プロロロロローグ
技術者と思われる繋ぎ姿の男女が入り乱れる。その誰もがこれから行われる稼働実験に向けての準備に追われて、てんやわんやと動き回っている。
その中で機材の入ったコンテナの上に座って、その騒がしく動く人の群れを眺める女が1人。技術者達から眼を離した彼女は、つまらなそうな様子で空を見上げる。そよ風に金髪がふわりと持ち上がる。
作業の手を止めて水分補給をしていた技術者の1人が女の美しさに口笛を吹いて振り向かせようとするが、女はそれが聞こえていないのか、それとも聞こえてはいるが気に留める必要がないと判断したのか、技術者へと振り向くことはなく空を見ていた。
そこから少し離れたところで女を見つめる男がいた。男性としては低い方に入る背丈でスーツを着込んでいた。常日頃からあまりスーツに袖を通していないので、男は堅苦しくて動き辛いと思った。それもほんの少しの辛抱だと思えば多少は楽になる。
男は周囲を忙しなく動き回る技術者達に阻まれ四苦八苦しながらも、コンテナに腰を下ろしている女へと近づいて行った。わざとらしく足音を響かせているのに、女は気にせずに空を見つめていた。
「はーい。こんにちは」
男は親しい間柄の人間に出会ったような口ぶりで手を上げる。実際は十どころか五にも満たない出会いではあるが、彼には関係のある話ではなかった。
だが、彼の投げた言葉のボールを、女は受け取りを拒否してぺしりと叩き落としたのか、顔も向けずにいた。
男は薄らと笑みを浮かべて「寂しいなぁ」と言った。言葉通りの感情など一切込められてはない。
「もしかして、名前を呼ばないと反応してはくれないという面倒なお人なのかな。そうであったとするならばさぁ、貴女のお望みをかなえてあげなくもないのが大人として私の対応です」
相手の反応は特に求めずに1人で納得する男は女の隣に腰を下ろした。許可などは全く求めていない。
男は片手で周囲から口元を隠して女の耳元に顔を近づけた。
「元ブリュンヒルデのナターシャ・ファイルスさん。それとも偽りのブリュンヒルデと呼べばちゃんとお返事返してくれますかな?」
こそこそと告げると女が顔を男へと向けた。
男はようやく反応してくれたと思って両手を打ち鳴らしていると、次の瞬間には後頭部を衝撃と鈍い痛みが襲った。首を掴まれて、後ろに倒れこむようにしてコンテナの面に叩きつけられたのだ。
「私は偽りなどではなく本物のブリュンヒルデの1人です。それを間違えてもらっては困ります」
ナターシャと呼ばれた女が感情を押し殺した無機質な声音で告げる。瞳には怒りの表情が浮かび上がっていた。
男は首にかかったナターシャの腕に力が籠められるのを感じた。だからといって薄らとした笑顔は変化を見せなかった。
「確かにモンド・グロッソ優勝者という意味ではブリュンヒルデと言っても構わないでしょうがね、決勝戦で最強の相手と言っても偽りない織斑千冬に不戦勝した人間が本物のブリュンヒルデと言えるかは別の問題ではないかな? 全ての敵を打ち破ってこそのブリュンヒルデ。人がそれを感じているから、貴女を嘲笑うんですよ。偽りのブリュンヒルデとね」
「黙りなさい」
「黙れる訳がないじゃないですか。私はともかくとして、世界中の人がきっちりとお口にチャックをするかなんてことできると思うのかい?」
「黙れと言っていますよ」
「そんなに怒ってね。自分が偽りであるのだとよく理解しているようじゃないか」
「聞こえませんでしたか?」
「聞こえているけど、その程度の恫喝にはいはいはいと従えるほど小さな心は持っていないのさ」
男は首にかけられた手を引きはがして上体を起こした。既に後頭部の痛みは引いていた。
「だからこそ、物怖じせずにペラペラスラスラと話ができるんだ。それは時に有益な話であり、時に不利益な話であり、時に肥しにもならないようなどうでもいい話でもある」
「……有益な話?」
「そうそう。何がどのようにして貴女にとっての有益な話に鳴り得るかは、それこそ貴女次第。そう例えば、近々IS学園の生徒達が臨海学校に出かけるとか。例えば、その引率する教師の中にブリュンヒルデがいるとしたら。
「ブリュンヒルデ。……織斑千冬のこと!?」
「さて、どうかな?」
「……だとしても、私には関係のない話ね」
「そうかい。では話を続けてあげよう。実はその臨海学校はもう行われていているんだ。いいねぇ、海だよ。ちょっとばかし泳いでみたいね。幸いにも臨海学校は今日が2日目らしいよ。ギャラリーは沢山いるよな。それも現役でISを学ぶ学生さんばかり」
「何を言っているのですか?」
「何を言っている? 分かっているんだろうさぁ。貴女が一番分かっているはずなんだよ。何故って? もうすぐ新型ISの稼働実験が始まるんだよ。ちょっと勇気を出して飛べば――」
男の薄らとした笑みが消え去る。そして次の瞬間には満面の笑みが貼り付けられる。
「――自由!」
それがゆっくりとナターシャの脳を侵食していった。
男はそっとナターシャの耳に何かを吹き込んだ後、軽い足取りで技術者の群れに紛れて消えていった。
ISを装着し稼働実験の開始した時になると、ナターシャは技術者達が見たこともないような決意に満ちた表情を浮かべて遥か遠くの方を見つめていた。