いつものようにだまくらかして、叫び逃げる人間の背を見ながら笑い煙管を楽しむ。
そんないつもの夜のいつもの事をしている頃だった。
ほどよく笑いほどよく遊んで、今日はもういいかと獣道を少し広げ、街道とは呼べない道を離れて帰路に着こうとした時だ。
いつもの夜では感じられないものが迫っていた。
隠すこともない強い妖気、まるでこちらに到来を告げるように放たれるそれ。
こうしてたまに他の妖怪が来ることはある。
その度に追い返すか、殺すかするのもいつもの事だった。
参ったな。
妖気を感じて最初に思った事はそれだった。
いつものように小手先で相手できる者じゃないと、放たれる妖気が物語っていた。
逃げられなくはない。
けれど逃げ切れる自信はないな、これは。
どうしたもんかと悩んでいると、いつのまにやら妖気を放つ九尾の狐が眼前に立ち、こちらを睨んでいた。
紺の道士服から突き出された鋭い突きに平手を添えて、勢いそのまま外に捌く。
突きの勢い利用し体を捻った後ろ回し蹴りが迫るが、これも平手を添えて逸らしていく。
二手の攻防が終わると互いに一瞬硬直し、同時に後方へと下がった。
片方は妖気を練り始め、その背で揺れる九尾に込める。
それに対する縞尻尾は軽く斜に構えるだけで、力を込めるような素振りは見られない。
練られた妖気が肉眼で確認できるほどの力を見せると、縞尻尾の妖怪へと九本の牙と化した尾が空気を裂きながら迫った。一点を狙った鋭い牙を少しの動きで左へと躱し、一番近くを掠めた牙に軽く掌底を当て、妖気を瞬時に流す。
掌底を受けた尾はその中程から爆ぜ血を撒いた。
それでもやられた事を気に掛ける事もなく、八尾が一瞬揺らめいて再度狸に迫った。鞭のような靭やかな動きを見せる八尾を避け、空中へと逃げる狸。
それを見やると八尾も飛び追撃をかける。
空中で縦横無尽に奔る尾を難なく避けるように動く狸、交差した二尾を自慢の縞尻尾で弾き飛ばす。弾かれた二尾の先が割れる、九尾の狐の増えた尾は一本一本でも十二分に強靭なものだが、一本に収束された九本縞の力を受け切れず裂けてしまった。
残りの尾が六尾となると、少し様子を見るように動きを止めるが警戒は解かれない。
尾の主の表情はとても無機質で冷たい。
相対する狸も狐もここまで無言で争い続けたが、ついに狸の方から口を開いた。
「まず、なぜ襲われたのかわからないんだけど。九尾様?」
「お前を捕らえよとの命を受けた」
「妖獣の頂点が誰かに仕えるなんて‥‥難儀な事ね」
そこまで言うと始めて狸が動きを見せる、取り出したのは少し長めの煙管。慣れた手つきで葉を手の平で転がし術で燃やすと煙管の先へポンと弾き煙をただよわせた。
「舐めているのか」
感情の見えない狐から情のない言葉が狸に吐かれる。化のない無機質な表情と声色。は酷く冷えている
「舐めていないわ、吸っているの」
相対する狸はひょうひょうとした姿勢を崩さず煙を纏う。
狸の言葉が最後まで言われたか、という瞬間に六尾が奔った。
それでも狸は煙を漂わせるだけで動きを見せない。
六尾の内の五尾で叩き狸の姿が消し飛んだが、狐は警戒を緩めずに自身の背後へと回していた一尾を引く。
引いた尾の毛は燃やされてボロボロだ。
正面にいて、五尾で消し飛ばされたはずの狸が何故か背後に佇んでおり、携えた煙管を燃やして尾を巻きとっていたのだ。
「やはり舐めているんだな」
表情こそ変わらないが、自慢の尾の半分近くを傷つけられて少し怒りが見えるような声になった。
何をどうしたのかは仕掛けた狸にしかわからないが、どうやら狸はうまいこと五尾を騙したようだ。
化かすものが化かされて狐は気に入らないのだろう。
それから生じる小さな怒りだった。
「吸っていると言ったわ、聡いのだから二度も言わせないで」
ここまで言って空気が変わった。
狐の怒りからではない、なにか別の物。
近くにも遠くにもあるような所から視線のような物を感じた。
「相性が悪いみたいだし、私がお話するわ。藍は引きなさい」
「畏まりました紫様、油断等される事なく」
そう言って藍と呼ばれた五尾の狐は紫様と呼ばれた者に深々と礼をしながら、足元に開いた気持ち悪く、オドロオドロしい空間の隙間に消えていった。
「初めまして狸さん、私は八雲紫。可愛い妖怪さんよ」
「初めまして可愛い妖怪さん、あたしは囃子方アヤメ。素敵な妖怪さんよ」
互いに紹介を済ます。
どちらも穏やかな口調と雰囲気を持っているが明確な敵意は隠そうとしない。
遠くで烏の群れが飛び逃げた。
「素敵な妖怪さんにお願いがあるの」
「奇遇ね、あたしもかわいい妖怪さんにお願いが出来たわ」
口元を扇子で隠し話す紫と、煙管をふかし斜にたったアヤメ、互いに似たような事を話し出す。
「お先にどうぞ、私の式がお痛したお詫びよ。聞いてあげるわ」
「ありがとう。さっそくお願いなんだけど、何も言わずに消えて忘れてくれない? 叶えばとても嬉しいんだけど」
「ごめんなさい、それは出来ないわ。私のお願いをまだ聞いてもらっていないもの」
「そうね、聞くだけ聞くわ。片方ばかりじゃずるいものね」
そう呟いたアヤメ、表情には出さなかったが少し驚くことがあった。
対峙するようにしていたのに紫がアヤメの横におり、右手を優しく握っていたからだ。
上半身だけを気持ちの悪い空間の隙間から出す格好で、怪しく微笑みアヤメの手を握っていた。
「私のお願いはね、貴女を式に欲しいのよ。叶えてくれるかしら?」
右手は優しく握ったまま、左手をアヤメの頬に添えてそう言い放つ。
言葉こそお願いだったがその態度はノーとは言わせない物だった。
絶対という名のお願いを告げられるが怯えや動揺を見せる事はなく、頬に添えられた左手にアヤメは自身の左手を添え返して答える。
「聞くしかないお願いは命令と言うのよ、ご主人様?」
〆〆
まさか素直に承諾するとは思わなかった、と紫は少しだけ驚いたが、全てを信じたわけではなかった。
元々の自力でも妖獣の頂点にあり、自身の式術で強化を施し、紫自身でも苦戦するような余程の大物以外には引けを取ることがなかった自慢の藍。
その藍が相手に手傷を負わせる事も出来ず、逆に力の象徴である九尾の内の四尾を傷つけられたのである。にわかには信じられる事ではなかった。
この狸がこれほど手こずる妖怪だとは思っておらず、力を見誤った紫は自分を少し恥じた。
この界隈で人を騙しては笑い遊び呆けている、力を持った妖怪がいる。
友人の鬼からそう聞いて、使える者なら式にしましょう、そう思って探してみれば噂通り、先の町へと抜けるには通るしかないこの山の道で、聞いた通りに笑っている姿があった。
しばらくは静かに観察していたのだが、数日見張っても同じように騙しては笑って酒を飲み、煙管を燻らせているだけだった狸。
萃香からは、友人として付き合うなら飽きずに長く酒を飲み楽しめる中々に面白い奴だ、と聞いていた。
では、敵としては?
と聞き返した所、長く相手にしていると酒が不味くなる胸糞悪いやつだ、という真逆の評価だった。
紫はそれも面白いと感じたのだが、式に欲しいもう一つ理由が別にあった。
その妖怪は人を襲いはしても食うことはしない、酒を飲み煙管を咥えては笑うだけの生活をもう数百年は過ごしているそうだ。
紫には一つの計画があった。そしてこいつは私の計画に使える、丁度良い物だと思った。
人間の理解出来ない不可解な事態。
例えば神かくしだとか、地震だとか。
そう言った、人間には到底不可能だと思われる行為。
そのほとんどが神や妖かしなどの人を超えた力を持つ者達のせいだと信じられていた。
わからない事はわからない者達が起こしている、簡単な理屈である。
そして、その理屈を当たり前としていた人間達の力によって神や妖かしが生まれては、消えていった。
しかし、時が進み少しずつだがその理屈に歪みが生じ始めた。今まで人間には理解し得なかった事象を、人間は人間の道理の内で片付け始めたのである。
こうなっていくと人間に疎まれ恐れられて力をつけた者も、力の供給源を絶たれ消えていくしかなかった。
だが、このまま消えていくのを良しとしない者がいた。
八雲紫である。
消えていく妖怪をどうにか留める事は出来ないか?
それだけを数百年考え続け、一つの答えを出した。
人の道理が広まりすぎてしまったこの世界とは別の、妖怪が恐れられ畏怖される世界を作ろう。
そうしてそこを妖怪の楽園にしよう。
そう考えたのだ。
しかし、思いつくことは出来ても実行するのに紫だけでは限界がある。
そう確信出来るほど難しい考えであったのだ。
ならばどうするか?
単純な話だ、人出を増やそう。
自慢の藍のように私の手となり足となり動き、私を支えてくれる者を探そう。
そういった結論に至った。
けれど簡単に人出を増やせばいいとは言えなかった。
紫の描く妖怪の理想郷には人間が必須だったのだ。
彼らの畏怖や恐れといったものがなければ妖怪は存在出来ない。
水しかない水槽に金魚を放っても餌がなければいずれ死ぬのだ。
どうやって人も集めるか?
紫の能力で神かくしを起こしてもよかったが少し問題があった。それが紫、妖怪のせいであると判らせないと意味がなかったからだ。少し悩んで思いついた、人を集めるには人に近しい妖怪にやらせれば良いのだと。
そんな事を思いついた時にこの妖怪狸の話を聞いた。思いついた時に都合良く現れたこの妖怪をどうあっても手元に欲しい、そう思った。
〆〆〆
「聞いていた話と違って素直なのね、少し驚いたけどまあいいわ」
「誰から何を聞いたかしらないけれど、話には尾ひれ背ひれが付くものよ?」
地面に降り、紫は藍に施した物と同じ術式を構築しアヤメに向けて行使する。自慢の藍を引かせねばならないほどの力を持った妖怪なのだから、もっと拘束力の高いものを用意してもいたのだが、話してみて問題無いと判断した。お願いとは言葉だけで、実質絶対の命令だったそれを何も言い返す事なく聞き入れたアヤメに、強い拘束力は必要ないように思えたからだ。
事実拘束力は必要なかった。
「さあ、術式は施しました。なにか異常は感じない?」
「ないわね、特に」
「あら、おかしいわ。何か間違ったのかしら?」
「間違った術式施すなんて、何処に目をつけているの? かわいい妖怪さん」
二言ずつの会話を済ませ、それから一瞬の無言の時間が過ぎると紫が言葉を口にした。
「なぜ私の術式が貴女にはかかっていないのか、答えてもらえる?」
アヤメに向かい間違いなく術を行使したのだ。術式内容にも間違いはないし、紫がそれを間違うような事は決してない‥‥なのにこの狸は式として主を崇めようともしないし、軽口まで叩いてみせる。
今までに経験したことがないこの状況がわからず、少し動揺していた。
「さあ? あたしは何かしたように見えた?」
焦りも見せない。
してやったりという高慢なものも見せない。
ただ薄く笑ってそう答えるアヤメ。
紫にはそれがよくわからない何かに見えた。
「貴女が何かしたからこうなっているのではなくて? アヤメ」
始めて紫がアヤメの名前を口にした。
大妖怪の中で、この狸を気にもかけないただの手足という者から名前を呼び個を認めた者だと思わせた瞬間だった。
「そうね、少しだけヒントをあげるわ。確かにあたしは何かした、でもあたしから何かをしたわけじゃないのよ? 紫さん」
今まで見せなかった朗らかな笑みを浮かべてアヤメも始めて紫の名を呼んだ。
はるか頭上から見下ろしていた大妖怪を手の届く位置にまで引きずり下ろした、笑わずにはいられない瞬間だったからだ。
「そう、よくわからないから力ずくでお願いを叶えたら聞かせてもらうわ。アヤメ」
言葉とともに隙間が開く、だが開いたのはアヤメとは遠く離れた視界の先。
足元に開かれるはずだった隙間は開く位置を逸れ、紫の狙いとは別の場所で開かれた。
一瞬困惑したような紫だが気にせず同じように隙間が開く、今度はアヤメの裏手側。
そこから轟音を立てる何か大きなモノが出てくる、灯りを灯し高速で向かってくる鉄の固まり。それはアヤメに向かうことなく、アヤメの頭上に現れた隙間に大きく捻じれ逸れていった。
更に隙間が開かれる、今度は数個に囲まれる。
アヤメは特に動くこともなく何が来るのか待つ姿勢で、大きな動きは見られない。隙間は開くだけ開いて何もせずに閉じて消えた。
逃げようとしたアヤメを捕まえる足止めのようなものだったのかと、アヤメは一人納得し佇んだ。
閉じた隙間が再度開かれた、先ほど鉄の固まりを飲み込んだ辺りの空に隙間が開く。
今度はなんだと眺めるアヤメ、空気が震える程の妖気の波が背後の地面を穢し削りとった。
眺めていると視界が揺れた、上下がブレて定まらない。
これはたまらずアヤメが身構えるが、しばらくすると視線の先の木々が捻れて倒れていった。
「なんとなく理解出来るのだけど、どういう事なのかしら?」
半分本音、半分は嘘だった。
紫の隙間は思惑通りに開きその機能を発揮している。ただ開く場所や出そうとしたもの、起こそうとした物が紫の思惑から逸れた場所や現われ方をしているだけだ。
故に半分は理解出来て半分は納得出来ないものだった。
「あたしに向かった何かがあたしを逸れて現れた。それだけよ」
説明する気は無かったが言わねばいつまでも聞かれるだろう、仕方がないのでアヤメは少しだけ答えた。
「そう、ありがとう。逸れるのね、ずるいわ」
答えを聞いて再度隙間に沈んで消えた。
今の紫の発言は先ほどと違い、本音を吐き出していた。紫は能力自体も反則ともいえる力を持つがそれだけではない、能力と共に持ち合わせた頭脳も武器だった。
何手も先を読み切り追い詰めていく戦い方を得意としている紫。
今も手を変え先を読み動いていたようだが、先程のアヤメの返答から相性の悪さを理解してしまった。アヤメは逸れると言ったのだ、これは紫にとって面倒なものだった。
自身の能力はなんの問題もなく発動できるが、それが思った通りに発動するかがわからないのだ。アヤメに放った式の術式もきっと逸れてしまったのだろう、やはり術式を間違えたわけではなかった。
まだ能力を制限されたり無効化される方がやりやすいだろう、詰将棋のように自身の能力を行使する紫にはこの狸はやりにくい相手だった。
「そうだ、紫さんに聞きたいことがあるんだけど。今も聞いているかしら?」
隙間に消えて姿を見せず、新しい隙間での攻撃もないためアヤメが誰もいない空間に向けて話しかける。
声は真に迫ったり脅すようなものだったりはせず、落ち着いた声色。
恐らく純粋に疑問があっての言葉だろう。
「何かしら」
少し殺気混じりの声、きっと攻め手を練っていたのだろう。敵意が失せた気配はない。
「このままだとお互いジリ貧よ? けれど長引けばあたしが負けて死ぬと思うの? そこで残った疑問を晴らしておきたくなったの」
事実だろう、アヤメの能力を使い続ければ拮抗は長引かせることが出来る。
が決め手がないのだ。
いつか紫の能力が逸れてもアヤメに致命傷を与える手が出てくるはずだ。
そうなるくらい今の紫の幻想郷への思いは強いものだった。
「なに、単純に何のためのお願いだったのかと思ってね」
「私の手駒を増やすため」
「手駒を増やして何がしたいのって話よ、紫さん。あたしも死にたいわけじゃない。さっきの狐みたいになるのは勘弁だけど、内容次第じゃわからないわ」
〆〆
嫌な夢だった、目覚めが悪いのはいつものことだが寝覚めまで悪いのは久々だ。
こういう日は大概悪いことが待っている。
今までの経験上大体そうなってきた。
そしてそんな日は何もせずとも悪い事が向こうから寄ってくるのが常だった。
今隣であたしの右手を握り、薄笑いをしている妖怪もそんな悪い事の一つなんだろう。
本当に眠りの中から今までツイていない。
「おはよう。うなされていたから心配で手をとってみたのだけど、嫌な夢でも見ていたのかしら?」
「おはよう紫さん。覗いていたのよね、なら知っているでしょ。薄笑いを浮かべながら白白しいことをのたまうのはやめてもらいたいわ。デリカシーのない覗き魔は嫌いなの」
右手は優しく握ったまま、左手をアヤメの頬に添えてそう聞いてくる紫。
体はいつもの気持ち悪い隙間に半分埋まったままだ。
「好き嫌いは誰にでもあるものね、私もデリカシーのない輩は嫌いだわ」
気が合うのね、なんて軽口は言わない。
軽口叩く気分じゃないし通じないとわかっている相手に言うほどあたしの口は安くない。
「そう、なら視界から失せてくれるととても嬉しいわ。今一人になりたい気分なの」
「あらそう、気が利かなくてごめんなさい、でも私は今貴女を眺めていたい気分なの」
紫の頬に左手を添えてそう告げると、紫はあたしの左手に自身の手を添えてそう答えた。
表情はいつもよりもほんの少しだけ胡散臭さの薄い笑みだ。