夜も更けて静かな竹林、静かな我が家。
少しのお酒を交えつつ夕餉も済ませ湯浴みも済ませて、濡れ髪を少し乾かす程度に時間を潰せば後は眠るのみ、そんなわけで先に布団に入っている赤髪の横に潜り込む。少し前までは暑苦しい熱帯夜が続いて向こうからあたしの方に来たのに、すっかりと過ごしやすい気候となったせいで、今では一人でおやすみなさいをする雷鼓さん。
涼を取る必要がなくなったからひっつかなくても良くなった、そう考えればそれで当然なのだけれど、あたしからすればこうなんだ、必要ではなくなったと言われたようで思いの外侘しい。そういった心持ちを温めるように、先に布団を上下させた相手の懐に潜り込む。
一度寝たら起きない付喪神、いつだったか地を揺らして起こそうとしてきた天人様の時もそうだったなと、一定のリズムで膨らんだり縮んだりする胸元に、狸の姿で潜り込んでいく。
何度か語っている通りあたしの寝相はよろしくない、布団の中で必ず丸くなる、暑くても寒くても尻尾を抱えて丸くなるってのがあたしの寝相で、それは妖怪になる前から変わらない事。二本足で立つ前から続く癖など直せようもなくて、情事の後やただ一緒に寝るだけって場合はこうして四足の姿に戻っている。
こちらは抱かれ、暖かで心地よく、あちらからすればもふもふを抱きまくらにするのは存外心地がいいらしい。アチラも立ってこちらも立つ、互いに利害が一致してあちらもこちらも立つこの寝方が今のところの最善と考えている。
立つものがないといえば、あっちの方はどうなのかと問われそうだが、そこはまぁ察して欲しい……少しだけヒントを伝えるとすれば、あたしは変化が得意な種族で、立派な尻尾を生やしている妖怪さんだ、そして慕ってやまない姉さんも同じ種族、ついでに団三郎狢なんて男らしい別名があったりするくらいだ。
と、その辺からテキトーに邪推してくれて構わない。
そんな邪な思いを今日も胸に秘め、雷鼓の胸元で丸くなる。
暖かな吐息が毛並みにかかり、温もりのある太鼓の体温が微温いあたしの体を温めてくれる。床で騒いで暖まるのもいいがこうして静かに温だまるのも好ましく、うつらうつらとし始めた辺り‥‥ガラッと開けられる我が家の玄関。
「アヤメ、おるかの? 邪魔す‥‥なんじゃ、もう寝とるんか」
あっけらかんと開けられたと同時に話すどこぞの御方。
今し方夢の世界に船出し始めたばかりのあたしの耳に届いたお声。
立て付けの悪い玄関扉から鳴るギコギコ音が、あたしが乗る手漕ぎ船の
なんだ、夢じゃなかったか、って寝ている場合ではないな。
心地良い乳枕からモゾモゾと這い出るように、温い布団から鼻先を出していくと笑われた。
「お、起きとったな。そっちの姿を見るのもひさしいのぅ」
「最近はこの姿も多いわ、いらっしゃい姉さん」
小粋な和服に身を包み、卓について片膝立ちしている、人間姿の愛しい御方。
あたしより少し短い煙管を咥え、首には縞柄の細いマフラーっぽいのを巻いた御姿に、あたしの縞柄を振ってのご挨拶。
ひょろりと布団を抜けし出て、床に沿わせている方の足に頭を乗せれば撫でられる。
またこいつはって顔をしながら額やら喉のあたりやらをコショコショとされ、思わず目を細めるとそのまま持ち上げられて膝の上へ。
なんだろうか、また気まぐれで愛でに来てくれたのだろうか?
だとしたらいいぞ、いつまででも付き合う所存だ。
撫でくり回されホクホク顔、獣の姿だからそれほど表情は変わらないが、姉さんの腰に向かって尻尾をペシコラ当てている事で上機嫌だってのは伝わるだろう。そうして無意識に触れていた紙っぺら、商売で使っていた帳簿に尾先が触れると語る親分。
「さぁて、うぉーみんぐあっぷはこのくらいでええかの。今日はちょっと話があっての、足を運んでみたんじゃが」
揺れた帳簿に片手を添えて、空いている片手であたしを降ろすお姉様。
こちらとしてはまだ足りないような気もする、素直に甘えられる唯一のお人なのだしもうちょっとだけ甘い顔を見せてくれてもいいと思うのだけれど、そんな思考は素直に漏れて小さな口から駄々漏れになった。
「もう終わり? 偶に来たのだからもうちょっと構ってくれても‥‥」
「ええな?」
「はい、十分堪能しました」
もうちょっと甘やかせ、そう願って突いてみたが出てきたのは蛇どころか蟒蛇だった。
穏やかに笑んでくれていたのに、茶卓の後ろに置いてある火鉢で煙管を一叩きしてあたしの〆を打たれてしまった。裏手側に振り向いて、顔は見せずに後頭部で語る二ツ岩の御大将。さすがにこれくらいで怒るほど小さな器の方ではないが、空気から自然と敬語で返してしまった。
あたしの口調が改まるとちらりと横顔だけを見せてくれて、態度の方もどうにかしろと目で語る怖い姉御役。こうなってはもう茶化せない、帳簿に触れて今のような状態になったわけだし、これ以上の余計な怒りを買う前にささっと態度もらしくしよう。
対面には座らず、壁で揺れている緋襦袢の下で姿を戻す。ポフンと多めに変化の煙を撒いてから見えない内に袖を通した、この雰囲気であられもない姿など見せられるわけがない。
「ふむ、そういった気を回せるようにはなったか、善き哉善き哉」
「さすがにね、真面目な話をされそうな空気で裸体を晒すのはどうかと思ったのよ」
「察しがええのう、なら本題に入ろうか?」
「その前に、ね」
羽織っただけで前は開いている、だもんであたしも背中で語り、帯紐だけで軽く結った。そうしてやっとこ振り向いたが、卓には着かずにちょいと水場へ。
姿を戻してすぐに話を切り出す辺りに早く話し始めたいって考えも見えるけれど、そこは透けて見えただけとしておいて、まずは敬愛なるお客人にお茶の一杯でもと火を起こす。動きから察してくれたのか、何も言わずに再度一服し始め、筒先を僅かに上下させる姉さん。
あたしに察しがいいと言いつつも自分も察しが良くて、ついでに儂は一服するからお前もどうかと見せてくれる、変化だけではなく気の回し方まで上手に見えて妬ましい。なんて嫉妬心を煙管の先に灯して、煙とともに吐き出した。
そうしている間に湯も湧いて、湯のみとお猪口を持ってお茶を点てた、言っても普通に淹れただけだが。
「気が利くのぅ、ほれ、おぬしの分じゃと」
卓に戻って粗茶を置くと、首の縞柄がニョロリと動いた。
なんとなく生きていそうだなと思ってそいつの分も淹れてみたがやっぱり生きてたか、首から腕を伝って降りて、とぐろを巻いて頭を下げた爬虫類。随分と低姿勢に見える輩だけれどそうされるような事なんてあっただろうか?
考えながらお茶を啜り、湯のみを置くと始まる話。
「のぅアヤメよ、覚えはないか?」
「ないわ、綺麗さっぱり」
「じゃろうな、あると言うとったらソレは叱り飛ばしとったわ」
「叱るって、覚えがない事を叱られる謂れがないわ」
「じゃから『とった』と言うたろうに、まだ叱らんわぃ」
「それでも『まだ』なのね、流れからそいつ関連だと思うけど、あたし何かしてた?」
しとった。一言言ってはお茶を含む姉さん。
はてさて、あたしは何をやらかしたんだろうか?
というかこいつはそもそも誰で、なんだ?
感じるモノから妖怪だってのはわかるけれど、蛇に知り合いなんて‥‥
地底住まいの蛇男しかいないはずだぞ?
それ以外で爬虫類っぽいのと言えば妖怪のお山におわす祟り神様くらいのものだが、あの御方は正確にはその蛇っぽい神様、
これで後は
こんな感じに考えても思い当たる節がなくて、じっとりとした瞳になって思い悩んでしまった。
「当たらずも遠からずってところよのぅ」
「歯切れが悪いわね、じゃあなんで連れてきたのよ? てっきりそいつが何かをしたのかと思ったんだけど?」
「何かはしたさ、そこはきっちり叱るがこいつ事体には然程関わらんと言っとるんよ」
「よくわからないわ、モヤモヤと言うか、思考がねっとりするからそいつの事から聞いてもいい?」
「構わんが、ねっとりってのはなんじゃ?」
「顔見知りの蛇で蛙な爬虫類神を考えてたのよ」
「あぁ、それでねっとりか。蛞蝓って事かの‥‥叱り飛ばすと言うたんに、存外余裕があるのぅ」
「真っ向から叱ると言われれば逃げられないし、開き直ったのよ、多分」
口にしたからか、言った通りに開き直れて完全に吹っ切れた。
もうどうにでもなれという風にきっちりと揃えて見せていた正座も崩し、向かいに座る姉さんのように得意の方足立で座り直す。そうすると軽く結っただけの緋襦袢が開けてさらりと足がお見えする。妖怪だというに何も言わず、静かにお茶を舐めていた蛇の視線が内腿の奥辺りに向けられてこそばゆいが、こいつ、さては雄だったか。
ふむ、さっきは煙で隠して正解だったな、内腿の奥を妄想するくらいなら千歩譲って許すとして、全身丸出しの姿を見せていたとしたら金銭をせびっていたところだ。
「開帳するのは気概だけに‥‥しとるようじゃしそれもええか。こいつは最近妖怪化したばかりの蛇じゃよ、調子に乗って里で悪さをしとったんじゃ」
「蛇が変じた、か。そんな輩のする悪さって、人でも飲ん……でたら今頃鞄にでもされてるわね」
「そうじゃな、
語り合いながら卓を見る、あたしも姉さんも妖怪としては先輩で、元は蛇を捕食する側だった者だ。そんな二人に見下されては借りてきた猫の様に大人しくするしか出来ない蟒蛇、こいつも話せるだろうに言葉は交わさない。
それもそうか、煙草臭い我が家だ、ヤニが苦手なこいつでは長居するのも辛いだろうし、その上で見られているのだ。ただ見下ろしているあたしとは違って姉さんの方はナニカ混じりの視線だ。少し下がる顔の角度から眼鏡が光り、その赤茶色の瞳は見えないが、どんな目なのかはわかる。あたしも苦手なおっかない瞳でもしてるんだろうさ。
本気で怖いのか、ひと睨みされて我が家の家具に隠れた蛇。その動きを見つめる顔はもう用はないといった風体で、それなら我が家にいつかれても困るしと、天井付近で巻いていた煙を使って摘み上げ、次に来たら喰うと伝えてから外に離した。
食い逃げを食わずに逃すと笑う姉さん、笑みの中身が何か気になるがそこはさておいてだ、その食い逃げを連れてきてあたしを叱るとはなんだろう。本当に身に覚えがない事なんて珍しくて、まるでわからないな。
「で、その食い逃げからあたしのお説教にどう繋がるの?」
「ん? 簡単な話じゃ、あいつの原因がおぬしじゃからな」
「あたし? あの、姉さん? 本当に覚えがないんだけど」
「アヤメ、おぬしの頭はほんに都合がええのぅ。ついさっき言うたばかりじゃろうに」
こいつの行い事体はどうでもいい、あたしから見たらまるで無関係の初めましてなのだ、それで当然だろう。その確認にちょいととぼけてみたが、姉さんもそこは違うと念を押してくれた、ならば何だというのか?
わからないまま叱られるってのはいくら姉さん相手と言えど理不尽が過ぎるぞ、姉なら理不尽に下の者を扱うのが常だろうが、あたしは実の妹というわけではない‥‥そうだったら良かったと思うことは往々にしてあれど、それと同じくらい可愛がってくれているのだからこれ以上は望まない。って、変なノロケはこの辺にして追求しよう、でないと話が進まない。
「ソレは覚えてるわ、さすがに。聞きたいのは覚えがないのに叱られる理由ってやつよ」
「わざわざ確認せんでもよかろうに、そんなに怖いかのぅ?」
「怖いわ、どこぞの白黒好きよりもスキマよりもね」
「魔理沙殿‥‥ではないな。閻魔様より儂が怖いか、おぬしは」
「そうよ、一番怖い相手よ。愛想でもつかされたら成仏出来るくらいに‥‥怖いわ」
「何をしおらしく言うんかのぅ、その気があったなら叱りになんぞ来るか……おぬしも存外阿呆じゃのう」
ポロッと漏れ出たこっ恥ずかしい本心、久々に会ったからか、それとも気を落ち着ける我が家で顔を合わせたからなのか‥‥あるいは両方の所為か、それらの所為で口から漏れた内心。
叱りに来たと言ってくれる相手に気恥ずかしい考えを言うなんてどうか、と考えるが、叱ってくれるような御方だからこそ素直に言えるのかね。
どうにしろ構わんか、もう既に言ってしまったのだから。
「全く、何しに来たのか忘れてそっちに逸れてしまいそうじゃ…‥がそれはそれで後回し、取り敢えず先に叱るが、ええな?」
「はい、どうぞ。お好きな様に」
「変に素直じゃ、そんなに真っ直ぐだったかの? まぁ……ええか」
開き直って叱られる、そう括った割に真っ直ぐ見られない姉の顔。
どうしてこうなった、何故にこうなっていると俯いた顔の奥で考えてみるが答えは出ない。そうして下向くあたしの顔を竹の葉を化かしたモノが持ち上げる、叱ると言うからあると思ったが、またいつもの『手』だ。
あたしの弱点、暖かで大きな手が胸元にくっつく顎を持ち上げてくれる。
「それでの、原因ってなぁあれじゃ、あやつが妖怪化した原因がおぬしだとわかったんでな、中途半端な事をするなと叱りに来たんじゃよ」
「妖怪化って、あたし自身最近喰ってないのに、施しなんてしてないわよ?」
「施して放って捨て置いたら本気で叱っとるわ。こいつが喰うたのはおぬしが雑に埋めた人間じゃよ、こっちには覚えは……ないって顔しとるのぅ」
「その通りで‥‥ないのよね、忘れてるわけではなくて本当にないの」
「完全にないんか。なら思い出すのを待っても無駄じゃな、答えはここじゃよ」
「うち? 人なんて妹紅くらいしか来ては‥‥いない事もないわね」
お叱りの理由ってのを聞いてみれば確かにあたしだった。
いつの頃だったか記憶が曖昧、というか言った通り覚えてすらいないが、我が家に遊びに来てくれて深夜の鬼ごっこに興じた退治屋さんがいたはずだ。住処の周囲を結界で囲ってくれて、あたしの縄張りを清き清浄な空気で満たしてくれた者達。
十人位で夜半に来て、ちょろっと遊んだら壊れてしまって、後片付けが面倒だから兎詐欺の掘った落とし穴にポイ捨てした奴らが確かにいた、はず。
「思いついたか? 言うてみぃ?」
「いつだったか遊びに来た退治屋さん達、
「それじゃよ。のぅ、アヤメが原因じゃったろ?」
言ってみるものだ、ほとんど覚えがないような事でも案外当たったりするもので、それがコヤツの原因じゃとあたしの顎を持ち上げていた手を鼻先に動かして、中指で弾いてから正解と話される。結構な勢いで弾かれた鼻っ柱がヒリついて、膝においていた手をついつい鼻に当てる。それが悪かったと感じた姿に見えたらしく、今日のお叱りのネタバラシをし始めてくれる化かしの師匠。
「処理の仕方が悪かったんじゃよ、喰わんのなら燃やすなりバラすナリして埋めれば良かったんじゃ。兎の掘った穴に落としてハイ終わりでは餌場を作っただけと変わらん」
「そうですね、浅慮でした」
「反省、したんか?」
「あんまり」
これも本心。
言われたところで今更だし、過去に窘められた理由と違ってこちらは全く気にしていなかった相手達についてだ、少々窘められたところでどうとも思わん。それでも何かしら叱られる要素にはなったのだろう、その気無く何かをして気にする事になるなんて、生前のあたしが遺した所業は業の深い物だったか?
そんな事はないぞ、妖怪が妖怪らしく人を殺めて何が悪いのか、そもそもあたしを狙ってきた相手だ、返り討ちにしてやっただけで叱られる理由になるとも思えん。
なら、なんで叱られた?
「じゃろうな、それ自体は構わんのよ、妖怪が一匹増えたところで儂らには害もないしの」
「? その気無くまたやらかしてこいつは、って話じゃないの?」
「やっぱり都合がええ頭じゃったな、それじゃないと何遍言わせりゃ気が済む? お?」
「‥‥これで三遍‥‥です……」
「儂が仏様として祀られとったら怒髪天じゃったな、そうではなくてよかったのぅ。それでじゃ、説教はさっきので終い。ここからは商談に入ろうかの、貸したもんを返してもらわにゃあならん」
ごもっともだな、明神様ではなく天部として祀られていたら三度目で南無三されていたはずだ、仮にそうだったとしても懲りないのが小悪党、そうして三下の小悪党なのがあたしだ、そうだったとしても多分同じ事を言っていただろう。
それは兎も角商談とはなんの商談だ?
貸しを返せと言われるが、あたしが借りたものなんてこの世に顕現する際にちょいと拝借した妖気と煙くらいだ、それを返せと言われたら本気であの世に戻らんとならん‥‥さすがにそれは出来ないと、後ろで寝ている誰かさんの寝息を聞いて、鼻を擦るのをやめて正面を切り、真っ向から聞いてみる。マミ姉さんに向かって睨み返すなど、した事なくてなれないがあたしでも引けない事はある。
「商談? それに借りたモノって‥‥やっぱり成仏すればいいって事?」
「そうではない、じゃからそんな目をするなて。貸しとはこれじゃよ」
否定して欲しい言葉と強い視線は否定してもらえて、ついでに借りているらしいモノも教えてくれる。仏様じゃないと言う割にそれらしく取る手つき、左手の親指と人差指で輪を作り、これじゃと語る金貸し。それこそ借りた覚えがないが……
「こいつが食い逃げしたと言うたな? 実際は逃げてはおらんのよ」
「言いっぷりから考えれば姉さんが出した、って事ね」
「奢りではないよ、その代金を儂が立て替えておるんじゃ‥‥で、その代金、おぬしに払ってもらおうかと思っての」
狡猾さ丸出しの声で笑う姉さん。
なるほど、仰りたいことはよぉくわかった。あたしが原因で成り果てた妖怪なのだから貸し付けた金を大元に取り立てに来たって事だったか、流れはわかったまるっと理解した……が、さすがにこれは払えない、だってそうだろう?
「……それ、酷い言いがかりじゃない?」
「そう、言いがかりじゃよ」
先ほどとは別の瞳で睨んで問う。
一度睨んで慣れたからか、さっきよりは幾分楽に見つめられた。
そうして見るとさも当然のように言い返され、あたしが変な事でも言った勢いで笑う姉さん、いくらあたしが難題好きだからといってこの無理難題は通らないぞ?
そう言う前に視界に入るモノ、何やら書かれた紙っぺら。
「ただのこじつけじゃ、おぬしの口癖を借りればそこはどうでもいいってところじゃな…‥じゃがな判は既にもろうた、証文にきっちり尻尾の印が残っとるんじゃ。お前さんも元金貸しなら踏み倒しはせんじゃろ? ん?」
いつの間にと自分の尻尾を見てみるが、判に残るサイズとは随分と違って……そうか、さっき甘えて当たった時か。つまりは動きを読まれていた、会話で誘導だとかその場の空気の流れを変えてだとか、そういった手間全てを省いて、あたしならこうするだろうって読み一つで騙されたのか。
これはまた、綺麗に化かされたもんだ。
「……やられたわ」
「儂は何もしとらん、アヤメが勝手に振っただけじゃ。それでも判子は判子。後見人として払ってもらわにゃあならんのぅ」
してやったりと笑う顔、見慣れた慕う笑顔で素敵。ってそうじゃない、完全にしてやられたのだから関心など、しても致し方ない相手だったな。はなっから勝てると思っている相手じゃない、だからショックもそれほどない。
まさか顔を合わせる前から勝負を付けられているとは思っていなかっただけで、騙された事に関しては全く気にはしていない。そりゃあそうだろう、相手は狸の御大将であたしはその下のどっかしらにいる者だ、騙し騙されを世の理として生きる者。
片っ方は死んでるが、それはこの際置いておいて。
ついでに言えば悔しくもない、寧ろ見事と褒めて今後に活かそうと考えるくらい。そう考えれば払えと言われているこの代金も授業料としては安いもんだろう、何もせず騙す、良い勉強になった。
「‥‥で、いくら?」
「聞き分けが良いのか、諦めが早いのか、らしいといえばらしいからそれもええかの」
「両方よ、姉さんに対してはね。そうやって褒めて煽ててくれてもある分しか出せないわよ?」
「振る袖がないなら化かして誂えたらええんじゃ、簡単な事じゃろうに」
実際は諦めでも聞き分けでもなく、憧れからの素直さだが、そうは見られないのなら少しでも小憎らしくしておこう。その為に少しの悪態を混ぜて言ってみるが、それも当然効かずに逆に化かして返される始末。
着ている緋色の襦袢の袖に葉っぱを飛ばしてくっつけられて、片目を瞑ったいたずら顔であたしの袖を染め上げる。真っ赤な袖に花咲いたのは白い
これもまた見習うべきだが、あたしには多分出来ないな。同じ植物を使っての化かし、匂いまで感じられるこれと煙草臭いあたしでは比べられる気がしない‥‥が、気概くらいは見習おう。慕う姉の真似なのだ、拙くとも何かしらはしてやろう。
「そうね、最近はお駄賃貰って満足してたけど、それじゃダメよね」
ニヤリと笑んでしれっと言い切る。
そうするだけで伝わったらしい、腹に一物含んだ気配。阿と言わずに吽が伝わってなんとも心地よいが、何やら吽狸の姉さんからは言葉の返事もある模様。
「うんむ、似合いの顔になったのぅ。それでこそ愛で甲斐のある妹じゃて‥‥で、返済じゃが宛はあるんか? ないならソレでもええぞ?」
それと言いつつ煙管で指す先。
先ほどまでの言いっぷりから今度は仕草まで真似てくれて、さっきからそんな事ばかりして、あんまりそういう事をされると舞い上がるぞ?
とは言わずともバレてしまった、人の形を取ると共に大きくなった縞尻尾が盛大に揺れている、ぱたこんもふんと床を打ち、また逆側の床を打つ。見ている姉さんの目が同じ動きで揺れて動いて、キチンと見てくれるってのがわかって余計に嬉しく思う。
なんというかこれはこそばゆい、が、指されている先の物は素直に渡さない。煙管の先にある物はあたしが外に行った時に持ち帰ってきた外の本、いわゆる外来本ってやつで、幻想郷では稀覯本って呼ばれる物だろう。こういったモノが好きなのは知っているが、今は渡さない、多分売られるからだ。
出先があたしとはいえこれは取り立て、であればそこはきっちりしている大手金融の総元締めだ。ここで渡せば翌日くらいには姉さんではなくあっちの、本を読む時だけ眼鏡をかける小娘が、僅かな金と引き換えに手に入れてほくそ笑むことになるんだろうよ。
それは気に入らん、笑うのはあたしでいい。
ならここはひとつそこから儲けを得るか、あたしも元金貸しだ、種銭さえ作れればそれなりに稼げもしよう。指される先にちょいと進んで、目当ての物を卓に置く。仕草とタイミングからはいどうぞってな感じだが、伸ばされる手先は逸し、本は取らせず宙を握ってもらった。そうして片眉を上げる姉さんの手を取り、あたしの両手と重ねていく。
「これはダメ、資本を作る元手とするからね‥‥そうね、上手い事儲かったら八:二くらいで分けましょ?」
「返済分だけで儂は構わんぞ、それに折半にはせんのか?」
何をするのかって顔をされるが何かをするわけじゃあない、化かしや騙しで勝てないのだからそれ以外でやり返し、少しはこいつめと思わせたいだけだ。先に思いついた小娘、少し前から占いの勉強をし始めた貸本屋に照らし合わせれば、上手くいくかは八卦のみぞ知るってところだな。
「それじゃダメなのよ姉さん、あたしがあたしでなくなってしまうから。あたしは常にイイ女でいたいの、だから金も力も持てないのよ」
うん? と聞こえそうなその表情。
その顔に向かって投げキスを飛ばし、科を作っておどけてみせる。そうして合わせている手を引っ張って頬に添えると笑われた、引っ張るだけ引っ張って言う事はそんな事かと笑ってくれて、してやったりとあたしも笑う。
これで少しはあたしのペースだ、本気でやれば多分口でも勝てない。だからそうなる前に言いたいことは言っておく、本来なら今頃は何かを言い返されている所だろうが、そうならないのは後に回されたっていう気遣いからだろう。この辺を甘やかしと考えるかどうかはその人次第だろうが、ペテン師であるあたしからすれば甘えどころだ、そうさせてくれるならそれに甘えるさ。
最近は結構甘え上手になってきたような気が、自分の中ではするのだから。