構内に鐘の音が響く。
総合教育棟三階大ホールに集った学生はおよそ百三十名。それが、講義の終了と共に一斉に席を立った。ある者はグループを作って食堂に向かい、ある者はさっさと荷物を纏めて自宅や研究室に帰る。「魔獣学Ⅱ」は座学で、広く門戸を開いた授業なので、凪のように将来この道に進むと決めている学生以外にも単位目的で受講している者は多い。
攻魔官志望の学生自体が、全体からすれば一パーセントに満たない少数だ。講義に学生を集めようとすれば、自然と他学部の学生も視野に入れることになるのだろう。
受講生が多くなれば、その分だけ授業も大雑把になる。学生からの質問を受け付ける余裕が講師にはなく、自然と講義自体がただ席に座っているだけとなる。
必要そうなことをメモするだけの講義は退屈だ。内容に興味があるが、頭に入ってこないのはどうにもならない。これでも最高難度の大学に合格した身だが、高校生の頃に比べて勉強する気力がまったく湧いてこないのである。
まあ、これはこれで仕方がない。大学も二年目になれば中だるみする。勉強よりもバイト。バイトよりも遊びがメインになるのが当然の流れだ。
教材を片付けて、凪は席を立った。
二時間目が終わり、大学は昼休みに突入する。大学生協も学食もすでに気の早い学生で埋め尽くされていて、とても利用する気にはならない。
「帰るか」
今日はこれで終わりだ。大学で昼食を摂る必要性はない。このままさっさと家に帰って自堕落に過ごすのが、今日の最適解だろう。
大学図書館で勉強するような殊勝な学生ではないのだ。もちろん、身体を動かして鍛錬に勤しむというのならば話は別だが、呪術なり眷獣なりを使う鍛錬は時と場所を選ぶ。思い立ってすぐに行動とは行かない。
今日の講義の内容をきれいさっぱり頭から消して、凪は総合教育棟を出た。広いキャンパスの中には、学部棟や研究棟などが立ち並んでいて、一つの都市のようになっている。
総合教育棟はその中心に位置しているキャンパス内最大の建物だ。四階建てで多学部を受け入れる大人数向けの講義やガイダンスで使う頻度が高い。
当然、講義が終わった直後は数多くの教室から一斉に学生が津波のように溢れ出し、建物内部のみならず、その正面広場まで祭りさながらの人込みとなる。
凪は、そんな人込みをすり抜けるようにして広場から逃げる。
駐輪場に停めていた自転車を探し出し、鍵を開けたところで肩を叩かれた。
「……びっくりした」
「そんな風には見えないな。もうちょっと分かりやすいリアクションが欲しいね」
にこやかに話しかけてきた麻夜が、至近距離で手を振っている。
「髪、変えたな」
「ん……そう。一昨日、美容院に行ってきた。どう?」
「似合ってる。」
セミロングくらいの長さの髪は、緩くウェーブが掛かっている。それを低い位置で一つ結びにして、前に流していた。
「ふふ、ありがと」
シンプルな髪型だが、それが麻夜の魅力を引き立てている。一房の髪を軽く指で梳く。髪が短かった頃にはなかった仕草だが、ここ数年はそれも板についてきた。
白いブラウスと七分丈の細身のジーンズという組み合わせも、すっきりとしていて余計な装飾はまったくない。
「で、どうしてここにいるんだ?」
と、凪は尋ねた。
「講義が終わったから。ほら、僕んとこは今、改修工事してるからさ。十二月までは、こっちの校舎を借りてるんだ。言ってなかったっけ?」
「初耳」
「そうだったかな? まあ、いいや。僕も凪君と会えるとは思ってなかったし」
麻夜は、この大学の学生ではない。ここから自転車で五分ほどのところにある帝国文化大学に通学している。学部は魔導考古学部で、祖父である牙城が教授を勤めているが、その校舎が改修工事に突入した。そこで、もともと大学間の繋がりがあった帝国総合大学の総合教育棟の一画を一時的に借りているというわけだ。
帝国総合大学と違い、帝国文化大学の規模はさほど大きくない。校舎の余裕はなかったのだ。
麻夜は、活動的な大学生だ。勉強もサークル活動も、そして資格取得のための独自学習も積極的に取り組んでいる。
彼女のライフスタイルは、模範的な大学生であると言えるだろう。
「凪君、お昼はどうするの?」
「この後ないから、家で食おうかと」
「じゃあ、僕も行っていい? 作るからさ」
「ん? いいぞ、別に用事もないし」
麻夜は、パーソナルスペースに入り込むのが上手い。人のことをよく見ているからだろう。相手との距離を測る能力が高いのだ。
麻夜は凪が自分を拒否しないことを知っている。多少のわがままなら彼は受け入れるだろうという信頼もある。だから、凪に対してはとても距離が近いのだ。
凪は麻夜の申し出をあっさりと受け入れる。突然の来訪ではあるが、それはもう慣れているのだ。暁姉妹の誰かが突然家に来るなど日常茶飯事だし、泊り込むことも珍しくない。
そういうおかしな環境は、やはり人の感覚を鈍らせるのだろう。
自転車で家に帰ると零菜はいなくなっていた。その代わり、東雲が凪の部屋で熟睡している。
「すっかりみんな入り浸ってるね。まるで、あれだ。サークルの部室みたい」
「何するサークルだよ」
「飲むとき飲んで、駄弁って、エロイことする人はエロイこと。ヤリサーかな」
そんなことを言う麻夜も常連の一人ではあるのだ。
何かと凪宅に寄って、時に酒を飲んで帰っていく。泊まることもある。決して人のことを言える立場ではないのだ。
麻夜は自分で言ったとおりに昼食を二人分用意した。といっても、ミートソースのスパゲッティだ。乾燥麺をお湯で戻せばいいので労力はかからない。
「東雲姉さん、起こさなくてよかったよね」
「あの分じゃ、声かけても起きてこない気がする。忙しかったのかな」
「最近、そうだったみたいだね。いや、僕は会うの一ヶ月ぶりくらいだし、連絡を取り合ってるわけでもないから、又聞きだけどさ」
それはそうと、自分の家で寝ればいいのに、と麻夜は思ったりもする。
零菜もさっきまでいたようだし、やはりこの家には常に誰かしらいるようだ。
「麻夜は、大学のほうはどうなんだ?」
「僕? ま、考古学はそこそこ。実習で海外に行かなくちゃいけないのは面倒だけど、いい勉強になってるよ」
食後、洗い物をしている麻夜に凪は唐突に尋ねてみた。とりわけ重要な話題ではなく、ただ単にふと気になっただけだった。
「海外、ね。あまりいい思い出ねーな」
「海外に行くたびに何かしらあったからね。君は、巻き込まれ体質にもほどがあるんだよ。でも、ここ何年かはないね」
「幸いなことに治安もよくなってるからな。犯罪率、減ってるんだってよ。凶悪犯罪は特に」
「まあ、さすがに力入れないといけない分野だからね」
絃神島の頃から、決して治安がいいとは言えない街ではあった。日本という世界でも知られた安全大国の一部でありながら、喧嘩に魔導犯罪にと様々な事件がどこかしらで発生していた。暁の帝国になってからもその傾向は変わりない。それが、最近はやっと落ち着いてきたのである。
テレビでもワイドショーを騒がせるのは、海外の事件事故が多くなった。技術の進歩は事故も減らしたのだ。その代わり、汚職事件がここのところ頻発しているような気もする。
「あれ見つかったんだ、よかったね」
昼のワイドショーは今ホットな話題をお届けするいつものコーナーに入った。海に釣りに出かけて行方不明になっていた人間の父子が無事に救助されたという話題がトレンドだそうだ。
「一昨日は、急に天気が変わったからな」
「珍しいことにね」
山のない暁の帝国で、急に天気が変化するというのは余りない。天気は比較的安定しているのだ。排水機能も充実しているので、豪雨災害といったものはまず起こらない。人工島の強みであろう。
「ねえ、凪君」
「ん?」
「血、欲しい」
唐突な麻夜の発言に、凪は特に表情を変えなかった。これも、別に珍しいことではない。この家に出入りするのは凪以外は全員が吸血鬼で、彼女たちは凪を吸血対象として認識している。肉体関係もある。今更、吸血するしないで騒いだりはしない。もう、そういう年齢になったのだ。
「麻夜、何かあった?」
「ん……ちょっと、ね」
麻夜は凪の隣のイスに座って、それから枝垂れかかるようにして首に噛み付いた。滲み出る血を少しずつ飲んで、情念の火を滾らせる。
「副専攻、介護なんだけどね」
「知ってる」
「昨日の実習でね、いろいろと触られたよ。まあ、接触のある仕事だから仕方ないと言えば仕方ないけど」
不快感を露にしながら、麻夜は囁く。
介護関係者が抱える潜在的な問題の一つは、長年議論されているものの解決には至っていない。
「男の人って苦手だし、思ってたよりもキツかった。あと、気持ち悪い」
「介護だと、そうだよな……相手と近いからな」
「セクハラだよ。施設長が厳重注意してくれたけどさ。まあ、どこでも、多少はあるって言うし……でも、嫌なものは嫌だから」
麻夜の声には憎悪と恐怖が混じっている。その対象は、麻夜に触れた被介護者ではなく不特定多数の誰かだ。行き場のない嫌悪感は、麻夜の過去に起因するトラウマだ。
昨年、麻夜は同級生の男子に髪を切られた。麻夜の親しみやすさを好意と勘違いした男子の逆恨みだった。当然、大問題になり、その男子生徒はその場で現行犯逮捕されたが被害を受けた麻夜は今でもその時のことを引き摺っている。
これまで、相応に修羅場を潜ってきた麻夜は、ちょっとやそっとの危機でどうこうなったりはしない。分かりやすい敵が相手ならば、眷獣なり呪術なりで対応できただろう。同級生という身近な相手が劣情と共に攻撃してきたからこそ、麻夜はショックを受けたのだ。
「介護の勉強、続けるのか? そんなに嫌なら辞めてもいいんじゃないか? 副専攻なんて、別に必要でもないだろ」
「途中で投げ出すのはもっと嫌。資格はあって損するものじゃないし、凪君が、介護必要になったら僕がしてあげるよ。おはようからおはようまで」
「しばらくは必要ないかな」
「うん、だろうね」
零菜の血の従者になった凪は年老いる事もなく、重傷を負ってもすぐに治癒する。介護が必要な状態になるというのは考えられない。強いて言えば、第三者から物理的、魔術的に拘束された場合だけだろう。
「凪君。頼みがあるんだけど」
「何?」
「触られたとこ、上書きしてよ。凪君で、さ」
麻夜の瞳は紅く染まっている。血を吸ったばかりの唇からは牙が顔を覗かせていて、声音を湿らせる。麻夜の悪い癖が出たようだ。
辛いことがあって、それを抱えきれなくなった時、麻夜は凪との接触を求める。それが決してよくないことだと分かっているが、だからこそ燃え上がってしまう。
「まだ、昼間だぞ」
「関係ないよ。昼とか夜とか」
「東雲寝てるし」
「それこそ今更じゃないか。東雲姉さん相手に隠したって意味ないよ。むしろ見せ付けたほうが喜ぶまである」
「そりゃさすがにねーよ。いや、ないと思う」
尻すぼみになるのは、東雲の普段の言動の所為だ。彼女の性癖を考えると、ありえると思えてしまうのが悲しいところだった。
「でも、とりあえず今はだめ」
「むぅ」
「むくれてもだめだ」
「じゃあ、後で」
「後でな」
ふてくされた風にして、麻夜は凪の膝を枕にして横たわる。
「その格好、辛くない?」
「へーき」
とりあえず、麻夜としては凪に触れていればそれでいい。
男性に対する不信感は強く残っているが、それを理由に職務を放棄することはないし、凪や古城といった気心のしれている家族は対象外だ。とりわけ凪は家族という括りでありながら、気になる異性でもある。自分の悪い部分も大らかに受け入れてくれるということも理解しているので、そんな凪の性格に付け入ることで、自らを慰めている。
東雲が起きてきたのは、午後四時を回った頃だった。
昼食を抜いていたので、すっかり空腹だった。これは、夕食の前に軽く凪から血を貰わないとだめだな、と舌なめずりをしつつ服を着直して凪の部屋を出た。
「えー、ずるいそれー」
麻夜が凪に膝枕されている。それを見て、東雲は唇を尖らせる。
「東雲姉さん。起きたんだ」
「お腹減ったから」
「冬眠明けの熊みたいな言い草だね」
「麻夜ちゃんは、何故にここに? 何で膝枕されてんのかな?」
「んー、特に理由はないよ。座ってると、疲れるし?」
「イスの上でその体勢もかなりやばくない?」
東雲は恨めしそうに麻夜を見る。
凪に膝枕されているのが羨ましい。後で自分もしてもらおうと決意する。
「くーちゃんと零菜ちゃんは? まだ帰って来てないの?」
「空菜も来てたのか? まだ二人とも戻ってないけどな」
空菜が来ていたことを凪は知らなかった。零菜と空菜が一緒に出て行ったのなら、一緒に戻ってくるかもしれない。もちろん、そのまま解散してそれぞれの家に帰ることもありえるが――――と、そんなことを話していたら、玄関のドアが開いた音がした。
「ただいま戻りました」
滑るような足取りでやって来たのは空菜であって、その後ろから零菜と萌葱が顔を出す。
「凪君、お久しぶりー」
「久しぶり。二週間程度だと思うけど」
「まあね」
と、にこやかに萌葱は笑っている。
「何でスーツ?」
「バイト帰りだからさ」
萌葱はスーツ姿で、黒縁の眼鏡をしている。ブルーライト対策だそうだ。
「今日、シフトの日じゃなかったよね」
「まあ、ちょいとサイバー攻撃食らっててね。やり返してやったとこ」
「まだ、うちに攻撃してくるとこがあったのか……」
暁の帝国の電子戦は世界最強だ。浅葱が開発したプログラムは、およそあらゆる敵性国家並びに企業からの干渉を弾き返す。萌葱の眷獣がネットワーク上に展開されれば、一分の隙もなくなるというものだ。この母娘がその気になれば、イスに座ったまま世界の半分を征服できる。ネット環境に依存した国ほど、暁の帝国にとってはカモなのだ。
「麻夜はライムしたのに、既読も付かなかったんだけど、ここにいたのね」
「え? ほんと? ごめん、見てなかった。わたし、ご覧のとおり寝てたんで」
「ああ、うん。もう、起きたら? 夕飯にはちょっと早いけど、色々と買い込んで来たよ」
「ほーん、何」
萌葱が買い物袋をひっくり返す。
酒にノンアル、フライドチキン、フライドポテト、ハンバーガー。絶望的なまでに身体に悪そうなラインナップである。
「ピザも頼んどいた。後で紗葵が持ってきてくれることになってます」
「いいね、お腹超減ってた!」
顔を輝かせた東雲は萌葱とハイタッチしている。
「支払いは?」
「今日は臨時出勤で日払いだったので、わたしが奢っちゃいます」
「さすが萌葱ちゃん、そこに痺れる憧れるぅ! じゃ、ぶしゅっと」
東雲は結露して水滴の付いたチューハイの缶を手早く掴んで開けた。
「これは、今日も酒盛りになりそうだね、凪君」
身体を起こした麻夜は欠伸をかみ殺して、慣れた手つきでプルタブを開ける。
「萌葱ちゃん、シャワー浴びてきたら? 着替えないとスーツに臭い付くよ」
「あ、そうだね。凪君、シャワー借りていい?」
東雲にそう言われて萌葱は凪に尋ねた。断わる理由は特にないので、凪は許可を出す。
「前に置いてったジャージがあったよね。どこだったっけ?」
「寝室の右側の箪笥の上から三番目」
凪の部屋に入っていった萌葱。
「うわ、空き缶だらけじゃん。こっちも片付けないとヤバイよ。後で纏めないと」
昨日の酒盛りの名残を見て、萌葱がそう声をかけてくる。結局、今日も酒盛りすることになったのだが、これとあれを纏めてしまえばいいかと凪は適当に考える。
「零菜、どうした。突っ立ってないで座れば?」
「え、あ、うん……」
妙にそわそわとした様子の零菜が他人行儀な風でイスに腰掛ける。
「あ、そうそう。大事なことを忘れるところでした。零菜のことで、ちょっと」
口火を切ったのは、空菜だった。
「零菜がどうした?」
「それが、今の零菜は普段の零菜じゃないんですよ」
「意味が分からん」
「身体はそのままに中身は中学三年生だそうです。深森さんが言うには、
空菜がそう説明するので、零菜に視線が集まった。
「ますます意味が分からないんだけど。要するに……」
「時空間を超えて、昔の零菜と今の零菜が入れ替わった、ということです。深森さんと那月先生に視てもらった結果です」
「……それは、また」
なんと言っていいのか分からなくて、凪は押し黙る。
「それで、その状態は元に戻せるのかな?」
と、麻夜が尋ねる。
「眷獣の効果は一日と持たないみたいなので、多分明日の朝には戻ってるはずだそうです」
「てことは、つまり……心配する必要なし?」
「そういうことになります」
眷獣が悪さをしただけで、零菜本人にも周囲にも大した悪影響はないというので、一安心だ。
「ほんとに中三の頃の零菜なのかい?」
「う、うん。麻夜ちゃん、だよね? なんか、イメージ違うんだけど」
「まあ、あの頃と比べると大分わたしも変わっているだろうね」
零菜にとっては、一番変化が激しかった人物と言えるだろう。今の麻夜と中学生の頃の麻夜が同一人物なのかと言われて、素直に頷けないのだ。
「まあまあ、事情は分かった。けど、今すぐにその何? 入れ替え? が戻るわけじゃないんでしょ? じゃあ、ごちゃごちゃ考えてても仕方ないし、飲もっか」
東雲が零菜の肩を抱いて、チューハイを押し付ける。
「わたし、中三だってば」
「身体は二十越えてるから大丈夫大丈夫」
「え、いや、それは……」
何とも反論しにくいことを言う。確かに法的には問題はないのかもしれないが、だからといって飲酒するというのも如何なものか。
「ノンアルあるんだから、それでいいだろ。東雲も無理に勧めんなよ」
「凪君は真面目だなー」
「真面目ではないけどな。単純に零菜が困惑してるってだけだろ。中身は中三だぞ」
「はーい」
東雲は悪びれもせず、零菜の手の中にあった缶をオレンジジュースに取り替える。
「ありがと」
「どーいたしまして」
ぐびぐびぷはっと東雲はアルコールを体内に入れていく。
白い頬がほんのりと紅に染まる。
「それで、中三のいつの零菜なんだ?」
凪に問われた零菜は、オレンジジュースの缶から口を離す。
「わたしの昨日は、一月……まだ冬休み」
「中三の冬休み? あー、クリスマステロの後か。なっつ、大変だったな、あの頃は」
「確かに、かなりバタバタしてたよね。凪君なんかは受験が近かったのにさ」
零菜にとっては二週間も経っていない大事件を、凪たちは過去を懐かしむように話す。実際、彼等からすれば四年半も前のことだ。
「零菜ちゃんからは何か聞きたいことないの? ほら、ここ未来だし。未来? 未来でいいのかな?」
「その辺はよくわからないみたい。深森ちゃんが言うには、地続きではない? みたいな?」
「あれだ、並行世界ってヤツだ。よく分からんけど。まあ、過去と未来がまっすぐ繋がってたら、天球の蒼の能力はあんま意味ないことになるしね」
「うん、それは、そうなんだよね」
具体的に、零菜が自分の能力を把握できているかというとそうではない。今回の事件も、過去の零菜と未来の零菜のどちらに原因があったのか分からないのだ。少なくとも中三の零菜は未来の自分の入れ替わりを望んではいなかった。
「凪君はあまり変わってないね」
「そうか? 零菜の血の従者になってたりするぞ」
「……そう、だけど」
「ハーレムだしね」
麻夜が口を挟んだ。
「古城君みたいになってる?」
「傍から見れば、ね。凪君とわたしたちの関係はね……父さんたちとはちょっと違うと思うんだけど、まあ中三には早い」
「その言い方、すごく気になるけど……」
「元に戻ったら覚えてるの? こっちのこと」
「多分忘れる、と思う。そんな感じがする」
「じゃあ、気にしないほうがいいよ。今が一番いいとこに落ち着いているだけで、大変だったし。主に萌葱姉さんが」
「何で?」
「あの人が発起人だから。まあ、そうせざるを得ないっていうか、色々あったの。わたしたちにもね」
あっけらかんと話す麻夜の隣で、凪は渋そうな顔をしている。凪が当事者、というか中心地にいるはずだが、肩身が狭そうだ。
ドアが開いて、萌葱が入ってくる。体操着のジャージは、彩海学園のものだ。これを着ていると、高校時代の萌葱とそう変わりがないように見える。
「萌葱ちゃんは零菜ちゃんのこと分かってるんだよね」
「ここに来る前に聞いた。懐かしいよね、四年半前ってわたし高一だよ。もうあれから四年半とか、絶望するわ」
イスに腰掛けた萌葱は、そのまま自分が買ってきた酒瓶を開けてお猪口に注いだ。
「何、その白いどろどろは?」
「これ? どぶろく。知らない?」
「知らない……うえ、アルコール臭い」
「結構、強いからね。日本のお酒の中では」
その強い酒を萌葱は平然と飲んでいる。
「萌葱ちゃんはお酒、強いの?」
「わたし? そんなでもないかな?」
萌葱はそう言いながらも、ちびちびとどぶろくを味わっている。
「萌葱ちゃんは強くないけど、強いお酒が好きな人。ほどほどにしないと、またやらかすよ」
「わ、分かってるわよ」
萌葱の顔が赤いのは、酒の所為ではないだろう。過去の「やらかし」が羞恥心を呼び覚ましているのだ。
「何かあったの?」
と零菜は東雲に聞く。
「ほら、酔った振りして甘えるヤツあるじゃん? あれをしようとして、ガチで酔いつぶれて吐いた。結局、凪君に介抱してもらったんだもんね」
「あ、あれは、その想定外だったのよ。あんなになるとは思ってなかったし……もう大丈夫。自分のことは、自分が一番よく分かってるから」
普段はしっかり者なのに、ここぞというときに失敗するのは昔から変わらないようだ。
今日顔を合わせた姉妹の中で、萌葱が一番変化が少ない。本当に、零菜の知っている萌葱がそのまま大学生になったという感じだ。関係性にも大きな変化はないようで、安心感があった。
「あなたがここにいるのは、今日までなんだし、大学生ってこんな感じだっていうのを感じてって」
「お酒飲んでダラダラしている印象しかない」
「間違ってないから困る。単位さえ落とさなければ、遊んでても文句言われないしね。高校の頃より緩いのは否めない。空菜以外はここに至るまでに必死こいて勉強してるから、トントンだよ」
萌葱はそんなことを言って正当化する。
空菜以外、としたのは空菜はその出生から受験勉強の必要がなかったからだろう。生まれた時から学校の勉強は網羅している。
「そういえば、紅葉ちゃんとか、ここにいないみんなはどうしてるの?」
「紅葉は、留学してる。魔獣の実地調査で、南米にいるよ。東雲が昔使ってた家をそのまま借りてる。で、唯雫はまだ日本の高校通ってて、来年、こっちの大学を受験する気でいるみたい。後は、夏穂と瞳は小学校。男子からモテモテみたい」
「可愛いからね、二人とも」
四歳から八歳に成長した幼児組は、案の定、クラスのアイドルになっているとのこと。まあそうだろうな、と納得する。
とりあえず、四年半経っても平穏無事に過ごせているようなので、零菜は少しだけ安心する。もちろん、この未来に辿り着くためには、零菜と周囲が彼等と同じ選択を積み重ねる必要がある。それは、きっと現実的ではない。同じ零菜でも、過去の零菜と未来の零菜は別人だと思うから、必ずしもこんな関係性にはならないだろう。
気になることはたくさんあったが、何を聞いても明日には忘れている。だから、零菜はあまり突っ込んだことは聞かなかった。
■
朝、目が覚めるともやもやとした違和感があった。間違いなく自分の部屋なのに、ここではないという思いが不意に浮かんでくる。
一月のまだ肌寒い朝のこと。今日の予想最高気温は十四度。暁の帝国にしては低いほうだろう。
何となく、玄関から外に出る。フロアそのものが暁家の所有物なので、部外者と顔を合わせることはない。強いて上げれば、家族の誰かだ。
「あ、零菜……」
そして、朝一番に顔を合わせたのは自分と同じ顔をした新参者と幼馴染。空菜と凪だ。二人ともジャージを着ている。
「おはよう、二人とも。朝、早いね」
「ランニングでもしようかって話になったんだよ。今年になってから、まだ身体を動かしてないからな」
と、凪は答える。
「零菜は、何だ、その、大丈夫か?」
「え? 何が?」
「いや……」
と、凪は口篭る。
しかも、
「どう思う?」
「……いつもの零菜に見えます」
というやり取りを空菜としている。
「ちょっと、二人とも……何?」
不審そうに零菜は二人に空色の瞳を向ける。
自分をのけ者にしてこそこそ話をしていることにムッとする。
「いや、別に……」
「別にって何? それにいつものってどういうこと?」
零菜に対して空菜が確認するように尋ねてくる。
「覚えてないんですか?」
「何を?」
「昨日のこと」
「昨日……?」
零菜は何のことか分からない。昨日と言われても、普通に過ごしていただけだ。冬休み課題をしたり、ゲームをしたり。何も特別なことはしていない――――はず。
「ありゃ、みんな朝からどうしたの?」
そこに出てきたのは萌葱だった。寝起きなのか、化粧をしていない。髪はシュシュで束ねただけの無防備な姿だ。
「あ、零菜……あんた、今日は大丈夫?」
「萌葱ちゃんまで!? ちょっと、え、何? 何なの?」
困惑する零菜の様子に、萌葱は凪と空菜と目配せする。
「零菜、あんた今日は病院……いや、お祖母ちゃんのとこに行こう。きっと、疲れてるのよ」
「だから何なの!?」
零菜は何のことかさっぱり分からない。しかし、他三人もきちんと事情を飲み込めていないようで返答は曖昧だ。
ただ、分かることは昨日の零菜の様子がおかしかったということだけだ。それも零菜の記憶にはない。自分の知らないところで、何かとても不味いことが起こっているのではないかと不安になる零菜だった。
麻夜・・・帝国文化大学二年生。魔導考古学を専攻しつつ、副専攻で看護学を学んでいる。男性不信を抱く一方で、凪を信頼できるほぼ唯一の男性として強く意識しており、凪との関係性に依存しているところがある。凪と二人だけのときとそれ以外で一人称を使い分けるなど、理性的に振る舞い、時に自分のトラウマすら利用して凪に甘える悪女な面もある。実は恋愛で人が変わるタイプで、四年間で一番変化があった人。
萌葱・・・大学生の身分を持ってはいるが、実体はフリーのプログラマー。眷獣を使わなくとも大概のプログラムは組み立てられる。仕事が早く正確なので色々な企業や役所のサイバー犯罪対策に重宝されており、収入に困ることはない。凪のハーレムを立案した張本人。凪が零菜の血の従者になったことで関係の見直しを迫られた際に、家族がこれからもずっと一緒にいるためにハーレムの構築を提案した。その経緯から姉妹の中では強い発言権がある一方で、恋愛面では一緒の時間を過ごして、言葉を交わせれば嬉しいというレベルの純情気質に変わりはないため、積極的過ぎる妹達についていけないと思う場面も多々ある。