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「……ぁ、あぁ、あぁあ!」
エルトの腕の中で兄上の体が崩れていく。さらさらと、指先から砂になっていく。腹から噴き出す血もなにもかもが、瞬く間に砂になって、地面に還っていく!
兄上! 兄上! 私は、私は! 貴方に会えたなら、いろいろ言いたかったことがあったというのに! 報告したいことが、謝りたいことが、伝えたいことがたくさん、たくさんあるのに、兄上!
涙が止まらない。立場も状況もわきまえずに泣きわめき、怯えて怖がってもっと役に立たない弱い私は子供の頃に殺したのに、泣きわめく涙を持つ私は……この手で心を殺したのに! どうして、涙が止まらないの! ぼたぼた地面に落ちて、兄上から零れ落ちていく砂を濡らしていく。
昔ならどんなに理不尽なことがあっても表情を変えずにいられたのに、涙を流そうとする自分を止められたのにどうしたってそれができない。弱音を吐く自分の息の根を止めたと思った時から私の感情はだんだんむしろ露わになっていく。
兄上の力を失った手に思わず触れた途端、そこが崩れて、思わず手を引っ込めた。せめてお姿だけでもと目に焼き付けようと兄上の美しい顔を見ても止まらない私の涙で歪む。
ああ、こうなるはずだったんだ、こう成長するはずだったんだ、兄上は。こんなお姿で、私と違って間違いなくモノトリア家を導けたはずだったのに、私みたいな紛い物じゃ、だめなんだ!
だめだったんだ、だって私は女だった、しゃくだったけれど、本当は嫌だろうが何だろうが血を残さなきゃならなかったから……男じゃなきゃ駄目だった。同世代とは言い難いけれど相手になりうるのはライティアだけだったから。でも私は女で彼女も女だった。
拾われっ子の私が外部から血を入れたところでもうそれは「ただの人」しか生まれなかっただろう。事実上、私で最後だったんだ。たった数十年、長い長い歴史を引き延ばすだけの鎖が私だったから。
ああ、似ているよ、兄上はとても似ている。母上と父上にそっくりだ……。
私じゃ、何とかやってきたように見えても駄目だったんだ、彼ならば、彼ならば何もかもうまくやれたはずなのに。魔法だってあんなに使えた。
私をこそこそ覗いて、魔法のことを馬鹿にして、そして剣を野蛮だと影口を叩いて、でも表では美辞麗句を連ねる。そんな連中に名前を汚されることもなくて、胸を張って言えただろうに、王の剣は健在ですと、これからもお守りいたしますと!
城の結界は? 万全の守りは? 私にできたのは剣を振るって、見える危険を排除するのみ。それもどうしたって睡眠も休憩もしなくちゃいけないから……ああ、なんて心もとない王の盾!
「……トウカ」
「ぅ、あぁ……っ」
「トウカ!」
「な、にさ」
「無粋な奴がこっちに迫ってきてるぞ。遺跡の奥からだ」
遺跡の奥……? 兄上が命を捧げて開いた結界の奥から……。
ああ見ないと。知らないと。それが今、出来ること、だ。
情けなくもがたがた震える手を握りしめる。息を吸い込む。深呼吸をしてせめて見た目だけでも取り繕ろう。みんなに泣き顔を見られたの、恥ずかしいけど恥ずかしがるのも悲しむの後にしなきゃ……。
ぽんぽんと優しく背中に触れる手に安心した。別に一人じゃない。ククールもエルトもヤンガスもゼシカもいる。何を恐れているんだ、今まで全部何とかなってきたし、最終的には七人もの賢者が封印までした神に挑まなきゃいけないっていうのに。
剣を引き抜こうとして、いつもの大剣を神の鳥の巣に落としてきてしまったことに気が付いた。手袋から剣を出そうとしたけれど、それはもう間に合わない。「無粋な奴」のほうが早くついてしまった。
私、動揺してるなあ……。仕方ない、いざとなったら斬りかかりながら適当なものを召還するとして、今は丸腰であることを利用しよう。体力はゲモンの悪あがきのせいでかなり減ってるけど、しばらく座ってたし動けないこともない。それにやっぱり重いものを持っていないほうが早く動けるんだからいる意味今の状態はアドバンテージだ。
それに素手だと油断を誘える可能性もある。他にみんなは武器を手放していないから余計にね。私、一目で騎士だと分かる服装だから武闘家と間違えられたりはしないだろうし。
とりあえず顔を見られる前に涙はぬぐった。
そして顔を上げて無粋な奴を……は?
道理で……みんなもろくに反応せずに静かだったわけだ……だって、その人、いや人間って見た目じゃないんだけど、その人、両膝を地面について、顔を左手で覆って、うつむいて、声を殺して、でも号泣としかいいようがないぐらいに泣いているんだもの。さっきまでの私よりもなんかすごく……悲痛って感じじゃないけど……。
人間か判別できなかったのはその人の右腕がどう見ても異形だったから。巨大な爪が飛び出して、関節にはとげがあって、肌の色もチョコレートみたいな茶色に変色して、しかも腕が胴ぐらい太い。指はあるけどどうみても巨大すぎて、物をつかめそうになくて、重さに任せて切り裂くぐらいしかできそうにない。でも体は取り立てて変なところもないし、人間にしか見えないんだよなあ……。
魔物なら距離をとったのに理性ある人間にそういうことをしていいのかわからないし。
ばさばさになった白っぽい髪の毛は何年も切っていないみたいに長くて、顔を伺うどころじゃなかった。とりあえず敵意はない。そう判断した。あとは……体格的に男性だろうな。
で……こんなときに腹立たしいんだけど、リーザスの塔であったみたいに頭が痛いしくらくらする……。多分、目の色もいつもみたいにおかしいんだろうなあ。緑か紫のはずだよ。え、結構何だって? 前から変色してた? 髪の毛を切られてから自分の視界に髪の毛が入ってこなくなったからわからなかったよ……。気休めにかけられたホイミが案外いい感じに頭痛を軽減していく。でも視界はぐらついたまま。
「……気を付けろ」
「何か、感じるの」
「どす黒いとしか言いようがねえ。まともな人間じゃありえない。……どうみてもまともじゃないが」
それは言えてる。
こっちからアクションを起こすのもなんだか気が引けて私たちは黙っていた。
目の前の男性は泣いているようにしか見えなかったのに妙に威圧感があって、顎から汗がぽたりと垂れた。腕を考えれば、当然かもしれないけど。
怖い。背筋が冷えるような感覚がうっすらしていて、でも確信的というほどでもない。怖いのに、懐古が湧く。懐かしい匂いのする場所を訪れたような。私は彼を知っているような。ううん、答えは出ているはずだ。考えなくたって心がそう告げている。
でも認めたくなかったんだ。
認めたらすべて崩れる気がして。
怖かったんだ。崩れていく自分と、築き上げて堅牢となる自我が。それがあまりにも彼女とかけ離れているものだから、普通の人間の、普通の弱さを忘れていくというのが。目を向ける余裕はないのに、この黒と白の世界に来てから変におびえていた気がする。がむしゃらに何も考えずにきたんだ、だから。
昔の、前世の記憶が今もどんどん薄れていく。弱い私を「殺した」日から、理性がどんどん薄れるように堪えがきかなくなっていた。一人が怖いなんてあるはずないのに、見捨てられても平気なのに、上っ面だけ笑顔を浮かべて話すなんていくらでもやったはずなのに出来なくなっていく。
忘れていく、平和な日々を。何かが苦手で、不注意で、そして死んだ子供の記憶を。昔は何が苦手だったっけ?今は得意だったような気がする。今はむしろ、苦手なのは魔法ぐらいだから。
楽しいことを我慢できたはずなのに我慢できなくなって、ああ、私は子供に戻っていくみたい。
もしかしたら、私と昔の彼女は別人なんだろうか。多分、彼女ならこの男性に懐かしいなんて思わなかったはずなんだ。そして戦いが楽しいとも、痛みをこうも恐れないこともなかったはずなのに。
そういえば、もうすぐ、「誕生日」だ。本当のものじゃないけれど、そうされている日だ。
十九歳か。……ああ、記憶も倫理も狂うのは当然だね。ちょうど兄上と同い年だ。そして桃華が死んだのもそれだけ経ったってことで。ミハエルに時間がなかったように、彼女にも実は時間がなかったんだろう。
霊魂を結びつけていられるのも、死者の無感動を利用していられるのももう終わりだ。そして彼女をこの男性に会わせるなんて私にはできない。ある意味、彼女を殺した相手だから。
さあお帰り。さようなら。本当の両親のもとにお帰りなさい。
私はもう大丈夫、とりあえず目の前の問題からあたっていくから。
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