Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百三十二話 Wrath of God

 遁走する巨人どもを引き止めに行ったエリニュスが無惨にも叩き殺されたという報告を受けて、ル・ウールは腸が煮え繰り返る思いだった。

 

(図体ばかりの屑どもが、いずれ皆殺しにしてやる!)

 

 むろん、表面上は少々顔をしかめている程度で、平静な態度を装い続けてはいるのだが……。

 内心では、少しばかり情勢が悪くなった程度のことで逃げ出した(ル・ウールにはそうとしか思えなかった)臆病で愚かな巨人や亜人どもを罵倒し、延々と呪いの言葉を吐き続けた。

 

 貴様らなど、這いずり回るラルヴァにでもなってしまえばいい。

 蛆虫に体を齧られる、メインにでもなってしまえばいい。

 卑しいバーゲストどもに貪り食われて、魂の滓にでもなってしまえばいい。

 バートルの主アスモデウスよ、どうか彼奴らの魂を受け取りたまえ、そして踵で踏み潰したまえ。

 

 それに、そんな連中の手綱を取る役目ひとつ満足にこなせずに勝手に死んでいった、無能な部下に対しても。

 肝心なときに突然訪れた、不都合な運命に対しても……。

 要するに、自分にとって都合の悪いすべてのものに対して、ル・ウールは怒っていた。

 自己中心的なフィーンドの、このような状況下での態度としては、ごくごく典型的なものである。

 

 ル・ウールの傍に控える将官たちもまた、ひどく動揺していた。

 

「し、司令。このままでは、戦況は悪くなるばかりです。兵どもの士気も……」

 

「我々は、どうすればよいのですか?」

 

「どうかご指示を!」

 

 彼らとて本来は決してそう臆病でも無能でもないのだが、“天使”ら上位者たちの能力のみに頼り切ってきた怠惰な日々が、彼らから精神的なたくましさをすっかり奪ってしまっていた。

 なんら有効な手立てを講じるでも行動を起こすでもなく、ただただうろたえて、これまで全幅の信頼を寄せ続けてきた指揮官からの指示を待つばかりである。

 

「ええい! うろたえるな、小僧ども!」

 

 そう一喝したのは、年配のホーキンス将軍だった。

 その場にいたものは全員、はっとしてそちらの方を見る。

 

「各々方、少し落ち着かれよ。将たるものがそう取り乱しては、それこそ兵士たちの士気に関わるぞ」

 

 ホーキンスのその言葉に、少し離れた場所で黙って事の成り行きを見守っていたサー・ヘンリ・ボーウッドもまた、同調するように頷いた。

 

「……ふむ。その通りだね」

 

 取り乱したところのない彼らのその態度を見ていくらか気を取り直したル・ウールは、頭の中であらためて情報を整理して、現状にどう対応するべきかを考え始めた。

 

(とにかく、今は目の前の状況を何とかすることだな)

 

 陥落寸前の敵に対して投入して、まかり間違って砲撃などで沈められるのも惜しいと後方に下げておいた飛行船になら、まだ使える大砲が残っているだろうか?

 もしあれば、空からの砲撃によって城壁を破壊させられるかもしれない。

 ちょうどそこにいることだし、優秀な艦隊の戦術指揮官として知られるヘンリ・ボーウッドに、指揮をとるように命じるか。

 

 とはいえ、この期に及んでそんなものを、あまりあてにはできないだろう。

 何者かは知らないが、ここまで入念な仕込みを行ってきた敵が、制空権を握るための重要な戦力に対して何も細工をしていないとは考えにくい。

 それに、仮に万が一無事だったとしても、上空からの砲撃だけでは城は落とせない。

 砲撃で城壁を破れても、その後はどうしても制圧のために地上の戦力を城へ向かわせなくてはならないのだ。

 飛行船を降下させて城に乗り込もうなどとすれば、対空砲火のいい的になるだけだし、制圧に十分な人数を飛行船だけから城内まで無事に乗り込ませることはまずできまい。

 

(それでも、敵に多少なりと威圧感を与え、注意を引き付ける役にくらいは立とうか)

 

 飛行船を捨て駒のように使用するのは惜しいが、こうなっては犠牲が増えることなどにいつまでもこだわってはいられない。

 腹立たしい限りだが、今が非常事態だということは認めざるを得ない。

 

 かくなる上は、こちらの総力をもって、あの城壁を破ってくれよう。

 

 どうあれ、ひとたび城内へ雪崩れ込んでしまいさえすれば、残りわずか数百名ばかりの敵勢には成す術などないのだ。

 いかに火器の類が使えなくなろうとも、また愚かな巨人や亜人や、あてにならぬ他種族のフィーンドどもがいなくなろうとも、こちらにはまだ圧倒的な数の優位があり、自分たちデヴィルの部隊も残っている。

 兵士どもは腰が引けているようだが、こちらが叱咤激励して強く命令してやれば、突撃せざるを得まい。

 それで多少信望が傷つくことになろうとも、最終的に勝てさえすれば、後からどうとでも取り返しは付く。

 

(戦況が再びこちらの有利に傾けば、あの日和見主義のユーゴロスの傭兵どもも何食わぬ顔で戻ってくることだろうしな……)

 

 どうせ空とぼけたふてぶてしい態度をとるだろうが、それでも、短期間とはいえ戦場から姿をくらませた埋め合わせとして、制圧戦では多少の危険をおしてしっかり働けと要求することくらいはできよう。

 

 とにかく勝てば、大凡の問題はそれで解決する。

 ここまでの多少の失態も、手柄で帳消しになっておつりがくるというものだ。

 

「敵も、陥落前の最後の輝きを見せようとしているらしいね。よろしい、それでは我々のほうも……」

 

 しかし、ル・ウールが周囲の将官たちに指示を与えようとするよりも先に、城壁の前のほうで異変が起こった。

 

 突如として眩い多彩の光の柱がそこに生じ、荘厳な歌声のような音色が、あたりに鳴り響いたのである。

 腰が引けてなかなか城壁の近くへ攻め寄せられずにいたレコン・キスタの兵たちは、その光景を見ておおっ、と息を呑んだ。

 呆然として見上げるものもいれば、また何か、先ほどの『ヘクサゴン・スペル』のような恐ろしい攻撃が来るのではないかと想像して浮足立つものもいた。

 

 そして、その光が消えた時……。

 そこには何か神々しい雰囲気を漂わせる、巨人のように大きな人物が姿を現していた。

 

 その途端に、兵たちの動揺がより一層大きくなった。

 

 姿を現した人物は、どんな巨人よりもはるかに大きく、ニューカッスル城の傍に展開したレコン・キスタ陣営のどこからでもその姿を見ることができた。

 しかし、単純にあまりの大きさに驚いた、というわけではない。

 美しいローブに身を包み、深くフードを被り込んでいるその人物の顔や体を直接見ることはできない。

 それでも、その姿は、誰にとっても見間違えようのないものだったからだ。

 

「あ、あれは……、なんだ?」

 

 前線から遠く離れた司令部からその光景を見ながら、ル・ウールは怪訝そうに呟いた。

 それを聞いて、ホーキンスは一瞬だが、侮蔑と嫌悪感の籠った目を密かに、その司令官の方へ向ける。

 

(貴様は『あの人物』を見て、それが誰だかすぐにわからんというのか?)

 

 ハルケギニア人であるならば、その姿は幼い頃から、幾度となく見てきたはずだ。

 見慣れた者ならば、それぞれに多少の違いはあるにもせよ、多くのイコンに共通の印象的な特徴は見間違えようはずがない。

 

(やはり、皇太子の言われた通りであったな)

 

 こやつはかの伝説の名将、ル・ウール侯などではない。

 それどころか、人間ですらない。

 昔日の英雄の名を騙る、異界から来たおぞましい悪魔なのだ。

 

「し、始祖ブリミル……」

 

「……む」

 

 別の士官が震える声で呟いたのを聞いて、ようやくル・ウールも気が付いた。

 以前にさしたる興味もなくちらりと見ただけだったが、確かにこの世界の人間どもに崇められている『始祖』とやらは、あんな姿をしていたような気がする。

 

(だが、まさか、本物ではあるまい)

 

 ならば、あれは何なのか。

 

 それらしく外見を装った巨人にしては、あまりにも大きすぎる。

 たとえティタンであっても、普通はあれほど大きくはない。

 となると、幻術だろうか。

 しかし、あのような大規模で真に迫った幻覚を、元よりそう言った呪文が乏しいらしいこの世界で……?

 

 

 

「始祖ブリミルよ。どうかご容赦と、できればお力添えを……」

 

 ルイズは、礼拝堂にあった始祖ブリミルの像を元に自らが生み出した幻影を見ながら、ふうっと溜息を吐いて、そんな懺悔と祈りの言葉を口にした。

 始祖の名と姿を騙るなど、我ながら罰当たりなことをしているものだ。

 

「大丈夫なの、ブリミルさんはいい人なんでしょ?」

 

「そりゃ、まあ。たぶん……」

 

 傍らのディーキンの言葉に、ルイズは曖昧に頷いた。

 

 実際のところ、始祖がどのような人物であったのかは何も伝わってないに等しいので、よくわからない。

 自分たちの太祖であり、今も聖者として神格化され称えられている人なのだから、きっといい人に違いないとは思うのだが。

 

「あとで、ディーキンもおわびしとくの。そのためには、まず勝たなきゃいけないでしょ?」

 

「……そうね。まずは、外の悪魔たちを叩きのめさないといけないわ」

 

 確かに、何といっても今は非常事態なのである。

 ハルケギニアの王族はブリミルの直系なのだから、子孫を救うためであれば、きっと始祖も許してくれることだろう。

 今はまず、勝たなければ話にならない。

 

 ルイズは気を取り直すと、頼りになるパートナーの見守りの下で、術の維持に集中することにした。

 この後の演出については、バードであるディーキンが状況を見つつ臨機応変に変更したり、他の仲間たちがサポートをしたりしてくれることになっている。

 

「そうそう、そうなの」

 

 ディーキンも、うんうんと頷いた。

 

 それに、これは始祖ブリミルの用いたという『虚無』の力によるものなのだから、ある意味始祖の奇跡であるには違いない。

 幻影を生み出すだけならディーキンか誰かセレスチャルが《自動虚像(パーシステント・イメージ)》あたりを用いてもよいのだが、ルイズの『虚無』ほど広範囲に真に迫った長持ちする幻影を生み出すことは非常に難しい。

 しかも、ルイズはハルケギニア人で、礼拝堂などで始祖の姿には昔から慣れ親しんでいるから、同じハルケギニア人の目から見たときにより違和感のないブリミルの姿を作り出すことが期待できる。

 演出については、バードであるディーキンが傍にいて、状況に応じて臨機応変にアドバイスを出したりすることで補強できる。

 したがって、仮にデヴィルの側が同じように幻影を作り出して対抗しようとしてきたとしても、その規模や精巧さでこちらの方がずっと説得力があるだろう。

 

 まさに、『虚無』であるルイズと、そのパートナーであるディーキンだからこそ務められる役目なのだ。

 

 それに、他にもさまざまな、頼れる仲間たちがサポートしてくれることになっている。

 彼らの方もきっと上手くやってくれるだろうと思いながら、ディーキンは状況の変化に注意深く目を配っていた……。

 

 

 

『――人の子らよ。我が地上に遺した、愛しき者たちよ』

 

 呆然と立ちすくむレコン・キスタの兵たちの上に、穏やかながらも重々しく轟くように響く声で、ブリミルの幻影が語りかけた。

 畏怖の念にうたれ、ひざを落とす者。青ざめて震えながら、ただ幻影を見上げる者。

 反応はさまざまだったが、多くの将兵はすっかり戦意を喪失していた。

 

『なぜ、互いに争うのだ。お前たちは、兄弟ではないか』

 

 その諌めるような言葉に、将兵たちはますます畏まって身を縮める。

 

 ル・ウールは、何を愚かしいことを、あんなものはまやかしに過ぎぬと声を上げて、人間どもを嗾けようとした。

 だが、周囲の将兵らの様子を見ると顔を歪めながら、一旦は出かけたその言葉を飲み込む。

 

 始祖の遺した奥義であるらしい『ヘクサゴン・スペル』とやらの出現と、不死のはずだった蘇りし勇士たちのあっけない敗北に始まって。

 これまでと違い思うように勝てぬ戦、不可解な火器と兵器類の異常。

 巨人や亜人の逃亡、それを制止しようとした“天使”の無様で惨たらしい死に様……。

 そして今、王族を見捨てて自分たちの側に祝福を与えてくれているのだとずっと言われ続けていたブリミルその人までもがこうして降臨し、自分たちの行いを責めているのだ。

 

 人間の将兵たちは、今や自分の方をかえりみず、あの始祖とやらの方にばかり目と心を向けているではないか。

 連中が自らの誤りを半ば以上確信し、後悔の念に打たれているのは明らかだ。

 この状況で迂闊に声など上げようものなら、逆に自分のほうが引き裂かれかねないという懸念があった。

 

(ええい、忌々しい!)

 

 ル・ウールは心中で、どこまでも愚かで単純な人間どもを、声を極めて罵った。

 

 しかし、いつまでそんなことをしていても、事態が何か好転するわけでもないこともわかっていた。

 ほんの少し苛立ちが収まると、この状況でどうするべきかを考え始める。

 

 今のうちに、自分だけ瞬間移動で逃走するか?

 

 ありえない、この状況で戦線を放棄してそんなことをすれば、処刑か降格は絶対に免れない。

 降格されるくらいなら永遠の滅びを迎えたほうがまだましだというのが大凡のデヴィルの見解であり、ル・ウールも例外ではなかった。

 昇格によって思うままに権威を振るい、それまで対等だった同僚に靴を舐めさせるのがデヴィルの無上の喜びであり、その逆の立場に甘んじることは魂までも引き千切られそうなほどの恥辱なのだ。

 

 ならば、この愚かしい人間どもをどうにかなだめて軍をまとめ、いったん退いて体勢を立て直すか。

 

 そのほうが、まだ望みがありそうに思えた。

 あのブリミルとやらが何を言う気か知らぬが、その間に手近にいる高位の将官どもだけでも自分の魔力で魅惑しておけば、少なくとも味方に襲われる危険はあるまい。

 本来ならなるべく心服させて自発的に従わせるほうが上策であり、あまり大規模に心術を用いてそれだけを頼りに部下を従えるなどは術が解れたときのことを考えれば下策なのだが、非常時ゆえやむを得ない。

 魅惑しても無条件で命を失うような危険を冒させたり信念に反する行動をとらせたりできるわけではないが、説得が通りやすくはなる。

 

 幸い、自分の魅惑の力は身振りも発声も必要としない擬似呪文能力によるものだ。

 始祖とやらの姿と声に気をとられているあの愚かな連中に、密かにかけてゆくにはもってこいである。

 

(……よし、それでいくことにしよう)

 

 あとは……、あの巨大なブリミルとやらの姿が幻術か、そうでなくとも何かの魔法によるものであれば、解呪することができるかもしれない。

 こちらの力でそれをかき消すことができれば、あれが神の御技などではなくまやかしに過ぎぬという証になり、兵どもの信望を再びこちらの手に取り戻すことも容易になる。

 一時の強烈な宗教的畏怖などは、あの姿さえ消えればじきに薄れていくだろう。

 事前にそれを成功させ、その後、魅惑した上官どもを説き伏せて命令を下させれば、多少の脱走者は出るかも知れないが、多くの兵どもはまたこちらの命に従うようになるはずだ。

 

 ル・ウールはそう判断すると、まだ生き残っているもう一人のエリニュスに、あの巨大な始祖の正体を見極めてくるようにとテレパシーで命令を下した。

 彼女らには常時稼動の《真実の目(トゥルー・シーイング)》の能力が備わっているので、どれほど巧妙な幻術であろうとも、その有効距離内にまで近づけば看破することができる。

 しくじらぬためにもまずは正体を確実に見極めて、それに合わせた対策を立てようと考えたのだ。

 

『は……。かしこまりました』

 

 指示を受けたエリニュスは、テレパシーでそう返事をすると、しぶしぶ前線に向かって瞬間移動した。

 本当はこの状況でそんなあからさまに危険そうな場所に行きたくはなかったのだが、上官からの命令には逆らえない。

 

 

 

『……我は本来ならば、もはや地上に干渉してはならぬ身。だが、愛しき子らが互いに殺し合おうとするのを、悪魔の手にかかろうとするのを、これ以上見過ごしてはおられぬ』

 

 エリニュスは、厳かな声で兵士に呼びかけ続ける像のはるか上空に姿を現した。

 ここならば、そうそう見つかるものではあるまいと考えたのである。

 

「ふん、白々しいことを……」

 

 彼女は自分たちの欺瞞工作を棚に上げて、眼下に見える『始祖』の演説を鼻で笑った。

 

 あとは、《真実の目》の降下範囲まで慎重に高度を下げていき、あれの正体を見極め次第、瞬間移動で後方に戻ればよい。

 十中八九幻術であろうが、間違いなくそうだと確認だけすれば、自分の仕事は終わりだ。

 その後は誰か、解呪の使える者を連れてくることになるだろう。

 

 エリニュスは、敵城からの攻撃に注意しながら、ゆっくりと降下を始めた。

 

 しかし、あと百フィートばかり降下すればよいというあたりに来たとき、突如として眼下に見える始祖ブリミルの体、その頭頂部あたりから緑色の光線が放たれた。

 

「っ!?」

 

 予想もしていなかった事態に、避ける暇もなかった。

 その光線が命中するや、堕天使の全身がたちまち煌めくエメラルド色の網に絡め取られる。

 

「こ、これは……!」

 

 エリニュスは、にわかに焦った。

 それは、次元間の移動を封じる《次元界移動拘束(ディメンジョナル・アンカー)》の網であったからだ。

 これでは、退却時にアストラル界を経由する必要のある瞬間移動を行うことはできない。

 

 この呪文を撃ったのは誰か、その相手に備えなくてはと考える暇もなく、続けてブリミルの幻像の中から、一人のセレスチャルが飛び出してきた。

 

「不肖の従姉妹よ! 天界山セレスティアの七つの輝きにかけて、お前の罪が焼き清められる時が来たのだ!」

 

 厳かに響く天上語でそう宣告したのは、あの『眠れる者』であった。

 

 彼はデヴィルからの妨害に備えるため、あらかじめ始祖の幻像の中に隠れて周囲の様子を警戒しており、エリニュスの接近にはとうに気がついていたのである。

 プラネターにはエリニュスと同様に常時稼動の《真実の目》の能力が備わっているため、その効果範囲内にある幻影は視界の妨げとはならない。

 そのため、エリニュスが十分に接近してブリミル像は幻影であるということを見抜くよりも一瞬早く、《真実の目》よりも長い有効射程を持つ《次元界移動拘束》の呪文で先手をうつことができたのだ。

 

 これで敵の逃走手段は封じた。

 あとは、討ち倒すのみ。

 

「ひ……!」

 

 美しいエメラルドの体に黄金の鎧と眩い天上の光輝をまとい、デヴィルにとって致命的な善の力を放つ大剣を振りかざして、猛然と向かってくる天使の姿。

 フルフェイスの兜の奥では、こちらに向けられたサファイアの瞳が義憤に燃え立って、ひときわ鋭い輝きを放っている。

 それを見て、エリニュスの顔が恐怖に歪んだ。

 

 あわてて迎え撃とうと炎の矢をつがえるが、逃走手段を封じられた時点で、既に彼女の運命は決まっていた。

 将軍として強大な天軍を率いる『惑星の使者』は、みすぼらしく穢れた一介の堕天使などの力でどうにかできるような相手ではない……。

 

 

 

「……お、おおぉぉっ!?」

 

 固唾を呑んで巨大な始祖の姿を見上げていたレコン・キスタの兵たちは、突然断末魔の悲鳴とともに上空から降ってきた屍と、その後を追うように降臨した天使の姿とにどよめいた。

 

 屍は、彼らがこれまでずっと従ってきた“天使”のものだった。

 全身の数箇所を、特に肩口から腹にかけてを無残に斬り裂かれて、半ば両断されかかったような無残な姿。

 その顔は、苦痛と憎悪のためにひどく歪んで、半ば獣じみてさえいる。

 死者に対して酷なようではあるが、生前身にまとっていた美も、神聖な雰囲気も、そのために台無しになってしまっていた。

 

 比べて、その後に降臨した天使の神々しさは、より一層際立って感じられた。

 とはいえ、仮に生前の“天使”たちと並べてみたとしても、こちらの方がはるかに勝っているであろうことは疑いない。

 本物の天使のそれと実際に比較してみれば、彼女らの美も神秘的な雰囲気も、途端に色あせてくすんだ、凡庸極まりないものだったと思えてくる。

 

「…………」

 

 降り立った『眠れる者』は、何も言わずに大剣を地に突き立てて、ただじっとレコン・キスタの兵たちのほうを見つめる。

 彼の代わりに、背後のブリミル像が話を続けた。

 

『……我が父の怒りが、お前たちの上に降り注がぬうちに。子らよ、互いに矛を収め、悪魔に背を向けて、再び手を取り合う道を選べ!』

 

 その時、まさしく神の不興を現すかのように一天にわかにかき曇り、上空に強い風が吹き荒れ始めた。

 

 実はこれも、『眠れる者』が事前に使用しておいた《天候制御(コントロール・ウェザー)》の呪文による演出だった。

 始祖ブリミルの幻影による説法に更なる説得力を持たせるとともに、もしも敵が飛行船などを本格的に繰り出してこようとした場合、上空を大荒れにして航行不能にするという狙いがある。

 もし万が一、どうしても敵を降伏に追い込めなかった場合には、豪雨や竜巻を発生させることで野外に展開する敵軍を強制的に撤退させることも考えている。

 もちろんそうすれば敵兵に少なからぬ犠牲が出るだろうから、あくまでも最後の手段ということになるが。

 

 

 

「これまでだ。撤退する」

 

 降臨したセレスチャルの姿を確認したユーゴロス傭兵団の長ソウルカイティオンは、ほんの少し顔をしかめただけで特に動揺した様子もなく、直ちにそう指示を下した。

 

 部下たちは全員、何の異論も差し挟まずにそれに従う。

 どうやら戦は負けの気配が濃厚だし、セレスチャルがフィーンドの姿を確認すれば、それがデヴィルであれユーゴロスであれ滅ぼそうとしないわけがない。

 この戦場が惜しくないわけではないが、欲に流されて命を失うなど馬鹿のすることだ。

 自分たちはそういう馬鹿から利益を掠め取ればいいのであって、儲けの機会も殺戮の機会も、またいくらでもやってくる。

 

 始祖ブリミルの幻像が城壁前に姿を現したあたりから、既にその準備に入っていた彼らが立ち去るのは早かった。

 

 その後を追うように、半ばゴブリン、半ば狼に似たフィーンドであるバーゲストたちも、互いに顔を見合わせると次々に戦場から去っていく。

 苦界ゲヘナを故郷とする彼らは、より強大になるために血肉と魂を貪り食らう機会を求めて物質界にやってくる種族である。

 いくらでも獲物が得られる環境に惹かれてデヴィルの軍に参加しただけであって、天上界の強大なセレスチャルなどを相手にする気はさらさらなかった。

 

 

 

(馬鹿な! なんだ、この事態は! いったい、何がどうなっているのだ!?)

 

 ル・ウールは、激しい怒りと困惑に拳を握り締めていた。

 

 ほんの少し前までは、戦いとも呼べぬ楽な仕事、愉快な娯楽のはずだった。

 それがなぜ、こんなことになっている。

 

 遠目にははっきりとは見えないが、始祖とやらの前に立っているのは、あれは確かにセレスチャルではないか。

 まさか、本当に始祖ブリミルとやらがこの世界を見守る神格になっていて、我らの侵攻に対してその眷属を遣わしてきたとでもいうのか。

 それとも件の『虚無』とやらか、あるいは我らをこの世界に呼び出したような召喚者が、他にもいたのか……。

 

(だとしても、なぜこれまで影も形もなかった連中が、よりにもよってこんな日に姿を現してくるのだ!)

 

 誰も彼もが自分を陥れようとして、共謀してこんな運命を仕組んだのに違いない。

 ル・ウールは胸中であらゆるものを疑い、呪い、罵った。

 

 互いに謀略を仕掛けあうことが当然であり、あらゆる影に悪意と裏切りの潜んでいる社会で過ごすデヴィルたちは、多かれ少なかれ偏執狂である。

 偶然などありえない、いやあるかもしれないが、自分の身の回りではまず決して起こらない、すべては仕組まれた悪意の産物に違いない。

 そして彼らには、その悪意とは自分より劣等で、それによる恐れや妬みに突き動かされた他人が、つまりは自分以外のすべての存在のうちの誰かもしくは全員が、自分に対して仕掛けたものではないかとまず疑う傾向がある。

 自分にとって都合の悪いすべての運命は、自分以外の誰かの無能さ、ないしは策略によるものに違いないと彼らは考える。

 それは、デヴィルという種族がもつ自らの優秀さに対する確信と、あらゆる他者を見下す思い上がりと、そして悪意に満ちた利己的な性質とが混ざり合って生み出す、避けがたい性向なのだ。

 

 ある程度経験を積んだデヴィルならば、当然、自身のそのような衝動が往々にして不利益をもたらすことを知り、それを抑制する術を身に着けている。

 とはいえ、感情が昂ぶってくると、そうした本質的な傾向はどうしても、抑えがたく顔を覗かせてくるものだ。

 

(……落ち着け……)

 

 周囲の将官たちがもはや声も出さず、青ざめた顔でこちらのほうを窺っているのを見たル・ウールは、その怒りを努めて抑え込み、平静を保とうとした。

 

 詮索をするのは後にして、今はこの状況に対処するほうが先だ。

 このまま何も手を打たずにいれば、それこそ兵たちに八つ裂きにでもされてしまいかねない。

 

(この状況で使える手駒は、何が残っている?)

 

 人間の兵たちは、もはやそのほとんどが戦力として使い物にならないのは明らかだった。

 巨人や亜人の類は、事前の説得によって、あるいは戦況を見限ったことによって、そのほとんどが既に逃亡してしまっている。

 ユーゴロスやバーゲストなど傭兵フィーンドどもの部隊も、この思わしくない状況の急変をすばやく見て取ったか、さっさと雇い主を見捨ててどこへともなく姿をくらましたようだ。

 

 つまり、現状まともな働きの期待できる戦力は、ごく少数のデヴィルの部隊のみである。

 そのうち、側近のエリニュス二名は、既に死亡している。

 

 それでも、退却は依然としてありえない選択肢だった。

 セレスチャルの出現などの予想外の事態が起こったという『言い訳』は、数万の戦力を率いながら何の成果も挙げられず、その貴重な戦力を半壊させてしまったという失態を正当化するには弱すぎる。

 

 と、なれば……。

 

(要するに、戦って勝つしかないのだ)

 

 こうして総指揮官の役目を任されてはいるが、ル・ウールはどちらかといえば戦闘向きのデヴィルではなく、誘惑や交渉、演技などに長けた社交タイプのデヴィルであった。

 つまり、兵どもを熱狂させる看板として選ばれたわけである。

 いざとなればそれなりに戦えもするが、積極的に前線に出たいとは思っていない。

 ましてや、デヴィルにとって致命的な善の属性を帯びた武器を振るうセレスチャルがいるようなところへなど。

 

 しかし、こうなってはもはや四の五の言ってはいられなかった。

 

“真に神の軍ならば、破れるわけがない”

 

 それはこちらも、敵の側も同じこと。

 敗れてしまえばすべては戯言、説得力は大きく落ちるだろう。

 

 勝ってあの城を落とせば、『ヘクサゴン・スペル』や、もしかすれば『虚無』などの土産も持ち帰れる。

 セレスチャルどもの出所を確認できれば、それも価値ある情報になる。

 将兵どもからの信望も、概ね元に戻るだろう。

 それでこそ、失った戦力に見合うだけの手柄になろうというものだ。

 

 勝てば、すべて解決するのだ。

 

「……どうやら、信仰の足らぬ兵たちに、神の加護が真にあるのはどちらの側か示さねばならぬらしいね。かくなるうえは私が神兵たちを率い、あの城門へ向かって雌雄を決するとしよう」

 

 ル・ウールは立ち上がってそう宣言すると、生き残りのデヴィルの元へ向かった。

 

 あのセレスチャルがどれほど強力か、城内にまだ何人のセレスチャルが控えているかは知らぬが、こちらには相当数のデヴィルがいる。

 その中には、ゲルゴンをはじめ、強大なセレスチャルどもとも十分に渡り合えるだけの力を持つ士官も含まれている。

 ル・ウールは自分に、大丈夫だと言い聞かせた。

 

 それに、どうせ今日で決着がつくのだから一度試しておこうかと持ってこさせた新兵器もある。

 それが期待通りの働きをしてくれれば、生半なセレスチャルの五人や十人など……。

 

 

 

「……さて。我らにもそろそろ、決断せねばならぬ時がやってきたようだな」

 

 ル・ウールの姿が消えると、ホーキンスは動揺しているばかりの他の将軍らを見回しながら、ただ一人落ち着いた様子でそう切り出した。

 少し離れた場所ではボーウッドが周囲を警戒し、風の流れなどにも注意して、隠れて聞き耳を立てている者がいないことを確認している。

 

「け、決断、とは?」

 

 将軍たちが、不安そうに顔を見合わせる。

 

「我らは大地の深き恵みを知りながらも、あえて主君と共に頼るものとてない虚空に生きることを選んだ、誇り高き高祖の血を引くアルビオンの武人ではないか。貴殿らは両親から、その心意気を教わってこなかったのか?」

 

 その言葉に、皆がはっとしたような顔になる。

 

「いや、貴殿らも初めは、その信念に従って王家に背く道を選んだのであろう。自分も同じだ……」

 

 我々アルビオンの貴族は大地に依らず、自らの身ひとつを頼りに生きるもの。

 何処の地を目指すも、何者に従って飛ぶも、己の意思で決める鳥。

 だからこそ、我らは大地のわずかな起伏にさえ煩わされる地上の民よりも真っ直ぐに己が道を進み、それでいて自ら選び取ったその忠誠は、あらかじめ定められたひとつの地に根を張る民にも増して深く長くなるのだ……と、古来よりアルビオンの貴族はそう誇っている。

 

 無論、実際にはアルビオンの貴族も他国の貴族も、さほど変わりはないかもしれぬ。

 その身は自由には程遠く、結局は生まれた狭い浮島の地と境遇に、大地の民にも増して狭苦しく束縛された身でさえあるかもしれぬ。

 それでも、心構えとしてはそうあるべきだと、常に教えられてきたのだ。

 

「……しかし、状況が変わった。明らかにな」

 

 そう言って、ホーキンスは他の将軍たちの顔を順に見つめた。

 

 少し前までなら、こんな話をすればただ一笑に付されるのみならず、間違いなく命取りになったであろう。

 今でも、彼らがどのような結論を出すかはわからない。

 ホーキンスにとって、これは正しく命をかけた発言であった。

 

「ゆえに、信の置けぬ主導者にこのまま従って飛び続け、もろともに地に墜ちるか。それとも自らの意思と判断で、恥を忍び、正しいと思える航路に軌道を戻すのか。今こそが再び決断するべき時だと言っておるのだ!」

 




コントロール・ウェザー
Control Weather /天候制御
系統:変成術; 7レベル呪文
構成要素:音声、動作
距離:2マイル
持続時間:4d12時間
 術者は、自分の周囲半径2マイル以内の天候を、自分の選択したものに変化させることが出来る。
戦場で用いれば、籠城側が延々と長雨を降らせ続け、野営側を苦境に陥れて撤退せざるを得ない状況に追い込むことも、敵陣に竜巻を荒れ狂わせることさえも可能となるだろう。
ただし、現在いる地域の気候や季節によって、選択できる天候は異なる。
典型的なものは以下の通り。

春:竜巻、雷雨、みぞれを伴う嵐、暑天
夏:豪雨、熱波、ひょうを伴う嵐
秋:暑天、寒天、濃霧、みぞれ
冬:凍寒、吹雪、雪解け
晩秋:台風級の風、時ならぬ春(沿岸地域のみ)

術者は風向きや風力など、天候の大まかな傾向を制御できるが、落雷地点や竜巻の進路といった個々の現象の詳細な制御まではできない。
天候が術者の選択したものに完全に変化するまでには10分の時間がかかる。
持続時間内であれば、術者は別の天候を指定し直すこともできる。
この呪文はまた、気象現象を発生させるだけでなく取り除くこともできる。
 この呪文はウィザード/ソーサラー、クレリック、ドルイド、および風の領域の呪文リストに存在するが、ドルイドが使用する場合には特に強い効果を発揮する。
術者がドルイドである場合、呪文の持続時間は2倍になり、有効範囲は半径3マイルとなる。

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