Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百九話 Lovesickness

 

 ディーキンはメンヌヴィルの屍への質問を終えると、難しい顔をしてしばらく考え込んでいた。

 

 が、ややあって立ち上がると、死体を部屋の隅に押しやって元通り布を被せた上で、凍らせて保存してくれるようにとタバサに頼んだ。

 もしかしたら、一週間かそれ以上経った後にまた聞きたいことが出てくるかもしれないからだ。

 この街を発つ前に、コルベールらにも埋葬や焼却をしないで保管しておいてくれるようにお願いしておかなくてはなるまい。

 

「ありがとう。それじゃ、ええと……。そろそろロングビルさんが教えてくれたところに行って、見張りをするの」

 

 作業が済むと、ディーキンはそう言って荷物をまとめ直し、最後に《警報(アラーム)》の呪文を部屋にかけておいてから予定の場所へ向かった。

 タバサも、彼が出た後に扉に『ロック』を施してから急いでその後に続く。

 

 

 

 教会の鐘楼は思った以上に大きく、2人が滞在するのにも不都合はなさそうだった。

 重なり合った月の明るい光に照らされて、街中の様子もよく見える。

 

 ディーキンは《奇術(プレスティディジテイション)》の呪文を使って溜まっていた埃などを片付けると、荷物袋の中から寝袋を引っ張り出してタバサに渡した。

 

「じゃあ、ディーキンが最初に見張ってるからね。タバサは、よかったらこれを使って休んで」

 

 この《ヒューワードの元気の出る携帯用寝具(ヒューワーズ・フォーティファイイング・ベッドロール)》を使えば、睡眠は1時間でも十分に足りるはずだ。

 しかし、タバサはなんだか疲れているようだし、大事を取って2~3時間ほど休んでもらってもいいかな、とディーキンは考えていた。

 自分はいろいろと考えておきたいこともあるし、そう疲れてもいないから睡眠時間は多少少なくても大丈夫だろう。

 

「……うん」

 

 タバサはなにやら恥ずかしげに頬を赤らめながらおずおずと寝袋を受け取って、その中にしっかりと包まった。

 この寝袋は魔法の品なので、サイズは使用者に合わせて自動的に調整される。

 そのため、ディーキンよりもずっと身長の高い彼女の体にもぴったりと合っていた。

 

(私が寝るまでの間、あなたの歌かお話を聞きたい)

 

 どきどきして寝付けそうにもなかったタバサは、もう少しでそう頼みそうになった。

 だが、今は見張りの最中なのだから、そんな頼み事は非常識というものだ。

 タバサは自分にそう言い聞かせて無理に我慢すると、体を丸めて、やわらかい寝袋に顔を押し付ける。

 

 そうすると、寝具に染み付いたディーキンの匂いがした。

 彼が使っているビターリーフ・オイルの、はしばみ草に似た清涼な香り。

 それに、彼自身の体臭が混じっている。

 硫黄の匂いにも似ているが、決して悪臭ではなかった。

 青々とした新鮮な木々に囲まれた温かい山奥の秘湯かなにかのような、どこか優しく懐かしい感じのする香りだ。

 

 頭がぼうっとして、夢見心地になる。

 そんな自分に戸惑う気持ちも、こんなのはおかしいという理性の訴えも、とうに蕩けて形を失っていた。

 不壊の氷像だと信じていた自分は、『雪風』のタバサは、結局は薄い霜に包まれていただけの生身の少女でしかなかったのか。

 それも今となっては、どうでもよかった。

 ただ、寝具にしっかりと包まったまま、この一時の幸福感に身を委ねる。

 

 そうしているうちに、彼女の意識はいつしか本当の眠りの中へと堕ちていった……。

 

 

 

(ン……。寝たみたいだね)

 

 ディーキンは他のさまざまな事柄に気を取られていたので、タバサの様子がただ疲れているだけにしてはどうもおかしいということには気が付かなかった。

 とはいえ仮に気が付いていたとしても、さすがに彼女が自分に懸想しているのだなどということまでは想定できようはずもなかったが。

 

 さておき、少々体調が悪そうに見えたタバサが穏やかな寝息を立て始めたことに安心して、ディーキンは自分の思索に戻った。

 考えていたのは、先ほど《死者との会話(スピーク・ウィズ・デッド)》で聞き出した内容についてである。

 メンヌヴィルの屍が語ったところによれば、この世界にはなんとディスパテル大公爵が……地獄第二階層の支配者たるアークデヴィルが、やってきているのだという。

 

 言うまでもなく、それは極めて重大な事態だった。

 とはいえ、それが果たして事実なのかどうかについては疑問の余地がある。

 屍はあくまでもメンヌヴィルという男が生前に認識していた内容を話しただけであって、そこには彼の誤認が含まれている可能性もあるのだから。

 

 ディーキンがそのように懐疑的でいるのは、主としてディスパテルという大悪魔の性質について彼が聞いていた知識と、屍から聞き出した情報とが大きく食い違っているからなのだ。

 

「どんな本にも、ディスパテルっていうのはものすごーく慎重な悪魔だって書いてあったけど……」

 

 バートルの第二階層・ディスは、階層のほぼ全体がひとつの都市によって占められている。

 ひとつの世界全体にも匹敵するありえないほどの大きさを誇るその都市は、階層そのものと同じディスの名を頂いており、ディスパテルはその地の絶対的な支配者なのだ。

 彼はそこに難攻不落の鉄の城砦を構えており、地獄の支配者であるアスモデウスからの呼び出しがない限りは決して外に出ることはない、と聞いている。

 

 そうでなくても、神格だのアークフィーンドだのが自分の統治する世界を留守にしてまで別の世界に出かけるなどということはそれだけで大事件であり、およそ考えにくいのだ。

 先日戦ったメフィストフェレスは自らウォーターディープに侵攻してきたが、彼はアークデヴィルの中でもずば抜けて大胆で挑戦的な人物として知られている。

 対してディスパテルは、アークデヴィルの中でも極めつけの慎重派なのだと、彼について書かれたどの本にもそういった旨の記述があった。

 そんな男が、いかに魅力的で獲物にあふれているにしても、未知の物質界であるハルケギニアに自ら足を踏み入れたりするものだろうか?

 

 それに、いかにあのメンヌヴィルという男が優秀であったとしても、大悪魔ともあろうものがただ一人の人間の前に直接姿を現して自ら交渉したなどというのは非常に疑わしい。

 そのようなことは、普通はもっと格下のデヴィルがする仕事なはずだ。

 アークデヴィルともあろう者は、地獄の権力闘争だとか、奈落界のデーモンの軍勢ないしは天上界の神々やセレスチャルの軍勢との戦いだとかいった、より大きな事柄に主たる興味を向けているものだろう。

 

 よって、メンヌヴィルが出会った悪魔は実際にはおそらくディスパテル本人ではなかったに違いない、とディーキンは考えた。

 まったく無関係の下級デヴィルがアークデヴィルの名を僭称するような不敬を働くとは思えないが、許可を得た代理人であればその限りではあるまい。

 その場合、代理人としてもっともありえそうなのは……。

 

「……アスペクト(具現)、かな?」

 

 アスペクトとは、神格、ないしはアークフィーンドやセレスチャル・パラゴンのようなそれに迫るほど強大な存在が、自身の生命力のごく一部を分割したものだ。

 オリジナルのパワーがあまりにも大きいので、彼らの生命力のほんの断片でさえ、実体を持つ生きたクリーチャーと化すのである。

 

 アスペクトは、神格がしばしば作成するより強力なアヴァター(化身)とは違って、オリジナルの拡張体ではない。

 本体はアスペクトの眼を通して物を見ることはできないのだ。

 しかしながら、アスペクトを破壊したとしてもオリジナルが直接的に傷つくことはない。

 そのあたりは、ハルケギニアのメイジが使う『遍在』と似ているといえよう。

 それらは本体とは別個の自我と知性、意志を持っているが、本体の意向に忠実で、最も信頼のおける代理人となるのである。

 

 アスペクトは所詮はオリジナルの蒼白なる影にしか過ぎないのだが、それでも定命の存在の基準からすれば極めて強大な存在だといえる。

 個体差もあるが、特に強力なものであればひとつの世界全体を支配するような計画に自身の代理人として派遣するのにも十分なだけの強さを備えているはずだ。

 

「ウーン……」

 

 とはいえ、それはあくまでも自分の推測に過ぎない。

 これは非常に重要な事項だから、確認を取っておかなくてはなるまい。

 おそらく、《交神(コミューン)》を使えばこの世界にアークデヴィルの本体がいるかいないかくらいはわかるだろう。

 

 ディーキンはさっそく調べようかと、先ほど手に入れたばかりの指輪に目をやった。

 が、そこに宿った魔力の輝きが残りひとつなのを見て、想い直す。

 

 よく考えてみれば、焦って調べてみたところでどの道今すぐに何かができるわけではないのだ。

 それならば、いざという時のためにこの指輪の本日分の使用回数残り1回分はとっておいたほうがよいだろう。

 もちろん手持ちのスクロールを使うなどの別の手段はまだいくらでもあるが、この指輪には自分以外にも使えるという利点がある。

 見張りを交代するときにタバサに渡しておけば、万が一緊急の事態が起こった時に彼女の役に立ってくれるかもしれないのだから。

 

(とりあえず、そんなところでいいかな?)

 

 仮に予想通りこの世界に来ているのがアスペクトなどの偽者に過ぎなかったとしても、背後で糸を引いているのがアークデヴィルだということはほぼ確実だろう。

 だが、それだけの大物を相手にしなくてはならないにしてはディーキンは割と落ち着いていた。

 既に同じアークデヴィルのメフィストフェレスと渡り合った経験があるわけだから、いまさらそんなに取り乱したりはしないのだ。

 

 だからといって、もちろん油断などのできる相手ではないのは言うまでもない。

 フェイルーンにいるボスやその他の仲間たちにも、後ほど判明した事実をまとめて連絡を入れ、いざという時にはすぐに助力を仰げるように態勢を整えておかなくてはなるまい。

 

 相手がアークデヴィルだとわかった以上はすぐにでも援軍を呼ぶのが本来は妥当なのだろうが、そういうわけにも行かない事情があった。

 フェイルーンの仲間たちは各々がみな優れた冒険者であり、したがってディーキンが取り組んでいるのと同等か、それ以上にも困難な使命に従事することを常に求められているのだ。

 

 たとえばドロウのナシーラは、残忍な同族たちから逃れて地上で生きようとする女神イーリストレイイーの信徒たちを導くという使命にその身を捧げている。

 先日、とうとう長きに渡る女神ロルスの不在が終わったらしいという情報も流れており、彼女の任務はより一層危険なものになっていた。

 以前よりさらに強大な力を得て戻ってきた蜘蛛の女神は、長年の敵であったイーリストレイイーをついに滅ぼしにかかるのではないかという噂までもが囁かれているのだ。

 ナシーラは、同族たちを救うとともにそのような試みを阻止しようと、ボスやヴァレンとも協力してできる限りのことをしているという。

 

 彼女はそんな忙しい使命の傍らで、勝手に異世界に出かけていった自分の頼んだスクロールまで用意して送ってくれたわけで……。

 しばらくは割とのんびり楽しんでいられたこちらとしては、いささか後ろめたい気もしていた。

 よほどの緊急事態でも起きない限り、この上自分の仕事をほったらかしてこちらに来てくれなどと頼めようはずがない。

 

「ンー……」

 

 そういえばその受け取ったスクロールのこともあったな、とディーキンは思い出した。

 

 それは、ナシーラがドロウの大都市メンゾベランザンにある魔法院(ソーセレイ)に所属していたときに、密かに書き写したという希少な呪文が収められたスクロールである。

 名前を指定することで、特定の死者の魂を呼び出して接触することができるというものだ。

 

 なんでも元々は、“顔なき導師”とかいうおぞましく顔が潰れた正体不明の魔法院の教官が所有していた呪文だったらしい。

 もっとも彼が開発したというわけではなく、地上に住む人間の魔術師から盗み取られたものが売りに出ていたのを魔法院の手先が密かに購入して図書室に収めたのであり、彼はそれを翻訳したに過ぎない。

 一般的なドロウの階層社会では、死者の領域と関わるのは権力の頂点に立つロルスの尼僧の役目とされている。

 魔術師がその領分を侵すのは分を弁えぬ越権行為とみなされるため、このような呪文が表立って研究されることはまずない。

 それだからこそ、ナシーラは危険を冒してでも密かに手に入れておくだけの価値を感じたのだ。

 その教官はある時急に職を辞して自分の貴族家へと戻り、その後程なくして死体となって発見されたそうだ。

 何があったのかは推測の域を出ないのだが、どうもかの有名なドロウの英雄ドリッズトの所属していた家系、ドゥアーデン家との抗争で命を落としたのではないかと考えられている。

 ドリッズトが自分の家系を捨ててアンダーダークへと出奔したのはそれとほぼ同時期だったそうだが、何らかの関連があったのかは定かではないという……。

 

 ディーキンは以前に同じ呪文のスクロールを作ってもらい、死んだ“ママ”の魂を呼び出したことがある。

 その結果、彼女とまた言葉を交わすことができ、今では天上の次元界で幸せに暮らしているのだということも知った。

 彼女の無残な最期についてはずっと心を痛めていたのだが、それを確かめられたことで気持ちがずいぶんと楽になって、ナシーラにはとても感謝している。

 

 以前には、これが手元に届き次第、タバサの父親の魂をもしも既に分解されたり転生してしまっていたりしなければ呼び出して妻や娘と再会させてあげようと思っていたのだが……。

 彼がデヴィルと売魂契約を結んでいたことがわかった以上、その計画は見直さなくてはなるまい。

 迂闊に呼び出したりしたら悲惨なことになりかねないし、タバサらにもショックを与えてしまうことになるだろうから。

 いずれは使うことになるかもしれないが、それはよく事態を見極めた上で、今こそその時だという確信が持ててからでなくてはならない。

 

「ええと、それから。後は……」

 

 ディーキンはその後も交代の時間になるまで、見張りの傍ら他のいろいろな事柄について検討しながら時を過ごした……。

 

 

「タバサ、体は大丈夫なの?」

 

 目が覚めると、ディーキンは心配そうに私の顔を覗き込んで、そう尋ねてくれた。

 

 最初は、夢の続きかと思っていた。

 私は、寝袋の中でもこの人の夢を見ていたのだ。

 

 彼の出てくる夢を見たこと自体は、これまでにも何度もある。

 ディーキンが母を救ってくれてからというもの、自分は母が心を壊したあの日の夢を見てうなされることがなくなり、それと入れ替わるようにして時折彼が夢の中に姿を現すようになったのだ。

 けれど、それは想い人とのロマンスを夢見るというような種類のものではなかった。

 そこにはもう死んでしまった祖父や父もいて、戻ってきてくれた母もいて、ペルスランやトーマスもいた。

 キュルケやシルフィードや、ルイズやシエスタ、大勢の大切な友人たちもいた。

 ディーキンはいつも彼らの輪の中で楽しげに笑いながら歌ったり踊ったりしていて、自分にも一緒にしようと誘ってくれる。

 そこでは、自分も彼らと同じように明るく朗らかに笑うことができて……。

 そんな、どこまでも暖かくて穏やかな時が続く幸せな夢だった。

 

 それに対して、つい先程まで見ていた夢には彼だけが出てきた。

 その変化の原因が自分の気持ちの推移にあるであろうことは、疑う余地もない。

 

 きっと私の顔は、いつもの蒼白から熱病にでも罹ったような赤色に変わっているのだろう。

 だけど、私が侵されているのは、熱病ではなく……。

 

(恋の病……)

 

 自分でも不思議なほど素直に、そう認めることができた。

 そのことに気付いて、ますます熱っぽく頬が火照っていくのを感じる。

 今の私の顔は、きっと林檎のように真っ赤に違いない。

 

 そんな顔をこの人に見られていることを思うと、恥ずかしさのあまり寝袋にもう一度顔をうずめたくなる。

 でも、そうしてしまったら、彼の顔が見られない……。

 

「見張りはこのままディーキンがやっておくから、朝まで寝てたほうがいいよ」

 

「大丈夫、病気じゃないから。たぶん、寝袋に熱がこもって、体が火照っただけ……」

 

 私は首を横に振ってそんな嘘をつくと、寝袋から這い出した。

 

「……さっきみたいに竜の姿になって、私を乗せて飛んでほしい。夜風に当たったら、きっとすぐによくなる」

 

 衝動的に、そんなあつかましいことを頼んでしまう。

 寝る前にはどうにか我慢できたというのに。

 先程見た、彼のあの美しく大きい立派なドラゴンの姿がふと頭をよぎったのだ。

 

 そんなつまらないことのために魔法を使わせた上に、疲れているに違いない彼の睡眠時間を奪おうだなんて。

 それに、いくら深夜だからといって、そんな目立つ姿で街の上を飛ぶのは……。

 

 けれど、やっぱり取り消そうかと思う間もなく、彼は笑顔で頷き返してくれていた。

 

「うん。それでタバサが元気になるんだったら、喜んで」

 

 

 

 しばらくの後、私は彼の背に跨って、ラ・ロシェールの上空を飛んでいた。

 さすがにワルド子爵と戦った時のあの姿では目立ち過ぎるということで、彼は今度は夜の闇にまぎれるようなもっと地味な体の色をしたドラゴンの姿になっている。

 

 シルフィードほどに速くはないけれど、力強い飛び方。

 その大きな背中は、自分の使い魔のそれと比べるとずっと逞しく感じられた。

 

「…………」

 

 ゆっくりと体を前に傾け、広いその背中にもたれるようにして全身を委ねる。

 そうすると、ふわふわとした幸福感と高揚感が全身を包んだ。

 

 うっとりする。

 

 いつまでも、こうしていたいと思う。

 

「は、ぁ……」

 

 思わず、小さな溜息が漏れる。

 それと同時に自分で出した声の熱っぽさに気が付いて、私は身をすくませた。

 この人に聞かれて、不審に思われたかもしれない。

 

 ああ、それにしても。

 いったいどうして私は、急に彼の愛情がほしいなんて思うようになってしまったのだろう?

 

 今にして思えば、以前から彼に対して愛情を抱いてはいたのだろうけれど、それは穏やかな微風のようなものだった。

 傍にいて親愛の情を向けられていれば、それで十分満たされていた。

 それが急に、何の前触れもなく、荒れ狂う竜巻に変わってしまったのだ。

 

(でも、幸せ……)

 

 本で読んで、身を焦がすような恋愛というものになんとなく憧れたことくらいは自分にもある。

 けれど、実際に体験してみると、本で得た知識など何の備えにもならなかった。

 今の自分は、仮にそんな気の迷いはなかったことにしてあげようかと神様に言われたとしても、決して受け入れないだろう。

 長い間復讐の想いだけを胸に灰色の世界を生きてきた自分にとって、この熱情はあまりにも素敵過ぎて、いまさらそれを取り上げられるなんて耐えられそうもない。

 時にそれが熱すぎて焼け付くような苦しみを味わうことがあったとしても、胸を冷え切った虚ろなものに戻されるよりはずっといい……。

 

 そんなことを考えていたちょうどその時、彼が首を巡らしてこちらのほうを向いたので、私は心臓が止まりそうになった。

 

「ねえタバサ、あんまり長いこと飛んでると体が冷えるでしょ? そろそろ戻ったほうがいいんじゃないかな?」

 

 どうやら、不審に思われたりはしていなかったらしい。

 私はほっとして頷いた。

 もっとこの時間が続いてほしかったけれど、これ以上長引けば、それこそ不審に思われてしまいそうだったから……。

 

 

 

 教会の鐘楼に戻って私を下ろすと、彼は元の姿に戻った。

 そうして、私の横に座る。

 

 先程のドラゴンの姿も頼もしく美しかったけれど、この姿が一番彼らしいと改めて思う。

 

「まだ顔が赤いよ。本当に、大丈夫なの?」

 

 とっくに交代の時間は過ぎているのに、彼は睡眠をとろうとするでもなく、私の心配をし続けてくれている。

 彼は強情な女に苛立って、問答無用で治療の呪文を掛けてさっさと寝袋に潜り込んだりしない。

 この人のために平静を装わなくてはと思いながらも、むしろ喜びでますます顔が火照ってくるのを私は感じていた。

 

 ディーキン、あなたは私に好意を持ってくれている。

 それは、よくわかるの。

 ただ、その好意が、何かのきっかけで愛に変わってくれさえしたら……。

 

(そんなことが、本当にあり得るとでも?)

 

 私の中の冷静な部分が、愚かな自分の妄想を冷たく否定した。

 高揚して膨らんでいた気持ちが、たちまち萎む。

 

 彼が私に好意を持っているから、だから何だというのだ。

 それが恋愛とはまったく違う種類のものだということは、よくわかっている。

 いかにお互いに命をかけられるほどの好意を抱いていようとも、キュルケと私とが恋に落ちることはない。

 彼の場合も、つまりはそれと同じこと……。

 

(でも……)

 

 それでも、自分の中の愚かな部分は弱弱しい抗議の声を上げ続けていた。

 

 彼がわたしを好きになることなんてあり得ないというのなら、逆だってそうではないか。

 でも、私は彼を好きになった。好きになれた……。

 

(私に訪れたこの奇跡のような変化が、彼にも起こってくれるかもしれない)

 

 可能性はある。

 この世には、どんなことでも起こり得るのだ。

 

 現に、自分には起こった。

 他でもないこの人が、奇跡は存在し、私にも訪れるのだと信じさせてくれたのだ。

 初めて私を完膚なきまでに打ち負かし、私と母とを救い、愛情などとは無縁だと信じていた自分の心に情熱を吹き込んだこの人が……。

 

 しかし、冷静な部分の自分はどこまでも厳しかった。

 

(なら、その奇跡を信じて彼に告白する勇気が、あなたにあるとでもいうの?)

 

 愚かな部分の自分は、それだけで打ちのめされたように押し黙ってしまう。

 

 あるわけがない。

 命をかけて戦える勇気はあっても、そんなことをできる勇気は私にはない。

 もしも千にひとつか万にひとつかもわからない奇跡を頼りに、彼に自分の愛情を告白などしたら、一体何が起こるだろう?

 

「……」

 

 したくもない想像が、山ほど頭を駆け巡った。

 

 一番ありそうなのは、友人として言ったのだとしか思ってもらえないことだろう。

 勇気を出して伝えたこちらの感情に気付いてももらえずに、いつも通りの笑顔で「ディーキンも好きだよ」などと返された時のことを想像するだけで、胸が締め付けられるような思いがした。

 

 ではもし、食い下がって自分の気持ちを説明し、わかってもらったとしたら、その時の彼の反応は?

 呆気にとられたような顔、なにか気の迷いにでも囚われているのかと心配するような顔、落ち着いて応対しようとしながらも困惑と生理的な嫌悪感を隠しきれない顔……。

 あり得そうな彼の反応をいろいろと思い浮かべてみるだけで、失望と絶望で胸が潰れそうになり、吐き気がこみあげてくる。

 

 このままでも、自分は彼に間違いなく好意を持たれていて、友人としてならずっと傍にいることができるのだ。

 それ以上を求めて心が悲鳴を上げ始めたにしても、今のよい関係を危険に晒してまで……。

 

「…………」

 

 どこまでも冷静で臆病な自分に嫌悪感を覚えながら、ふと上を見上げると、教会の鐘が目に入った。

 ああ、始祖の名の下に結ばれる2人を祝福して鳴らされるこの鐘が、自分たちのための音色を奏でてくれたら――――。

 

 

 

「……ねえ、大丈夫なの? ぼーっとしてる?」

 

 ディーキンにまじまじと顔を見つめられて、タバサははっと我に返った。

 

「大丈夫、心配はないから。だから、あなたはもう休んで……」

 

 心の中を見通されるのではないかと不安になって、タバサはじっと見つめてくるディーキンから無理に目を逸らした。

 ディーキンは少し詮索するように彼女の方を見ていたが、疲れている様子なのに無理に問い詰めるべきではないと思ったのか、じきに頷きを返す。

 

「わかったの、じゃあディーキンは休むよ。でも、もし具合が悪くなったら無理をしないで、これを使って?」

 

 そう言って自分の指に嵌めていた《ギルゾンの指輪》を外すと、タバサに渡した。

 それから、おやすみを言って寝袋に潜り込む。

 

 

 

「…………」

 

 タバサは、手渡された指輪をじっと見つめてみた。

 

 これは、指にはめて願いごとを心に念じるだけで使えるのだという。

 つまり、自分の願いも叶えてくれる……。

 

 ディーキンの方を見ると、彼は既に寝袋の中ですやすやと寝息を立てていた。

 あんなに穏やかに眠れるのは、間違いなく見張りについた自分のことを信頼してくれているからだ。

 けれど、愛ではない……。

 

 タバサは掌に載せた指輪をそっと摘まみ上げると、反対側の指に通してみた。

 それから、赤く輝く指輪の宝石に触れるようにして震える両手の指を組み合わせ、祈りを捧げるように目を閉じる。

 

(私、の……願い、は――――)

 





ナシーラの用意したスクロール:
 日本語訳もされている有名な「ダークエルフ物語」に登場した呪文が書かれているもの。作中では死んだドロウの魂を呼び出して情報を得るために用いられたが、そのドロウの魂を捕えて懲罰を与えていたヨックロール(ロルスに侍女として仕えるデーモンの一種)が姿を現して妨害したために目的は果たせなかった。
 正式な呪文の名称は不明で、あるいは単にプレイナー・バインディング系の呪文か何かなのかもしれないが、本作ではそれとは別のより珍しく特殊性の高い呪文であるものとして扱っている。

ロルスの不在:
 ドロウの主神である女神ロルスが一時期姿を消して、尼僧たちの祈りに応えなくなったという事件。尼僧たちが力を失っていたこの期間にはさまざまな内乱が起こったり、女神が滅ぼされたのではないかという推測が飛び交ったりもしたが、結局ロルスはしばらくの後により強大な女神となって戻ってきた。

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