて、思わないでしょ、普通。
ばっくんばっくんと五月蝿い心臓をなんとかなだめて、私は四葉さんに事情を尋ねた。とにかく、現状を確認しないことには動きようがない。
さすがの四葉さんも混乱しているのか、なかなか要領を得ない説明だったけれど、聞きだした話をまとめると次のようになる。
校舎の陰にうずくまっていた女の子がいたので、心配で声をかけた。具合が悪そうだったし怪我もしていたので、先生を呼ぼうかと聞くと、先生も医者も呼ばないで欲しいと頼まれた。そのまま四葉さんの前から去ろうとした女の子は、立ち上がって数歩進んだところで倒れて気を失ってしまった。仕方ないので病院でも保健室でもなくて、人を寝かせられるマットのある体育用具室に運び込んだ。毛布とか包帯とかを用意したいけれど、この子を一人にはできなかったので私にメールを打った。
薄暗い体育倉庫の中、真面目な表情で状況を説明する四葉さんに対して、私が得た感想は「尋常じゃない」だった。
今さらながら、エヴァンジェリンが四葉さんを本物と称した理由の一端に触れた気がする。
具合の悪そうな女の子に声をかける。その子を助けるという判断を行う。そこまでなら、麻帆良の初等部に通う子の大半がすると思う。麻帆良生のパーソナリティは基本的に、優しくておせっかいだ。当たり前だからこそ得難いその資質を、この学園都市では多くの人が普通に持っている。
けれど、実際に意識を失ってしまった人を目の前にして、医者も教師もまずいという相手の言葉が「どこまで本気だったか」をはかり取れる人が、どれだけいるだろうか。その上で、助けたいという自分の意思と病院はまずいという相手の意思を比べて、どちらも立てた判断を下せる小学生が、いるだろうか。たぶん、大人でもそれができる人はほとんどいないだろう。いや、大人であればこそ、自分の判断を優先させる人も多い気がする。
「……分かった。保健室に行って、必要なものを取ってくればいいかな。それとも、私がここに残ってこの子を見てようか?」
私がそう言うと、ほっとしたように四葉さんは表情を崩した。保健室に連れて行こうと私が言い出したら、説得するつもりだったのだろう。
短い相談の末、私が居残りで、四葉さんが必要なものの確保に動くことになった。
体育用具室に残された私は、とりあえず超鈴音(だろう、ほぼ確実に)の様子を調べる。超包子というプリントこそないけれど、服装は学園祭編で着ていた強化服とやらに似ている。四葉さんが怪我をしていると言ったのを気にしていたのだが、どうやら大きな怪我はないようだ。打撲っぽいあざや切り傷、擦り傷。痛そうではあるけど、障害走の途中で転んだときの私とそう大差ないと思う。
では意識を失っているのは何故なのか、ということになるが、これはおそらく航時機を使ったことによる魔力の枯渇が原因だろう。
世界樹の魔力が消えかけていたということも勘定に入れなければならないが、ネギは一週間の跳躍でさえ体調を崩していた。
超は基本的に航時機内部に溜め込まれた魔力を使っていたようだったが、なにしろ百年単位の時間跳躍だ。体にどれくらいの負担がかかるものなのか、私には分からない。貯めた魔力では足りなくて、自身の魔力が無理やり引き出されるくらいのことは、あってもおかしくない。そして、超にとって魔力を行使するということは、呪紋回路を使うことと同じ意味のはずだ。
負担を少なくするために二十二年ずつ跳んできたのだとしても、跳躍時間が長いという点は同じだ。……いや、小分けに跳んだら発光の周期がずれていることに気づけただろうから、やはり百年単位で一気に跳んだのだろう。
とりあえず、私にできることは、今のところ何もない。手当てをしようにも、それは四葉さんが救急セットを持ってきた後の話だ。
ただ、体育用具室の中はお世辞にも温かいとは言えないので、上着を脱いで超にかけた。四葉さんのと合わせて二枚だから、多少はあったかいんじゃないだろうか。
超の寝息は、乱れることもなく、穏やかだ。たぶん、休みさえすれば目を覚ます、と、思う。
本当は、誰か医学的な知識のある人に診せたいのだけれど、ぱっと思いつく中で、学園側と無関係でその手の知識があるのは、東洋医学研究会の会長だった超くらいだ。その本人が眠っているわけだから、どうしようもない。
あ、でも、葉加瀬さんなら多少は知識があるかもしれない。ガイノイドを作る研究をしていたのだから、人体の構造について、多少なりとも勉強をしているんじゃないだろうか。内科よりは外科に偏っていそうだけど、私よりはましだと思う。
しばらく待っても意識が戻らないようなら、四葉さんに相談してみることにしよう。
長く待つこともなく、四葉さんは毛布と救急箱を持って戻ってきた。私にそれを渡すと、何か温かいものを用意してくると言って、再び用具室を出て行った。
私が怪我の応急手当てを終えて超に毛布をかけ、上着を着なおした辺りで、四葉さんは大振りな水筒を二本とマグカップを三つ持って帰って来た。
中身を聞いてみると、甘めのホットミルクと即席のコンソメスープだそうだ。即席と言っておきながらインスタントではない辺り、さすがは四葉さんと言ったところだろうか。手際がいいなあ。
とりあえずの手当てを終えたことと、私が見た限りではしばらくしたら目を覚ましそうだということを四葉さんに伝える。ついでに、人の体に詳しそうな友人がいるから、不安ならその人を呼ぶということも一緒に話す。
四葉さんは私の言葉に安心したのか、表情を緩める。超の寝顔が穏やかなのもあって、少し二人で様子を見てみることになった。
私はコンソメスープを、四葉さんはホットミルクをカップに入れて、ようやく人心地がついた形になる。せっかくなので、ちょっと疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「そういえば、今さらって感じだけど、なんで私を呼んだの?」
気を失っている女の子を一人にできないという気遣いは分かるけれど、そこで私を呼んだ理由がわからない。本来の流れでも同様の事態が発生したのだとすると、ここに呼ばれたのは私以外の誰かか、あるいは誰も呼ばずに四葉さんが一人で対処したかのどちらかのはずだ。
四葉さんは少し考えるようにしてから、同級生の中で一番しっかりしてるから、と答えてくれた。
なるほど、確かにそういう基準で選ぶなら私になってしまうだろう。医者や先生が駄目ということは、大人に知られたくないということだ。私がいなかったら、お料理研究会の先輩を頼っていたのかもしれない。
まあ、まともな小学生の中で一番しっかりしているのは、間違いなく私の前で穏やかな笑顔を浮かべている四葉さんなのだけれども。
私達はそんなことを話しながら、超が目を覚ますのを待った。春日さんに部活を休む旨をメールしたり、帰るのが少し遅くなるかもしれないと家に電話をしたりしていると、三十分ほどはすぐに経過した。超が倒れてからだと、一時間くらいは経っているんだろうか。
携帯電話の時計を確認してみると、現在時刻は十六時過ぎ。あと一時間くらいは大丈夫だろうけど、それより遅くなってしまうと、宿直の先生か用務員さんが鍵をかけにくるかもしれない。
「四葉さん、ここに居られるのはあと一時間くらいだと思うんだけど、どこか移動できるところに心当たりとかないかな。この子、訳有りっぽいんだよね?」
ぱっと良い場所が思いつけなかったので、四葉さんに話を振ってみる。先生とかがいなくて、雨風がしのげるところ、という条件だと公園のトイレくらいしか出てこなかった。
四葉さんは小さく首を振って、すみません、思いつかないです、と言った。けれど、その後で目に力を込めて、いざとなったら自分の家に連れて行く、と続けた。
見ず知らずの行き倒れを拾って自分の家に連れて帰る人って本当に存在するんだ、と私はなんだか感動してしまった。いや、感動している場合じゃないんだけど。四葉さんのご両親とか説得しないといけないし、移動中は先生に見つからないようにしないといけないしで、困難な道であることに変わりはない。
「心遣いはありがたいが、その必要はないヨ」
突然会話に割り込んできた声に、私はびっくりして振り返る。いつから気がついていたのか、超鈴音はマットからゆっくりと体を起こす。
四葉さんも驚いていたようだったが、目が覚めたんですね、良かったと、すぐに微笑みをこぼす。
超はそんな四葉さんに視線を向けると、あまり表情を変えずに言った。
「迷惑をかけてしまたようネ。それにどうやら、先生達にも知らせないでいてくれたようダ。恩に着るヨ」
頼まれましたから、とそんな言葉を笑って言える四葉さんは、やはり強いのだと思う。
四葉さんは水筒を手にとって、三つ目のマグカップにホットミルクを注いだ。温まりますよ、と差し出されたそれを、超は素直に受け取った後で床に置く。
「ありがとう。落ち着いたら頂くヨ」
その態度にちょっとした引っ掛かりを感じて、私は心の中で首をひねる。そして、一つのことに思い当たった。
こちらを警戒している?
超のいた未来というのがどういう状況なのかは想像するしかないけれど、初対面の人間が出してきたものを飲めない程度に荒んでいた可能性は、十分ある。私の予想通りに、超がこの時代に跳躍してきたばかりだとするなら、現代の常識ではなく、未来の常識を基準に行動していても、不思議ではない。
「なんにしても、大事無いみたいで良かったよ。あ、四葉さん、おかわり貰うね」
私はコンソメスープを自分のマグカップに注ぎ足して、ずず、と一口すする。
「あ、こっちはコンソメスープ。しょっぱい系のが好きなら、私の飲みさしで良ければ進呈するけど?」
問いかけると、超の目がすっと細くなった。ありゃ、見透かされてしまっただろうか。
いや、でもさ。四葉さんは掛け値なしの善意で動いてるのに、そういう態度をとられてしまうと、ちょっと悲しいのだ。たとえ四葉さんが気にしなくても、私が気にする。だって、超をどうこうするつもりなら、寝ているうちにどうにでもできていたんだから、少しくらい四葉さんを信用してくれてもいいと思う。
「そうネ、甘いのよりは塩辛い方が好みヨ。一口頂いてもいいカナ?」
「別に全部飲んじゃってもいいよ。私はそっちのホットミルクでもいいし」
言いながら、マグカップを手渡す。四葉さんの作ったホットミルクだ。それはもう甘さが絶妙なことになっていると思って間違いない。視線で超に許可を取り、ホットミルクを自分の側に引き寄せる。
コンソメスープを一口すすった超は、口の端を持ち上げて小さく笑った。
「おいしい、ネ」
ありがとうございます、と四葉さんが笑う。
「私は超、超鈴音ヨ。私を助けてくれた二人の名前を教えてもらえるカ?」
四葉五月です、と私の隣であっさり名乗る四葉さん。この状況で名前を言わないというのも変な話なので、私も名乗る。
「坂本春香です。えーと、よろしく、超さん」
よろしくお願いします、と言いながら、四葉さんもぺこりと頭を下げた。
私が四葉さんに敵わないと思ってしまうのは、今この状況に至っても「なぜ」を超さんに問わずにいられるそのメンタルだ。なぜ怪我をしているのか、なぜ倒れたのか、なぜ医者や教師に知らせてはいけないのか、私に事前知識が無ければ確実に問い質したであろう事柄を、問わない。
相手が訳有りで、なおかつその訳に踏み込んで欲しくはないだろうことを、無意識にか意識的にか、察してしまえる。そして相手の事情を慮って、実際に踏み込まないでいられる。これはもう、才能と言ってしまって良いだろう。
痛むところはありませんか、と超さんに問いかけるその横顔にはひとかけらの打算もない。
「痛いカと言われると怪我してるトコロは全部痛いけどネ。問題ナイヨ。ちょと派手に転んだだけダヨ」
いやあ、冗談にしても転んだは無いんじゃないかな。そんな怪我するほど派手に転ぶ人なんて……。
坂本さんみたいですね、という四葉さんの発言に撃沈する私。うんそうだね、私はよく転んで怪我してるね。これでも最近は背が伸びてきたから転ぶ頻度減ったんだよ?
ちょっと情けなくなった気持ちを誤魔化すために、ホットミルクを一口飲む。あ、おいし。
「ふふ、改めて礼を言わせて貰うヨ。四葉サン、坂本サン、ありがとう」
「いやいやいや、私は四葉さんに呼ばれてここで見てただけだし、気にしないでよ」
というか、本来私はここにいないはずの人間なのだ。予定も大幅に狂ってしまった。たぶん、魔法先生達がちゃんと調査すれば、超鈴音との第一遭遇者が四葉さんと私であることまではばれてしまうんじゃないだろうか。
けれど、四葉さんが安心したというように笑っているのを見ると、それはそれで仕方ないかと思えてしまう。だいたい、四葉さんと友人になりたいと思ったのは私の方なのだし。
まあ、とりあえず、超さんの体については大丈夫なようだ。どうやら本当に魔力が枯渇していたか何かだったらしい。ならばせめて、私はさっさとこの場を退散するべきだろう。
超さんとの接点は、少なければ少ないほどいい。第一遭遇者というだけなら、心優しい女の子二人で済ませてもらえるだろう。
私は少し冷めたホットミルクを一息に飲み干すと、カップを置いた。
「超さんも気がついたみたいだし、時間も遅くなってきたし、私は先に帰るね。あ、毛布と救急箱、返しておこうか?」
薄情なことを言っているのは自覚していたので、せめて後片付けを申し出てみたが、さらりと断られた。四葉さんが言うには、どちらもお料理研究会の備品らしい。救急箱はともかく、毛布なんて何に使うんだろうか。
では、と立ち上がり、用具室を出ようとしたところで、一つだけ聞いておかねばならないことがあると気づいた。振り返り、超さんの顔をみる。
「家出か何か知らないけど、泊まるところは確保してあるんだよね?」
野宿、とか言われたらさすがに見過ごせない。いくら麻帆良の中とはいえ、女の子がそんなことをしては駄目だ。そのときは仕方ないから、私の家か四葉さんの家に強制連行させてもらう。ウチの両親なら、友達だと言えば一日くらい余裕で泊まらせてくれると思う。
しかし、そんな私の気遣いに、超さんは苦笑する。
「家出ではナイヨ。来年度からここの中等部に通うから、その下見ネ。ちゃんと準備してきているから、安心ヨ?」
準備、というのが何を指すのかは分からないけれど、アテがないというわけでもなさそうだ。なら、まあ、大丈夫か。そもそも、時間跳躍後の身の処し方を超が計画していない訳がないのだから、この問いは余計であった気もする。
でも、計画していない訳がないのに、いきなり体育用具室でぶっ倒れていたりするものだから、ちょっと心配になったのだ。百年単位の跳躍なんて実験できるわけが無いから、仕方ない部分もあるのだろうけど。
「そっか。うん、安心した。じゃあ超さん、中等部ではよろしく。私も四葉さんも、同級生だよ。四葉さん、また明日ね」
私は軽く手を振って、体育用具室を後にした。
外に出てみると、あたりはすっかり暗くなってしまっていた。さすがに冬は日が落ちるのが早い。
麻帆良のあたりは雪が積もるということは滅多にないが、その代わり、冬の乾いた風は刺すように冷たい。
思わず首をすくめて背中が丸くなってしまうけれど、私は気を取り直して背筋を伸ばした。超さんが来た。まだ物語の開始は遠いけれど、ここが一つの区切りであることに違いは無い。
一ヶ月もして年が明ければ、絡繰茶々丸が完成する。そして四月になればついに中等部だ。ネギが麻帆良に来る前の下準備が重要な私の作戦では、主要メンバーが勢ぞろいするこれからこそが本番と言える。
気合を入れるつもりで、ぱん、とほっぺたを両手で叩いてみた。北風で冷えたほっぺたは、予想していたよりもじんじん痛かったけれど、その分しっかりと気合が入った気がした。