数日後、クリュウ達は空の上にいた。
蒼い空を優雅に飛翔するのはエルバーフェルド海軍所属の小型飛行船、航空哨戒艦『イレーネ』。文字通り空から敵の主力艦隊を哨戒する偵察艦。武装は最低限なものしかされておらず、軽量を売りにした機動力を発揮する艦だ。
エルバーフェルドはこの『イレーネ』の他にも数隻の同型艦を保有している。どれもがアルトリア製のもので同盟の証として譲渡された艦。大きさはアルトリアで言えば駆逐艦よりも小さい小型艇で、文字通り哨戒任務を行う小型艦だ。とはいえ飛行船を保有している国家はアルトリアと同国からの譲渡艦を持つエルバーフェルドだけ。他の国は気球の発展型のような貧弱なものしかないので、他の西竜諸国から見れば十分な脅威だ。
そんな貴重な艦に乗って、クリュウ達はエルバーフェルドを出国して一路大陸南西部の砂漠地帯にあるエルバーフェルド領、トブルクを目指していた。
西竜諸国はかつては資源獲得の為に大陸全体を巻き込んで戦争をしていた。その際に占領した土地を現在でも保有している国は多く、エルバーフェルドも砂漠地帯との貿易の為に交易都市トブルクとその周囲の土地を租借地として一種の領土として保有している。今回はそのトブルクに常駐しているトブルク守備隊からの救援要請――トブルクの近くにある公地、セクメーア砂漠に現れた角竜ディアブロスの討伐要請として、クリュウ達が派遣された訳だ。
小型艦ゆえに巨大な艦のような階層もなければ部屋の数も少ない『イレーネ』。何だかんだで一同は見晴らしの良い艦橋に集まっている。
艦橋では複数の軍人が忙しなく動き回っている。そんな彼らに指示を飛ばすのがこの艦の艦長だ。そして、その彼の横には海軍総司令官であるカレンの姿もあった。今回の遠征の責任者としてこの艦に座乗しているのだ。
艦橋には乗組員の他にそれぞれクリュウ、サクラ、フィーリア、シルフィードのハンター四人。海軍総司令官のカレン、お目付け役として座乗しているエルディンの姿がある。
フリードリッヒやヨーウェンは当然国を離れる訳にはいかないので今回は不在。エレナ、ルーデル、セレスティーナの三人もエムデンに残っている。
「それで、この面子だとディアブロスの討伐経験があるのはシルフィードだけか?」
エルディンの問い掛けにうなずく四人。その返答を聞いたエルディンは自分の提案が失敗だったかなぁと困ったように苦笑を浮かべた。
「私は以前に利害が一致しただけのその場限りのチームで討伐した事はある」
そう答えたのは四人の中で唯一ディアブロスの討伐経験があるシルフィード。経験があるだけに他の三人に比べると幾分か余裕があるように見える。
「私はそもそも砂漠自体あまり訪れないので……」
申し訳なさそうに言うのはフィーリア。彼女の言う通り、リオレイアを専門に扱う彼女はそもそも砂漠にはあまり訪れない。時たま砂漠にもリオレイアが現れる事はあるが、稀有だ。
「……討伐経験はない。でも、商隊護衛の際に交戦経験はある」
逆に砂漠を渡りたがる商隊は多いので、その分砂漠に訪れる事が比較的多いサクラ。護衛の最中に現れたディアブロスに対して商隊が逃げる時間稼ぎとして戦った事はあり、四人の中では貴重な経験者と言える。
「戦った事はおろか遠目でも見た事はないです」
そう言いながら自分の発言が情けな過ぎて苦笑してしまうクリュウ。その後「一応、どんな生態で行動をするかは知識では持っています」とお荷物じゃないととさりげなくアピール。
「君達のチームで討伐した最上位のモンスターは?」
「……リオレウスね」
「なるほど。先に言っておくが、ディアブロスはリオレウスよりも難敵だ。リオレウスに殺されたハンターの数より、ディアブロスに殺されたハンターの方が数多い。出現場所が砂漠に限定されるから民間人の被害は少ない為に一般的にはリオレウスの方が脅威に伝えられているが、実際はディアブロスの方が討伐は容易ではない」
エルディンは脅かす訳でも大袈裟に言っている訳でもない。ただ淡々と事実を述べているだけに過ぎない。だからこそ余計にクリュウ達、特にクリュウはこれから相手にするモンスターの強大さに、恐怖し、胸が苦しくなる。
今でも鮮明に思い出される、火竜リオレウスとの死闘。まだチームとしての連携は今に比べれば不十分で、自分自身も未熟だったとはいえ、四人の力を合わせて辛くも勝った空の王者──ディアブロスは、そんな彼の王よりも強い。
あの頃に比べればチームの連携も自身の力も格段に上がっているはずだ。しかし、不安がない訳ではない。
「──どうする? 引き返すなら今のうちだぞ」
その言葉に、クリュウはハッとなって伏せていた顔を上げる。まるで自分の心の中の葛藤を見透かしていたかのように、エルディンはジッとクリュウを見詰めていた。
「命懸けの相手になる事は確実だ。相手の強大さに恐怖するのは人間として当然の反応だ。そもそも、人間が挑むべき相手ではないのだから、恐れ、引き返しても誰も文句は言わない──ただ、君が望む願いはこの程度の壁も越えられない程の、弱き願いだったのか?」
責める訳でも、諭す訳でもない。ただの純粋な疑問。しかしそれは、クリュウの胸の中で恐怖と戦う信念に問いかける。
自分は、母の故郷へ行きたい。母の事を知りたい。母の志を、見てみたい。その気持ちにウソはないし、本気だ。
どんな屈辱だって耐えてみせる。そう誓った、自分の本気の願い。
仲間に迷惑を掛けながら、仲間に救われながら、仲間と一緒に、その願いを叶える一歩手前まで来た。例え、その最後の一歩に巨大な壁が立ち塞がっていても、ここまで来れたという事実は変わらない──仲間達の想いも、自身の覚悟も、本物だ。
どれほど巨大な壁でも、越えてやる。そして自分には、そんな自分に力を貸してくれる頼もしい仲間がいる──皆と一緒なら、恐れるものなど何もない。
「……ディアブロスは確かに強敵です。僕一人じゃ、きっと勝てない──でも、僕には心強い仲間がいます。だから、この程度の壁は問題じゃありません」
クリュウはハッキリとそう断言した。誇張でも過信でもなく、これは確信だ。
今まで、自分達は様々な苦境に立ってきた。無理だと諦めかけた事だってある。でも、そんな弱気になった時も自分を支え、共に戦ってきた仲間がいる──どんな困難も、共に乗り越えてきた仲間がいる。
この四人なら、越えられない壁などない。それはクリュウの──四人の少年少女の確信だ。
「そうですッ! クリュウ様と一緒ならディアブロスなど恐るるに足らずですッ!」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら言うフィーリア。彼女の屈託のない笑顔は、落ち込んでいたり悩んでいる自分を鼓舞してくれる。
「……問題ない。クリュウが進む道を阻むものは、私が蹴散らす。それだけよ」
いつもの無表情で淡々と宣言するサクラ。でも、その瞳はどこか嬉しそうで、口元に彼にしかわからないような微笑を浮かべて、彼を見やる。
「今の私達なら決して勝てぬ相手ではない。久しぶりに、本気を出すまでさ」
そして、いつもいつも頼もしい言葉、振る舞いで自分達を牽引してくれる。勇ましい横顔の中にも優しさを忘れない、頼れる我らがリーダー、シルフィード。
この三人の頼れる戦姫(なかま)と一緒なら、自分は絶対に負けない。そう、心から信じている。
四人を結ぶ絆は、本物だ。互いが互いを信頼し合う、本当の仲間。エルディンは、そんな四人の姿を見て微笑んだ。
「ほんと、昔の俺達を見ているようだぜ……エッジ、テメェの息子は、本当によくテメェに似てやがるぜ」
エルディンはそう誰にも聞こえないような小声でつぶやくと、窓の外に広がる大空を静かに見詰める。
そして、一行を乗せた『イレーネ』はジォ・クルーク海を抜ける。
数日後の夜、星空の海を『イレーネ』は静かに航行を続けていた。
夜番の軍人を除いて、皆が寝静まっている夜中。明日はいよいよトブルクに着くという事でフィーリア達も早めに休んでいる。が、そんな中クリュウは寝付けなくて一人飛行船甲板に出ていた。
気嚢の下に船体を備える一般的な形の飛行船とした『イレーネ』。その船体の後部に露天甲板がある。
気流も穏やかな為、甲板を撫でる風はそよ風のよう。クリュウはそんな風と砂漠地帯特有の夜の肌寒さに少し身を震わせながら一人夜空を見詰めている。
すでにトブルクには伝書鳩で討伐隊(自分達の事だ)を派遣する旨を伝えており、自分達はこのまま明日にもセクメーア砂漠に入る。
セクメーア砂漠はドンドルマの指定狩場の一つで、ドンドルマのハンターは比較的馴染み深い場所だ。クリュウ自身は村から一番近いレディーナ砂漠を主戦場にしていたのであまりセクメーア砂漠は詳しくはないが、他の三人は経験があるので地理的には問題はない。
クリュウが不安に感じているのは、ディアブロス自体だ。
リオレウスよりも巨大で重量のある体、角竜と言われる由縁である二本の巨大で堅い角を生かした突進を攻撃主体とする凶悪な飛竜。バサルモスと同じく飛竜と分類されるも飛ぶ事はほとんどなく、リオレイア以上に陸上戦に特化した飛竜だ。
訓練学校での授業時、フリードが自身の経験も交えながら説明してくれたが、それを聞くだけでも強力な飛竜だとわかる。滑空突進ではなく自らの脚で駆ける地上突進では全モンスターで最速と言われ、その激しい闘争心、凶暴性から多くのハンターが命を落としてきた。
多くのハンターが通常の飛竜で最も恐れるのがディアブロスと挙げる事からも、ディアブロスが最強最悪の戦闘飛竜である事がわかる。
その常軌を逸した戦闘飛竜に、今回自分達は挑む事になった。
あのリオレウスよりも強力で、凶悪な飛竜。そう思うだけで、柵を持つ手が震える。これが武者震いならかっこいいのだが、クリュウの場合は恐怖による震えだ。そんな化物相手に、自分はちゃんと戦えるのか。恐怖と不安が入り交じり、拳が震える。
リオレウスもリオレイアも、自身を除いて他三人は程度は違えど討伐経験があった。しかし今回は討伐経験があるのはシルフィードだけという、他の三人にとってもこれまで以上の厳しい戦いになる事が安易に予想できる。
チームとしても、今回の狩猟はかつてない苦しい大激戦になる事は必至。それに巻き込んでしまった罪悪感は当然彼の胸の中で渦巻く。本人達は気にしていないだろうが、クリュウは簡単にそういう気持ちを切り捨てられる程心の切り替えがうまい人間ではない。
さらに不安に拍車を掛けるのが、これまでと違って討伐経験が皆無に等しい中で挑む事から他のメンバーの危険度も跳ね上がっている事。もしも怪我をしたら――もしも、命を落とすような結果になれば……
今回ばかりは、冗談では済まない危険度なのだ。基本的にどうしてもネガティブ思考になりがちなクリュウは、先程から悪い方悪い方へと思考が進んでしまう。
自身だけの危険度なら、ここまで悩む事はない。問題は自分以外、フィーリア達の命が懸かっているのだから、覚悟が決まらない。
アルトリアには当然行きたい。だが、それ以上に今の大切な仲間を傷つけたり、失ったりするのは辛い。
クリュウの心は、不安で押しつぶされそうだった。
何度ついたかわからないため息を漏らした時、背後から物音がして驚いて振り返る。すると、後甲板と船内を繋ぐ扉が開かれていて、そこに少女が一人立っていた。
黒い軍服を纏った、サクラのような漆黒とは違い、少し明るめな黒髪をショートカットに切り揃えた小柄な少女。知的なメガネの奥には強い意志が窺える鋭い瞳が煌く――今回の遠征の責任者、海軍総司令官のカレン・デーニッツ。
ランタンを片手に、カレンはジッをクリュウを見詰めている。クリュウも彼女と直接話した事はほとんどないので、声を掛けるべきか迷う。
「消灯時間はとっくに過ぎています」
一瞬の沈黙の後、声を発したのはカレンの方だった。明らかに警戒した物言いにクリュウは苦笑しながら「ごめんなさい。ちょっと、眠れなくて」と謝る。見た限り同年代に見えるが、相手は一国の一軍最高指揮官。一応敬語で接する。
クリュウの返答に、カレンは特に反応を示さなかった。彼自身に一切の興味がない。そういった感じの振る舞いだ。
注意はした。そう言いたげにカレンは元来た扉へ振り返る。
「あの、今時間ってあります?」
背を向けたカレンに、クリュウは声を掛けた。その声に、カレンは怪訝そうに振り返る。何も言わず、厳しい瞳を向ける。その瞳はまるで「何を言っているのですか?」と言っているかのよう。だから、クリュウは言葉を続ける。
「いえ、ちょっと話でもしたなぁと思いまして」
クリュウの言葉に、カレンは無言だ。
しばしの沈黙が続き、クリュウが今のはなしと言おうと口を開くと同時にカレンはため息を零した。驚くクリュウに瞳を向け、彼女は静かに近寄って来ると、彼の隣に並び立つ。
「あの……」
「総統陛下より、貴殿の願いは可能な限り叶えるよう命令を受けていますので」
「本当は嫌ですしそんな時間はありませんが、陛下の命令とあれば仕方がありません」という言葉が続きそうな口調で述べるカレン。実際、彼女の心中ではほぼ同じような言葉が浮かんでいる。
クリュウは苦笑しながら、嫌々ながらも付き合ってくれる彼女に感謝していた。一人でいるとこのままどんどん悪い方へ思考が働きそうだったので、誰かが傍にいてくれた方がありがたい。
「それで、私はあなたの隣に人形のごとく無言で立っていればよろしいのですか?」
「いや、普通に話してほしいんですけど……」
「興味のない話なら、一切の反応を断りますがよろしいですか?」
「……まぁ、独り言よりはいいかな」
クリュウは苦笑を浮かべながらそう言うと、目の前に広がる無数の輝く星々を見詰める。自分からは話掛ける気はないのだろう、カレンもまた同じように星に視線を向けている。
「あの、司令官は――」
「デーニッツで結構です。それと敬語も不要です。部外者相手に軍の上限関係を押し付ける気はありませんので」
「そ、そう? その方が僕としてもありがたいけど……」
ほんの少しだけだが、彼女との距離が縮まったように感じた。まぁ、相変わらず警戒心全開という様子には変わりないが。
「質問を遮ってしまいましたね。続きをどうぞ」
「あ、いや、大した事じゃないんだけど――デーニッツはどうして、そ、総統陛下に仕えてるのかなぁって」
クリュウの問い掛けに、カレンは特に驚いた様子はなく。ただほんの少しだけ、遠くの空を見詰める。
「答える義務はありませんが、まぁいいでしょう。私の一族は代々海軍軍人の家柄です。祖父も曽祖父も海軍将校でしたし、父は王国時代の海軍総司令官でした」
「ものの見事に海軍一族なんだね……」
一族揃って役目は違えど、同じ世界に身を置く。何となく、両親と同じハンターの道を選んだ自分と似ていて、少しだけ親近感が湧いた。
だが、どこか誇らしげに海軍一族だった家族の事を言ったカレンだったが、その表情が少しだけ曇る。
「ですが、父はローレライの悲劇の混乱に乗じたガリア・東シュレイド連合軍の侵略を撃退する為に、津波で主力艦をほとんど失った脆弱な艦隊で圧倒的な敵艦隊の迎撃を行いました。しかし結果は完敗。艦隊は全滅し、父はその海戦で戦死しました」
ギリッと、悔しげにカレンは歯軋りする。握られた拳は真っ白になる程強く、瞳には憤怒の炎が宿る。その顔を見て、クリュウの心が痛む。
……また、だ。
この国の人間はガリアと東シュレイドを憎んでいる。フィーリア達からそう聞いていたし、人々の様子を見ていてそれはよくわかった。憎しみの連鎖が、止まらずに続いている。カレンもまた、その一人だ。
「……国民は輸送船団を抱えた敵艦隊の迎撃に失敗した父を糾弾し、無茶な作戦で兵を犬死させたとして戦死した兵の遺族から罵声を浴びせられ、海軍名家と言われたデーニッツ家は没落しました。母は心労が祟って病死し、私は一人残されました」
怒りに打ち震える拳。握り締め、爪で皮膚が抉れるのではないか。そんな心配をしてしまう程、固く締められた拳。見ているだけで、痛々しい程に白い。小刻みな震えが、怒りの表れ。
だが、そんな拳は意外にもあっさりと解けられた。視線を上げると、先程まで憤怒に染まっていた彼女の顔が、冷静さを取り戻していた。だが瞳は濁り、まるで過ぎた事だと自己完結しているよう。
「……母の死後、父の忠臣に引き取られた私は父の無念を晴らそうと海軍再建を志に抱き、死に物狂いで勉強しました。しかし、共和制に移行した国は他国からの恫喝に屈し、一切の軍隊を保有しない事を決めました。自分の努力が、無様に崩れ落ちる瞬間。今でも、忘れる事はできません」
目標を見失う。人が生きる上で、最も苦しい事柄だ。良い事でも悪い事でも、目標があれば人はそれを生き甲斐とし、強く生きられる――復讐に狂うのもまた、それを目標にしているからこそ信念の強い人間になる。
「目標を失い、生きる意味を見失った私は廃人と言っても過言ではありませんでした――そんな時に、あの方と出会いました」
口元にフッと小さな笑みを浮かべ、カレンは懐かしそうにその時の事を思い出す。
「全てを諦め、海に身を投げたあの日。冬の冷たい海水が、私を包んでいく感触。光が失われ、次第に意識が遠のきました。その時、私の手が握られ、勢い良く海面に引き摺り出された――咳き込む私が見たのは、まさに女神でした」
瞳を閉じ、そっとその時の光景を思い出す。
「高貴で、凛々しく、勇ましくて、美しい戦女神。美しい顔にきれいな髪を海水に濡らし、鋭い瞳で私を見詰めていました。刹那、私は頬を叩かれました。何が何だかわからない私に、あの方は言いました――「逃げる為に死ぬ事は愚行以外の何ものでもない。死ぬ覚悟があるなら、大義を成してから死ね」と」
そっと、頬を撫でる。こうしていると、あの時の痛み、そして熱が蘇る。
「そして、あの方は呆然としている私に手を差し伸べた――「無駄死にするくらいなら、貴様は私のものになれ。その助けられた命、今度こそその使い道を見失うな」と仰られました」
そっと瞳を開き、カレンは深く軍帽を被る。視線の先には、今も思い出せるあの時、彼女の手を掴んだ時の温もりが残る自分の手。ギュッと、先程までとは違う拳を握り締める。
「私は総統陛下の臣下に下りました。陛下はそのカリスマ性であっという間に国家を愚図政治家どもから奪還し、今のすばらしき国を作り上げました。私はその中で父と同じ椅子、海軍総司令官になった。全ては陛下のおかげ。私の命の全ては、陛下の為にあります」
心からそう思っているのだろう。そう言う彼女の表情は凛々しく、生き生きとしている。目標を持っている人間の、やる気に満ちた表情。それは、どんな目標・目的であっても美しい。
クリュウは、そんな彼女を見て内心少し尊敬していた。誰かの為に、そこまで尽力できる。信じているからこそ、どんな苦難も乗り越えられる。
人を信じるという強さ、彼女はその強さをしっかりと持っている。
「信じる、か……」
フリードリッヒに対して絶対の信頼を寄せている彼女に対して、自分はどうだろうか。
信じているかと問われれば、迷わず首肯するだろう。だが、ほんの少しだけそんな自分に自信がない――自分は、彼女のように心から信頼しているだろうか。
そんな事はないと言い切れる。でも、自分の態度や行動はそんな自分の想いに反しているのではないか。
信頼するというのは、全てを任せるという事だ。
信じているからこそ、任せられる。
信じているからこそ、頼れる。
ディアブロスという強敵相手に、確かに皆が怪我するのではないかと不安になるのは仕方がない事だし、そういう心配もして当然だ。でも、今まで自分達はそんな苦難をいくつも乗り越えてきた。
怪我をするかもしれない、その不安は決して消える事はない。
でも、信じるという事は心配する事とは違う。信じているから、きっと大丈夫と前向きに思う事が大事なのだ。
後ろ向きではなく、前を向いて進む。信じるとは、そういう事だ。
心配はいくらしてもいい。でも、信じているなら大丈夫だと信じ抜く。仲間の想いを裏切らない事こそ、チームという組織では一番大事な事だ。
そう結論付けると、自分でも気づかないうちに肩の荷が下りていた。難しく後ろ向きばかりに考えていた思考はある意味で開き直ったとも取れる、でも悪い気はしなかった。
今まで見えなかったものが、薄っすらとだが見えてきた。そんな、心地良い感じ。
自然と、笑みが浮かんでいた。
そんな彼の様子を見て、彼の心境の変化を知らないカレンは怪訝そうに首を傾げる。
すると、クリュウはそんな彼女の手を取った。突然の事に驚き言葉を失うカレンに向かって、クリュウは満面の笑みを浮かべながら礼を述べる。
「ありがとうッ。君のおかげで、気持ちの整理ができたよッ」
「……は、はぁ?」
何も知らないカレンはただ戸惑うばかり。だが彼に握られている自分の手を見ると、頬を赤らめて不機嫌そうに眉をしかめる。
「我が軍ではセクハラ行為は軍法会議ものですけど」
「えぇッ!? そ、そんなつもりは全然ないよッ!」
ジト目で見詰めるカレンの言動にクリュウは慌てて手を離した。変に意識してしまったので頬は赤く、これではまるで説得力を持たない。そんな彼の様子を見て、カレンは小さくため息を零す。
「何を狼狽える必要があるのですか。心にやましい気持ちがなければ何も問題はないはずです。それとも、何かそれに類する感情をお持ちですか?」
「そ、そんな事は断じて無いッ!」
疑わしいと言いたげにジト目でしばし見詰めた後、興味を失ったように彼から視線を離すとカレンは再び夜空を見詰める。その横顔を見てクリュウはまだ赤い頬を掻いた。
「……総統陛下の前では言えませんが――お母様の手がかり、何か見つかるといいですね」
突然発せされたカレンからの言葉に、クリュウは思わず「え?」と返してしまった。驚いて彼女の方を見ると、こちらにジト目を向けていた。
「何ですか? 私がそのような発言をする事が何かおかしいのですか?」
「そ、そういうんじゃないけど……ちょっとビックリしちゃって」
つぶやくように小声になるクリュウを見て、カレンはため息を零す。
「私、そんなに薄情な人間に見えますか?」
「いや、ほんとそんなんじゃないからさ」
「……まぁ、いいですけどね」
軍帽を深く被ってまたしても視線を夜空に向けるカレン。自分の不用意な発言のせいで下りた沈黙に、クリュウは気まずそうに言葉を発する事もできずに沈黙を続ける。どうにか話題を振ろうと模索するも、そもそも彼女と本格的に話したのはこれが初めてだし、そもそもつい数日前に会ったばかりだし、その間もほとんど関わっていない為振るような話題も見つからず、クリュウは頭を悩ませる。
だが、そんな彼の苦闘は意外にもあっさりと打ち砕かれた。
「――私も両親を失っている身です。その気持ち、わからない訳ではありませんから」
目を伏せ、小さくもしっかりと聞き取れる声でつぶやくカレン。彼女もまた、両親を失っている身。だから、彼の母の軌跡を追おうとする気持ちも、わからなくはない。
フリードリッヒに忠誠を誓う彼女は、もちろん彼女の考え方や行動などに共感している。彼女の言う事は絶対であり、その絶対を確固たるものにするのが自分達臣下の役割だとも認識している。でも、今回ばかりは自分と少し似た境遇の彼の気持ちもわかる。
先程の発言は、彼女なりの思いやりだったのかもしれない。
表情や言動から彼女に対して厳しくて冷たい人、という印象がなくもなかったクリュウ。だがしかし、その印象が少しだけ変わった。
「ありがとう」
ただ純粋に、そう礼を述べた。
彼女達から見れば敵対関係とまではいかないが、一種の敵に等しい境遇に置かれている自分達。その中心人物である自分に、たった一言でも背中を押してくれる言葉を言ってくれた彼女に、ただそういう感謝の気持ちが浮かんだのだ。
クリュウの感謝の言葉に、カレンは口元に小さな笑みを浮かべるだけ。何も言わなかったが、その表情で十分だ。
「それでは、私はそろそろ失礼します。明日も早いのですので」
「そうだね。付き合ってもらっちゃって、ありがとう」
「いえ、貴殿も早く寝てください。灯り用の油も経費が掛かっていますので」
「……あははは、すぐ寝るよ」
苦笑しながら答えるクリュウの返事に満足したように頷くと、カレンは一礼して踵を返す。背を向けて離れていく彼女の後ろ姿を見てクリュウも部屋に戻ろうと振り返る。
――その瞬間、突然の突風が吹き荒れた。
「うわっぷッ!? のわッ!?」
激しい風圧で動けなくなったかと思ったら、今度は突然床が傾いた。クリュウは手すりに掴まって何とか堪える。
地面が斜めになるという異常事態に一瞬困惑したが、すぐに今は空を飛ぶ船の上だという事を思い出す。どうやら強烈な横風を受けて飛行船が大きく傾いたらしい。
慌ててカレンの姿を探そうと振り返った瞬間、目の前からその当人が転がって来た。
「あ、危ないッ!」
反射的に彼女の体を受け止めたクリュウだったが、斜めになった床では思うように足に力が入らず、衝撃を受け止め切れない。結局、受け止めたはいいもののそのまま一緒になって転倒してしまう。
床に背中から激しく叩きつけられ激痛が走る。だが反射的に悲鳴を上げようと口を開くが、その口は何かに押さえ付けられて動かなかった。
柔らかくて、熱を帯びたその感触。クリュウはそれに似た感触を、知っている。
激痛に反射的に閉じていた瞳を慌てて開くと、目の前には信じられないくらい近い距離で視界いっぱいにカレンの顔があった。ただ、先程までのクールで冷静な軍人らしい彼女ではなく、今目の前にいるのは大きく瞳を見開き、顔を真っ赤にして固まっている少女。
あまりにも突然で、突拍子もなくて、非現実的な出来事に、その状況を理解するのにしばし時間が掛かった。しかし程なくして、理解する。
唇から熱が離れたと同時に、頬に熱が零れる。
「――わ、私の……ファースト……キス……ッ」
ボロボロと瞳から涙を零し、目の前で一人の少女が泣いていた。
クリュウはただ、唇にまだハッキリと残っている記憶と目の前の彼女の姿に呆然とし、黙りこくる。
――夜の月が、静かにそんな二人を照らし出す。