いやいや参った通り雨。
手持ちの傘がないもんであのままだったらずぶ濡れだったところだ。隣の可憐なお嬢さんが傘に入れてくれなかったら、こうして軒先に逃げこむ前に濡れネズミだったろう。
濡れネズミといっても別にどこかの使いになるわけじゃあない、そんなのはあのキザな賢将殿だけで十分だろう。あの可愛い主人とネズミ殿の間に割入って針のむしろになるのは簡便だ、あたしは狸だハリネズミにはなりたくない。
止まない雨を見上げながらそんなどうでもいい事を思いついたのは、きっと隣で濡れた肩にハンカチを当てている彼女のせいだろう。話しかけても反応がなく、そのうちあたしも話すのをやめた。雨が降り止むまでの少しの時間同じ屋根の下過ごすだけの間柄、面識がないわけじゃないが特に仲がいいわけでもない。無言の空間に気まずさを覚えるほど知らないわけでもないけれど、雨について深く語らうような仲ではないのだ。
季節はすっかり夏真っ盛りだ、通り雨くらいあるだろう。
知ってて傘を持ち歩いていないんだ、こんな日が来てもおかしくはないだろう。
どうせ季節の通り雨、勢いはあるがその勢い通りにすぐに過ぎ去っていくもの。
気にすることはない、今は雨を楽しもう。
これも待つ楽しみになるのかね、楽しむ事の師匠はきっと楽しみそうだ。
隣の可憐なお嬢さんはもうしばらくの雨宿りを決めたようで、傘を畳んで水気を切った。
あたしも着物を濡らしたくない、煙管を取り出し静かにふかす。
煙は雨に打たれてすぐに消えていった。
花を愛する女性の横で煙ふかすなんて無粋、と思われそうだがそうでもない。
草花が芽吹く力を蓄えるのに灰なんかも使えるようで、焼き畑なんてのがそれに当たるか。
まあ、そんな焼き畑でも当然煙出る。それで草花が燃えてしまっても彼女が怒ることはない。
結果更に力強い草花が生えてくるのを知っているからだろう。
あたしの煙管の灰や煙にそんな力はないけれど、少し思うところでもあるのか強く言われた事もない、それ故あたしは気を使うことはせず、煙を漂わせる。
少しだけ見上げて、雨と空両方を眺めるような角度で。
二回目の灰をふみ消しても雨は一向に弱まらない、思ったよりも雲の流れが遅いようだ。
それでも気にすることはない、急いでいくような所なんてないしそんなに生き急いでもいない。
隣の彼女も同じようで、傘を畳んだままたまに空を見上げる程度だ。
夏らしくない静かなシトシトとした雨で、そんな中物言わず佇むあたしや隣のお嬢さん。
少し絵になる景色に思えて不意に彼女に視線を移すと、絵の中のお嬢さんと目が合った。
それでも何も言う事はなく、また雨の空に視線を戻した。
雨の勢いはまだまだ変わらない、先ほど寺子屋終わりの子供が駆けていった。
傘がない子は当然として傘のある子も駆けていった。
子供は風の子というし季節は夏だ、あの程度で体調を崩す事もないだろう。
後を追うように歩く寺子屋の先生が歩いてきたが、あたし達を一瞥するだけで通り過ぎた。
世話焼きの先生の事だ、一緒に帰るかなんて言われるかと思ったが声をかける雰囲気ではないと感じたのだろう。
何も言わずに去っていった。
灰を踏み消し三回目、それでも雨は上がらない。
自宅の前で何も言わずに雨宿りしている妖怪二人を不憫に思ったのか、哀れに思ったのか。
家主が小さめの椅子を二つ出してくれた、せっかくの行為を無碍にするのもと思い腰掛けた。
隣のお嬢さんも静かに腰掛けて、無言の空間に椅子が小さく軋むキィという音が増えた。
先ほど走り抜けていった子供が歩いて過ぎていく、今度はきちんと傘を差し濡れないように軽く前かがみ。子供には大きい大人用の番傘だがヤンチャな年頃にはいい重石代わりだろう。
ゆっくりと歩き、先の角を曲がって消えていった。
何も言わない軒下の同居人もあたしと同じように子供を見送り、視線を少し斜め上に戻していた。
それからも雨はやまずシトシトと振っている。
空から垂れる糸のように、幾重も線を描きながら水たまりに波紋を広げて消えていった。
雨というのは思いの外儚いものなのかもしれないと、新しい発見があった。
一向に終わる気配のないあたしや隣の可憐なお嬢さんとは違い、この里の人はこんな風に雲から生まれ弾けて消えるのか、そう感じた。
こういうのをなんと言うんだったか、ああそうだ。
年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず
【ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず】
毎年同じように花は咲くが人の命は儚く、毎年同じではないよ、という意味だったか。
花の名前を持つあたしと花が大好きなお嬢さんがいる景色に使うには、十分な言葉だと思えた。
雨は未だにやまないがお天気は少し変わりつつあった。
東の空が少しだけ明るくなってきたのだ。
雨が止むまでもう時間の問題だろう。
子供のはしゃぐ声と水たまりを踏み抜く音。
追う教師の傘に当たり溢れる雨。
止まない雨音と椅子の音。
煙草の匂いと花の香り。
色々と楽しめる物があったと、止まない雨に少し感謝した。
空が次第に明るさを取り戻しいよいよ雨が上がった。
雲は未だに掛かっているがお天道さまの光が雲間から落ちてきて、景色の部分部分に光の濃淡をつけている。いつも見上げるお天道さまもこうしてみれば表情を変えるように見えるんだな、木漏れ日ではなくなんというのだったか。言葉を思いだせずに雲間から差し込む光の筋を眺めていると、隣の可憐なお嬢さんが一言だけ発した。
「光芒、綺麗ね」
「そうね」
それだけ言うとゆっくりと立ち上がり、傘をバサッと一開きする。
音と共に雨粒が飛び、光芒が雨粒で反射して一瞬だがとても美しいものが見られた。慣れた手つきで傘を回すとまだ座ったままのあたしに向かい、手だけで小さく挨拶しその場を離れていった。
同じように手だけで挨拶し四度目の煙管に火種を移す。
そうか光芒と言うんだったか。
モヤモヤと胸につかえたものが取れた心で雨上がりの空を眺めた。