163話 解呪
トロデーンの空におどろおどろしい黒雲はない。空気も悪くない。だけど、期待していたのに、トロデーンは戦いの前と変わらず静かで寂しい。風だけが吹き抜けて、僕らの間には嫌な沈黙が降りる。
茨の呪いは今も城を埋めつくし、人の気配はなかった。つまりそういうこと。
ドルマゲスを倒して、ラプソーンを倒して、じゃああとは、誰を倒せばいい? 何に原因を求めたらいいんだ!
「お城は……呪われたままじゃないか。そんな……」
「魔物の気配はしないけど、それはトロデーンの中だからなのかな。わかんないね。暗黒神がいない今なら外も魔物がいないのかも……とりあえず見回りをしなくちゃいけない? 私走ってくる」
「ちょっと待てトウカ、エルト。あっちにトロデ王と馬姫様がいるぞ」
「ほんと?」
弾かれたようにトウカがぱっと周囲を見回した。すぐに防具をちゃらちゃら言わせながら身軽に走っていくので慌てて追いかける。
「陛下! 姫様!」
「おお、トウカよ。その顔を見ればやり遂げたことはわかるよ。うむ、やはりミーティアと同じくらいの年頃の娘はそうやって元気にしているべきじゃのう……」
「ありがたき幸せにございますが! そのお姿は……」
「うむ、まだ呪いは解けておらん」
--心配することはありません。既に呪いは解けかかっています。じきに全て元通りになるでしょう。
僕たちの様子を見ていたレティスが静かに告げた。
「おぉ、神の鳥が言うならばそうなのじゃろう」
--えぇ。そして、お別れですね。
翼を広げたレティスのところに、僕の胸元から飛び出した金色の魂が……母鳥のところにむかってふよふよと飛んでいく。あるべきところへ。
「親子で気をつけるのじゃぞレティス。……とはいえ、神と讃えられし存在に言うのはおかしいかもしれんがの」
--その名前はこの世界の人間が付けたもの。神ではありません。私が生まれた世界では、あなたがたのような勇敢な人間たちに別の名前で呼ばれていました。
過去を懐かしむように、レティスは僕たちを見た。
--そう、ラーミアと。
ぼくはまったく知らない名前だった。だけどどうしてか不思議な響きの異界の言葉は、感慨深く響く。トウカは聞き覚えがあったのか驚いたみたいに口元を抑えた。
「どうかお元気で!」
でもそれには触れずに。トウカは明るく手を振って彼女たちを見送った。
「ふう、行ってしまったか……」
「おっさん! なんか光ってねぇでがすか?!」
「何を言っておる、わしはいつでもギンギラギンに輝いておるわい!」
「陛下! 陛下は輝いていらっしゃいますが、今は物理的に輝かれています!」
「ぬう?」
ヤンガスの言葉を冗談だと思われた陛下は、忠臣極まるトウカの言葉でさすがに疑問を持たれたらしい。キラキラと体を覆う光はどんどん眩しくなっていって……。
僕たちはつい目を閉じた。
「おお!」
驚きの声を聞いて何とか目をこじ開けると、そこには懐かしくて親しみ深い、陛下の元のお姿があった! トウカがびっくりしたようにぴょんと飛び跳ねて、にっこり笑うとそのまま姫の姿を探し始めた。じゃあ僕は陛下の方を見ておかなくちゃね。
「おお、おお! 元の姿に戻ったわい!」
「なんでえ、あれだけ大騒ぎだったのに大して変わんねえじゃねーか」
「何を言うておる、このあまりのイケメンっぷりに恐れをなしたか!」
「ってそんなことは良いわい! 姫や、わしのかわいいミーティアはどこじゃ!」
ぐるりと見回した陛下の視線の先が定まる。いち早く姫のところに飛んでいったトウカが恭しく護衛しているミーティアは、不思議な泉にいるわけでもないのに、ちゃんと元の姿に戻っていた。
「お父様……!」
「おぉ、ミーティア!」
おふたりが涙を流しながら抱き合う。物心、というか僕の記憶にある限り一番恩のある、かけがえのない親子。たとえ主従関係がなくても僕が一番守りたい家族。その二人がやっとやっと、忌まわしい呪いによるものではなくて元の姿で再会を喜びあえる。
あれ、僕まで泣けてきちゃった。おかしいな。兵士の僕はいつでも冷静に周囲を警戒しなくちゃいけないのに。トウカをご覧よ、トウカは真面目な顔をしていつも通り護衛を完遂してる。僕もそうしなきゃ……って、トウカもすごく必死に涙を堪えてる。そうだよね。
「陛下、姫。感動の再会でございますが。城の方を……ご覧くださいませ」
だけど、流石トウカはそれでも冷静だった。涙声なのは堪えきれなかったみたいだけど、周囲のことはちゃんと見てたらしい。
一斉にトロデーン城を見ると。ああ、僕の魂の故郷は。呪いによって変わり果てたその場所もおふたりと同じように輝いている。
その光が収まったら、空気が一瞬にして変わった。どこかあたたかく、どこか荘厳で、だけどとっても落ち着く。故郷の匂いというのはこういうものなんだ、と。これは長い長い旅の果て。遥かなる旅路の向こう側へやっとやってきたんだと実感する。
静かなざわめきが聞こえる。目をきらきらさせて、愛おしいトロデーンで育った僕らは嬉しい予感に胸を躍らせる。
城の扉がバタンと開く。呪いを解かれ、時間が動き出した人々が何事かと出てきて空を仰ぐ。僕らを見る。その顔ぶれはどれも覚えがあって、あぁ。
ただいま、と小さく囁く。おかえり、の方が正しいかも。
「うむ、皆の者!」
陛下のよく通る声が、広い城の庭に響きわたる。きっと呪いの解けた皆にもよくよく聞こえたはずだ。だってトロデーンきっての名君トロデ王の命令を聞けない者なんてここにいないでしょう?
「宴じゃ! 今晩は宴とするぞい!」
「畏まりました!」
誰よりも早く素晴らしいお見本みたいな返事をしたトウカがぴゃっと走り去って、兵士を二人引き連れてすぐに戻ってきた。
「エルト以外はお客様だからね! ゆっくりしてて!
エルトはこのふたりと一緒に陛下と姫の護衛の継続をしてて。私は……えっと、ボクは……城中に周知してくるから、それが終わったらあと三人は動けそうな人間を呼んできて、護衛を代わってもらう。エルトは小間使いの経験があるから厨房でも戦力になれるでしょ。ボクは宴の邪魔になりそうな庭のガレキを片付ける方向で働いた方が役に立てるだろうから、えっとえっと! じゃあそういうことで!
おーいそこの二等兵! 大丈夫か、動けるか! 動けないなら救護室へ護送してやるから右手をあげなさい! 動けるならボクについてくる! さぁ!」
まくし立てるだけまくし立てて、嵐のように走り去っていったトウカの背中を見送って。困惑を隠しきれていない兵士たちはそれでもトウカに言われた通り護衛をちゃんとしてくれているので、僕は僕でみんなに向かい合った。
「えっと、そういうことだから。みんなはこれからトロデーンの国賓ということで? 陛下、よろしいでしょうか」
「うむ。ラプソーン討伐の功労者として不足のない扱いをしなくてはな」
「……あの、駆けずり回っているトウカはどうしましょうか」
「張り切っているところじゃが、あの娘も功労者のひとり。とはいえ捕まえるのは難しいじゃろうから、戻ってきたらわしが止めるぞい。心配せずとも我がトロデーンは呪いが解かれてすぐでも問題なかろうて。たまにはもてなす側のトウカも祝賀側としてのんびりするとよかろう」
そういうことで、ほどなくして戻ってきたトウカは働くのを命令で止められて、大人しく宴の準備が出来上がるのを僕たちと眺めることになるのだけど、どんな速度で城を駆け回ったのかほぼ全員に周知した後だったことにはびっくりした。
ついでに返り血がすごかったせいか着替えてきていたので、僕たちもそれに倣ってボロボロになった装備を脱ぎ、まともに見える服に着替えてくることにしたのだった。