艦娘と言っても、常に海にいるわけではない。
久しぶりの休日。赤城は一人、高原に来ていた。
休日なので、いつもの袴姿ではなく、ズボンとTシャツという動きやすいラフな服装である。
「すー……はー……」
高原の清々しい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「は~良い空気ですね~。空気が美味しいってこういうことでしょうか」
普段は潮風ばかり吸っているから、こういった草木の香りがする空気はとても新鮮だ。
なんだか身体が軽くなったような気分になってくる。
「さて、と」
今日は高原の散歩以外に、もう一つ目的がある。
ある人に、会うのだ。横須賀鎮守府設立当初に、赤城もその人にとてもお世話になったことがある。
高原をしばらく歩くと、草木の香りに混じって、甘い香りが赤城の鼻をくすぐった。
「ふわぁ~……懐かしい臭いですねぇ」
この甘い匂いは、バターと砂糖で作られたクッキーだ。ほのかにチョコの匂いも混じっているから、チョコチップクッキーだろう。
「そういえば最近、クッキー食べてないですね」
小さい頃は、クッキーがとても豪華なお菓子だったように思える。簡単に作れるのに、とても美味しい。トッピングも自由自在。チョコ味にするのも、抹茶味にするのも、思いのままだ。
「あーもう辛抱たまりませんね!」
やがて、一軒のログハウスが見えてきた。甘いクッキーの香りは、その家から立ち昇っている。
「あは!」
赤城はわくわくする心を抑えながら、駆け出した。
玄関に備え付けられている小さなベルを鳴らす。チリンチリンという軽快な音が鳴る。
「こーんにーちはー!」
「うるさいね! 聞こえてるよ!」
ドアを開けて出てきたのは、白髪の老婆であった。
気難しそうな顔をした、パーマを当てた老婆。誰もが思い浮かべる『西洋のお婆ちゃん』という外見だ。
「お久しぶりです、グランマ」
「はい、お久しぶりだね」
「わぁ~いい匂いですね~」
思わず鼻がひくひくしてしまう。
「食いしん坊なのは相変わらずだね。まあ、変にダイエットする女よりはよっぽど健康的で、わたしゃ好きだけどね」
「えへへ。ありがとうございます」
この人はグランマ。横須賀鎮守府設立当初に、厨房にいたことがある人だ。主に洋菓子を作り、艦娘達に振る舞っていた。
気難しそうな顔をしてはいるが、その実面倒見は良く、彼女を慕う艦娘は多い。
「ほら、お入り」
「おじゃましま~す」
グランマに案内されて台所まで行くと、そこには山積みのクッキーが置いてあった。
チョコチップとバタークッキーの二種類というシンプルなものだが、出来たてほやほやのこの甘い匂いの前では、種類の少なさなど些細なことだ。
「うはぁ……美味しそうですね……」
「赤城。よだれ垂れてるよ」
「おおっと」
慌てて、服の袖で口を拭う。
「コーヒーでいいかい? 座って待ってな。つまみ食いするんじゃないよ」
「はい」
赤城は椅子に座り、じっとクッキーを見つめる。まさに餌を前にした子犬といった感じで、もし赤城に尻尾があれば千切れんばかりに振っているだろう。
甘いクッキーの匂いがする部屋の中。耳を澄ませば、台所から「シュンシュン!」とポットのお湯が沸騰している音が聞こえる。
「なんだか、こういうの良いですね~平和で」
深海棲艦と戦っているなんて、夢のようだ。
「……静かですね~」
そうだ。この前来た時は、駆逐艦の子供もたくさんこの家に来ていた。その時は騒々しくも賑やかだったが、今この家は静寂に包まれている。賑やかだった頃を知っていると、なおさら静寂が寂しく思える。
いつからだろう。深海棲艦との戦いが激化して、暇が無くなったというのも理由の一つだろう。
だが、それは言い訳かもしれない。本当は、理由なんて無い。ただ足が向かなくなったというだけ。
赤城もグランマに合うのは、一年ぶりだ。
「ふん。うるさくなくてこっちは助かってるけどね」
グランマがコーヒーを煎れて戻ってきた。ミルクが大目で、コーヒーというよりはカフェオレに近い。
「いただきます」
両手をぽんっと合わせて、赤城はチョコチップクッキーを一つ、口に入れる。
「はふっはふっ!」
出来たてのクッキーは熱く、ちょっぴり口の中を火傷してしまう。だがその後に、サクサクのクッキー生地とチョコチップが口中に広がり、幸せな気分になる。
実にいい焼き上がりだ。固すぎもせず、柔らかすぎもせず。口に入れて、少し噛むと『サク』という心地良い音と共にクッキーが崩れる。バター風味の生地に、チョコチップの味が混ざり合い、何とも言えない美味しさになる。
次はバタークッキー。うんうん。こっちは少し冷えているが、その分バターの味がしっかりとわかる。サクサクというよりは、ややしっとりめの食感。
そしてカフェオレを飲む。甘さ控えめだが、口に残るクッキーの甘さで丁度良い味になった。
クッキーを頬張り、カフェオレを飲む。量的に、もはや軽い食事のようになってしまっている。
「相変わらず、良い食べっぷりだね」
「ええ! 私チョコチップのクッキー大好きなんです」
「それと、カフェオレも好きだったね。大きくなっても、味覚は変わってないね」
「あ……」
そうだ。このクッキーとカフェオレの組み合わせ。これは赤城が子どもの頃好きだったものだ。
「覚えててくれたんですね」
「ふん。あんたが食べる姿は、印象に残るからね」
グランマは恥ずかしそうに顔を背ける。
そんな心遣いがとても嬉しい。
「あの、また来ますね。今度は駆逐艦の子供達も連れて」
口ではうるさいなどと言っていたが、やはり賑やかな方がグランマも嬉しいだろう。
「余計な気を回すんじゃないよ」
グランマはピシャリと言い放った。
「で、でも」
寂しくないんですか? と続く言葉を、赤城は寸前で飲み込んだ。
そんな言葉にされなかった赤城の気持ちを察したのか、グランマは微笑んで言う。
「誰も来なくなっても、あたしゃ待ってるよ。たまに誰か来たら、クッキーを焼いたげる。それで十分だよ」
「十分、ですか?」
「ああ。今日誰も来なかったからと言って、明日そうとは限らないだろう? 世の中、そういうもんさ」
「……はい」
グランマの優しい笑みに、つられて赤城も微笑んでしまう。
赤城はクッキーを一口食べ、カフェオレを飲む。甘く優しい味がした。