力強い汽笛と共に戦艦『フリードリッヒ・デア・グローセ』以下、蒼海海上演習艦隊がゆっくりと離れていく。各艦の甲板には大勢の軍人達が居並び、こちらに向かって手を振って見送ってくれる。もちろん、彼らが見送る対象は同盟国へ遠征に向かうこの艦隊の仲間達に対するものだが、それでも自分達に向かってあれだけの大勢の人々が見送ってくれる事は、何だか気恥ずかしい。
遣東艦隊旗艦、軽巡洋艦『シュメルツェン』の甲板からこの光景を眺めていたフィーリアは恥ずかしそうに小さく手を振る。そんな彼女の背後に立つサクラとシルフィード、エレナの三人は特に手を振る事はしないが、別れを惜しむかのように離別する艦隊を眺めている。
一方、そんな少女達の更に後方から離別していく艦隊を見詰めるクリュウ。その視線は艦隊を見ているというよりは、艦隊の中心を航行している旗艦『フリードリッヒ・デア・グローセ』、その艦橋最上部にある戦闘指揮所に注がれている。彼の視線の先には、ハッキリとは見えなくてもカレンの姿が映っていた。
あの日の夜、カレンは自分に決意に満ちた表情で告白をしてきた。差し伸べられた手は不安で震え、今にも泣き出しそうなくらいに緊張していた事を覚えている。
そして、差し伸べられた手に対して自分は――その手を握り締める事はできなかった。
彼女の告白を、断ってしまった。
自分は、きっと別の娘の事が好きだから。彼女の想いは嬉しくても、その想いに応える事はできない。向こうが決意して告白してきたのだから、これに対して中途半端な返事をする事はできない。だから――「ごめん」と一言、謝った。
理由を尋ねられ、迷った末に今の自分の想いを正直に話した。自分は、まだ人を好きになる気持ちがよくわからない。でも、ある娘に対してきっと皆が《恋》と想う感情を抱いている事、だから君の気持ちには応えられない。そう、正直に答えた。
言葉としては無茶苦茶で、結局曖昧な返しには変わりはないだろう。でも、キッパリと彼女に対して想いには応えられないと返した。それに対してカレンは一度頷いた後、泣きながら悲しそうな笑みを浮かべて――「そっか」とだけ答えた。
それから、必要最低限な会話だけ済ませて別れ、以降彼女とはまともに会話をしていない。『フリードリッヒ・デア・グローセ』からこの『シュメルツェン』へと移乗する際も、会話はなかった。
今の自分は、彼女に対して接する事も許されない。だって――自分は、彼女の想いを断ってしまったから。
それでも、彼女は自分に対して怒る事なく、こうして東方大陸へとの道を閉ざす事はなかった。約束は別、という彼女の生真面目さが表れているだろう。
彼女は、約束を守ってくれた。約束を守って、こうして今自分は東方大陸へ向かう艦に乗っている。改めて、彼女に対しては恩義を感じざるを得ない。そして、そんな彼女に対して自分は何もする事ができない無力感。彼の心境は複雑だ。
無言で離れていく艦隊を見守るクリュウ。そんな彼の異変に、四人の少女達も気づいていた。
水平線の向こうへと消えていく蒼海海上演習艦隊。遣東艦隊は速力を上げて針路を南東へと向けて航行を始める。
甲板で帽子を降っていた兵士達も次々に持ち場へと戻って行き、甲板から賑わいが消える。残されたのは、クリュウ達だけだ。
四人の少女達は互いに顔を見合った後、ずっと艦隊が消えていった方向を見詰めたままのクリュウに近づく。
「海の上は寒いな。風邪を引かないよう、早く中に戻ろう」
「そ、そうですね。クリュウ様、戻りましょう。温かい紅茶を淹れますよ」
シルフィードとフィーリアは彼に艦内へと入るよう促すが、クリュウは小さく首を横に振った。
「ううん、僕は少しここに居るよ」
「で、ですが……」
「ちょっと考えたい事があるだけだからさ。みんなは先に戻っててよ」
そう言ってクリュウは先に中に入っているよう促す。フィーリアは食い下がろうとしたが、それをシルフィードが制す。
「先に戻っていよう」
「ですが……」
「そういう時もあるものさ。無理強いする理由もなければ必要もないだろう」
そう言ってシルフィードは「では、先に戻ってるぞ」と言い残して一人先に艦内へと戻ってしまう。迷った末、フィーリアも「では、先に戻ってますね」と言って去ろうとするが、一歩も動こうとしないサクラに気づいて足を止める。
「サクラ様、戻りますよ」
「……私はここに残る」
サクラの予想通りの反応に、フィーリアは小さくため息を零す。
「わがまま言わないでください。クリュウ様の意見を尊重してください」
「……別に、クリュウの邪魔はしないわ」
「ダメです。とにかく、来てください」
嫌がるサクラに対し、フィーリアは強硬手段に出ようとする。サクラは抵抗するも、クリュウの意見を無視する自らの行動に対して心の中では幾分か負い目があるのか、あまり強い抵抗はせず、結局フィーリアに連れられてシルフィードとエレナと共に艦内へと去って行った。
皆が去るのを確認すると、クリュウは一人甲板に座って海を見詰める。
航海の最中に知ったが、軍艦では毎朝当番制で兵士達が甲板を丁寧に磨いている。超大型戦艦から、小さな駆逐艦に至るまで関係なく。この『シュメルツェン』でも同様に掃除が行き届いている為、甲板はビックリするくらい綺麗だ。手をついても、手のひらは全く汚れない。
しばし海を見詰めていたクリュウは、ゆっくりと背を傾けてその場に横たわる。
海風のと波の音を聞きながらただ流れていくだけの空を見上げ続ける。
一体、どれくらいの時間そうしていたのか。数分か、それとも数十分かもわからない。そろそろ戻ろうと考え始めた時、空しか映っていなかった視界の隅にエレナの姿が映る。
「エレナ?」
「ったく、一体何分一人でそうしてるのよ」
呆れながらエレナは背を起こしたクリュウの隣にゆっくりと腰掛けると、両手に持っていたティーカップのうち、片方をクリュウに手渡す。
「ほら、フィーリアが淹れてくれた紅茶。あんたにって」
「あ、ありがと」
カップを受け取ったクリュウはまだ淹れたての熱い紅茶を息で少し冷ましてから一口。わずかに砂糖を入れたほんのりとした甘さが程良い、絶品の紅茶だ。
「ふぅ……」
「――少し、落ち着いた?」
「え?」
隣で紅茶を飲むエレナの問いかけに、クリュウは驚く。そんな彼の反応を予想してか、エレナは小さくため息を零した。
「何よ、その意外そうな顔は?」
「いや、突然そんな事言われて驚いただけだよ。別に普段通りだし」
「……あんたバカでしょ? そんな辛気臭そうな顔しておいて何もないなんて大嘘通じる訳ないでしょ?」
「え? そんなに顔に出てた?」
「丸出しよ。何の為にあの娘達が気遣ってくれたと思ってるのよ」
呆れるエレナの言葉に、クリュウは苦笑いを浮かべる。自分では隠し通していたつもりだったが、どうやらバレバレだったらしい。カレンの時の同様、自分には演技の才能がまるで無いらしい。
「また、みんなに変な心配掛けちゃったんだね」
「まったくよ」
「ごめん。でも、大丈夫だからさ」
「……まぁ、確かに大した事無さそうだから心配いらないってあの娘達には言っておいたけどね」
「さすがエレナ。そこまで見切ってるんだ」
「一体何年の付き合いだと思ってるのよ。幼なじみをナメんじゃないわよ?」
ビシッと人差し指を立てて自信満々に言い切る彼女の言葉に、クリュウは苦笑い。きっと、彼女は自分がどうして悩んでいるのか。何となくはわかっているのだろう。そんな彼の予想通り、エレナは静かに言葉を続ける。
「どうせ、あの提督様と何かあったんでしょ?」
「そこまでわかるんだ」
「当たり前でしょ。あんた、ずっとあの娘と目線を合わせなかったじゃない」
やっぱり、子供の頃からずっと一緒に居る彼女には、敵わない。
「……好きって、言われたんだ」
「へ、へぇ」
クリュウの言葉にエレナは心の中の動揺を悟られないよう平静を装う。どこか遠い目をしていたクリュウはそんな彼女の反応に気づかず、話しを続ける。
「でも、断ったんだ」
「ふ、ふぅん。どうして断ったのよ。あ、あの娘は結構可愛い部類だと思うけど?」
「そりゃあ、カレンはすごく可愛いと思う。海軍のアイドルってのも納得するよ……な、何でそんな怖い目で見るのさ」
「別に。それで?」
「カレンは可愛いし、いい娘だって事は僕も思うよ。でも、それと《好き》とかは別だよ。僕はあの娘に対して、そういった感情を抱いていない。だから、気持ちには応えられないって言ったんだ」
クリュウは静かに、ゆっくりとした口調で自らの想いを話す。そんな彼の言葉に、エレナは一人小さく笑みを浮かべた。まったくもって、実に彼らしい考え方だ。だからこそ、こんな事訊いても意味がない事はわかっている。それでも、一応問う。
「だとしても、付き合うって考えはないの? 可愛い女の子が、向こうから好きって言ってくれてるのよ? 何となくでも付き合いたいって思わないの?」
「……そんな事、相手に対して失礼でしょ? そんなクズみたいな事、できないよ」
吐き捨てるように言う彼の言葉に、エレナは嬉しそうに微笑んだ。
やっぱり、彼はこういう人なのだ。相手の想いをじっくりと考え、その誠意に対して常にどう対応すればいいか考えている。常に自分よりも相手を大切にする、実に彼らしい考えであり、決断だ。
「それで、断っちゃって以来彼女とは全然話せなくて。そのまま」
こうして、別れてしまった。それが、ずっと心残りとして彼の胸に小さな刺のように突き刺さっていたのだ。
だが、カレンは蒼海海上演習艦隊と共に水平線の向こうへと行ってしまった。洋上を進むこの遣東艦隊も夜虎渚へ向けて進み続けており、その歩みを変える事はできない。できたとしても、彼女にどのような言葉を掛ければいいかもわからない。
結論の出ない事で悩む彼は、一見するとバカなのかもしれない。それでも、平静でいられる程、彼は非情にはなれないのだ。
そんな悩みを抱える彼に対し、エレナは小さくため息を零すと、彼の頭を軽く叩く。
「別にあんたが悩む必要なんてないでしょ? フッた側が、フラれた側の心配をする必要なんてないのよ」
「そんなひどい言い方しなくてもいいでしょ?」
「ひどいのは、あんたの方よ」
キッパリと言い切る彼女の言葉に、今まで伏せていた顔を上げると、彼の目に映ったのは、真剣な表情でこちらを見詰める、エレナの姿だった。
「エレナ……」
「あんたは、彼女の想いに応えなかった。明確に、彼女の想いを拒否した。その時点で、もうあの娘とは完結してるの。それなのに、フッたあんたがいつまでもそんな態度じゃ、終わった話も終わらない。前に進めないのよ」
いつになく真剣な口調で言い切るエレナの言葉に、クリュウは返す言葉もなく黙ってしまう。彼女の言わんとしている事はわかる。だが、だからと言ってそれを肯定するのは、やはりひどいように思えた。そんな彼の考えを見抜いてか、エレナはキッと彼を睨みつけると、彼の胸倉を掴んだ。突然胸倉を掴まれたクリュウは驚くが、そんな彼に迫り、エレナは静かに彼の間違った考えを正す。
「あんたは、バカがつくくらいに優しい。それは幼なじみとして認めるし、面倒に思う事もあるけど誇らしくは思うわ。でもね――今のあんたの優しさはね、身勝手で、ただの自己満足で、何よりもすごく残酷な事なのよ」
「残酷……」
「火は、人に様々な恩恵を与えた。全ての文明の始まりは、人が初めて火を手に入れた事から始まった。それはつまり、人にとって火は素晴らしいものって事よ。でもね、そんな便利な火だって使い方を誤れば人を襲う脅威になる。優しさはね、それと全く同じなのよ」
一度そこで言葉を切り、静かに一回深呼吸をしたエレナはようやくクリュウを解放する。半ば突き飛ばされる形で解放されたクリュウは呆然とエレナを見詰める。そんな彼の視線に物怖じする事なく、エレナは堂々と彼と対峙した。
「フッた相手に優しくなんてしないで。あんたが相手の想いを断った時点で、どんなに取り繕うとその事実は変わらないし、ハッピーエンドになんて決してならない。あんたへの想いに決着をつけなくちゃいけない時に、あんたが相手を惨めに思って優しくなんてしてみせない。それは、あんたが相手に呪いを施したのと変わらないわ。あんたの存在が、あんたの優しさが、一人の女の子の一生を狂わせる。それくらい、今のあんたの優しさは凶悪極まりないって言ってるの」
「そ、そんな事……」
「うっさいわね。とにかく、そのカレンって娘に対してあんたが負い目を感じる必要はないし、あんたが変に悩んだり、変な小細工をする必要はないって言ってるの。あんたはとにかく、自分の事だけ考えてればいいのよ」
そこまで言い切ってフンッと鼻を鳴らして腕を組むエレナ。少しだけ頬を赤らめ、そっぽを向く彼女の横顔を見て、クリュウはふと彼女の本当の想いに気づく。
「……もしかして、慰めてくれてるの?」
「べ、別にそういう訳じゃないわよ」
クリュウに本心を悟られたエレナは動揺してしまう。そんな彼女の反応を見て、嬉しくて思わず笑ってしまうクリュウ。そんな彼の笑顔に、エレナは顔を真っ赤にさせたまま怒る。
「わ、笑ってんじゃないわよッ」
「ごめんごめん――それと、ありがと」
「う、うん」
自分に向けられた彼の笑顔を見て、思わず頷いてしまったエレナ。見る見るうちに顔は更に真っ赤に染まり、耐え切れず立ち上がってしまう。首を傾げるクリュウに対し、エレナは「さ、先戻ってるわ。あんたもさっさと戻って来なさい」と言葉を残して艦内へと続くドアへ向かってしまう。
取手に手を掛けドアを開き、その場で一旦足を止める。振り返ったエレナはこちらを見詰めているクリュウに対し、静かに言葉を残す。
「いい? 絶対、フッた相手に優しくしないで。お願いだから」
――ゆっくり、扉が閉じた。
「……盗み聞きなんて、趣味が悪いわよ」
「そう怒るな。君達を心配して来たんだぞ?」
ムスッとするエレナの前で、壁にもたれ掛かって苦笑いを浮かべているのはシルフィード。エレナは「余計なお世話よ」と言い残してその前を通り過ぎる。そんな彼女に対し、シルフィードは静かに語り掛ける。
「さっきの君の言葉、あれは忠告ではなく、君自信の願いだったのか?」
「……どういう意味よ?」
足を止めて振り返ったエレナの視線は、いつになく厳しい。睨みつけるように目を尖らせる彼女の表情に、シルフィードは再び苦笑を浮かべる。
「君も、彼の選んでいる娘が誰なのか、気づいているのだろう? だからこそ、あんな忠告を彼にした――自らがが落伍する時の、備えとして」
「……意味がわからないわ。何で私が、あいつの恋路なんて気にする必要があるのよ」
「君も素直じゃないな。まぁそう怒るな。私はむしろ君に感謝しているくらいだ――これで、私も負けた時には潔く身を引けそうだ」
そう言って、シルフィードは淋しげに笑った。その笑顔に、彼女が胸の奥に自らと同じ想い、そして苦しみを抱いている事を知ったエレナ。無言で前を見据え、静かに歩き始める。
「……優しさの残酷さ。彼には、一番理解してもらいたい事だな」
静かに、その言葉の意味を噛み締めるシルフィード。そんな彼女に対し、エレナは歩きを止めると振り返る。気配でそれを感じ取ったシルフィードが彼女の方を向き、目を疑った。
そこには凜とした表情と意志の強い瞳を輝かせ、強気な笑みを浮かべた――恋する乙女、エレナ・フェルノが立っていた。
「あんたが何を言ってるか、私はわからない。でも、一つだけあんたにアドバイスしてあげる」
静かに息を吸い込み、凛々しく、そして力強く自らの想いを宣言する。
「最初から負ける気持ちで戦いを挑む時点で、それは負けなのよ。戦いを挑むなら、何が何でも勝つって腹積もりと、己の全力で挑みなさい。負けた時の事なんてその時考えればいい――私は、誰にも負けるつもりはないわ」
不敵に微笑み、エレナは勇ましい後ろ姿を残して去って行った。
一人残されたシルフィードはしばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、徐ろに手を上げて顔を隠す。静かに深いため息を零した後、クツクツと笑いが込み上げる。
「まったく、年長者の私が一番臆病者という訳か。サクラといいエレナといい、心が強いな」
壁にもたれ、シルフィードは笑い続ける事数秒。再び大きなため息を吐くと、両手を構え、思いっ切り両頬を叩いた。鋭い痛みは、まるで自らの心を麻痺させていた何かを弾き飛ばしたかのよう。再び上げられた彼女の瞳は、キラキラとした輝きを取り戻していた。
「ルフィールと約束したんだ。正々堂々と、全力でぶつかり合うと。なのに私が腑抜けていては面目が立たん。エレナにも、サクラにも――そしてフィーリアにも」
何の根拠もなければ、優れた計画がある訳でもない、無鉄砲と言うに相応しい滅茶苦茶な突撃。だが何も考えず、ただ己の想いだけで突き動く。こんなにも清々しく、重荷を感じない生き方はないだろう。
くくくと口の中で笑いながら、シルフィードは一人の少女を思い浮かべる。やんちゃなツインテールを揺らし、常にバカ丸出しで、アホ極まりない、でも誰よりも真っ直ぐで、誰よりも力強く生きるあの少女を。
「……私といいルフィールといい、エリーゼにクリュウもか。案外、君の生き方が一番人の人生を変えているのかもしれないな――シャルル・ルクレール」
無邪気に微笑む、生粋のバカ娘にして最強の恋する突撃乙女の名を、シルフィードは口にする。そして、
「ここはひとつ――私もバカになってみるかッ!」
不敵に微笑む彼女の笑みはどこか――やんちゃにツインテールを揺らすあのバカ娘に似ていた。
演習艦隊と別離して一週間後、軽巡洋艦『シュメルツェン』率いる遣東艦隊は目的地である東方大陸最大国家、津洲帝国最大の軍港都市――夜虎渚へと到着した。
そこから、クリュウ達の東方大陸での旅が始まった。
――そして、時は流れ……