避難所に着いた一行はそこでサラの両親と出会った。別に話さなくてもいいと照れるクリュウの意見を棄却し、サラは両親にクリュウに助けてもらった事、さらにはサクラが自分の憧れのハンターだと嬉しそうに話してしまった。
そこからが大変だった。その話にサラの両親は頭を何度も下げて感謝し、町内会の人々も一緒になってクリュウ達を大歓迎。食事は質素であったが、歌や踊りを披露したりの簡単な歓迎会を開いてもらい、結局クリュウ達が解放されたのは日が落ちてからずいぶんと時間が経った頃であった。
先程までの喧噪とは打って変わって静かな帰路の途中。クリュウは隣を歩くサクラを見る。
「ほんとにサラちゃんの事覚えてないの?」
それはさっき、サラが自分の事を覚えているかサクラに問うた時の事。サクラは表情を一切変えずに淡々と「……覚えてない」と一刀両断。サラはその言葉にひどく傷ついたような表情を浮かべた後、「そっか。お姉さん忙しいから、いちいち覚えてなんかないよね」と悲しげに笑ってそう言った。その時の彼女の悲しげな笑みが、瞳に焼き付いて離れない。
「……護衛対象、それも便乗していただけの子供の顔なんていちいち覚えてなんかいられない」
クリュウの問いに対し、サクラはやっぱり淡々と答える。その淡泊さにクリュウは少しムッとした。
「そんな言い方ないだろ。それに覚えてないって可哀想じゃないか」
クリュウが少し怒ったように言うと、サクラは鋭い隻眼でクリュウを射貫く。その瞳が怒っているように見えるのは気のせいだろうか。
「……私が今まで一体何百人を護衛して来たと思ってるの? それだけの数の人間を覚える記憶力は持ち合わせていないし、あったとしてもそれは別の事に使うべき。無意味だわ」
サクラの返答に対し、クリュウは言葉に詰まった。言い方はキツイが、相変わらず彼女が話すのは全て正論。返す言葉が見あたらないのだ。あるとすれば、
「だからって、サラちゃんが可哀想だよ……」
絞り出すように言ったクリュウの言葉に、サクラは突然足を止めた。振り返ると、そこにはうつむきながらその場に立ち尽くす月光に照らされた彼女の姿があった。
「……いい加減にして」
弱々しく発せられたサクラの声は、震えていた。
「……クリュウは本当に無神経過ぎる」
再び上げられた彼女の顔は悲痛に歪み、瞳は濡れて月明かりに反射してキラキラと輝いている。そんな彼女の姿にクリュウは言葉を失った。
「……付き合ってられないわ」
そう吐き捨てるように言い残し、サクラは頭を振ってその場で踵を返した。クリュウの声を無視し、そのまま暗闇の中へ消えてしまった。
彼女の消えた闇を見詰め、クリュウは戸惑いの声を上げる。
「な、何なんだよサクラの奴……」
「……今のは、クリュウ様がいけないと思います」
「同感だな」
背後でずっと黙っていたフィーリアとシルフィードは静かにそう言った。当然、クリュウの視線は二人に向く。
「ぼ、僕が悪いの? だってあれはサクラが……」
「サクラ様の状況を思い返してください。サクラ様は師を失ってあれでも精神的にかなり不安定なんですよ? そんな状態のサクラ様を追い詰めるような言動をすれば、ああいう反応をするのは当然です」
「追い詰めるって、僕はそんな……ッ」
「君は無意識かもしれんが、無意識だからと言って何もかもが許される訳ではない。師を失って悲しむ彼女を支えられるのは、残念ながら君以外にはいない。なのに君はサクラに対してひどく冷たいではないか」
「別に冷たくなんかないよッ」
「そう思っている事が無自覚で、知らず知らずに人を気ずつける最も厄介な事です。クリュウ様は知らないでしょうが、クリュウ様が天幕(テント)から出て行った後、サクラ様は真っ先にその後を追ったんですよ。それからずっと、クリュウ様に再会できるまでずっとサクラ様はクリュウ様を探していたんです。心の拠り所を求めて、必死になって」
「そんな……」
「やっとクリュウと再会できたのに、君はサラという子供の事ばかりか、サクラに無理難題を押しつける始末。それではサクラが耐えられる訳ないだろう? あの子は攻めは強いが攻められる事には弱いタイプだからな」
フィーリアとシルフィードの言葉にクリュウは自分の行動を思い返し、ようやく彼女達の言わんとする所を理解した。
サラと楽しげに話している間、隅っこの方からサクラが寂しげな瞳で自分を見詰めていた事も……
「サクラ……」
やっと自分の無自覚な行動に気づいたクリュウを見てフィーリアは疲れたようにため息を漏らす。
「わかったのでしたらすぐにでもサクラ様を追ってください。あの勢いだと通行人に襲いかかる可能性だってありますよ?」
「冗談では済まないぞ、彼女の場合。早く追いかけろ」
二人の言葉にクリュウは「わ、わかったッ。二人は先に帰っててッ」と言い残し、慌ててサクラの後を追って闇の向こうへと消えて行った。
月明かりの下、残された二人はすでに見えなくなった彼の背中が消えた方向を見詰め、踵を返す。
「まったく。クリュウ様は本当にまったくです」
いつになくプンスカと怒るフィーリアをシルフィードが「まあまあ」と落ち着かせる。
「彼の無自覚さは今に始まった事じゃないだろ?」
「それはそうですけど……」
「まぁ、少しは周りにもちゃんと目を向けてほしいのは事実だがな。サクラだけでなく、君にもな」
「……ほんと、いつになったら私の気持ちは届くのでしょうか」
「いっその事押し倒してしまってはどうだ?」
からかうように言うシルフィードの言葉にフィーリアは「そ、そのようなふしだらな事……ッ」と顔を真っ赤にさせて狼狽する。シルフィードはそんなフィーリアの反応を見て静かに笑った。
「冗談だ。まったく、君は純情だな」
「も、もうからかうなんてひどいですシルフィード様ッ」
「すまんすまん。だがそれくらいの事をしないと状況は打開しないというのも事実だろ?」
「うぅ……、何であんなにも鈍感な人を好きになってしまったんでしょうか……」
「あははは……、だが──後悔はしていないのだろう?」
シルフィードの試すような問い掛けに対し、フィーリアはムッとしたような表情を浮かべた後、満面の笑顔を浮かべて自信満々に答えた。
「はいですッ」
「……そうか。まぁ、サクラも私にとっては大切なチームメイトだ。どちらか片方を応援する訳にはいかんが、まぁ悔いのないようがんばれ」
「はいですッ」
シルフィードの激励に対しフィーリアは満面の笑顔でうなずくと「それでは先に天幕(テント)に戻っていましょう。お二人が戻って来たらすぐに夕食ができるよう用意しないといけませんし」と言って帰路への一歩を踏み出す。
「そうだな。私も何か一品作ってみるか」
腕が鳴ると言いたげに腕をグルグルと回すシルフィード。そんな彼女の爆弾発言に対しフィーリアは苦笑する。
「シルフィード様はリーダーなんですからどっしりと構えていてください。食事の用意は私一人で十分ですから」
「──気のせいか、さりげなく台所に入る事を拒否されたような」
「き、気のせいですよ。ほ、ほら早く行きましょう」
首を傾げるシルフィードの腕を引っ張り、フィーリアとシルフィードは一足早く天幕(テント)へと帰って行った。
月明かりに照らされる道を、サクラは一人駆けていた。瞳は不機嫌そうに細まり、地面を睨み付ける。
「……クリュウのバカッ……クリュウのバカッ……クリュウのバカッ……クリュウのバカッ……クリュウのバカッ」
先程からその言葉を繰り返しながら内に燃える怒りを噴き出しながら進み続ける。
だがそのうち、だんだんと空しさが胸を満たし始めた。
心の拠り所であるクリュウに構ってもらえない。それが根底にある怒りであり、同時に寂しさでもある。
「……クリュウの、バカ」
最後にはそんな弱々しい声しか出なかった。彼の名前を口に出すたび、怒りよりも寂しさや空しさの方が大きくなってしまう。
いつの間にか駆け足だった速度もとぼとぼとした歩みへと変化していた。
ずっと地面を見詰めている視界が、じわりと歪む。それが涙だという事に気づくにはそれほど時間は掛からなかった。
足を止め、彼が追い掛けて来ているのではないかという一抹の希望を抱きながら振り返る──だが、そこに彼の姿はなかった。
自分から彼を拒絶するように逃げて来たのに身勝手な事を思い、勝手に落胆する自分に嫌気が差す。
正確に言えば一応クリュウは追い掛けて来ているにはいるのだが、何せチーム随一の俊足を誇るサクラの本気の全速力で開けられた距離はそう簡単に埋まるものではなく、クリュウはまだずっと後ろの方を走っている段階にいるのだ。
そんな事など露知らず、サクラはさらに落ち込む。足下に転がっている石ころを蹴り、ふて腐れたように唇を尖らせ、しかしすぐに寂しげに表情を曇らせる。
「……クリュウ」
彼の名をつぶやき、地面を見詰めながらとぼとぼと一人夜道を歩く。その時、前方に人の気配を感じた。チーム随一の索敵能力を持つサクラだからこそわかるわずかな気配。まるで、自ら気配を可能な限り遮断しているかのよう。自然と、背中の太刀に手が伸びる。
「──人に武器を向けるなと前にも言ったろ?」
闇の向こうから投げ掛けられたその言葉に、サクラは聞き覚えがあった──否、忘れる事などできない敗北。自然と太刀の柄を握る手に力が込もる。
今まで雲に隠れていた月が顔を出し、辺りがその光に照らされて明るさを纏う。
現れたのはまるで読み物の中に登場する魔女のようなオーブ姿の男性だった。純白のその服は服と言うにはあまりにも特殊な材質。一見すると柔らかそうに見えるが、その実は並大抵な攻撃は吸収、もしくは弾いてしまう抜群の防御性能を持つのだろう。同じような素材にフルフルがいる。
詳しくはわからないが、あれは防具だ。ハンターであるサクラは一目でそれを見抜いた。
じっと見詰めるサクラの視線に男は苦笑しながら鍔の広い帽子の鍔を人差し指でグイッと上げる。露わになったのはやっぱり知った顔であった。
「……貴様」
「名乗っただろ? 他人知人問わず貴様扱いかお前は」
そう言って呆れ半分感心半分という感じで苦笑するのは先日ドンドルマで会ったハンターの青年──ジン・フォルクスであった。
予想通りの人物の登場にサクラは気を緩めるどころかより警戒心を露わにした。この男は侮れない。先日の一件でサクラは彼に対してそのような人物評価を下していた。
「おいおい、全くの他人って訳じゃないんだから、少しは警戒心を解けよな」
「……断る。貴様は要注意人物だからな」
「そんな評価を下されてるなんてな」
ジンは苦笑しながら肩を竦ませると、サクラの背後を伺う。
「お前一人か。他の面子はどうした?」
「……貴様には関係ない事だ。即刻私の前から消え失せろ」
「ここは公共の道だ。その指示には従えないな」
「……ならば、力づくで消すまでよ」
そう言ってサクラは背負った鬼神斬破刀の柄を握り、少しだけ引き抜いて刃を露わにする。鬼神斬破刀の独特の波紋が月明かりを浴びて怪しく輝く。
遭遇してまだ一分程しか経っていないのにすでに臨戦態勢のサクラにジンは面倒だと言いたげにため息を零す。
「何だ、ずいぶん機嫌が悪そうだな。クリュウ君とケンカでもしたのか?」
ものの見事に言い当てられたサクラは無言で肩を小刻みに震わせながら顔を真っ赤に染め、瞳をさらに鋭くさせる。それを見てジンは一言、
「あぁ、図星か」
「……殺すッ」
その宣言を実行するかの如く、サクラは鬼神斬破刀を素早く抜刀すると同時に地面を蹴って前方に向かって飛び込むようにして跳躍。チーム随一の俊足と身軽さを誇る彼女のずば抜けた身体能力が生み出す最強の突貫。本気の彼女の突貫は今までモンスター、人間問わず外れた事はない必殺。ジンとサクラの間合いは一瞬で消えた。
立ち尽くすジンに向かって、サクラは容赦なく横薙ぎ一閃で太刀を振るう。今まで外れた事のない一撃にサクラは勝利を確信する──だが、その一撃は虚空を斬り裂いただけだった。
勢い余って多々良を踏むサクラ。一瞬で横へ移動してサクラの一撃を回避したジンはそのままサクラの右手から鬼神斬破刀を叩き落とした。
「ハンターが人に武器を向けるのは御法度だと言っただろうが」
先程までのどこかに余裕を残した顔は消え、ジンは真剣な表情を浮かべて手を着いたサクラに言う。だがサクラはそんな彼の指図など聞かない。すぐさま鬼神斬破刀の鞘を背から抜くと着いた左手を軸にして回転。右手に構えた鞘で今度は風を切るような神速の突きを放つ。
常人なら回避できずに無様に散るその一撃も、ジンは片手で叩いてその軌道を変えて回避。後先考えずの突貫を失敗したサクラの懐はがら空きだ。そこへ拳を叩き込んだ。
「……かはッ!?」
自らの突貫の勢いと真逆の方向からの一撃を一点に受けたサクラは吹き飛ばされ、地面に倒れた。肺の中の空気を全て吐き、激しくせき込む。これでもジンはかなり手加減したのだが、思いの外サクラに勢いがあり過ぎた。
一度ならず二度までも自分の攻撃パターンを読まれた。サクラは悔しげにジンを睨み付けながら、自らの敗北を知る。
「人に武器を向けるのはハンターが最もしてはならない禁忌。一度ならず二度もそれを破ったんだ、文句はないだろ」
ジンは地面に転がったサクラの鬼神斬破刀の本体と鞘を回収し、鞘に納めると片手でそれを確保する。
武器を奪われ、心もズタボロになったサクラはその場に膝を着いた。
その直後、彼女の保護者とも言うべきクリュウが到着した。
「ほ、本当にすみませんでしたッ」
事の経緯を知ったクリュウはもう頭が地面に接触するゆな勢いで何度も何度もジンに頭を下げまくる。さすがのジンもクリュウの今にも泣き出しそうな勢いの土下座の応酬にたじたじだ。
「いや、もういいから頭を上げてくれ。これじゃまるで俺がいじめてるみたいだぞ」
苦笑しながらジンが言うと、ようやくクリュウは頭を上げた。その表情はここまで全力疾走して来た上に到着早々の謝罪の連発という肉体的・精神的疲労でずいぶんとくたびれていた。
「そういえば、君達は何でここにいるんだ?」
ようやく話がひと段落したという事でジンは思い出したように問う。隣で無愛想に立っているサクラにため息を漏らしていたクリュウは慌てて答える。
「あ、僕達はジンさんが出発した後ライザさんに頼まれてヴィルマへの支援物資輸送の護衛で来たんです」
「なるほど、相変わらずライザさんは抜け目のない手際だな」
「ですね」
お互いライザの事はそれなりの付き合いで知っている仲だけあり、どちらも彼女の常人を逸脱したスキルの高さに苦笑を漏らした。
ちょうどその頃、遠く離れたドンドルマのギルド嬢の宿舎で一日の疲れを癒すシャワーを浴びていたライザが一発くしゃみをした事はこの場にいる誰も知らない。
「それで、君達は一体何があったんだ? 通行人に突然襲いかかる所を見ると、余程の事だとは思うが」
ジンの問い掛けに対し、クリュウは「えっと、その……」と困ったような声を漏らす。どこから説明したら良いのやら悩んでいるのだ。それを見てジンは小さく口元に笑みを浮かべると、踵を返す。
「……邪魔になる前に消えさせてもらうぞ。後は二人でゆっくりやってくれ」
「あ、いえ別に邪魔なんて事は……ッ」
「冗談だ。それに元々俺も帰る途中だったんだ。早く帰らないとシィが何かしでかしてないか不安だしな。じゃあな」
そう言い残し、ジンは二人から離れていく。クリュウはその背中に向かって慌てて「お勤めご苦労様でしたッ」叫び頭を下げた。
「……まるで引退するみたいで縁起でもねぇや」
苦笑しながらジンは振り返らずに片手を振って闇の向こうへと消えた。
ジンの姿が消えると、クリュウは全身に(みなぎ)らせていた緊張を解いて一息つくと改めてサクラの方へと向き直る。ジンとのやり取りの間、サクラは一人ずっと誰とも目を合わす事なく無言を貫いていた。
「ごめん……」
どう切り出せばいいか逡巡していたクリュウは、結局そう口火を切った。どんなに言葉を並べても、何よりも伝えたい気持ちはこれであった。
ここで初めてサクラは振り返り、クリュウを見た。一見するといつも通りの無表情だが、クリュウにはわかる。その隻眼は鋭い。まだ怒っているのだろう。当然だ、自分はそれだけの事を彼女にしたのだから。
サクラは何も言わず、無言でクリュウを見詰めるだけ。クリュウはその視線から逃げる事なく対峙しながら、言葉を続ける。
「サクラの気持ちも考えずに勝手な事言っちゃって……本当にごめん」
そう言ってクリュウは頭を下げた。サクラは何も言わずにそんなクリュウを見詰める。
クリュウは何も言わないサクラの無言に恐怖を感じた。今回ばかりは、サクラは許してくれないかもしれない。そんな想いが胸を満たし、こうして彼女の前にいる事に躊躇(ためら)いが生まれる。
「……ごめん、今は僕なんて見たくもないよね。ごめんね……」
クリュウは顔を上げたが、サクラの目を見る事ができなかった。そのまま、彼女から逃げるように背を向けて歩き出す。こんな逃げ出すような行動は本心では嫌で仕方がなかったが、今はこうする以外に術が思い浮かばなかった。
早く彼女の前から消えよう。そう思いながら早足で歩き出すクリュウ。その手を彼女は掴んだ。
振り返ると、相変わらずの無表情で立つサクラが自分の手を掴んでいた。ただ、瞳だけは唯一先程までの鋭さは消え、どこか寂しげな、お腹を空かせた子犬のような瞳に変わっていた。
「……付き合って」
そう言ってサクラは有無を言わせないとばかりに背を向けると、クリュウの手を掴んだまま歩き出す。自然とクリュウは自分が来た道とは反対方向へと向かう事になった。
いつの間にか二人は街の中央からずいぶんと外れた場所に来ていた。サクラはその間一切言葉を発しず、クリュウも自分から切り出す勇気がなく互いに無言を貫いていた。
そのまま街を出て、林の中を突き進む。さすがにクリュウもこれ以上先に進むのは危険だとサクラに引き返そうと言ったが、彼女はこれを黙殺した。
まぁ、いざとなれば二人とも一応武装しているので何とかなるとクリュウもそれ以上強くは言う事はできなかった。
林に入って数分後、ようやく出口に達した。今まで周りを囲むように生えていた木々がそこで一斉に途切れ、視界が一気に開ける。そこに広がっていたのは……
「うわぁ……ッ」
そこにはまるで絵本の中の世界のような幻想的な光景が広がっていた。
天から降り注ぐ月と星々が美しく映った静かな湖。その周りには薄紫色の野花がまるで絨毯のように咲き誇っていた。光虫が集まり花の周りを飛び回る。星々の煌めきを受けて花々は輝く。そんな美しい幻想的な光景が、そこに広がっていた。
「きれいな所だね」
「……街で聞いたけど、予想以上ね」
ここはヴィルマの住民にとって自慢の場所であり、ヴィルマに観光などで来た人の多くはここを目指す。ちょうどこの時期は湖の辺に咲く月光花(シェレシーア)というこの地域特産の花が一斉開花する季節。ヴィルマではこの時期にこの花を敬い、街の永遠なる平和を祈る祭典として月光祭が行われる。
テオ・テスカトルが現れたのは、その祭の準備をしている最中の事だった。永遠の平和を願う祭典は、その平和を奪う存在によって砕かれた。当然、街がこんな状態では祭なんてできっこない。
ヴィルマの崩壊の影響により観光客も全て消えたので、今まさに見頃の月光花(シェレシーア)を見に来る者は自分達を除いて他にはいない。
「……貸し切りね」
そうつぶやくと、サクラはクリュウの手を引っ張って月光花(シェレシーア)の絨毯の中に入る。まるで淡い紫色の海の上を歩いているかのよう。二人の人間の登場に光虫達は慌てて飛び立ち、二人の周りには無数の光虫が飛び回り、光の粒子に包まれる。それもまた美しい光景だ。
「うわぁ……」
クリュウはその光景にすっかり目を奪われていた。今まで見た事もないような光景に、まるで子供のように無邪気に笑顔を浮かべる。その笑顔を見て、サクラが小さく微笑んだのは内緒だ。
サクラはそのままクリュウの手を引きながら歩き続け、湖の辺に腰掛けた。当然、クリュウもその隣に静かに腰掛けた。
風もなく、波もない湖はまるで空を映す鏡のよう。空の美しさも加わり、まるで上下で星空に挟まれているかのような不思議さを感じる。
「……きれいな所ね」
「そうだね」
「……やっと、普通に接してくれた」
「え?」
驚いて彼女を見ると、サクラは口元に小さな笑みを浮かべていた。先程までのような怒りや寂しさはその隻眼には感じられず、ただこの時を楽しむ。そんな彼女の想いが輝いていた。
「……クリュウ、普通じゃなかった」
「ご、ごめん……」
「……クリュウは少し謝り癖を直した方がいい。私みたいに、悪いのは全部他人や社会のせいにすれば楽よ」
「いや、それってダメ人間の象徴的発言だよね?」
クリュウのツッコミにサクラは「……そう?」とくすりと笑った。クリュウもまた「そうだよ」と笑う。
二人はいつの間にか、いつもの二人に戻っていた。そんな二人を祝うように、光虫も彼らの周りで優雅な踊りを踊る。
「あのさ、サクラ。さっきの事なんだけど……」
改めてちゃんと謝ろうと口火を開くクリュウ。しかしサクラはそんな彼の唇に人差し指を当て封殺した。
「……謝られるのは好きじゃない」
「ご、ごめん」
無言でサクラはむにっとクリュウの頬を引っ張った。
「……謝られるのは好きじゃない」
「ひょ、ひょへん」
「……謝られるのは好きじゃない」
「ひゃ、ひゃいッ」
サクラは良しとばかりに頬を離した。強く引っ張られた訳じゃないので別に痛くはないのだが、絵面的にとりあえず頬を押さえるクリュウ。そんな彼を見て、サクラは小さく笑う。
「……謝られるより、一つだけお願いを聞いてほしい」
「別にいいけど……、何をすればいいの?」
クリュウが問うと、サクラは無言でクリュウに向かって倒れた。そのまま彼の膝の上に頭を載せ、いわゆる膝枕状態となった。驚くクリュウに「……動かないで」と言うと、そのままの状態に落ち着く。
「さ、サクラぁ……?」
「……このままがいい」
「も、もしかしてお願いってこれ?」
「……えぇ」
「……ほ、他の選択肢はないの?」
「……壱、一緒の布団で寝る。弐、一緒にお風呂に入る。参、女装する。四、私に「愛してる」と百回言い続ける。伍、今ここで膝枕をさせる」
「五番の膝枕でお願いします」
クリュウは頭を抱えながらそう答えた。どう考えても他の選択肢は桁が違う。というか、女装はまず絶対にない。サクラは自分に男として死ねとでも言うのか……それほど怒っているとでも言うのか。
サクラの選択肢を深くまで考えた結果彼が選んだのは膝枕だった。ちなみに、全ての選択肢がサクラの欲望だというのは秘密だ。
恥ずかしそうに頬を掻きながら困ったように表情を浮かべるクリュウに対し、サクラはそんな彼の膝枕を満喫していた。贅沢を言えば防具があると彼の温もりは感じられないし、正直硬くて寝やすいとは言えないので防具を脱いでほしいのだが、防具の下はインナーだけなのでクリュウは絶対にそれを嫌がる事は明白だ。サクラ的にはむしろ全力でウェルカムなのだが。
まぁ、きれいな星空をバックに頬を赤らめながら照れる彼の顔を見詰めというのも悪くはない。
「……ずっと、夜が明けなければいいのに」
「え? 何か言った?」
「……何でもないわ」
首を傾げるクリュウにそう言って、サクラは天を仰いだ。そこには満天の星々が煌めいている。
死んだ人は星になるという子供騙し的な民話がある。そんな非科学的な事は信じてはいないが、もしも本当だと仮定すればこの星空のどこかに父と母の星があり、師の星があるのだろう。
「……それって盗撮に値するのかしら」
「何か言ったサクラ?」
「……何でもないわ。気にしないで」
首を傾げるクリュウを一瞥しつつ、サクラは再び星空を見上げる。そして、フッと小さな笑みを口元に浮かべた。
「……私は幸せよ。安心なさい」
その言葉に応えるように、星が一つ夜空のキャンパスから零れ落ちた。