その後三人はフィーリアの消臭玉で何とか強烈な悪臭とまみれたフンから解放された。だが、そのダメージはかなりのものであった。
クリュウは海に飛び込むと泥になったフンを洗い流す。フィーリアとサクラも同様だ。
二人は、クリュウとは一切目を合わせなかった――いや、合わせられなかった。クリュウはその理由をちゃんとわかっているからこそ、何も言わなかった。
(例え僕とはいえ、男の子の前で女の子が吐いちゃうのは、気まずいよね)
確かにその通りだが、ここに《クリュウだから》という言葉も入れておこう。この鈍感少年はきっと理解はしていないだろうが。
クリュウはふとサクラが仕掛けたシビレ罠を見詰める。今も空しく黄色い電撃が流れている。貴重な罠を一個無駄にしてしまった。まぁ、狩りではよくある事だが、やっぱり残念だ。
クリュウは石の上に置かれた自分の道具袋(ポーチ)から元気ドリンコを二本取り出すと、泥を洗い流し終えて岩の上に座ってがっくりと肩を落とす二人に近寄る。
「二人とも元気出して。ほら、これでも飲んで」
「あ、はい……」
「……うん」
二人はクリュウから元気ドリンコを受け取るも、一向に飲む気配はなくぼーっと虚空を見詰めている。その瞳が死んでいるように見えるのはクリュウの気のせいではないだろう。
クリュウにはわかる。あんなのを受ければやる気も失うであろう。昨晩のクリュウと同じだ。正確にはさらに別の理由(こちらの方が大きい)があるのだが。
「あ、あのさ。とりあえず今は少し休もう。ババコンガはそれからだ」
二人から返事はない。クリュウは苦笑いする。
「え、えっと、ちょっと僕辺りを見回ってくるね!」
あまりの気まずさに、クリュウは逃げた。その心の中では戻って来る頃には解決してますようにと必死に神様に祈っていた。
走り去るクリュウを一瞥し、フィーリアはため息をする。もう、泣きそうだ。
「……クリュウ様にだけは、見られたくなかったです……」
「……フンにまみれた姿に嘔吐まで……、……もう、お嫁に行けない……」
二人は泣きそうになりながら何度も大きく深いため息を吐く。
クリュウは優しい人だ。これくらいの事で別に嫌ったりする事はないだろう。だが、これは自分達の精神的な問題。あんな痴態、見せたくなかったのだ。特に――好きな人にだけは。
もう嫌だ。ババコンガとなんてもう戦いたくない。珍しく二人の意見が一致した瞬間であった。
二人がもうほとんど諦めかけたその時、遠くの森からババコンガの鳴き声が聞こえてきた。
「……」
「……」
ブチィッ!
この世の中で、ある意味最も切れてはいけないものが吹き飛んだ瞬間であった。
二人は、ゆらりと立ち上がった。その背中から、何やらどす黒いオーラと紅蓮の炎が舞い上がっているのは幻覚ではないだろう。
うつむく二人。前髪と陰に隠れてその表情は窺えない。だが、確実に二人から放たれるオーラはヤバイ。ほとんど殺気である。
風が吹き、二人の長い髪が揺れる。それはまるで怒りに逆立っているように見える。
「……ババコンガ……ッ! 絶対に許さない……ッ!」
「……この恨み……、晴らさでおくべきか……ッ!」
いつもクリュウに見せる柔らかなかわいい瞳が、まるで剣のように鋭い。しかもただの剣ではなく魔剣とか妖刀とかの部類に入るだろう恐ろしいレベルだ。
二人の睨み殺すかの勢いの瞳が重なる。
「……サクラ様、ちょっとババコンガを叩き潰しに行きませんか?」
「……奇遇ね。私もあのクソザルをぶっ殺しに行こうと考えていた」
「なるほど、考えは同じ、と?」
「……そうらしい。やはりどちらも女という事ね」
二人の口元に、不気味な笑みが浮かぶ。クリュウは、きっとこの笑顔は一生見てはいけないだろう。おそらく三人の信頼関係に亀裂が入る。
二人はくるりとババコンガの鳴き声が響いた森を睨むと、怒鳴る。
「「……女の子を辱(はずかし)めた罪ッ! 覚悟しておきなさいッ!」」
ババコンガの鳴き声にも勝ると劣らない二人の乙女のすさまじい怒号が、森の木々をビシビシと震わせた。
二人は顔を見合すと、準備を整えて森に向かって突っ込んだ。
歴戦のハンターであると同時に恋する乙女二人はそのまま森の奥へ消えて行った。
「フィーリア! サクラ! ねぇ見て! こんなきれいな花が……って、あれ?」
二人の機嫌を直そうと咲いていた様々な花で作ったきれいな花束を持って来たクリュウは、いるはずである二人の姿がない事に戸惑う。
「フィーリア! サクラ! どこにいるのぉッ!?」
クリュウは辺りを見回すが、二人の姿はない。しかし少し離れた所に荷車は置いてあった。という事は二人で散歩でもしているのだろうか。
慰安散歩とでも言うのだろうか?
クリュウは仕方なく花束を二人が座っていた岩の上に置いた。
グオォオオオオオォォォォォッ!
「えッ!?」
突如響いたババコンガの鳴き声――いや、悲鳴?
続いて響くのはすさまじい音。木がへし折れる音とか岩が砕ける音とか……
嫌な予感がクリュウの背中を冷たくした。
「ま、まさか……」
その時、連続して響いた銃声に、クリュウの不安は確信へ変わった。
「まさか……ッ!」
クリュウは慌てて走り出した。一瞬荷車を持って行こうか迷ったが、とりあえず今は置いて行く。とにかく今は二人の下まで行かなくては。
森に飛び込み、鬱蒼と茂る木々の間を必死に走る。その間も戦闘の音が響く。
「クソォッ! 奇襲を受けてないといいんだけど……ッ!」
散歩していてババコンガに奇襲されたのであれば、まずい展開だ。
二人に比べたら、自分なんてちっぽけな存在だ。あの二人なら、ババコンガ程度なら問題ないだろう。
――でも、仲間として、男として、二人を守りたかった。
この向こうで二人が襲われている。
とにかく、走るしかない。二人を救う為には、走るかしないッ!
クリュウは全力で走る。そして、森が開けた……
本当に、自分はちっぽけな存在であった。
目の前で繰り広げられているのは、今までクリュウが体験して来た狩りとは別次元のものであった。
巨大なババコンガが全身血まみれになって吹き飛び、激しく岩壁に叩き付けられた。その振動はここまで届くほど強烈なもの。そして、そんなババコンガに突っ込むのは――
「……チェストオオオオオォォォォォッ!」
鋭い突きの一撃。空気の壁をも貫く閃光の一撃はババコンガの腹に突き刺さり、真っ赤な流血が噴き出す。サクラはそのまま剣を横へ肉ごと斬り裂く。そのすさまじい勢いは、彼女の練気が限界まで蓄積されている事を物語っていた。
大量の血を腹から噴き出しながら悶えるババコンガに、サクラは容赦なく剣の嵐を叩き込む。突きと斬りの連続。ババコンガの桃色の毛が絶えず生まれる傷から噴き出す血によって真っ赤に染まっていく。
翻弄されるババコンガ。その顔面に飛竜刀【朱】が叩き込まれ、ババコンガの顔が不気味に変形し、口から吐血と共に数本の歯が吹き飛んだ。
サクラは顔面を押さえて悶えるババコンガから一度距離を取ると止めていた呼吸を再開する。そして再び剣を構えてババコンガを隻眼で睨み付ける。
「……殺すッ!」
サクラの怒号に、クリュウはビクリと震える。
殺すって、言ったよね今……?
サクラは気が付いているのだろうか、彼女の持つ飛竜刀【朱】はもう刃がボロボロである。しかしそれを無視して彼女は剣を振るう。斬るというよりは叩き付けるという方がふさわしいような攻撃の嵐だ。
「死になさいッ!」
殺気全開の声と共にババコンガが背を向ける岩壁の上からフィーリアが現れた。風に揺れる金髪が怖いと思ったのはこれが初めてかもしれない。距離が離れていて表情は見えないが、その背後になぜか冥界への扉が見える……
フィーリアは真上からババコンガに向かって貫通弾LV1を嵐のように撃ち込む。逃げられない相手だからか、もう狙いなんてめちゃくちゃだ。無数の貫通弾が地面に突き刺さる。岩や土、木や草が吹き飛びグチャグチャになる。多くの外れ弾を出しながらもその倍以上の数の貫通弾がババコンガの体を上から下へ貫いていく。体を無数の銃弾で貫かれ、ババコンガは悲鳴を上げて逃げるように立ち上がろうとするが、そこへサクラの強烈な一撃腹に叩き込まれ、ババコンガは再び岩壁に背中を叩き付けられた。すさまじい衝撃と土煙。土煙が晴れて見えたのは大きく陥没した岩壁にババコンガが後ろ半分が埋まっている光景。今もヒビが大きくなったり砕けた石などがボロボロと落ちている。
あれだけの巨体を岩壁が陥没するほどの力で叩き付けるなんて、人間にできるのだろうか?
悶えるババコンガに向かってフィーリアは徹甲榴弾LV2をすばやく装填すると、ババコンガの脳天に向かって引き金を引いた。
バァンッ! と撃ち出された銃弾は寸分の狂いなくババコンガの頭に突き刺さり、爆発する。
「グオアアアァァァッ!」
ババコンガは悲鳴を上げて頭を押さえる。だが、その痛みは次の瞬間には感じなくなる事になった。
「……チェストオオオオオォォォォォッ!」
地面を蹴って跳躍したサクラはそのすさまじい銃弾のような勢いのままババコンガに横一線の渾身の一撃を叩き込んだ。切れ味の悪さも、彼女の怒りに研ぎ澄まされて鋭くなる。
横一線に振るわれた剣撃は、見事にババコンガの頭と胴体を引き裂いた。
ゴトッと落ちたババコンガの頭。そして頭を失ったババコンガの巨体は力を失って前のめりに倒れた。ズシン……という鈍い音が、戦いの終わりを告げるゴングに聞こえる。
動かなくなったババコンガを睨み、サクラは飛竜刀【朱】を鞘に収める。フィーリアも岩壁から飛び降りるとヴァルキリーブレイズを背中に戻した。
そして、二人は近づくとパンッと互いの手を叩き合った。勝利を喜んでいるのだろう。
二人は死んだババコンガに一度蹴りを入れるという仰天行為をした後に意気揚々という感じで振り返り――クリュウと目が合った。
「……」
「……」
「……」
この世の中で、これほどまでに気まずい雰囲気はないだろう、とクリュウは確信した。そしてこの状況をどうするか、クリュウは最近多くなったため息をまた一つ増やす事となった。
ババコンガの剥ぎ取りを終え、先程の場所まで戻って荷車を持つと、三人は拠点(ベースキャンプ)に向かって歩く。その間、三人は黙ったままだ。すさまじく気まずくて、誰も声を発せないのだ。どれほど気まずいかというと、クリュウがいつもほぼ欠かさずにしている死者への弔いの祈りができなかったほどだ。まぁ、フンまみれにした相手に弔いもクソもないってのもあるが。
ここでモンスターが出てくれれば幾分か気まずさも和らいだかもしれないが、残念な事に全く出て来ない。モンスターにも空気を読む能力はあるのかもしれない。こっちにしてみれば最悪な能力だが。
とにかく、三人は気まずかった。
このままずっと黙ったままかと思ったが、この状況を打開しようとクリュウが勇気を振り絞って声を出す。
「い、いやぁ! バ、ババコンガも倒したし、こ、これで村も平和だなぁッ!」
この際棒読みっぽいとかセリフを噛んだとか声が裏返ってるとかは一切なしだ。ここまでできただけでも上出来なのだから。しかし、
「……」
「……」
世の中、努力と結果が結び付かない事は多々あるとクリュウは人生の教訓を得たが、当初の目的は達成できなかった。
気まずい空気は一向に変わる気配はなく、再び無言の時が流れる。
クリュウはため息一つ吐くと荷車の取っ手を握る手に力を入れる。今はクリュウが荷車を引いていて、サクラとフィーリアは並んで少し後ろを歩いている。振り返ると、二人とも視線をおろおろと動かしている。どうやら完全にマイワールドに入ってしまっているらしい。
クリュウは諦めて荷車を引っ張る。そんな彼の背中を見詰めながら、フィーリアとサクラはおろおろする。
先程の戦闘、クリュウにはショックが強過ぎたのだろう。ババコンガをフルボッコにした事もそうだが、おそらくはそれ以上に自分達二人から放たれていたすさまじい殺気。あれにショックを受けていると二人は思っていた。そして実際クリュウはその殺気に軽く恐怖していた。
(あんな姿、クリュウ様にだけは……見てほしくなかったよぉ……)
フィーリアは心の中でもう取り返しがつかない事に泣きたくなった。隣に並ぶサクラもがっくりと肩を落としている。
二人の脳裏に、クリュウの笑顔バイバイというような不吉な言葉が踊る。もしそんな事になったらと思うと、お先真っ暗だ。
フィーリアは泣きそうになって視線を落とした。その時、荷車の上に見慣れないものがあった。それはきれいな様々な花が束ねられた花束。それも二つ。
「あ、あの……」
勇気を振り絞ったが、それでも声は小さかった。だが沈黙のおかげでクリュウにはちゃんと聞こえた。
「な、何?」
「この花束は……?」
フィーリアが指差したのを見て、クリュウは「あぁ……」と小さく声を漏らす。
「それは二人に渡そうと思ってた花束だよ」
「え? わ、私にですか?」
「……私も?」
二人は瞳を大きくして驚く。そんな二人の反応にクリュウは照れたように頬を掻きながらくすぐったいような笑みを浮かべる。その笑顔に、二人がどれだけが救われた事か。
「いやぁ、ババコンガのフンを喰らって二人とも落ち込んでたから、これをあげて元気なってもらおうと思って花を摘んで束ねたんだけど」
フィーリアとサクラはお互いにその花束を手に取る。色取り取りの花が束ねられたそれは、とてもきれいだ。何より、クリュウの想いがたっぷりと詰まっている。
フィーリアは両腕で包み込むようにそっと花束を抱き締めると、クリュウをじっと見詰める。その表情はとても柔らかな笑みだ。
「あの、これもらってもいいですか?」
「もちろん。二人の為に摘んだんだし」
「あ、ありがとうございます!」
「……ありがとう」
サクラもギュッと花束を抱き締める。まるで、大切な宝物を手に入れたように、隻眼が柔らかな曲線を描く。
まさか花束くらいであのすさまじい気まずさが消えてしまうなんてクリュウは予想外だったが、おかげで気まずさが消えて良かった。
「クリュウ様、先程の事はその……」
「まぁ、さすがに女の子がフンを喰らったりすれば怒るのも当然だよね。それが二人して歴戦のハンターだったってだけの事だよ。気にしない気にしない」
クリュウは笑みを浮かべながらそう言った。その言葉にフィーリアは「クリュウ様……」とキラキラした瞳で見詰める。本当はさらにクリュウに見られたという最重要項目があるのだが、それがなくても十分だった。クリュウの理解力と寛大な心にフィーリアはもう感動全開であった。
「……とにかく、ババコンガは狩った」
「そうだね。これで村長、きっとまた宴会を開くだろうな」
「本当にお祭りが好きな方ですね」
「ほんとほんと。まぁ、小さな村だけどそこがいいんだよね」
「そうですね」
さっきまでの気まずさはどこへやら。弾む会話に笑顔が絶えない。本来の姿を取り戻したクリュウ達は拠点(ベースキャンプ)に戻るまでの間ずっと楽しげに会話を続けた。
日はまだ頂点に上り切ってはいない。これなら今日中には村に帰れるなぁと心の片隅で考えながら、クリュウは青空を見上げる。
初めてのババコンガ。もう精神的にも肉体的にもヘロヘロである。
――感想は、《もう二度と戦いたくない》、であった。