尻尾をふりふりトテトテ歩く。
すっかり微温くなった風呂に長々と浸かり兎と狸の合わせ出汁を程よく出した風呂上がり、ほのかに上気した顔を見せる兎出汁の素に両手で抱えられ、タオルで全身拭かれた後、寝間着に着替えて出ようと考えたのだが、脱衣場には脱いだ着物と緋襦袢しかないと気付いた。
丸っと洗われて綺麗になった体で羽織るのは少し心苦しく、診察室に置き忘れたままの着替えを包んだ風呂敷を取りに、冷たい廊下をつま先立ちで進んでいる。チャラチャラと爪の音を立てて歩くのは廊下に悪い気がするが、ぷにぷにの肉球をつけて歩くと結構冷たい。
冬場の冷えきったお風呂場に入り、冷たい床に足の裏を付ける感覚が嫌でつま先立ちをしている、そう思ってもらえれば今のあたしの気持ちが伝わるかもしれない。
冬場らしく冷えた廊下を少し歩いて足を止める、冷たいなら飛べばいいんじゃないかと思いつくが、どうやらこの姿では飛べないらしい。それならば仕方がないと諦めて止めた足を動かそうと右前足を出したところで、この姿では飛べないはずなのに浮遊感に襲われた。
腹に感じる誰かの体温、誰に捕まったのかと振り返ると青のメッシュがはいった長い銀髪と、幾重にも重なったレースが綺麗な青のスカートが視界に入る。一曲も二曲もある永遠亭の住人ではない分マシだが、この半分白沢にもあたしのこの姿を見せたことはなく、どんな反応をされるのか少し気になり話さずにいた。
両手で抱えられたままちょいと歩いて着いた部屋、天上まで届くくらいの本棚に様々な学術書の並ぶ実験室のような雰囲気の部屋、きちんとした私室はあるが、こっちが永琳の私室だと言い切ってもいいくらいには女医の匂いが残る永遠亭の診察室、なんでまたここに連れて来られたのか?
気になり顔を見上げると苦笑してそのまま離された、あたしの忘れた風呂敷のある診察台の上に離され表情を変えずに口を開く世話焼き教師。
「着替えなら早く済ませろ、いつまでも裸では体に障る」
「天然毛皮のお陰で凍える事はないけれど、半乾きだし着替えるべきよね」
ポフンと音を立てて人の姿に戻ると髪と尻尾が少し湿っている状態で戻る、言われた通りに寝間着に着替えて軽く頭を振った、飛沫が飛ぶほど濡れてはいないがそれでも乾ききってはいない。
とりあえず慧音に礼を言いながら再度脱衣場に戻り、脱いで放置した着物を回収しにいくか。
慧音に軽く礼を言って立ち去ろうとすると、部屋から出て廊下を歩き出そうとしたあたしの背に向かい少しの言葉が投げられる。
「全身灰色の狸などそうはいないな」
「毛色が違うって事? 今更よ、同胞にも同じような毛色の者はいないし、あたしが少し特殊なんじゃない?」
言うだけ言ってすぐに歩き出す、脱衣場に戻ると脱いだはずの着物が見当たらず回りの脱衣籠を見てもどこにもない、鈴仙辺りに回収されたかね、それなら見つけて聞けば早いか。そう考えるよりも早く動き出していたらしく、皆が集まる部屋へとすぐに戻ると部屋の隅で吊るされている着物と緋襦袢を見つけた。
回収してくれた上に皺にならぬよう掛けてくれたらしい、自分はブレザー姿だがここの姫様も和装だしその辺は手馴れているのだろう、ありがたい気遣いだ‥‥けれどあったのは着物だけで、ああしてくれただろう鈴仙の姿はない。
台所仕事でもしているのかね、それなら礼代わりに少し手伝うか。
皆に使われて使用済みとなった食器やらグラスやらを、そこらに置き忘れられていたお盆にテキトウに積んで水仕事場へ向かうがここにも姿はなく、少し貯まったこれから洗われる予定の食器達があるのみ。放置しても良かったが来たついでだしと、持ち込んだ物と一緒に洗い、手を拭っている辺りでまた背中に言葉を投げられた、さっきとは違う声色ですっかり聞き慣れた幼女の声だ。
「新しい小間使いは耳をつけないらしいね、師匠に言って出してもらおうか」
「耳は可愛いのが生えているから間に合っているけど、付けて跳ねてあげてもいいわよ?」
「なんだ、可愛さアピールか?」
「こう言うだけでも多少はしおらしく見えるでしょ? それに、てゐからのお願いは早めに消化しておきたいもの」
寝巻き代わりの作務衣じゃあ様にならないが小首を傾げてウインクしてみせる、すると同じ仕草をしてウインクも返してくる見た目幼女な性悪兎詐欺。あたしに比べれば随分と様になる仕草だ、見慣れたピンクのワンピースも可愛いが黒の生地に赤い刺繍の入った今の物も可愛らしい。
腹の黒さを全身で表していてとても良く似合う格好、意地悪な笑みとその色味からとても幸運を運ぶとは思えなくて口角を上げて笑んでしまう。
「その顔でやる仕草じゃあないね、お願いは後で使うためにとっておくよ」
「後の化け物は出ないわよ」
「いつでも化け物だから問題ないね」
「ご尤もね‥‥そう言えば鈴仙を見てない? 着物の礼を言っておきたいんだけど?」
あたしの口から出た礼という言葉を聞いて更に底意地の悪い顔になる大先輩。
あたしが誰かに感謝するのがそんなにおかしな事だろうか?
これでも礼儀と挨拶くらいには煩いほうだと思っているのだが‥‥そうとも言えないか、当たり前になり過ぎていて朝の目覚めやその際のお茶について礼を言った事がなかった、それならそんな顔で見られても仕方がないか、こう改まると少し恥ずかしいが偶には素直に言っておこう、親しき仲にもなんて昨年誰かにも言われたし。
「いいたい事でもありそうな顔だねぇ、アヤメちゃん?」
「あるにはあるけど今更過ぎて、柄にもなく少し恥ずかしいのよね」
「着物ならあたしだよ、これで言いやすくなったかね?」
「そうなの? 皺にならずにすんだわ、ありがとてゐちゃん」
意地の悪さは影を潜めて只々いたずらなだけの笑みを見せてくれるてゐ、こうまですんなり言えるようになるとはあたしも御しやすくなったものだ。
素直さってやつなのかね、特に気にしてなかったが意外と素直になったのか?
素直な物言いなんて騙しや化かしの邪魔にしかならないと思っていたが、実際こうなってみるとそうでもないな。
むしろ素直に騙せるようになり幅が広がった気がしなくもない、これはいい。
自身の新たな一面に気がついて堪らず微笑むと嫌な顔をされる。
なんだい、気づかせてくれた人がそんな顔をするなよ。
「てゐのおかげで一皮むけた気分なのに、そんな顔をするなんて悲しいわね」
「どっかのスキマみたいに笑うからだよ」
「あそこま‥‥胡散臭く見える?」
「五十歩百歩‥‥いや同じ穴のムジナだね」
言い逃げするように軽く手を振り歩き去られた、上手い事言われて言い返す言葉を探している一瞬のスキマでの動き、この間鈴仙に見せた時にはてゐに似ていると感じたが、本人からすればあっちの覗き見妖怪に似ているらしい、どうにもよくわからん。
まぁ‥‥いいか、似ていると言われても何故だか悪い気分にならないし、てゐの言葉を借りればあっちがあたしに似てるって事になる、狐の主はムジナでした、なんて中々滑稽で面白い。
あれが狸の姿になったら毛色は紫一色になるかね、それもまた特殊で可笑しいな、暗躍する女狐の狸姿を想像し、台所で一人ほくそ笑んだ。
クックと笑いそのまま台所で一服していると、先ほど助けてくれた世話焼きが食器を纏めて持ってきた、一服するあたしを気にせずにそのままあたしの隣に立って食器を流しに浸していく慧音、なんとなく気が向いて腕をまくり浸される側から洗っていく。
さすがに煙管咥えたままでは顎が疲れて堪らないので、慧音の浸す食器に当たらぬ位置で軽く小突いて葉を水にさらした。火種の消える音を聞き食器を洗い始めると、浸し終えた石頭が先に洗い終えた食器を磨き始めた。
「水切りに置いておけば誰かが片すでしょ」
「いるついでだ、アヤメもそうだろう?」
「‥‥そうね、ついでよ、ついで」
「‥‥毛色が違う、さっきはそう言ったが少し違かったな、気色が変わったんだな」
毛色からケシキ? 景色? あぁ
ここのお姫様が都にいたくらいに使われていた言葉だったか?
宛がう漢字が変わっただけで意味合いは変わらないからどちらでもいいんだろうが、人に向かって宛てるなら景色よりは気色か。教師らしくえらく懐かしい言葉を使うじゃないか、寺子屋で教えているのは読み書き計算くらいかと思っていたが、得意分野の歴史も教えているらしいし古典も始めたのかもしれない。
源氏物語という書物だったか、女性の妄想たっぷりのあの小説辺りで使われたはずだ、その辺から知り得たのかね?
いや、半分は叡智の神獣だしそっちからか?
なんでもいいか、考えてもキリがないな。
最後の食器を洗い終えて軽く水を切り手渡すと、感心するような顔でまた何か話してくれる。
「手馴れているな、阿求の言っていた通りだ」
「洗い物までやって料理だもの、そりゃあ自然な振る舞いになるでしょうよ‥気色なんて古い言葉を使って、古典も教えてるの?」
「いや、古典は私が話すより本人を見たほうが早い場合もあるからな」
「こころじゃあるまいし、里の子供を連れて地獄やらに遠足ってわけにはいかないわよ?」
「皆が皆アヤメのように気安い訳でもないしな‥そうだ、私のお願いはそれにしよう」
「悪い予感がするからもう戻ってもいいかしら」
踵を返し歩き出す前に肩を捕まれ逃げ出せず‥賭けのお願いとして一日教師を頼まれる、がさすがに一日は無理だと断ると半日でも構わないと譲歩をする姿勢を見せた。
頭の硬い慧音が妥協案等珍しい事だしあたしから持ち掛けた賭け事の景品だ、これ以上断っては女が廃る、半日だけならと渋々了承すると、また珍しくイタズラな表情を浮かべる慧音。
その笑みで気がつく、寺子屋なんて元々午前中の半日だけじゃないかと、疑わず素直に返事した結果、慧音にまでしてやられた‥‥やっぱり素直になんてなるもんじゃないな。
頼むと言って台所を出て行く世話焼き守護者、それと入れ替わりで入ってきたのは最初に探していた元軍人。最後まで使われて今頃になってから洗い物となった食器を持ちこれから洗い始めかとゲンナリとしていたが、他が既に洗われているとわかると可愛らしく破顔した。
素直にありがとうございますと頭を下げてくれる鈴仙、最初から素直にこの子が見つかっていればあんな流れにならなかったのに、そう考えて少しだけイラッとしたが、破顔したままの鈴仙に毒気を抜かれなんだかどうでもよくなった‥‥素直さとは難しいものだ。
残りの洗い物を一緒にしながら少しだけ首を傾げた。