ドンドルマ公共病院。街唯一の総合病院であり、軽い病状から重い病状まで。はたまた怪我を負ったハンターが入院したりするなど、常にある種の活気に満ちている場所だ。市民の健康を守りつつ、ハンターの怪我の手当てまで行う為に昼夜を問わず忙しい。そんな病院内の廊下にある椅子に腰掛けながら、沈痛な面持ちで三人の少女が座っていた。
「……そんな事が、あったんですか」
シルフィードから事情を聞かされたフィーリアは続けて「それは、大変でしたね」と彼女を労う。しかしシルフィードは首を横に振り、「全て私の責任だ」と自身を責めながらうなだれる。そんな彼女のいつになく弱々しい様を前に、フィーリアはこの暗い雰囲気に居心地の悪さを感じていた。誰だって、仲間同士で黙り合うような空気は好きではない。それに今背後の診察室ではクリュウが手当てを受けている最中だ。本当なら今すぐにでも飛び込みたいが、病院内で自分ができる事などない為、グッとそれを我慢しているのだ。
「……私の無力が、今回の事態を招いた。私は、未熟過ぎる」
「そ、そんな事は……」
「……そうね。未熟な上に大バカよ」
自責しながらどんどん自信を失っていくシルフィードを前に何とか励ますフィーリアの努力を無碍にするように、サクラは容赦なく彼女の自責を肯定する。そこにトドメの一撃を入れるのを忘れないのは、実に彼女らしい。
「ちょッ、サクラ様ッ!? 何を言って……ッ!」
「……貴様の過去の事など知らないし、興味もない。ただその過去のせいでクリュウは負わなくてもいい怪我を負った。これは事実。それを未然に防げなかった――貴様の無能さが招いた事だ」
「……そう、か」
サクラの容赦のない物言いに、打ちひしがれるように黙り込むシルフィード。自覚はあったとはいえ、仲間にそれを指摘されると余計にダメージが大きい。顔に手のひらを当ててため息を零すシルフィードを前にフィーリアは右往左往してしまう。
「さ、サクラ様ッ。少しは言い方というものを考えてから発言してくださいッ!」
「……私は事実を述べているだけ。客観的に、今回の事態の原因を指摘しているに過ぎない」
「だ、だとしても言い方が……」
「……貴様には幻滅したわ、シルフィード・エア」
「サクラ様ッ!」
「いいんだフィーリア。全て事実であり、全て私の責任だ」
怒るフィーリアをなだめると、シルフィードは再び黙り込む。サクラもそれ以上何も言う気はないのか黙り、三人は再び気まずい沈黙に支配された。そんな状況が数分と続いた時、ドアが開いた。中から看護婦が出て来て三人を呼ぶ。促されてフィーリア、サクラ、そしてシルフィードの順で中に入るとそこには――
「あ、みんな」
ちょうど診察が終わったのだろう。頭や腕に包帯を巻いて、頬には湿布を貼った状態で椅子に座っていたクリュウが振り返る。その仕草はいつもとまるで変わりなく、怪我を負っていても、いつもの彼の姿がそこにあった。
「クリュウ様、お怪我の具合はいかがですか?」
「うーん、僕は大丈夫だって言ったんだけど。どうやら一日は安静にしてろってさ」
そう言いながらクリュウは「ごめんね。ちょっと街を出るのは明日になりそう」と三人に謝る。当然三人ともそんな事どうでもいいのだが、フィーリアは努めて笑顔で「そ、そうですね。じゃあ宿の手配をしないといけませんね。入院という訳ではないんですから」と言うと、「うん、悪いけどお願い」とクリュウは笑顔で頼む。
「……クリュウ、平気?」
先程まで近付くだけで斬られるのではというくらいに鋭い雰囲気を纏っていたとは思えない程、とてとてとクリュウに駆け寄って彼のすぐ隣に屈みながらサクラは心から彼を心配しながら気遣う。このギアチェンジの速さが彼女のすごい所だ。
「うん。大丈夫だよ。先生もビックリなくらい丈夫な体だって褒めてくれたし」
苦笑しながら「いつもエレナに鍛えられてるからね」と冗談を言う所を見れば、彼が言う通り本当に大丈夫なのだろう。それを見てサクラは心の底から安堵するようにほっと胸を撫で下ろした。
「……良かった」
「ごめんね。心配掛けちゃって」
そう言いながらクリュウは彼女の頭を優しく撫でる。彼の温かな手を感じながら、サクラは幸せそうに目を細めながら穏やかな笑みを浮かべてそれを受け入れる。そんな彼女の幸せそうな笑みを背後でフィーリアが羨ましそうに見詰める。
サクラの頭を優しく撫でながら、クリュウはゆっくりと視線を上げる。その先にはフィーリアの背後で黙ってこちらを見ていたシルフィードの姿があり、自然と彼女と目が合う。だがシルフィードは彼の純粋な視線に耐えられなくなりすぐに視線を逸らしてしまう。
「シルフィ」
彼に呼ばれ、シルフィード仕方なく視線を再び彼に向ける――その瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれる。
視線の先にあったのは、彼の優しげな笑顔だった。ボロボロの姿になっても変わらず輝き続ける彼の優しげな笑顔は、見ているだけでこちらの心がポカポカと温まる。それこそ、心の氷をゆっくりと溶かすように……
「シルフィは、怪我は大丈夫?」
「あ、あぁ。私は平気だ」
「……そっか。良かった」
屈託なく笑う彼の笑顔を見て、良かったと思う反面今の自分には彼の笑顔があまりにも眩し過ぎるように感じる。自分にはこんな笑顔を向けられる資格など、ないというのに……
「どうしたのシルフィ?」
「あ、いや……」
「顔色悪いみたいだけど、念のために診察受けとけば?」
「いや、大丈夫だ。問題ない」
「そう? ならいいんだけど」
まるで何事もなかったかのように平然と振る舞う彼の姿に、シルフィードは違和感を感じていた。あれだけの目に遭っておきながら、どうしてこうもいつもと変わらぬ振る舞いができるのか。その疑問は他の二人も同じだったようで、
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だってば。これでも鍛えてるんだから、これくらいの怪我」
「……クリュウ、無理してない?」
サクラの問い掛けに、クリュウは一瞬黙った。そして、それまでの明るい笑顔を引っ込めると、その表情をほんの少しだけ翳らせる。
「……まぁ、あんな事あった後だし、気にしてない訳じゃないんだけどさ」
「……クリュウ」
「あんまりみんなに心配掛けたくないからさ」
そう言って、クリュウはまた笑みを浮かべた。それは先程までの笑顔と違って、どこか悲しみを感じさせる、そんな物悲しい笑顔。そんな彼の姿を前に、三人の顔は一斉に曇る。だがクリュウは、
「ほら、やっぱりそんな顔する。そういう顔しないでよ」
困ったような表情を浮かべながら言う彼の言葉に、三人は互いの顔を見合って苦笑を浮かべ合う。
そうこうしているうちに四人は病院を後にした。何とか一人で歩けるクリュウを囲むように歩く三人の表情はやはり重い。そんな彼女達の様子を、クリュウもまた黙って見詰める。
宿に着くとクリュウは横になり、大事をとって休む事となった。その間、三人は女子部屋として借りた四人部屋にて村まで帰る最も彼に負担を掛けないルートの選定に入った。
その夜、フィーリアとサクラは公共竜車ではなく貸切の竜車の予約の為に竜車を多数扱う会社へ向かった。そして一人残されたシルフィードはライザに頼んであまり重くない食事を用意してもらった。ハンター相手の大衆酒場にあるような料理は、大半が病人向けのものではない。その中でライザがプッシュしたのはフラヒヤ山脈産の大雪米にアルコリス地方の養鶏場から直輸入した卵と東方大陸原産の特製ソースを掛けて食べる卵かけご飯セットだった。彼女曰く「味は保証するわ。かわいい熱狂的なファンもいるくらいのおいしさなんだから」だそうだ。
料理の乗ったトレイを片手で持ちながら、シルフィードは彼の部屋の前に立つ。空いているもう片方の手でドアをノックしようとするが、構えられた拳はそこから全く動かなかった。
一体、自分はどんな顔をして彼に会えばいいのか。彼をあんな目に遭わせた原因を作った自分が、今更彼にどんな顔をして会えばいいのか。合わせる顔が、なかった。
少しずつ下げられる拳。だがホカホカに炊いたばかりの大雪米の湯気を見て、その拳が再び構えられる。ライザは言っていた。「熱いご飯に掛けるのがおいしいのよ」、と。
彼に栄養のある物を食べてもらいたい。それもおいしいものを。だったら、ここで迷っていてご飯が冷めてしまっては意味が無い。覚悟を決めて、彼女はドアをノックした。
「……クリュウ、私だ。夕食を持って来たんだが、入っていいか?」
「いいよ」
返事がすぐに返って来た事に、少しばかり驚く。てっきり彼は眠っていたものだとばかり思っていたのだが、どうやら起きていたらしい。思い切って部屋の中に入ると、彼はベッドの上に半身を起こして下半身に毛布を掛けながら座っていた。月明かりだけが照らす部屋の中に黙って座っている彼の横顔は、見惚れてしまう程にどこかかっこ良く見えた。
ゆっくりと振り返ったクリュウは呆けたように突っ立っているシルフィードの姿を見て「どうしたの?」と問い掛ける。
「あ、いや、夕食を持って来たぞ」
「ふぅん、それシルフィの手料理じゃないよね?」
「……君は意外と容赦のない性格をしているようだな」
「普段のお返しだよ」
そう言ってクリュウは楽しげに笑った。そんな彼の笑顔を見ていると、シルフィードもまたゆっくりと安心したように笑みを浮かべる。
シルフィードはゆっくり彼の方へ歩み寄ると、手に持っていたトレイをそっと彼に差し出す。目の前に差し出された料理を前にして、鼻孔をくすぐるおいしそうな香りにクリュウは嬉しそうに微笑む。
「おいしそう……」
「ライザのおすすめだ。熱いうちに食べてくれ。食べ方は――」
シルフィードに食べ方を教わりながら、クリュウは卵を割って別の皿に入れてから特製ソースと一緒によくかき混ぜる。それを最後に熱々のご飯の上に掛ければ、卵かけご飯の完成となる。キラキラと煌めく卵のコーティングをされた白米。素材本来の香りに食欲をそそる特製ソースの香りが合わさったそれは鼻をくすぐるまさに至極の香りだった。
クリュウは香りを楽しんだ後、スプーンを使って一口すくい、口に入れる。口の中にフワッと広がる香りと新鮮な素材と特製ソースの味が広がる。塩加減もちょうど良くて、そのシンプルな味が舌先を楽しませる。
余計な調味料はない。素材本来の味にちょっと調味料を加えただけの、限りなく素材の味に近いシンプルな一品。だがそれこそが、料理というものの本来の姿なのだろう。
「おいしい」
そう言ってクリュウはおいしそうに飯を頬張る。別に誰も獲ったり料理が逃げ出す訳もないのに、おいしさのあまり急いで食べる彼の姿を見て、シルフィードは思わず笑ってしまった。
「もっと味わって食べろ」
「ちゃんと味わってるよ」
そう主張する彼の頬には、ご飯粒が一粒ついていた。シルフィードは自分の頬を指差して「粒がついているぞ」と指摘するが、彼は反対側に手を伸ばす。仕方なくシルフィードは彼の頬へ手を伸ばし、ご飯粒を取り除いた。すると、
「ありがと、シルフィ」
そう言って彼は笑った。優しさに溢れた、彼の柔らかくて温かな笑顔。屈託なく笑う彼の姿を見てシルフィードは頬を赤らめながら彼の頬から取り除いたご飯粒をおもむろに口に入れて、自分のした行為にさらに赤面する。
そんな事をしている間にクリュウは卵かけご飯を食べ終える。空になったお椀をトレイに戻し、満足そうに笑みを浮かべながら腹を軽く叩く。
「あぁ、おいしかった」
「そうか」
あとで改めてライザに礼を言わなければ。そんな事を思いながらシルフィードはトレイを部屋の端に片付ける。そんな自分の姿に、まるで妻みたいだと思い、またしても顔を赤面させる。だが、
「――ソードラントかぁ」
ぼそりとつぶやいた彼の単語に、それまでの幸せそうな彼女の顔が崩れる。一瞬にして悲痛に歪み、瞳は怯えているかのように視線を彷徨わせる。
背を向けたまま黙るシルフィードの様子に気づく事なく、クリュウは窓の外を見詰めながら続ける。
「久しぶりに思ったよ――本気で殴り倒してやりたいって思うような連中だった」
彼の発した言葉に、シルフィードはビクッと体を震わせる。彼の口から《殴る》という単語が出た事に驚くと共に、彼にそんな感情を抱かせてしまった罪悪感に押し潰されそうになる。
「僕は、奴らを絶対に許さないよ」
振り返るのが怖かった。今彼は、どんな表情でそのような事を言っているのか。
あれだけ殴られ、蹴られ、ボロボロにされた。誰だって怒りを覚える。もちろん彼だって例外ではない。だが普段の彼を見ていると、彼とそのような感情は無縁に思えて仕方がなかった。だからこそ、そのような感情を抱く彼の顔を、見る事ができなかった――怖かった。
だから――
「――シルフィをあんな目に遭わせた連中を、僕は絶対に許さない」
次に彼の口から出た言葉に、シルフィードは驚きのあまり思わず振り返った。窓の外を見詰めている彼の顔は、こちからは見えない。だが布団を握り締める拳が小刻みに震えているのを見て、彼が怒っている事を理解する。
だが、彼の怒りの根本は自分が思っていたものと全く違う所から来ていた。自分はてっきり、暴行を受けた事に怒っているものだとばかり思っていた。だが実際は、彼はそんな事よりも目の前で仲間を泣かされた、辛い目に遭わされた事に対して並々ならぬ怒りを抱いていたのだ。
呆然と怒る彼の後ろ姿を見詰めていたシルフィードの瞳に、薄っすらと涙が浮かぶ。
クリュウ・ルナリーフというのは、そういう少年なのだ。自分の事よりも、他人の事の為に怒れる人間。一歩間違えれば自分の事を第一に考えない大馬鹿者。でも同時に、その誰かの為に一生懸命になれる彼の姿は、多くの者達に勇気と希望を与える――自分も与えられたその一人だからこそ、知っている。彼の底抜けの優しさを。
あんなひどい目に遭わされても、彼の抱く怒りは自身に降りかかったそれに対するものではない。目の前で泣き叫ぶ一人の少女を救えなかった自分の無力さ、彼女をそこまで追い詰めたアインに対する怒り、それらが彼の拳を小刻みに震わせている――気づけば、シルフィードはそんな彼の拳を覆うように片手そその拳にのせていた。
「シルフィ?」
驚いて振り返るクリュウの頭を、シルフィードは両腕で包み込むように抱き締める。突然抱き締められたクリュウはいつも抱きついてくる二人とは明らかに違う部分の豊満さに慌てふためいて逃れようとするが、それを拒むようにシルフィードは彼を強く抱き締めている。
「し、シルフィッ!? ちょ、ちょっと……ッ」
「ありがとう」
彼女の口から零れたその言葉に、クリュウは抵抗する事をやめる。ゆっくりと視線を上げると、そこには涙を流しながら微笑む彼女の笑顔があった。泣いてはいるが、無理をしている訳でも悲痛さを感じるようなそんね笑みではない、嬉しさと温かさに満ちた、そんな柔らかな笑顔だった。
「君はやっぱり、最高のパートナーだよ」
「え? あ、うん。僕もそう思うけど……シルフィ?」
「――君と会えて、本当に良かったよ」
そう言って、シルフィードは優しく彼を抱き締めた。
辛い想いをさせてしまったし、彼に痛い想いもさせてしまった。奴らの非道を許すつもりは、今も一抹すらない。でも彼らのおかげで改めて知る事ができた――自分にとって、クリュウ・ルナリーフという存在の大きさと、大切さを。
気がつけば、彼を抱き締めながら泣いてしまっていた。
急に泣き出した彼女を前に、クリュウは最初こそ困惑していたが、いつもの凛々しい顔つきではなくて、一人の少女として泣き崩れる彼女を見ているうちに、彼女の抱いていた十字架を知る。ずっと仲間に隠していた過去、そしてやっと甘える事ができた彼女の姿を。
クリュウは何も言う事なく、そっと彼女を抱きしめ返した。自分よりも身長も大きくて、巨大な剣を振り回す勇ましくて頼もしいリーダー。でも今だけは、一人の少女として自分の腕の中を頼ってくれている。いつもとは違う関係、距離に、クリュウは少しだけ嬉しさを感じていた。
だから、そっとつぶやく。
「――僕も、君と出会えて良かったよ。シルフィ」
そう言って、クリュウは彼女の頭を優しく撫でた。フィーリアやサクラにしているそれと、全く同じ撫で方で……
「いいんですか?」
「……今日だけは譲ってやる。それだけよ」
ドアの外に座り込むフィーリアとサクラは互いの顔を見合うと、どちらからとなく苦笑を漏らした。
少し前に帰って来てクリュウの様子を見に来た二人だったが、部屋の中の二人を盗み見てどちらも部屋に入れずにいた。あんな事があった後なのだから、今だけはシルフィにクリュウを譲る気になったのだ。本当は大好きな彼が他の女と抱き合っているシーンなんて発狂する程に嫌だが、相手があのシルフィードとなれば話は別だ。彼女はライバルである前に、自分達の頼れる仲間なのだから。
「シルフィード様って、すごくしっかりされている方だと思っていましたが――やっぱり、私達と同じなんですね」
「……そうかしら。むしろ、いつも気丈に振舞っているからこそ、脆い女よ」
シルフィード・エアという少女は、ずっと一人で生きて来た。全て自分でできる、自分でやらなければ。そんな想いが、常に彼女の心にはあった。仲間だと思っていても、何か違和感というか距離を感じてしまうのは、そんな彼女の変えられない生き様だったのだろう。
彼への恋心を自覚して、少しずつその距離が埋まっていた矢先に、今回の事件が起きた。一人で苦しむ彼女に、自分達は何も出来なかった。フィーリアは慣れない状況に困惑するばかりで手助けもできなかったし、サクラもまた人を貶す事はできても人を励ます事ができない不器用な娘だ。彼女の苦しみをわかっていても、掛ける言葉が見つけられないでいた。
「サクラ様って、シルフィード様の事もちゃんと見てますもんね」
「……別に、そんなんじゃないわよ」
からかうように言うフィーリアの言葉に、サクラはプイッとそっぽを向く。フィーリアはそんないじらしい彼女の頬を人差し指で何度も突く。
結局、彼女を救う事ができたのは、やっぱり彼だった。
自分達が落ち込んでいた時も、手を差し伸べてくれた彼。その優しさに、自分達は何度も助けられてきた。そして今回もまた、シルフィードを救った。本当に、憎らしいくらい落ち込んでいる女の子を励ます事が得意な彼。まるで自分達の事が全て筒抜かれているかのような。でも不思議と、恐怖は感じない。だって、大好きな彼に自分の事は何でも知ってもらいたいというのは、恋する乙女なら誰でも抱く想いだから。
――まぁ、残念な事に肝心の恋心という点についてだけは彼は理解できていないのだが。
「今まで私達は、クリュウ様を中心に行動して来ました」
突然、思い出したように語り始めるフィーリアの言葉に、サクラは訝しげに彼女を見詰める。そんな彼女の視線の先で、フィーリアはずっと抱いていた想いを、吐露する。
「でもこれからは、本当のチームとして、クリュウ様を中心とした関係ではない、私達全体での関係にしていきましょう。一人が落ち込んでいれば、残る三人で助けられる。そんな、素敵なチームを作って行きましょうよ」
嬉しそうに語る彼女の言葉に、サクラは何も答えなかった。ただ、小さく一つうなずくだけ。
眠らぬ街ドンドルマの夜が、ゆっくりと過ぎていく……
翌朝、クリュウもハンターズギルド公認の薬のおかげでひとまず歩けるくらいには回復した為、一刻も早く村へ帰る事にして四人は宿を出た。全員が完全武装を施し、突然の敵襲に備えて警戒しながら予約した竜車が停車しているターミナルへ向かう。ドンドルマでは武装したハンターの姿は珍しくないので、防具姿でも全く怪しまれないどころか、日常の光景として出迎えられる。
だからこそ、四人の前に武装を施した一人の少女が現れても、誰も気にも留めなかった。
無言でクリュウ達の前に立ち塞がったのは全身をボロボロの布とモンスターの骨を組んで作ったおぞましい姿の防具、デスギアシリーズを纏った少女――トリィ・マクガイア。彼女の登場に三人は一斉にクリュウの前に立って迎撃の構えを見せる。昨日の今日だ。女子陣全員が彼女に対しても並々ならぬ怒りを抱くのも当然と言えるだろう。
そんな彼女達の怒りに満ちた視線を受けながら、トリィは――無言のまま頭を垂れた。
「え?」
それを見ていたクリュウは驚きのあまり短く声を漏らす。驚いたのは彼だけではない。彼を守るように展開していた三人の恋姫も互いに顔を見合わせて困惑している。
「先日は、すまなかったわね。怪我の方は、もう大丈夫かしら」
「あ、はい。何とか……」
クリュウも複雑そうな表情で答える。それはそうだろう。暴行の大半はヴォルフガング兄妹によるものだが、彼女にも暴行を受けた彼からしてみれば、怪我を彼女に気遣われるのは妙な感じだ。
「そうか。良かった……」
そう言ってトリィはほっとしたように胸を撫で下ろした。そんな彼女の姿を見てクリュウはさらに困惑する。彼の知っている彼女の姿は常に刺々しく、自分を殴り飛ばした後で見下していたあの恐ろしい目という印象だ。そんな彼女の、穏やかな表情は見慣れてはいない。
だが困惑する彼の前に立ち塞がる者がいた。憮然としたまま立ち塞がるのはチーム随一の武闘派恋姫のサクラ。最初こそ面食らったが、彼女がクリュウに暴行を加えた一人だという事はサクラも知っている。愛する人をひどい目に遭わされて、黙っていられる程サクラは薄情な娘ではない。
「……再び現れたという事は、斬り殺されても文句は言わないわね」
「勘違いしないで。私はあくまでその子に謝りに来ただけ。用事が終われば撤収するわ」
「無事に帰すとお思いですか? こちらにはあなたに報復するだけの理由があるんですよ」
フィーリアもいつになく怒りに満ちた表情でいつでもボウガンを引き抜けるように構える。当然サクラもいつでも抜刀斬りできる構えを取る。血気盛んな二人の反応を見たトリィは、そんな二人を鼻で笑う。
「やり合いたいってなら相手してやってもいいけど」
そう言って背中に背負った鎌威太刀に手を掛ける。
一触即発な三人を前にシルフィードは止められずにいた。それもそうだろう。彼女自身も二人と同じくトリィを恨む理由がある。客観的に見れば止めるべき状況だが、主観的にはむしろ二人に加勢してもいいくらいだ。
シルフィードがどうすべきか悩んでいる間にも、今にもお互いに飛びかかりかねない三人。それを見て仲裁に入ったのは当事者であるクリュウだった。
「二人共、ちょっと下がって」
「え? し、しかし……」
「いいから」
「……クリュウが、そう言うなら」
クリュウの言葉に、二人は渋々という感じで下がる。二人の間から出て来たクリュウを前にしたトリィは鎌威太刀に掛けていた手を戻すと、改めて彼に頭を下げた。
「悪かったわ。謝っても許してもらえない事は、わかってる。償いはする気よ」
「別に、僕は気にしてませんから」
そう言って優しく笑う彼の言葉に、トリィは顔を上げると明らかに困惑していた。てっきり怒鳴られるとか何か文句を言われると思っていたのに、実際はそのどの予想にも当てはまらなかった。
理解できないと困惑するトリィに対して、シルフィードは密かに笑った――クリュウとは、そういう少年なのだ、と。
「そりゃ、殴られて怒ってない訳じゃないですけど、あなたの拳には手加減がありました。本気だったんじゃないって事は、わかってますから」
最初の襲撃の際にツヴァイが言っていた「あえて顔に傷をつけて殴る回数を減らそうとか考えてるんじゃない?」という言葉。あの後、トリィが再び拳を振るう事はなかった。
それらの事を考慮するに、彼女はできうる限りで自分を庇うような事をしてくれていた。何となく、そんな気がしていたが、彼女に改めて会って、それは確信へと変わったのだ。
「別に、手加減していた訳じゃないわ。気が乗らなかっただけよ」
そう言ってトリィはそっぽを向く。その仕草は年相応の少女らしさに満ちた、ごく自然のものに見えた。普通の人生を歩んでいればきっと、彼女はその表情が基軸となっただろうに。
「それと、逃げるならさっさとしなさい。連中の興味がまた再燃しないうちにね」
「そのつもりです」
クリュウの返事に一つうなずき、トリィはそっと道を譲る。クリュウは何も言わず、彼女の横を通り抜けて前へ進む。その後ろをフィーリアとサクラが警戒しながら通り抜け、最後にシルフィードもまた通り抜ける。何かを言おうとしたが、結局何も言わずにシルフィードは通り抜けた。
「言っておくけど、私はあんたを許した訳じゃないわよ」
二人の距離が少し開いた時、シルフィードの背中に向かってトリィは言葉を投げかけた。振り返るシルフィードを、彼女は憎しみに染まった鋭い瞳で睨みつける。復讐に生きる鬼、そんな言葉が頭に浮かぶような、そんな彼女の姿にシルフィードは何も言えなかった。
「――私は一生、あんたを憎しみ続ける。ネリスを殺したあんたを、私は一生許さないわ」
そう憎々しげに吐き捨てると、トリィは背を向けて歩き出した。無言で立ち去る彼女を前に、シルフィードは掛ける言葉を見つけられずにいた。謝罪の言葉は詭弁にしか通じないだろう。口先だけで何かを言って、彼女の気持ちが変わるとは思えない。あの明るく活発だった少女を、復讐に狂わせるだけの大罪を、自分はかつて犯したのだから。
罪の重さに下げていた視線を再び上げた時、彼女の姿はもうどこにもなかった。
無言で立ち尽くすシルフィード。そんな彼女の手を、優しく握り締める手があった。振り返れば、そこにはいつもと変わらぬ優しげな笑みを浮かべた彼が立っていた。
「帰ろうシルフィ。僕達の村へ」
気遣うような言葉ではなく、あえてそう言ったのは彼なりの何か意味があったのか。それはわからない。でも、
「あぁ」
帰る場所がある。そう思うだけで、救われる気がした。かつて自分は、その帰るべき故郷を失った為に、間違った道へと進んでしまった。今回の事件で、自分は再び手に入れたこの幸せな帰るべき場所を失いかけた。でも結局、それは杞憂だった。
自分の帰るべき場所は、自分の醜い過去を知っても自分を受け入れてくれる、そんな場所だったから。
「あ、そうだ。帰りにレギドの村でビーフシチューを食べましょう。久しぶりに食べたくなっちゃいました」
「……そうね。シルフィードのおごりで行きましょう」
勝手に人の財布で明日の昼食を食べる予定を決めてしまう二人の言動に苦笑しながらも「仕方ないな。今回の事の礼も兼ねて、おごってやるさ」と気前よくおごる宣言をするシルフィード。二人のいつもと変わらぬ様子もまた、彼女にとっては心強かった。
「シルフィ」
「シルフィード様」
「……シルフィード」
クリュウだけではない。フィーリアとサクラからも手を差し伸べられたシルフィードは、その眩しすぎる光景に思わず目頭が熱くなった。だがきっと、彼らが求めているのは自分のこんな顔ではない。涙を堪えて、彼女は――
「……帰ろう。私達の故郷へ」
――幸せに満ちた、満面の笑みを浮かべた。