Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第六十五話 Nursing care

ディーキンは、怪訝そうにしながらも自分の要求を聞き届けてくれた老僕に礼を言うと、いよいよタバサと共に夫人の元へ向かうことにした。

トーマスもまた2人に同行を申し出たが、タバサは首を横に振る。

 

「あなたが会っても無駄。

 今の母さまには、あなたのことはきっとわからない」

 

「……ですが!

 そうだとしても、私にも奥様のために何か、少しでもできることがあれば……」

 

「駄目」

 

タバサは食い下がるトーマスに対してきっぱりと拒絶の意志を示すと、再び首を横に振った。

 

「あなたにまで、母さまのあんな姿は見せたくない。

 母さまも、元に戻った時にあなたに見られていたとわかったら、きっと嫌だと思う」

 

それから、悲しそうに項垂れるトーマスの手をそっと取るとほんの僅かに、しかしはっきりと微笑んで見せた。

 

「ごめんなさい、でも、母さまが元に戻られたら、その時にこそ会ってあげてほしい。

 ペルスランやあなたが今でも傍にいてくれていると知ったら、きっと喜ばれるはずだから……」

 

「お嬢様……」

 

トーマスは感極まったのか少し涙ぐむと、タバサの手を握り返して力強く頷いた。

 

「……わかりました。このトーマス、無力ではありますが、せめて始祖にご加護をお祈りしております」

 

それから、ディーキンの方にも向き直って深々と御辞儀をする。

 

「どうかお嬢様と奥様のことをよろしくお願いいたします、ディーキンさん」

 

ディーキンは2人のやり取りをじっと見て、嬉しそうに目を細めたり、さらさらとメモをとったり、していたが……。

トーマスに頭を下げられると、手を止めてしっかりと頷いた。

 

「もちろんなの。ディーキンは、いつだって全力を尽くすよ!」

 

 

 

ディーキンはタバサに先導されて、彼女の母が寝かされている部屋へと向かっていた。

 

人がいないのだから当たり前だが、どこもかしこもシーンと静まり返って薄暗い。

それでも、埃が積もったり蜘蛛の巣が張ったりしているような場所はなく、手入れが行き届いて綺麗なものだった。

この屋敷を管理する使用人が今はたった一人しかおらず、しかもそれが年老いた執事であるという点を考えれば、これは大したことだろう。

あのペルスランという老僕の誠実さと、この家系に対する忠義の高さとがうかがわれた。

 

やがて、タバサは屋敷の最奥にある部屋の扉の前で足を止めた。

 

一応コンコンと扉をノックしてみたが、返事はない。

いつものことだ。

タバサは構わずに、扉を開けて中に入った。

 

「……アー、勝手に開けちゃって、申し訳ないの。

 ディーキンはちょっとだけ、奥さんのお部屋にお邪魔するね?」

 

少し首をかしげたディーキンは、そう言って頭を下げておいてから、タバサに続いて中に入った。

室内にいるという哀れな夫人をおびえさせないために、あらかじめ《変装帽子(ハット・オヴ・ディスガイズ)》を被り直しておく。

 

部屋は、広々として立派なつくりだった。

 

元々はおそらく、貴人の私室らしい豪奢な内装の部屋だったのであろう。

だが、今となっては煌びやかな調度品も、柔らかいカーペットも、美麗なタペストリもない。

古びて傷んだベッドと、椅子とテーブル以外には家具のひとつもなく、なまじ大きい分だけ余計に殺風景だった。

心を壊したこの部屋の主が暴れて痛めてしまうのを懸念して、殆ど物を置かないようにしてあるのだ。

季節は春とはいえ湖から吹く風は冷たいので、この部屋の主の体に障らぬようにとの配慮から窓も閉め切られ、カーテンが引かれている。

そのために室内は薄暗く、空気が重苦しく淀んでいるように感じられた。

 

この部屋の主であるタバサの母親、オルレアン公夫人は、ベッドの片隅にうずくまっていた。

 

壊された心を蝕む悪夢からくる心労のためなのか、あるいはそれと併せて病などにも侵されているのか、彼女はひどくやつれていた。

タバサと同じ鮮やかな青髪は、手入れもされずに痛んで伸び放題で、まるで幽鬼のようだ。

娘の年ごろから見ても実年齢はおそらく三十代の後半程度なのだろうが、たっぷり二十は老けて見える。

それでもなお、元はさぞや気品のある美しい女性だったのだろうという面影が、微かに見て取れた。

 

夫人はまるで乳飲み子のように、抱えた人形をぎゅっと抱きしめて、おびえた目で闖入者たちの方を見つめている。

彼女はやがて、わななく声で問いかけた。

 

「……だれ?」

 

タバサはすっと彼女に近づくと、深々と頭を下げる。

 

「ただいま帰りました、母さま」

 

しかし狂気に侵された夫人は、彼女のことを自分の娘だと認めることはなかった。

目を爛々と光らせて、刺々しく吐き捨てる。

 

「下がりなさい、この無礼者が!」

 

実の母からそのような言葉を浴びせられても、タバサは身じろぎもせずに、黙って頭を垂れ続けた。

内心でどれだけ傷ついていようと、それを顔に表すことはない。

 

「わかっているわ、王家の回し者でしょう。わたしから、シャルロットを奪おうというのね?

 誰があなたがたに、可愛いシャルロットを渡すものですか!」

 

夫人はそう言って、抱きしめた人形にしきりに、愛おしげに頬擦りをした。

毒薬によって心を病んだ彼女は、その人形を自分の娘であるシャルロットだと思い込んでいるのだった。

 

元々は彼女自身が娘に買い与えたもので、幼い頃のシャルロットはそれにタバサという名前を付けて、妹のように可愛がっていたものだ。

その名前が、現在本物のシャルロットが名乗っている、タバサという偽名の由来なのである。

何度も何度もそのようにして頬を擦りつけられたのであろう人形の顔は今や摩耗して破れ、綿がはみ出ていた。

 

「………」

 

タバサはゆっくりと顔を上げると、悲しげな笑みを浮かべた。

 

それは、母の前でのみ見せる表情だった。

母が心を病んでから随分と長い間、それだけが彼女の唯一の表情だったのだ。

キュルケと友人になってからは多少なりとも感情を顔に表すこともあったが、それもごく稀な出来事でしかなかった。

 

しかし、ディーキンと知り合ってからは色々とあって、タバサも僅かながら表情を崩すことが多くなってきた。

そして今日は、もし予定通りに事が運んだならば、彼女にとって最高の日となるはずだった。

 

(きっと、うまくいく……)

 

そうなってくれれば、こんな表情を浮かべるのもきっと最後になることだろう。

そのことを思うと、タバサの胸を満たす悲しみは消え、代わりに期待と不安とが入り混じった感情が胸中に渦巻いた。

 

この人なら、きっと母さまを救ってくれる。

私の勇者に、なってくれる。

 

タバサは不安を打ち消すように自分にそう言い聞かせると、すっと後ろに下がって、ディーキンの傍らに並んだ。

それからもう一度、頭を深々と下げる。

 

「母さまを救ってくれる、勇者をお連れしました。もう、悪夢も終わります。

 あなたの夫を殺し、あなたをこのようにした者どもの首も、いずれ私がここに並べてごらんにいれます――――」

 

タバサから紹介されたディーキンはしかし、その言葉を聞いてやや顔をしかめると、じっと夫人の方を見つめた。

今のは少々、不穏当な発言であるように思えたのだ。

 

ディーキンの懸念したとおり、夫人は実娘のその言葉を聞いても喜ぶどころか、一層敵意を強めたように見えた。

彼女は砕けた心の理解の及ぶ範囲で、今でも必死に、自分と娘に纏わり憑く実体のない悪夢と戦い続けているのだった。

 

「ああ、おそろしいことを……、この子がいずれ王位を狙うだろうなどと、誰がそのようなことを!?

 あの呪われた舌の、薄汚い宮廷雀たちにはもううんざり! わたしたちはただ、静かに暮らしたいだけなのに……。

 下がりなさい! 下がれ!!」

 

夫人は金切り声をあげると、実の娘にテーブルの上のグラスを掴んで投げつけた。

 

タバサはそれを、避けようともしなかった。

ただ黙って、自分のために心を壊した母からの暴行を受け入れようとする。

 

しかし、投げられたグラスがタバサの頭に当たる前に、ディーキンがぴょんと彼女の前に飛び出した。

彼はそれを器用に空中でキャッチすると、床に降り立つ。

 

「はい。いい道具を、どうもありがとう」

 

ディーキンはなおも怯えて喚き続ける夫人ににっこりと微笑みかけると、グラスを掲げてちょこんと頭を下げた。

それから、そのグラスを使って、即興の芸を披露し始める。

 

くるくると体の周りを回しながら、別の手持ちのグラスも一緒に取り出して、お手玉のようにして遊んでみせたり。

それらのグラスを楽器に仕立てて、簡単な音楽を演奏して見せたり。

さいころなどの小さな小物をどこからともなく取り出したり、そうかと思えばぱっと消してみせたり……。

 

トーマスなどと比べれば技術的には拙いが、ディーキン自身の話術や見せ方の上手さと相まって、余興として十分に楽しめるものだった。

しばらくそんな芸を見せた後、一区切りしたあたりでディーキンは御辞儀をすると、グラスをテーブルの上に返却した。

 

「どう? さっきはちょっと、こっちのお姉ちゃんが怖がらせてごめんなさいなの。

 ディーキンたちはただちょっと、お姉さんと娘さんのために、いろいろな芸を見せに来たんだよ!」

 

(彼は、一体何を?)

 

タバサは、早速治療に取り掛かるのかと思いきや、唐突に芸などを始めたディーキンを、しばし戸惑ったように見つめていた。

だが、ふと自分の母親の方に注意を向けると、唖然とした。

 

これまで、人が現れればきまって怯え、人形をしっかりと抱き締めて、出ていけと叫ぶばかりだった母が。

誰であれ近づいたりすれば、金切り声をあげて暴れ始める母が……。

ぼうっとした様子ではあったが、途中からディーキンの芸を黙って、じっと見つめだしたのだ。

笑顔や拍手、賞賛の言葉こそなかったけれど、グラスを返すために彼がベッドの脇のテーブルに近寄ったときにも怯えることはなかった。

 

タバサのそんな驚きをよそに、ディーキンはテーブルの傍で、しげしげと夫人の顔を見つめていた。

 

「ンー……、お姉さんはきれいな人だね。

 でも、ちょっと髪とかが傷んでるみたいだよ。この部屋って、鏡はないの?」

 

そんなことをいいながら、さっと手鏡を取り出して、夫人に自分の顔を見させてやる。

《内なる美(イナー・ビューティー)》の呪文焦点具に使用している高価な品で、高貴な身分の女性が使っても恥ずかしくない代物だ。

 

夫人は、鏡に映る自身のやつれた顔を、黙ってぼんやりと見つめた。

ディーキンはその様子をしげしげと観察してから、おもむろに声をかける。

 

「ねえお姉さん。ディーキンは芸人だから、お芝居の扮装に必要なお化粧とか髪の手入れにも詳しいんだよ。

 よかったら、お姉さんの髪も手入れしてあげるの。きっと、すごくきれいになると思うな!」

 

無邪気そうにそう言ってから、ディーキンは夫人の様子をじっと観察して、怯えたり拒絶したりする気配がないのを確かめた。

それから、断りを入れた後にベッドの上にのぼり、彼女の手を引いてゆっくりとそこから降りさせて、椅子に座らせる。

 

「ウーン……。ねえタバサ、もっと大きな鏡はないかな?

 ちっちゃな手鏡だと、お姉さんに自分のきれいな姿をちゃんと見てもらえないからね!

 アア、それと、ディーキンが乗るための踏み台も、あると嬉しいんだけど……」

 

タバサは自分の母親と同じくらいぼうっとした様子でディーキンのすることを眺めていたが、そう声をかけられて、はっと我に返った。

夫人に頭を下げて一旦部屋から退出すると、すぐに手近の別室から、姿見と踏み台とを運んでくる。

 

タバサには、ディーキンがどうしてさっさと魔法を使って母の治療をせずに、こんなことをし始めたのかはよくわからない。

実の娘である自分を差し置いて、心を失った母に受け入れられているらしい様子にも、心中穏やかでない部分はある。

それでも、母の様子がこれまでになく穏やかなのは確かで、希望に胸が膨らむ思いがした。

 

(今は、あの人を信じよう)

 

質問などは、すべてが済んでからゆっくりとすればいいのだ。

タバサは、そう自分に言い聞かせた。

 

「ありがとうなの。じゃあ、今からディーキンは、お姉さんの美容師だからね!」

 

ディーキンはタバサが運んできてくれた踏み台に登ると、早速夫人の髪の手入れに取り掛かった。

 

迂闊に鋏などの刃物を見せては夫人が怯えて暴れるかもしれないので、とりあえず髪は切らずに櫛で梳っていく。

その際に細かい枝毛などは、密かに自前の鋭い爪の先で挟んで、ちょいちょいと切っておいた。

それから、ディーキン愛用のビターリーフ・オイルを香油として塗って、束ねて整える。

 

ディーキンの見立てでは、夫人の様子からしてなんとなくだが、彼女がその香油の匂いに若干心を動かされているように感じられた。

 

コボルドが身嗜みを整えるのに使うこのオイルの匂いは、はしばみ草というこちらの世界の食品に似ているのだが……。

そのあたりになにか、昔を思い起こさせるような部分でもあったのだろうか?

たとえば、彼女の好物だったとか。

 

(ンー……、まあ、今は関係ないかな?)

 

ディーキンはひとまず深く詮索するのは避けて、続けて彼女の顔に化粧を施してやることにした。

冒険者用の変装用具セットの中から化粧品類を取り出して、夫人の顔にあれこれと塗ったり、白粉をはたいたりしていく。

 

他人の、それも人間の女性の髪や顔の手入れなどをするのはさすがに初めてだったが、なかなか上手くやれていた。

《なんでも屋》としての器用さと、《即興曲(インプロヴィゼイション)》の呪文の恩恵。そしてディーキンの基本能力それ自体の高さ。

それらを組み合わせてやれば、このくらいは朝飯前なのである。

 

もちろん、呪文を使うところを見られれば、彼女に警戒されてしまう恐れがあった。

だが、ディーキンほどの術者ともなれば、そうそう気付かれずに呪文を発動する術くらいは心得ているものだ。

 

そうして一通り手入れをすませた頃には、夫人は見違えるほど美しくなっていた。

以前よりも髪が伸び、頬がこけ、皺も増えてはいるものの、かつてのオルレアン公夫人を思わせる姿であった。

 

その上にさらに《内なる美》の呪文を掛けることも考えたが、呪文の影響に晒された彼女を怯えさせる恐れがあるので、当面は差し控えた。

いくら呪文の発動自体は悟られずに行なえても、他者にかける呪文では抵抗されて気付かれる可能性があり、よりリスクが高まる。

 

「へっへっ。お姉さん、すごくきれいになったの。どう?」

 

ディーキンは大きな姿見を夫人の目の前まで動かして、自分の姿をしっかりと見させてやった。

 

夫人はしばらく、ぼうっと鏡に映った自分の姿に見入っていたが……。

やがて微かながら、確かに笑みを浮かべた。

 

「……! 母さま?」

 

それを見たタバサは、母が正気に戻ったのかと慌てて傍に駆け寄り、彼女に呼びかけてみる。

 

しかし、夫人は実の娘が近寄ってきたのに気が付くと、怯えたように身を竦ませてしまった。

それでも、いつものように、叫んだり暴れたりすることはなかったが……。

 

「ねえタバサ、申し訳ないとは思うけど、あんまり焦らないで。

 それに、お姉さんを怖がらせちゃダメだよ?」

 

ディーキンはそういうと、怯えた夫人の肩を優しくたたいて大丈夫だと宥めながら、仕上げに爪の手入れをしてやった。

小さいとはいえ刃物を使って切るので、夫人の緊張を解いてからと思い、最後に回したのである。

 

短く切った後、仕上げに自分も爪の手入れに使っているやすりで軽く磨いて手入れを終えると、ディーキンは台から降りて御辞儀をした。

今切ったばかりの爪や枝毛などをしっかりと小袋に入れて保管し、退出する。

 

「それじゃ、ディーキンとタバサは一度失礼するね。

 今度またお邪魔して別の芸をお見せするから待ってて、お姉さん」

 

 

 

「……ありがとう」

 

ひとまず休憩のために手近の空き部屋に入って椅子に腰を下ろすと、タバサはディーキンに深々と頭を下げてお礼を言った。

タバサの正面の席にちょこんと座ったディーキンは、きょとんとして首を傾げる。

 

「ン? ディーキンはまだ、お母さんの治療も何もしてないよ?」

 

「毒を飲んでから、母さまがあんなに穏やかだったことはない。

 それに、母さまは綺麗になって、笑っていた……」

 

母が、満面の笑みではなくても、微かにでも笑顔を浮かべたことなど、心を失ってから一度でもあっただろうか。

少なくとも自分は見たことがない。

 

(そう言えば、自分もこの人と話すようになってから、少し笑えるようになった気がする)

 

彼の『主人』であるルイズも、最近は不機嫌そうな刺々しい態度を取ることが、めっきり減ったように思える。

きっと彼には、周りの者の気持ちを和ませ、心を開かせる力があるのだろう。

それが、心を失ったはずの母にさえ通じたということなのか。

 

これまでどんな魔法をもってしても元に戻せなかった母の心を、僅かにでも癒したとするなら。

それはある意味では、魔法よりも強い力だとさえいえるのかもしれない。

 

それにしても、まだよく分からない点も多い。

タバサはひとまず礼を言い終えると、今度は先程から疑問に思っていた事柄について質問してみた。

 

どうして、すぐに治療をせずに、手品師や美容師の真似事をしただけで部屋を出たのか。

どうして、自分でさえ受け入れてくれない母に、彼は受け入れられたのか。

どうして、……。

 

ディーキンは少し考えると、それらの疑問に対して順に答えていった。

 

「ええと、まず、タバサのお母さんに怖がられないようにお話した、っていうことについてだけど……。

 ディーキンは普通に、相手を怖がらせないようにするにはどうしたらいいかなって考えて、反応とかをみながらやってただけだよ。

 別に何も、特別なことはしてないの」

 

「でも……」

 

母さまは、私のことは怖がる。

実の娘である私を受け容れてくれないのに、どうして初対面であるあなたを。

 

タバサは胸の中にもやもやした激しい気持ちを抱えたまま、問い詰めるような、訴えかけるような目で、ディーキンを見つめた。

そのことを直接口に出せなかったのは、先日身勝手な嫉妬で彼を傷つけたことを恥じているからだ。

 

ディーキンはちょっと首を傾げてから、遠慮がちに口を開く。

 

「ウーン……、たぶん、タバサの場合はお母さんに話しかける、そのやり方があんまりよくなかったんじゃないかな?

 ディーキンが見た感じではそう思った、っていうだけだけど……」

 

「……私のやり方が、よくない?」

 

「そうなの。ええと、たとえば……、お母さんは今、タバサが自分の子どもだってことが分からなくなってるんでしょ?

 つまり、見ず知らずの人が突然部屋に入ってきたってことなの。

 なのに、その知らない人からいきなり『母さま』なんて呼ばれたら、びっくりしちゃうんじゃないかな。

 それに『あなたの前に首を並べにくる』とか、そんなことを言われたら誰だって怖いでしょ?」

 

「……」

 

「それから、お母さんは、ええと……。『宮廷雀にはうんざり』だとか、そんなふうなことを言ってたよね。

 それはきっと、周りの人たちに裏切られて毒を飲まされたからそう思ってるんだと思うの。

 だから、なんていうか“貴族やその取り巻きを思わせる”ような態度で話しかけたら、余計に警戒するんじゃないかな、って」

 

タバサやペルスランを受け容れないのも、きっと彼女らが夫人を高貴な身分の貴族として扱うせいだろう。

ディーキンはそう思ったから、夫人の前ではそういう堅苦しい礼儀作法とは程遠い、いつも通りの人懐っこい話し方をしていたのだ。

 

「あとは、きっと暴れるせいでちゃんとお世話ができなかったんだと思うけど、すごくぼろぼろの格好だったよね。

 物を置いておいたら危ないからだとは思うけど、家具とかも全然なかったし、薄暗いし……。

 そんな酷い恰好のままで、あの部屋にずっといさせられたから、余計に“自分は酷い扱いを受けてる”って思ったんじゃないかな?」

 

だから、ディーキンはまずは芸を見せて彼女の警戒を解き、姿見を部屋に運ばせて、髪などの手入れをしたのである。

グラスを正確に狙った場所へ投げられるくらいには自由に体も動くのに、ベッドに寝たきりにさせられている様子なのも気になった。

ゆえに手を引いてベッドから降りさせ、自分の脚で椅子まで歩いて座るように誘導した。

ただ独り善がりに自分の世話を押し付けるのではなく、夫人の反応を見て喜んでいるかどうかを確かめながら、色々と試行錯誤したのだ。

その結果、久し振りに人間らしい扱いを受けられたと感じた夫人は、気持ちを解して笑顔を見せてくれた。

 

少なくともディーキン自身が理解している限りでは、さっきやったのはただそれだけのことである。

 

「タバサは、優しい人だよ。さっきも、トーマスさんのことを思いやってるのがすごく伝わってきたの。

 ペルスランさんも、こんな広いお屋敷に一人で頑張って、きっと真面目でいい人なんだと思う。

 でも、2人とも昔のお母さんのことをよく知ってるから、逆に今のお母さんのことをちゃんと見れてないところもあるんじゃないかな?」

 

在りし日のオルレアン公夫人は、優しく美しく、聡明な人物であったという。

心を病んでやつれきった現在の姿からでも、その面影が窺えたくらいだ。

だからこそ、かつての彼女をよく知っている2人には、今の彼女の姿を認められないところがあるのだろう。

心のどこかで、おかしくなってしまった今の夫人には何もわからない、何をしても無駄だと思い込んでしまっているのだ。

それゆえ毒の影響を取り除くことだけが重要で唯一の解決策だと考え、今の彼女に快適に過ごしてもらおうという配慮に欠けている……。

彼女の身の安全には配慮しながらも、居心地の良さや精神的な健康は重視していないあの私室の様子を見て、ディーキンにはそう思えた。

 

対してディーキンは、かつての夫人の姿については何も知らない。

知っているのは、毒で判断力を失ったために周りのものすべてに怯えながらも、なおも娘のために懸命に敵の影と戦おうとする女性の姿。

哀れな中にも気高い強さを保っている、現在の彼女の姿だけだ。

夫人の思考力が完全に失われていないことも、ただ虚心に彼女の様子を観察すれば明らかだった。

判断力や認識力に欠陥こそあれど、ちゃんとした言葉を話しているし、誰かが部屋に入ったこともわかっていたのだから。

 

タバサやペルスランは今の夫人の状態を受け容れられないから、今でも彼女のことを母と呼び、公爵夫人として扱った。

現在の彼女の理解や気持ちを考えてそれに合わせようとはせず、ただ彼女の身の安全だけを第一に考えた。

一方ディーキンは、今の夫人の状態をそのまま受け容れた。

彼女に何がわかって何がわからないのか、どんな気持ちなのかを理解しようと努めた。

同じように心から夫人のことを思いやって行動した両者の間になにか違いがあるとしたなら、それは技術とかの問題ではなくその点だろう。

 

ディーキンはその事を、タバサになるべく詳しく、丁寧に説明してやった。

 

「……そう。そうなのかも、しれない……」

 

タバサはディーキンの説明を聞くと、しばらくじっと俯いて物思いに沈んだ後、ぽつりとそういった。

 

確かに、言われてみれば自分たちの母への対応には、いささか問題があったように思う。

今の母にはどうせ何もまともにはわからないのだと、高をくくっている部分もあったかもしれない。

指摘されてみれば単純なことだが、自分もペルスランもそんな世話には不慣れで、周りに助言をしてくれる人物も誰もいなかった。

そのために、長い間思い至らなかったのだ。

 

ただでさえ毒に苦しめられている母に、杜撰な扱いをしてなおさら辛い思いをさせていたのかと思うと、胸が締め付けられる。

もっと早く気づいていれば、自分にも母の苦しみを和らげてあげることができたかもしれないのに……。

 

ディーキンはタバサの沈み込んだ様子を見て少々居心地悪そうにした後、体を伸ばして慰めるようにポンポンと彼女の頭を撫でた。

 

「その、タバサもこれからお母さんのために、何かしてあげたらいいんじゃないかな。

 お母さんを治すにはまだもう少し、時間がかかるからね」

 

「……? 時間が、かかる?」

 

タバサはそれを聞くと、顔を上げて不思議そうに目をしばたたかせた。

 

毒の治療は、あの奇妙な姿をした亜人だか天使だかを呼び出して、角で触れてもらうだけで終わりではないのか?

そういえば、それについての質問にはまだ答えてもらっていなかった……。

 

しかし、タバサがもう一度それについて質問する前に、ディーキンが彼女の疑問に対する説明を始めた。

 

「アア、いや。治療自体はきっと、すぐ終わると思うの。

 だけど、お母さんを治す前に、治った後のための“身代わり”を用意しておかないとね。

 それには少し、時間がかかるんだよ」

 

そう言いながら、ディーキンは机の上に、それに必要となるはずのいくつかの品物を並べ始めた。

 

それは、先程ペルスランに対して奇妙な要求をして譲り受けた、彼の爪や髪の毛が入った小袋。

今しがた夫人の世話を見たついでに手に入れた、彼女の爪や枝毛の入った小袋。

 

そして、インク瓶に似た形状をした、奇妙な小さいボトルであった……。

 




インプロヴィゼイション
Improvisation /即興曲
系統:変成術; 1レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(一対のさいころ)
距離:自身
持続時間:術者レベル毎に1ラウンド
 術者は運命の流れを自分の方に引き寄せ、流動的な“幸運プール”を利用できるようになる。
ゲーム上ではこの“幸運プール”は様々な作業の成功率を上げるために、自由に使えるボーナス・ポイントの形をとる。
プールの総量は術者レベル毎に2ポイントであり、自身の攻撃ロール、技能判定、能力値判定の結果を向上させるために任意に使用できる。
ただし1つの判定に与えられる幸運ボーナスの上限は、術者レベルの半分までである。
使用したポイントはプールから消え、呪文の持続時間が過ぎた時点でまだポイントが残っているなら、残量はすべて失われる。
 たとえば、20レベルバードがこの呪文を使用したとすると、最初の“幸運プール”は40ポイントである。
続く20ラウンドの間、このバードは各種の判定にポイントが許す限りの範囲で、最大で+10までの幸運ボーナスを得ることができる。
それは攻撃の命中判定でも、扉を打ち破るための【筋力】判定でも、あるいは<魔法装置使用>や<はったり>などの技能判定でも構わない。
 この呪文はバード専用である。

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