そんな思いつきから出てきた話。
少し低めの丸椅子に腰掛けオレンジと赤が混ざったような灯りを見つめながら、冷えてしまった両手の平を近づけかざす。手の平を少し丸めてさすりながら優しい灯りをたたえるそれに手のひらをかざすと、あたしの手のひらにもほのかにその色が移る。
時たま小さくパキンという金属音をたてながらゆらゆらと漂う灯り、それから視線を窓に移すと雨粒がランダムに当たり桟を伝って流れていく。
落葉を司る神様が今年も元気に蹴り回ってくれたおかげで、色鮮やかに侘しい季節は過ぎて、今はもう静けさと無音の似合う季節に入る頃だ。本降りではない今日のような小雨でも少し濡れれば十分に冷える、吐く息もほんの少しだけ白くなってきていた。
吐いた息は手元の暖かな灯りが起こす上昇気流に煽られて一瞬で消えていく。
消えいくそれを見送り、もうすぐ寒くなるなと窓越しに雨模様の空を見上げた。
そのまま窓から店内へ、店内からカウンターへと視線を流していくと、いつもの椅子に腰掛け本を読み耽る見慣れた男がいる。
まるでその場から動けないのだというくらいにいつもと同じ場所、同じ姿、同じ本。
あたしの方もいつも通りに男に話しかけるようなことはせずそのまま無言で眺めていると、動けないと思った男が不意に立ち上がり奥の暗がりに消えていった。
あたしはそれを気にすることなく暖かな灯りに身を委ねた。
優しい灯りのおかげで少しだけ濡らしてしまった着物もほとんど乾き、同時に濡れて冷やしてしまった体も動くくらいには暖まってきた。温もりを取り戻すのと同時に心の余裕も取り戻すと、さきほど消えた男がカウンターに開いたまま残していった本が急に気になってきた。
いつ来ても同じ本に目を通しているが、あの男は表情も変えずに何を読んでいるのだろうと。
何度も読み返すような面白い本なのだろうか、それともよほど気に入った話なのか?
ゆっくりと手を伸ばす。
自分の事をあまり話さない男が気に入っている書物。
それにもう手が届くかというところで視線を感じる。
暗がりに消えた男がいつの間にか戻り、何も言わずにあたしを見ていた。
伸ばした手をゆっくり戻すと男は何も言わず書物を手に取り、先ほどと同じように椅子に腰掛け続きを読み始めた。
「そんなに面白いの? いつも読んでるわね」
「内容が気になってね」
会話とはいえない、互いに一言ずつだけ言葉にしてそのまま無言になる。
男はまた書物を読み始めたようで、その目はあたしを向いておらず手元の書物に集中している。
何度読んでも同じものだろうに、その続きが気になるとはどういうことだろう。
何度も読み返さねばならないほどこの男が忘れっぽい者だとは思わない。
カウンターから身を乗り出せば本の中身を覗けるだろうがそうはせず、男を見つめ聞いてみる。
「気に入ってるの?」
「何度も目を通すくらいにはね」
やはりいつも読んでいる本と同じ物のようだ、読み進めるスピードもじっくりと読んでいるようには見えず、気持ち早めにページが流れていく。
なおさらわからなくなってきた、いつも同じ本を読みながら続きを気にするなど。
変わり者だとは思っていたがよくわからないことを言う者ではないと思っていたのに、この男がよくわからなくなってきた。
「上下巻の上巻?」
「いや、これ一冊だよ」
複数に分けられた物かと思い確認してみたがこれも違うらしい。
一冊だという話だが読む度に内容を変える類の本だろうか?
この男ならそういった本を所持していてもなんらおかしい事はないが、そういった本ならあの貸本屋が知らないわけはないし、どうにかして譲ってもらっているだろう。
だとすればあれは普通の本、続きと言ったがどういう意味なのだろうか?
「暖まったならもう帰ってくれないかい」
「まだ雨は降ってるもの、今出たらまた濡れるわ」
やれやれといった表情であたしに言葉を発したが、すぐに本に目を戻す。
この男の態度はいつものことだからこの言い草には慣れているが、今日は気になるもの、気になってしまったものがあるのだ。
このままモヤモヤとしたものを抱えたまま帰るのは気持ち悪い、どうにかしてこのモヤモヤを解消してから帰ろう。
「そんなに難しい?」
「いや、よくある推理小説だよ」
推理小説と聞いてますますわからなくなる、何度も読み返すような類の本じゃあない。
どのような推理小説なのかはわからないが一度読み切れば犯人はわかるし、謎解きだってわかるはずだ。推理小説相手に推理するのは初めての経験だが、中々答えにたどり着けずにいる今がとてもおもしろい。
「読み取り方で犯人が変わるの?」
「犯人はわかっているよ、主人公の妹さ。凶器は帯紐」
あたしの推理は見事に外れたが同時にひどいネタバレもされてしまった。
この謎の答えに辿り着いたらこの本を借りて読んでみよう、そう思っていたのに。
それともこう言えばあたしに強奪されずに済むと考えたのだろうか、商売気はないくせにそういうところだけは聡い男だ。
「普段は気にもしないのに、僕の本がそんなに気になるのかい」
「内容への興味はついさっきなくなってしまったけどそうね、気にはなるわ」
普段ここまで食って掛かることはなく、静かに過ごして帰るあたしが今日は口数が多い、それが珍しく男のほうから口を開いた。
視線も本からあたしに移し、その眼差しも普段は見せる事がない疑惑を忍ばせている。
随分前から考え込み難しい顔をしているあたしに、そんな疑惑の眼差しを向けられても困る。
「何が気になるんだい?」
「犯人も凶器も覚えるほどに読み込んだ推理小説なのに、それでも内容が気になり読み続けるって一体どういう事だろう? そう考えているの」
ここまで色々と考えて疑問をぶつけてみたが、まだ答えに辿り着いていない。
こんな迷探偵のあたしが解けない謎を素直にぶつけてみると、自白でもするのか本を閉じてあたしを見つめてきた。
低めのカウンターで遮られ視線だけを重ねる男女。
この手のシチュエーションが好きなおばさん方が見れば色の見える雰囲気に映るかもしれないが、残念な事にその辺りはお互い枯れている。
「この本は落丁本でね」
「落丁本‥‥どこか抜けているのね」
「犯人も凶器もわかるんだが、犯行動機の部分が抜け落ちいているのさ」
推理小説としては致命的だろう、話が面白くなる部分が抜け落ちいている。
それでもこの男を捉えて離さないくらいの面白さがこの本にはあるのだろうか、犯人も凶器もよくある物に思えるが。
「結末もよくあるものさ、それでも読み終えてから気になってしまった。仲の良い姉妹がこうなってしまった理由。何度も読み返せばそれぞれの心情が理解出来るかも、そう考えてこうして読んでいるが、まだわからないのさ」
「結末のわかる推理小説を推理している、なんだか哲学的で格好いいわね」
なんだろう、何か思う事でもあったのだろうか。
男の表情は穏やかなままでなにも変わらないが、さっきまで饒舌に語っていた口を急に閉ざし、また本の世界に戻ってしまった。
珍しく褒めたのになにか気に障る部分でもあったのか?
男の今の気持ちはよくわからないが、この男が一度こうなると何を言っても無言を通して話さなくなるのはわかっている。
男を気に掛けるのをやめて丸椅子に戻ると、窓越しに空を眺める作業に戻った。
暖かく灯るストーブのパキンという音だけが響く空間になる。
居心地の良い静かな空間。
パキンという音に気を惹かれストーブを眺めるがまた窓へと視線を戻す。
すでに雨はほとんど降っておらず、どんよりとした空が雨粒の残る窓越しに見えた。
雨も上がったしまた来るわ、本の世界へと旅だった男を見ずに岐帰路に着いた。
小さくパキンと鳴る音だけがあたしを見送った。