春の訪れを感じさせる心地良い日差し。最近ようやく地面を覆っていた雪が溶け、辺りはゆっくりとではあるが春に向けて着実に近づいている証を見せていた。雪の下から顔を出した地面からは春にはきれいな野原になるのを予感させる芽が至る所から顔を出している。
分類上は北国に位置づけられる場所にあるイージス村もようやく春が目の前まで迫っている状態であった。
朝日に照らされるイージス村の朝はもうすでに始まっている。各家からは朝食の支度で窯に火を入れている証拠に煙が上がっている。春は近いとはいえ、それでもなお村の朝は寒い。しかし子供達はすでに元気良く外を走り回っている。皆、男女関係なく今日も楽しくハンターごっこに勤しんでいる。ハンターごっことは文字通りハンターを真似て遊ぶ事だ。兜のつもりか、少年達は頭に鉄鍋や帽子を被り、手には紙を巻いて作った剣と鍋の蓋を持って片手剣のつもり。女子は特に武装らしい武装はせず、手には銃の形をした木の枝を握って「バンバン」と銃声を口で言っている。
ハンターごっこと言いながら全員ハンター役で、モンスターはいないというツッコミ所満載な遊びではあるが、そこは指摘しないのが大人の約束だろう。ちなみに、言わなくてもわかるだとうが男子はこの村の片手剣使いのクリュウを、女子はライトボウガン使いのフィーリアをそれぞれ真似ている。純粋に武器が作りやすいというのもあるが、子供達の間ではこの二人が人気の対象であった。
クリュウはこの村の出身だし、在住する全ハンターで最も長い間この村にいるので純粋に子供達との接点が多いのだ。元々彼自身が子供っぽい性格をしているのでよく子供と遊んでいた事もあって彼は男女問わず村では大人気のハンターなのだ。続いて長いフィーリアはあの謙虚で優しい性格から村の子供達にとても好かれている。好かれ過ぎて男子からスカートをめくられたりといたずらの対象にもなっているが。
残るサクラとシルフィードはそれぞれ子供との接点はとても少ない為、嫌われているという訳ではなく尊敬とか信頼の対象から外れているのだ。サクラはあの性格だから子供相手でも無視なんて日常茶飯事だし、シルフィードはいつも一人で何か作業をしていたりするので子供と遊ぶ機会がない。その為、社交的なクリュウとフィーリアの人気だけが異常なほど上がっているのだ。
村の子供達に愛されるようになった少年ハンター。そんな彼の幼なじみは……
朝の柔らかな日差しが窓から入り、部屋を優しく照らし上げる。そんな部屋に、エプロンと三角巾という防具に箒という武器を携えた掃除人(ハンター)が孤軍奮闘していた。
「ふぅ、だいたいこんなもんかしら」
外は寒いとはいえ、部屋の中は暖炉のおかげでちょうどいいくらい。そんな中を掃除の為に動き回っていたから、彼女の額には薄らと汗が滲んでいる。彼女はそれを手の甲で拭い取ると、自分の努力が見事に反映されている部屋を見回す。まさに埃一つないという見事な清掃状態。少女は満足げにうなずくと、三角巾を取る。その瞬間、三角巾で隠されていた茶色の長く美しい髪が解放され、優雅に揺れる。
「あ、お姉ちゃんッ! 廊下の雑巾がけ終わったよぉッ!」
そこへ廊下から小走りで嬉しそうに叫びながら現れたのは桃色の髪をかわいらしいツインテールに結った天真爛漫な笑顔が似合う金色の瞳をした少女。その姿を見て箒を持った少女は小さく微笑む。
「お疲れリリア。お腹空いたんじゃない? そろそろ朝ご飯にしましょ」
「やったぁッ!」
少女──リリアは諸手を上げて大喜びする。そんな彼女の喜ぶ姿を見て、茶髪の少女も楽しげに微笑む。
「それじゃ、一階に降りるわよ」
そう言って少女──エレナはもう一度だけきれいになった部屋全体を見回し、クリュウの部屋を後にした。
一階に降りたエレナは早速朝食の支度を始める。すでにメニューを決めて素材を持ち込んでいるのですぐに料理を開始した。
今日の朝食は比較的簡単にできるホットサンドだ。専用の特殊なフライパンもわざわざ家から持って来ていて準備にぬかりはない。
具となる素材をそれぞれ適当に切り、後はパンで挟んで焼くだけだ。忙しい朝を乗り切る、簡単でおいしい朝食の定番だ。
ホットサンドを焼いている間に今度は飲み物の準備をする。リリアが仕入れた新鮮な果物を搾って即席のフルーツジュースを手早く完成させる。そして、焼き終えたホットサンドを半分に切って皿に盛って完成だ。
「うん。我ながら完璧な出来映えね」
エレナは自分の力作を見て満足そうに微笑む。ホットサンドの断面からは熱を受けてちょうどいい感じになっている具と、とろーりと溶けるチーズが顔を出している。パンの焼き加減も絶妙だ。
その香ばしい香りが台所からリビングの方へだだ漏れなのだろう。リビングからリリアの「まだ~?」という催促の声が聞こえる。
エレナは「はいはい」と苦笑を浮かべながらできたばかりのホットサンドとフルーツジュースを持ってリビングへと向かう。
「ほら、できたわよホットサンド」
「わーいッ!」
再び諸手を上げて大喜びするリリアの前に香ばしい香りを辺りにホットサンドの盛られた皿を置き、その横にフルーツジュース、布巾を置いておく。
「熱いから気をつけなさいよ」
「いっただきまぁす~ッ!」
行儀良く手を合わせてからリリアはホットサンドを食べ始める。だが思いの外熱かったらしくすぐに口から離す。その姿にエレナは小さく苦笑を浮かべる。
「だから熱いって言ったじゃない」
リリアは今度はちゃんとフゥフゥと適度に冷ましてから食べる。今度はちょうど良かったのか、おいしそうに頬張る。
「ふぉいふぃッ!」
「口に物を入れたまましゃべるんじゃありません」
そう言ってエレナはリリアの額を軽く小突くと、再び台所へと戻る。先程から焼いていた自分の分のホットサンドがちょうど焼き上がる頃合いだった。
皿に盛りつけ、再びリビングに戻るとすでにリリアは半分に切ったうちの片方を食べ終え、もう一方の方を食べ始めていた。
「食べるの早いわねあんた」
「だってすんごくおいしいんだもんッ」
「あっそ」
リリアの大絶賛に対しエレナの反応は素っ気ない。しかしそれはあくまで表向きであって、その実は彼女に背を向けてガッツポーズしてみたり。
自分の席に座ると、早速ホットサンドを食べ始める。慎重に冷ましてから頬張ると、口の中いっぱいにホットサンドの味が広がる。思っていた通りの見事な出来映えに満足だ。
しばし二人は無言でそれぞれホットサンドを食べていたが、リリアが手に持っていた半分のホットサンドが半分程になった頃で彼女がふと思い出したように口を開いた。
「お兄ちゃん達、全然帰って来ないね……」
「……そうね」
寂しそうにつぶやくリリアの言葉に、エレナもまたどこか遠くを見詰めながら同じく小さな声で返す。
クリュウ達が村を出てから一ヶ月近く経つ。村に入る細々とした依頼はツバメとそのオトモアイルーのオリガミがいるので村全体としては特に不自由はないが、ずっと帰って来ない四人を心配している村人は少なくない──リリアとエレナもその一人であった。
「ど、どうせまたいつものようにかわいい女の子に振り回されているんじゃないの?」
寂しげにうつむくリリアを励まそうとエレナは無理に明るく振る舞う。だがしかし、元々クリュウ達は二週間も掛からないで帰って来る予定だったのに、連絡もなしに一ヶ月も帰って来ていないのだ。クリュウはともかく他の女子陣の実力はいずれも信頼できるものではあるが、だからと言って心配が消える訳ではない。
そんな事を思うものだから、自然とエレナの表情も曇ってしまう。すると、それに気づいたリリアがはにかんだ。
「あははは、かもね。お兄ちゃんって女難の相が出てそうだし。それもメガトン級の」
リリアの笑顔の冗談に対し、エレナはハッと顔を上げる。そして彼女の笑顔を見て、自身もそっと微笑む。
──リリアに心配されてちゃダメなのよ。あのバカ達がいない間は、この私がしっかりしなきゃいけないんだからッ──
気合いを入れ直すと、エレナは「ありがと、リリア」と微笑みながら彼女にお礼の言葉を言う。リリアは嬉しそうにはにかみながら「どういたしまして」と答える。そんな彼女の笑顔に小さく微笑み──しかし、それを再び曇らせる。
「……あいつの場合、冗談じゃ済まないのよねそれ」
「た、確かに……」
幼なじみの、大好きな兄の空前絶後にして史上最強の天性の天然ジゴロっぷりには、ほとほと悩まされ、振り回され、疲れさせられている二人の少女のため息が重なった。
クリュウの家の掃除を終えた二人はそれぞれ自分の店に戻って今日もまた営業を開始する。昼頃まではちょこちょこと人が入っていたくらいだったが、ランチタイムになると一気に忙しくなる。この時間はその応援にツバメとオリガミ、リリアも駆けつけてくれるが、それでも忙しい事に変わりはない。特に重要なキッチン係はエレナ一人なのでキッチンはさながら一人戦争状態だ。
──あまりの忙しさにツバメが制服が違うと猛烈に抗議していたが無視した。
ランチタイムを終え、ようやくひと段落した頃にエレナはようやく昼食を食べる。もちろん手伝ってくれた三人(正確には二人と一匹だが)にもそれぞれ賄い食だがご馳走する。給料を払うと言った事もあったが、三人とも手伝いだからとそれを受け取らず、せめて昼飯だけこうして提供しているのだ。
「それにしても、クリュウ達は遅いのぉ」
「ニャにもニャいといいんニャけどニャ~」
ツバメとオリガミも音信不通となっている四人を心配していた。エレナは「大丈夫よ、あのバカ達なら」と心配ないと言うが、その胸の中はやっぱり心配は消えなかった。
三人が帰った後、エレナは再び一人になった。
誰もいない店内。適当な席に座ると、そのままぼーっとしている。最近はこんな事ばかりだ。
四人が──クリュウがいる時はこうして自分が暇をしていると彼が訪ねて来て他愛のない雑談で笑ったりしていたが、今その彼は村にはいない。その事実に、胸がキュッと引き締められる。
「バカクリュウ……どこで一体何してんのよぉ……」
拗ねたように唇を尖らせ、エレナはテーブルに突っ伏す。頬をぴたッとテーブルに付け、視線はいつも彼が上って来る坂の下に注がれる──彼が、いつものようにそこを上がって来てくれるのではないか。そんな淡い期待を抱きながら。
「お~いエレナ。客が来てるんやけどぉ~」
その声にハッとなって顔を上げると、店の入口に苦笑を浮かべながらアシュアが立っていた。いつもと同じ煤汚れた作業着姿だ。腰には鍛冶職人の魂の小さなハンマーが常に下げられている。
「あ、ごめん。気づかなかった」
「何や。あんたらしくないなぁ。そこ座ってえぇか?」
「あ、えぇ」
アシュアはそう言ってエレナの座っているテーブルの対面の席に腰掛けた。そして横に置かれているメニューを見ずに注文する。
「ホットサンド作ってくれへんか?」
「それ朝食メニューよ?」
「そうなんか。いや、リリアがすんごくうまかったってウチに自慢しよってな。朝から何も食べんかったからちょうどいいと思ったんやけど。しゃあないな。そんじゃ何か別の奴でも……」
「いいわよ別に。どうせ今暇だし」
「ほんまか? 悪いなぁ」
エレナは「ちょっと待ってて」とアシュアに言い残すとキッチンに入る。壁に吊り下げている朝クリュウの家に持ち込んだホットサンド用の二つのフライパンをくっ付けたようなフライパンを手に取ると、窯の上に置く。窯の中には薪と古紙を入れて火を点す。吹き筒で空気を入れて火力を上げ、後は常に薪をくべ続けながらこれを維持するだけ。何とも慣れた手つきだ。
朝に作ったのと同じ食材を同じ要領でパンに挟み、後はフライパンで挟みながら焼くだけだ。その間、エレナはジッとそれを見詰め続ける。
「そういえば、あいつもおいしいって言ってくれたのよね……」
そうつぶやき、エレナは懐かしげに笑う。
クリュウがこの村に戻って来てからは酒場の新メニューは彼に試食させてから最終判断して加えている。このホットサンドも、最初は彼に食べてもらって「おいしい」と言ってもらえたから、こうしてメニューの一つになった。
あの時の彼の顔は今でも忘れない。基本的に子供っぽい彼だからこそ、素の反応をしてくれる。おいしい時は無邪気に笑いながら、本当においしそうに食べてくれる──元々、自分が料理人を目指すキッカケになったのは両親が酒場を経営していた事と、彼に自分の料理を認めさせる事。二つの理由からだった。
クリュウは子供の頃から料理下手な彼の母親に代わって料理を引き受けていた経緯から料理がうまかった。自分はいつもそんな彼の料理に憧れ、嫉妬していた。女の子であるはずの自分が料理ができず、男のクリュウが料理ができる。その事実に何度情けないと思った事か。
──まぁ、当時は動きやすいからと髪型をショートカットにして、家で本を読むクリュウの首根っこを掴んで森に探検に向かっていたエレナに女の子らしさを求める方が酷ではあったが。
負けず嫌いのエレナはそれから料理を猛勉強してクリュウに追いつき、そしていつしか追い抜いていた。本当ならそこで終わっても良かった。でも、彼は自分に料理人になる事を勧めた。ちょうどその頃、母親が病気で倒れて酒場の経営が難しくなった事もあり、エレナはこの酒場を引き継ぐ事にした。
そして、今に繋がる。
ハッと気づいた時、ホットサンドがちょうどいい焼き加減を迎えていた。エレナはすぐに皿に盛りつける。
「……ったく、何であいつとの思い出ばっかり。バッカみたい……」
そうつぶやき、エレナは皿と持ってホールへと戻る。アシュアはそれを見て「待ってました料理長ッ」と調子良く行ってエレナを迎える。
「料理長って、キッチン担当は私一人だけなんだけど」
苦笑しながらエレナはアシュアの前にホットサンドを置く。それを見たアシュアは感嘆の声を上げた。
「ほぉ、これはほんまにうまそうやなぁ」
「実際においしいわよ。失礼ね」
「これは失敬」
エレナは苦笑しながらアシュアの前にホットサンドを置いた。アシュアはそれを興味深げに見詰める。
「な~るほど、これがクリュウ君とエレナちゃんの愛の結晶な訳やなぁ」
ふむふむとうなずきながらアシュアはホットサンドを観察する。一方、アシュアのさりげない発言に対してエレナは顔を真っ赤にする。
「な、何バカな事言ってんのよッ!」
激しく動揺しながら激高するエレナの怒鳴り声に対し、アシュアはニヤニヤとイタズラっぽく笑う。
「ここのメニューはクリュウ君に味見してもらってから加えてるんやろ? 料理は愛ってクリュウ君が言っとったから二人の愛が生み出した料理って言っただけやで? 別に深い意味はないで」
アシュアの言葉にエレナは自分がものすごい勘違いをしていた事に気づきさらに顔を赤面させる。だが、彼女の笑顔は明らかにわざと紛らわしく言ったとエレナに確信を持たせる。
「う、うるさいッ! ふざけた事言ってると没収よッ! 没収ッ!」
そう言ってエレナはホットサンドを取り上げる。それに対しアシュアは「そんな殺生なぁッ!」と腕を伸ばして取り返そうとするが、エレナはそれを許さない。
しばしそんな攻防戦を繰り返した後、涙目になって「いじめッ子やッ! いじめッ子がここにおるぅッ!」とアシュアが叫び出したのでエレナは仕方なくホットサンドを返した。
「くすん、冷めてもうたらどうするんや」
「そんなに時間は経ってないわよ。むしろちょうど良く冷めたんじゃないの?」
アシュアはテーブルの横に置いてあったおしぼりを手に取ってきれいに手を拭いてから「ほな、いただくでぇ~」とホットサンドを手に取って頬張った。
口いっぱいに頬張り、頬を膨らませながらもきゅもきゅと満面の笑顔で食べるその姿に、エレナは不覚にも一瞬かわいいと思ってしまい、先程までとは違う意味で頬を赤らめた。
ごくんと呑み込むと、アシュアはほぉとため息を零す。
「ふぅ、幸せ味やぁ~」
「ほんと、幸せそうに食べるわねぇ~」
満面の笑みを浮かべるアシュアの姿に皮肉じみた事を言うエレナ。しかしそれは決して皮肉ではなく本心からの言葉。作った側から見ればこんなにおいしそうに食べてもらえれば作った甲斐があるというものだ。
「ほんまうまいでこれ」
「当然でしょ。この私が作ったんだから。おいしいに決まってるじゃない」
「自信過剰なやっちゃなぁ~。ま、ほんまにうまいからええけど」
アシュアはそう言って次の一口を食べ、「ほんま幸せ味やぁ~」と笑顔を満開に咲かせる。そしてあっという間に完食した。
「ごちそうさん。うまかったでぇ」
「お粗末様」
エレナは皿をキッチンに置いて慣れた手つきで紅茶を用意し、再びアシュアの所へ戻る。
「紅茶飲むでしょ?」
「別料金やろ?」
「いいわよ。サービスよサービス」
「ほんまか? ならもわうわ」
エレナはティーポットを傾けてカップに紅茶を注ぐと彼女の前に置き、続いて自分の分も注いでから元いた席に座る。
「店員がくつろいでてええんか?」
「いいのよ。どうせこの時間はお客は来ないんだし」
「……いや、ごっつ目の前におるんやけど」
「あんたは客というより友達でしょ?」
「お、嬉しい事言うてくれんなぁ。ほんじゃタダって事で──」
「1zたりともまけないわよ」
「──ほんま容赦ないなぁエレナちゃんは」
アシュアは苦笑しながらいい香りを漂わせる紅茶を一口飲む。
「そういえば、こんな時間に昼食って。あんたまたこんな時間まで寝てたの?」
「失礼な。今日は朝からずっと工房で仕事してたんや。人を駄目人間みたいに言わんといてな」
「……寝癖ついてるんだけど」
「ウチは寝癖は気にせん主義なんや」
「気にしなさいよ。曲がりなりにも女子でしょ?」
「……エレナちゃん、さりげなくひどい事言うなぁ」
あははは、と全く容赦のないエレナの言葉に少しばかり傷つきながら苦笑するアシュア。
「ウチは仕事一筋やからええんや。仕事が恋人みたいなもんやし」
「それ、嫁ぎ遅れた女子の言い訳なんだけど」
「ほんまあんた容赦ないなッ!」
「冗談よ冗談。気にしないで」
「……笑えない冗談はやめといてぇな」
がっくりと肩を落とすアシュアに苦笑しながら、エレナも紅茶を一口飲む。こうして紅茶を一口飲むだけで心からリラックスできるのだ。
「いい天気ね」
空を見上げればそこには快晴の青空が広がっている。ゆっくりと流れる雲を見ていると、ランチタイムの喧噪がうそのようなのんびりとした時間だ。
「そういや、クリュウ君達から何か連絡はあったんか?」
紅茶を飲みながら思い出したように言うアシュアの言葉にエレナは小さく首を横に振る。
「ないわよ。ったく、一体どこで何してんのよあいつらは」
「まぁ、ハンターって仕事柄突然緊急の依頼を受けたとかそんな感じやろか」
「それにしても手紙の一つくらい寄越したっていいじゃない」
拗ねたように唇を尖らせながら言うエレナの言葉にアシュアは「せやなぁ」と苦笑を浮かべながらうなずく。
「でもサクラちゃん達も一緒なんやから心配はないやろ」
「サクラがいるから余計に心配なんだけど」
「……あははは、せやなぁ」
サクラ相手では決して笑い事ではない。何しろ彼女の度を越えた大胆さというか無茶苦茶さ加減は筋がね入り。クリュウの寝込みを襲うくらい彼女ならやりかねない──正確にはすでに何度かしでかしてはいるが。
「確かにサクラは不安やけど、フィーリアちゃんとシルフィードちゃんもおるんやし。そないに心配せんでもええんやないか?」
「致命的なドジをしでかすシルフィードと、間違った方向へ全力疾走するフィーリア、そして天上天下唯我独尊なサクラ。むしろ不安要素しかないんだけど」
「……ウチが悪かった」
今更ながら自分の村に所属する主力ハンターチームが恐るべき均衡状態で成り立っている事を再認識し、アシュアは苦笑交じりにため息を零す。全員、ハンターとしては優秀なのだがどうにも心配は絶えない。
「ったく、帰って来たらただじゃおかないんだから」
「……あははは、クリュウ君も大変やなぁ」
「自業自得よ」
アシュアは苦笑を浮かべながらもちゃんとエレナの気持ちは察していた。自分と話しながらもずっと彼がいつも通る坂を見詰め続ける彼女の拗ねた横顔を見て、「ほんま、素直やないなぁ……」とつぶやく。
「帰って、来たら……」
エレナの見詰める先に、彼の姿はどこにもなかった。
日が落ち、月明かりに幻想的に照らされるイージス村。小さな田舎村に過ぎないこの村では、都会ではまだ人々が歩き回る時間帯でも皆家に入ってしまう。時間的にはまだ違うが、事実上の深夜に等しい状態になる。
人間は一日に三度の食事を取る。そのたびに戦争状態になる村唯一の酒場であるエレナの酒場も店じまいの支度を始めた。キッチンにはまだ洗い終えていない皿が積み重なっており、店を閉めたとしても彼女はまだまだする事は多い。
一応入口はあるのだが、ラッシュ時など客が自由に行き来できるように三方に壁を造らず解放しているエレナの酒場。いつものようにその三方に暖簾を下げ、椅子を全てテーブルの上に置き、軽く掃除を済ませる。
村の人々は信用してはいるが、一応用心の為に盗まれては困るものや現金などは金庫に入れ、準備完了だ。
「あ、営業中の看板片付けないと……」
すでにこの時間では人が来ないからと、よく忘れてしまう看板の片付け。急ぐ事もないのでエレナはゆっくりとした足取りで外に出ると、営業中と書かれた看板を見る。これを中に入れて入口に鍵を閉めれば完全な店じまいだ。残った時間は、自分の自由時間となる。あとは今日も営業日誌も兼ねている日記をつけて終わりだ。そんな事を考えながら看板を掴む。
「あ、もう店じまいだった?」
背後から掛けられた声に驚いて振り返ると、そこにはレウスシリーズを纏ったままレウスヘルムだけ脇に抱えた幼なじみ――クリュウが困ったように頬を掻きながら月明かりを背にして立っていた。
「クリュウ……」
「ひ、久しぶりだねエレナ」
怒られると思っているのだろう、クリュウはちょっと怯えながらもなるべく平静を保って笑顔を浮かべる。その微妙な表情からは彼自身のずっと村を空けていたという罪悪感が感じ取れる。
エレナは突然のクリュウの再会に驚きのあまり硬直していたが、状況を理解するとカァッと怒りが湧き上がる。問い詰めたい事はたくさんあるし、言いたい事だってたくさんある。どれだけ心配していたか、全部ブチ撒けてやりたい程、言いたい言葉はたくさんあるのだ。だが、エレナはあえてそれら全てをグッと堪えた。いつもなら感情に任せて理屈なんて関係なしに攻め立てたかもしれない。でも、冷静な部分が教えてくれる――いつもいつもそれでケンカになるのだ。
せっかくこうして彼の方から会いに来てくれたんだ。自分に怒られるのを承知で。
いつまでも、自分だって子供じゃない。そんな彼の気持ちを、しっかり理解できるだけ、エレナだって成長していた。
大人の余裕な笑みを浮かべ、怯えるクリュウに若干イラつきながらも優しく言葉を投げ掛ける。
「……とりあえず、「キャーッ! 痴漢ッ!」って叫べばいいかしら?」
「えええぇぇぇッ!?」
――表情と言動がまるで合っていない。どうやら今にも爆発しそうな怒りを無理に堪えた為、間違った方向にそれぞれ暴走してしまったらしい。まぁ、ものすごく直情的なエレナに我慢なんて高等技術をしろと言う方が無理な話なのだろう。
「冗談よ。っていうか、ずいぶんとご無沙汰だったじゃない」
とりあえず冷静さを取り戻して《冗談》という事で誤魔化すと、エレナは皮肉めいた事を言う。先に言っておくが本人は皮肉という意識はない。そもそも性格的に彼女に皮肉なんて回りくどい事は意識してなどできないので、これは無意識でのものだ。
一方、いきなり飛び蹴りされる事も覚悟していたクリュウは驚きを隠せない。というか驚きを通り越して恐怖しか抱いていない。人間、あまりにも強すぎる怒りってのはブチギレるを通り越して冷静になったり笑ったりするなど感情の歯車が狂ってしまうもの。クリュウはエレナの怒りが尋常じゃないものだと直感的に感じている為、彼の表情も戦慄に染まっている。
「ご、ごめん……」
搾り出すように謝罪の言葉を掛けるが、エレナは「別に謝ってもらっても困るし」と彼の必死の勇気をピシャリと拒絶する。拒絶されたクリュウはあまりの恐怖に身を縮めてしまう。それでも、今にも逃げ出したい衝動を我慢してそこに立ち続けるのは彼なりの誠意であった。彼女が怒っているのは確実に自分のせいだとわかっているから、逃げも隠れもしたくないのだ。
「あ、あの、エレナ……」
――そして、そんな彼の想いをエレナはしっかりと感じ取っていた。というか、それ以前にクリュウがそういう少年だという事は誰よりも知っている。だって、ずっと一緒にいたんだから……
エレナはふぅと深いため息を零す。クリュウはビクッと体を震わせたが、それは彼女なりの怒りの吐き出し方法だった。
本当はずっとずっと心配してたんだからドロップキック五回くらいぶち込みたいところだが――こうして彼の方からわざわざ会いに来てくれた。その事実だけで、エレナは十分だった。
「手紙くらい書いてくれても良かったんじゃないの?」
「そ、それが。手紙を出す暇がなくて……」
「ふぅん、私に手紙を書くのは全く大切な要件じゃないって事ね」
「ち、違うよッ! そういう事じゃなくてッ!」
「冗談よ。からかってみただけ。何よそんなに慌ててるのよ」
「うぅ……」
恥ずかしそうに顔を真っ赤にして困るクリュウの姿に、ちょっとだけかわいいと思いつつエレナは彼に背を向けて看板を持ったまま酒場の中へ入ると、入口のすぐ脇にその看板を置き、苦笑しながらそっと外へ顔を出す。
「何してんのよ。さっさと入りなさい」
「え? でももう店じまいじゃ……」
「いいわよ別に。そんな厳格に決めてる訳じゃないし。どうせあんた夕食まだなんでしょ。賄い程度だったら出してあげるわよ」
「え? いいの? 何だか、今日のエレナ優しいね」
「う、うるさいわね。さっさと来ないと閉め出すわよ」
「ご、ごめんッ! ちょっと待ってッ!」
クリュウは慌てて走り出した。
その後、クリュウだけではなくフィーリア、サクラ、シルフィード。それにツバメとオリガミ、リリアとアシュアなどの面々が次から次へ集まり、結局エレナの酒場から明かりが消えたのは日付が変わった後の事であった。
そして、その日の彼女の日記にはいつもと変わらない日誌の後、こう付け加えられていた。
――おかえりなさい、クリュウ――
その夜、皆が寝静まった頃クリュウは一人一階にある空室――亡くなった彼の母、アメリアの部屋にいた。
彼女が亡くなってからクリュウはこの部屋を頻繁に掃除している。ドンドルマへ養成学校に行っている時も毎年必ず一回は掃除の為に帰郷していた程だ。
この部屋はある意味では開かずの間となっている。クリュウが誰であろうと入室を許可していないからだ。フィーリア達はもちろん、幼なじみのエレナでさえ入る事は許されない。ドアには鍵を掛け、その鍵は自分の部屋にしっかり保管している。ドンドルマに行っていた間はわざわざ向こうに持って行ったほど厳重に保管している。
――誰であろうと、母との思い出を汚してほしくないというクリュウの親を想う気持ちの表れであった。
そんなアメリアの部屋の奥に置いてある胸元くらいの高さの棚。ここには生前、母が身につけていたアクセサリーや衣類などが入っている。その一番上の唯一鍵が掛けられている引き出し。クリュウは手に持っていた何本かの鍵が集まった鍵束からその鍵を選んで鍵穴に入れる。鍵を回すと、中からカチッという音がして鍵が開いた。
クリュウはそのままゆっくりと引き出しを開く。
中には箱が入っていた。平べったい、木箱だ。それを取り出し、ゆっくりと開く。中に入っているのは一つのペンダントであった。金色のチェーンが通されたある紋章が施されたペンダント。
そのペンダントに描かれているのは――王冠を被った金火竜に騎士が乗って天を翔ける姿を模したもの。
ヴィルマで知った、アルトリア王政軍国の失われた金火竜の禁忌の紋章であった。
「どうして、母さんがこの紋章を……」
母の遺品の一つにして、おそらく母が最も大切にしていたペンダント。今でもこのペンダントを片手にどこか遠い目をして空を見詰めていた母の背中を思い出す。母にとって、かけがえの無い大切な品。
なぜそれが、大国アルトリア王政軍国の失われた紋章を象っているのか。
――クリュウがその意味を知るのは、それから数ヶ月後の事であった。