プロローグ
静まり返った病院の個室には一人の女性がいた。
女性は目を閉じているのだが、病院という場所には不釣り合いな柔らかい笑顔を浮かべて眠っていた。一定の感覚で上下する胸が、女性がいかに精神的に安定しているかを教えていた。
外見だけを見れば女性は重傷患者として扱われるだろう。
右足がギブスで固められている。看護師への受け答えには明るい笑顔で返事をする。病院食を毎日きちんと完食をする。
彼女は確かに重傷患者である。
しかし、彼女の目を見れば誰もが思う。彼女の心にはあの頃のような絶望感などないのだと。
それを裏付けるように彼女は、日を置かずにやってくる来訪者を屈託のない笑顔で迎える。日々を病的なまでに白いシーツの上で過ごす。常に上体を起して。日々色々な顔を見せる景色を見つめている。見つめているというよりも楽しむようにゆったりと眺めている。些細な変化をも楽しみなものだと思っているのだろう。
毎日を動けずに過ごす彼女の筋肉は少しの衰えを見せている。だが、彼女がその訴えを当たり前のことと受け取った。以前に比べて力の入らない体に仕方がないと苦笑いしてベッドの横に置いてある車椅子に乗り込むのだ。
女性がこの病院にいるのは戦ったからだ。意識のない上体で運ばれ治療されたのだ。
彼女がこの病院の個室で目を覚ました時、そこにはまだ戦いの余韻があった。痛みに顔を歪め、勝利に頬を緩ませた。看護師の問いかけに笑顔で返すこともできた。
右足が動かないと知った後でも、笑顔で過ごすことができた。
「アイツにとって地に足つけて歩くことは何よりも幸せなことだった」
女性のお見舞いに来た父親が看護師に漏らした言葉だ。
歩けることが女性にとって何よりも幸せなこと。その言葉を再び聞いた人の良い中年の女性看護師は、歩くことができなくなっても落ち込むことのない女性を車椅子に乗せて病院の敷地内を散歩した。
当時、車椅子を押す看護師に全くと言っていいほど悪意はなかった。健常者でなくとも生活ができる、幸せな人生を謳歌できる、とあの頃少女だった女性に知って欲しくて起こした行動だった。
当時行った善意の結果はベッドの上から動かなくるというものだった。
しかし、今は看護師の善意によって女性は外の景色を見て回ることを謳歌している。
医師や看護師が思っていた以上にっ女性の心は強くなっていて、代用やすり替えを必要としていなかった。片足でも動かせれば『地に足つけて歩くこと』もまだできると笑っていたのだ。
「世の中にはお前と同じような、もしくはより酷い怪我を負う人が沢山いるんだぞ。それでもその人達は絶望から這い上がって普通の人達と同じ社会に復帰していくんだ。努力して、新しい幸せを見つけてだ。お前が今どれだけ辛い状況なのか、父さんも母さんも痛いほど分かる。それでも、心を鬼にしてお前を叱らなくちゃならないんだ。お前に立ち直ってほしいからだ。立ち直って新しい目標を、幸せを見つけてほしいからだ」
少女だった頃に両親に言われた言葉だった。当時は五月蠅いだけだったが、今なら両親の暖かさがよく分かる。
消灯時間を過ぎて暫くしてからのことだ。
女性は暗闇の中で目を閉じて眠っていた。そこには穏やかな寝顔があった。
ゆっくりと上下する胸と小さな寝息だけが病室に響き渡る。
病院は面会時間などとっくに過ぎているので、院内にいるのは夜勤業務を行っている看護師と当直の医師くらいだ。
必要のない音はしない静かな病室の中。
女性の眠りを妨げるようにして、テンポの良い音楽が聞こえ出した。音量は眠りを妨げるには十分な量で、邪魔な音を聞いた女性は脳を覚醒させてしまった。
上体を起して音の発信源を探すと、無粋な行いをした不届き物が深緑色の携帯電話だと分かった。
マナーモードに設定して、更に電源を切っていたというのに鳴り響く着信音。普通ではないことに、女性は少しの間心霊現象を疑ったのだが、ようやく頭が正常に稼働し始めると、それがある人物の仕業であると予想することができた。
電話に出てみるとおかしな高笑いが聞こえてきた。寝起きをまだ抜け出せていない女性は五月蠅いと感じて電話を切った。
ケータイの時間表示を見ると深夜1時半過ぎだった。
女性はケータイの電源を切ると、ベッドに横になって眠り始めた。
「もう、せっかく電話したんだから寝ちゃ駄目だよ」
「じゃあ人が寝ている時に電話しないでください。どうせ緊急事態ではないんですから」
「えー、電話したくなったから電話する。束さんはそれでいいと思うんだよ」
「個人の非常識を振り回さないでください」
寝て起こされてまた寝たら、もう一度電話が鳴ったので諦めて出た。そうすれば聞こえてくるのは束先輩の声だった。非常識で有名な束先輩の時間外電話は出るまで続くと思うので、どうしても出なければならないので、早めに呪縛から逃れようと思ってのことだった。
あくびを一回。まだ眠い。
束先輩は深夜帯だというのに全く疲れを感じさせないテンションでどうでもいいことを喋り続けている。耳がきちんと働いていないので話の半分も入ってきていないのだが。
「で、長々話してないで、用件をお願いします」
このままでは延々と続いてこっちがもたない。そう思って話の腰をへし折った。
「用件?」
何のことやらと言いたげな声が届く。電話してきたのは束先輩なのにこの言いぐさだ。
「ああ、因縁の対決に勝ったみたいだから、おめでとうって称賛しようと思ったんだよ。はい、おめでとう」
電話越しの簡単な称賛。嫌味の欠片もない素晴らしく短い簡素な称賛だった。束先輩らしい……かどうかは付き合いの短い私には分からない。きっと千冬先輩なら判断ができるのだろう。
「えーちゃんがくーちゃんを殺しちゃったから、束さんはちょっとだけ懐が寂しんだけど」
「知りません。そしてくーちゃんは財布の中身と同程度の価値ですか」
ちょっとだけ嫌味を言ってみると、「まぁ、そんくらいだよね」という返事が返ってきた。言わなければよかった。束先輩の倫理観がすっぽ抜けていた私のミスだった。
「ふっふっふ。天才束さんにかかればくーちゃんの一人や二人簡単に作ることができるんだよ」
「何ですかそれは? まるで人造人間みたいなものいいですね」
「人造人間? うーん、私はそっちの表現よりもクローンって言い方の方が好きだな」
「クローン?」
「うん。クローンだよ。くーちゃんはクローンなんだよ。凄いでしょ、かぁっこいいでしょ」
クローン人間。今も昔も倫理観に反する研究として人間に使用することが禁じられているものだ。
それを束先輩は行ったと暗に言っている。人工的に生命を作り出して、道具が壊れた程度の認識しか思っていないと言っている。
「クローンだからくーちゃんってことですか?」
安直な名前の付け方。人間としての扱いを受けてなかったということだろうか。
「まぁ、そうだね。だって代わりはいつでも作れるしね」
「なんでクローンなんて」
「うーん。私の目的の為かなー?」
「目的?」
「そう。あんまり大声では言えないんだけど、私の存在を、実力を知らしめるためにくーちゃんを作った。もちろんくーちゃんを作ることは過程でしかないよ」
くーちゃんは過程。私のISを模倣して、私にぶつけてあわよくば殺害しようとしたということも過程なのか。だとすれば目的は何だろうか。束先輩自身の存在と実力を明示すること、大きくて曖昧な目的の為に何を成す気だ。
天才の考えは分からない。天才は天才を知ると言う言葉があるように、彼らの思想は同類にしか分からないのだろう。
私は溜息を吐き出した。もしも自分が天才と呼ばれるような頭の良い人物ならば、束先輩のやろうとしていることが分かるかもしれないのに。
「ちなみにくーちゃんのオリジナルは私でしたー。ふふふふふふふー……ま、オリジナルって言い方が当てはまるかどうかは分からないだけどね」
束先輩のクローン。確かにその通りなのかもしれない。くーちゃんはどこか束さんに似ていた。完全に一致してなかったが、確かに雰囲気が似ていた。そっくりそのままじゃないのは、遺伝子を多少なりともいじったからだろう。学者ではない私には判別がつかないから、憶測でしかないが。
「でね。チャンピオンゆーちゃん」
「優勝してませんけど」
「一つ聞きたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「私の仲間になってくれない?」
仲間?
誰が誰の仲間になる?
私の考える仲間と、束さんの考える仲間の定義が一緒なのかどうかも分からないのに、仲間になれと言うか。
「それは遺伝子提供をしろってことですか?」
そうだとしたら絶対に断る。いいや、犯罪に加担するようなことでも絶対に断る。
だったら断ります、と言えるように構えてみたが、束先輩の答えは全然違っていた。
「え? ゆーちゃんの遺伝子データならもうあるけど?」
「え!?」
「あと、もうクローン作っちゃったけど」
「……ええ!?」
「ちなみにちーちゃんのクローンもいるよ」
「……ええええぇぇえぇぇぇぇ!?」
私のクローンだけでなく千冬先輩のクローンまでいるのか。そこまで行くと、もう私の周りの実力者たちは全員クローンされてしまったのかもしれない。
「え、あぁ……ということはエミリアも……」
「あ、それだけはないから」
ばっさりとエミリアを切り捨てる束先輩。そんなにエミリアのことを嫌っているようには感じられなかったのだけど、どうやらそうではなかったらしい。
「ちーちゃんのゴリラ並の怪力も、ゆーちゃんの足癖の悪さ簡単なんだけどさぁ、えーちゃんのってよく分からないだよね。本人は何にも教えてくれないさぁ。けちだよね」
ちぇー、っと残念そうにする束先輩。私としてはエミリアのクローンが作られなかったことにホッとしているが。
「まぁ、クローンの話はどうでもいいとしてさ」
「どうでもよくはないんですけど」
「ゆーちゃんが仲間になってくれると嬉しいな」
あまりの衝撃で忘れてた。そういえば謎のスカウトを受けていたんだ。
「断ります」
遺伝子提供者になる必要性がなくなったけど。だからといって手放しで「仲間になりまーす」とは言えない。言えないから断らせてもらいます。
私がきっぱりと断ると、ガラガラと病室の扉が開いた。
まさかまた襲撃か。そう思って身構えると、暗闇の中を小さな人影がこっちに向かってくる。
「じゃあさ、これならどう?」
右足が動かないので、襲われたらどうしようもない。それでも、と身体全体に力を入れて、相手の出方を窺う。
小さな人影は私の警戒心を無視してとてとてとやってくる。けっこう小さい。くーちゃんと同じくらいの子供みたいだ。もしかするとくーちゃん二号でもやってきたのか。一号の敵を取る為に。
ベッドに備え付けられたライトスタンドをつける。真っ暗な病室内を光が照らして、接近してくる子供の正体を晒してくれる。
向かったきたのは小さな女の子だ。それもどこかで見たことのあるような顔をしている。
その女の子は両手に一本の注射器を持っていた。
「ゆーちゃんの足をもう一度治してあげるから、仲間になってよ?」
束先輩の言葉に合わせて女の子が注射器を差し出してくる。注射器の中には青黒い液体がたっぷりと入っていた。言葉から察して、この液体は昔に注入されたものと同一の物のようだ。ずいぶんと人体に影響の出そうな色をしている。
私はとりあえず女の子の頭を撫でた。髪の毛がさらさらしていて触り心地がいい。女の子は嫌がらずに私の手を受け入れてくれる。
「それでも断ります」
過ちはもう犯さない。恐がって逃げ出すこともしたくないし、もうする必要もない。
「えー、前は嬉しそうだったじゃん」
「前は前、今は今ですよ」
「仕方ないなー」
なんでか私が悪いような言い方をされた。自分本位の人間からしてみれば、そうなのかもしれない。この手の人たちは自分たちの都合でしか物事を考えられないから。
いい加減疲れてきたので、電話を切りたくなってきた。だけど、束先輩の用件が終わってないみたいなので、切ってもまたかかってくるだろう。
「他に何か用件は?」
どうせまた何か言われるのだから、自分から問いかける。すると、やはりと言うべきか束先輩が「ふふふ、分かっちゃう?」と嬉しそうに言ってきた。聞かなければ良かったと思ってしまった。
自分の言葉に後悔していると、束さんがハキハキとした声でぶっ飛んだ発言をする。
「じゃあ、代わりにその子を育ててよ」
一瞬だけ脳が動くことをやめてしまった。