第三アリーナで怪我人が出た。部屋に備え付けられた内線電話からそう告げられてから、既に1時間が経過した。
保健室のベッドの上には、打撲の治療を受けて包帯を巻かれた体を横たえて動かないセシリアと、彼女よりも早く意識を取り戻した鈴がいた。
痛々しい姿の鈴の表情は悔しげなものだ。二対一の試合で大敗してしまったことが認められないのだろう。代表候補としてのプライドをズタズタにされたのだ。当時の私だって、立ち直れるか分からないくらいに心に傷を負っていたかもしれない。
「そう気負うことはないよ。失敗は成功の母、敗北は勝利への道筋。負けることがそのまま続くということはないのだから」
椅子に座ったまま鈴に声をかけるが反応は帰ってこない。まだ、心の整理がついていないようだ。まぁ、いずれ落ち着きを見せて、敗北をガソリンにより強い闘志を燃やしてくれるだろう。
とりあえず、急な痛みを訴えない限りは鈴のことは放っておこう。干渉しないことも治療の1つ。
ベッドから視線を外すと、次に見えるのはパイプ椅子にぐったりと体を預けているシャルロットと、前のめりにうつむいている一夏。
何時になくどんよりとした空気が出口もなく漂っている。多少の息苦しさを感じてしまう。きっと当事者であれば、この空気と同化できて苦しくないと思う。
第三アリーナでのことは話に聞いただけで実際に見てはいない。騒動の全てを聞くことができず、エミリアからもたらされた少しの情報だけしかない。全体を曖昧にしか把握できていない以上、必要以上に言葉をかけることはできない。
唯一の情報元であるエミリアは、セシリアの眠るベッドの脇にパイプ椅子を持っていき、眼を閉じて腕を組んだ状態で寡黙に座っている。
この中で、事態に参加していなかった私は困ったように笑みを浮かべているしかなかった。
この笑みは誰が見てもよく偽物のそれだと気がつくはずだ。だけど、少しでも空気が柔らかくならば、誰かのモヤモヤした何かが和らぐのであれば、偽物であってもしないよりはマシだ。
それでも、思わずにはいられなかった。
誰でもいいから保健室に来て、この空気を換気してくれ。
残念ながら私の切実な思いは叶えられず、重苦しい中で空気も読めていないような馬鹿みたいな笑みを浮かべ続けている。
当事者ではないというのは、ここまで辛いものだったけか。
ほうじ茶を口に含む。驚く程に味がまったくしない。
私が何か話題を持ち出して陰気な雰囲気を消し去るべきか。いや、おそらく飲まれておしまいだ。
「月村先生、聞きたいことがあるんだけ……ですけど?」
私がどう振舞うべきかと悩んでいると、天から伸びてきた1本の蜘蛛の糸、一夏がいつの間にか私の目の前に移動していた。その顔は悩みがあると言っている。
「聞きたいこと? いいけど、ここは怪我人がいるから場所を移そうか」
この部屋を出る口実を口にする。逃げるという目的ではなく、聞きたいことの内容がこの場にいる人間に、いらぬ刺激を与えるようなものであるかもしれない可能性を思って場所を変える。一夏の方も、もしかしたら他に聞かれたくない内容なのかもしれない。
一夏を連れて保健室を出る。扉を空けた際、背中に視線が突き刺さるのを感じたが、言葉にして引き止めてこないのだから、私が足を止める理由にはならない。
私を先頭に一夏と歩く。向かう場所は自販機スペース。まだ、部活動の時間が終わっていないので、このような場所は程よく閑散としている。
目的地にたどり着くと私はベンチに座り、一夏は立ったまま私を見下ろす。いつもと違い、迫力のある顔が目の前にある。
一夏が口を開いたのは1分ほどの間が置かれてからだ。
「俺って弱いんですか?」
どのような意味での問いかけだろうか。
「敬語じゃなくていいよ」
とりあえず、そこを指摘しておく。
「一夏くんが弱い……について。難しい問題をぶつけてくるね」
本当に難しい。私が軽々しく肯定していいのかどうか、本当の本当に難しい問題だ。だけど、言葉を濁してしまうのは、それはそれで駄目だな。
「そうだね」
さて、私はどう答えるべきか。一夏が求める言葉はなんだろう。
言葉がぐるぐると回るが、どのような言葉を言うべきかは決まらない。今の私ならば、やはりテキトーなことで乗り切るべきだろう。だけど、そんなことを言って一夏のことを蔑ろにしてしまうのもよくない。ああ、でも責任やら何やらに縛られないで行こうと決めたんだ。
「何て言えば良いかな?」
一夏の顔は至って真剣だ。それに対して、私は自分を取るべきか相手を取るべきかと悩んでいる。教師たるもの、生徒に頼られたら全力を以て向き合うべし。好かれること、嫌われることだけに夢中になって生徒と接するべきじゃない。なーんて、今更になって熱血教師みたく向き合っても悪いだろう。
「そう、だね。私が君に言えることは」
言えることなんて特にはないよ、てへ。とでも言ってあげようか。それとも、君は十分にやっているよ、とでも言うか。
一夏へと顔を合わせると、真面目な表情の彼が私の次の言葉を待っていた。そんな顔をしないでほしいな。
だけど今の私にとって、一夏がその顔を見せてくれたことはありがたい。ぐちゃぐちゃと纏まることのなかった心を決心させてくれた。
私はなんでもかんでも首を突っ込む熱血教師でもなければ、好ましい視線と耳に心地よい言葉だけを求める友達教師でもない。
私は私。助けを求めてくる生徒がいれば、私の力量の限界までのものは受け入れよう。己が損得は度外視して、助けを必要として訪ねてきてくれる他人の相談になろう。
「一夏くん。はっきり言って君は弱い」
言ってしまった、そんな思いは微塵もない。言って損するなら最初から言わない。
私の言葉に一夏は顔を俯けてしまい、どのような表情をしているのかは推測でしか判断できない。
今度は私が一夏の言葉を待って黙ることになった。今は放課後であって時間は沢山ある。何を思っているのかは知らないが、言いたいこと、言いたくないことのどちらも自分なりに整理してから話すといい。私の心の整理を待ってくれたのだから、今度はこちらが幾らでも待つ。
「俺は自分の近くにいる人物だけでも守りたいと思う」
暫く待ってみると、俯いたまま一夏が訥々と言葉を発した。
「だけど、守ることができなかった」
脈絡のない話。おそらく、今日の出来事について言っているのだろう。
「助けたくて、守りたくて向かったのに、気がついたら守られる側になっていた」
一夏がセシリアと鈴の助けに入った。それは聞いた。
「託してくれたのに。『雪片』と『零落白夜』を託されたのに、誰も守れなかったんだ」
己の弱さを痛感したのだろう。だけど、今更になってそんなことを思い知ったのかと、私はため息を吐きだした。同時に、そのことを自覚できたことにホッと胸を撫でおろした。
彼は馬鹿ではない。
「それだけ?」
一夏が眼を見開いてこちらを見てきた。慰めてほしかったのか、叱咤してほしかったのかは分からない。
「それだけって……」
「それだけだよ。だってさ、一夏くん。君はこれまでの試合で一度たりとも勝ちを得たことはないだろう? 戦う相手はどれも格上。それに対して、君はISを扱うようになって何年だい?」
私からの質問を、一夏は問いかけられているとは思っていなかったようで一瞬硬直した。やがて、ぽつりと「2ヶ月位」と漏らした。
「そうだよ。1年でもなく、ましてや半年ですらない。それだけでしかないのに、君は自分よりも上の相手に勝ちを拾えると? 冗談じゃないよ。ましてや相手を守りぬくなんて、難易度の高いことが可能だってそれこそ冗談じゃない」
セシリアとの戦いは敗北。最初のことなので、それは挫折にはならなかったのだろう。
クラス代表選で鈴と戦った時、押されてはいたが敗北には至らず乱入されてうやむや。負けを意識し辛いものだったかもしれない。
試合中に乱入してきた謎の無人機型ISは、私が葬ってしまったのでここでも敗北はなかった。
つまり、一夏はここぞという試合で勝ったことはないが、同時にあからさまな敗北を突きつけられたこともない訳だ。
「負けるのが当たり前。まぁ、負ける腹積もりで戦いに挑むのもどうかと思うけど。君はまだ一歩二歩と踏み出したに過ぎないことを、弱くて当然だということをもっと自覚すべきだよ」
「だけど!」
「それと!」
一夏の感情を乗せた反論の言葉に、私は語尾を強めて遮った。
厳しい言い方をしているかもしれない。だけど、受けると決めた以上は途中で引き下がることはしない。
「姉である織斑千冬の武器と力を、ただ持っただけで託されたと勘違いしている。周りはどう言うかはしらないが、私はそう言わせてもらう。託されたっていうのは、君がそれを十分に使いこなそうと決意して、それに違わぬ努力をすることで初めて託されるんだ。私はそう思うよ」
一夏は何も言わず、私も次の言葉を言わないで、ベンチから立ち上がって自販機の前に立つ。
白衣のポケットから財布を取り出して、飲み物を2本購入する。甘めの炭酸飲料だ。
1本を自分のポケットへ、残ったもう1本を一夏の制服のポケットへと入れる。
私の行動と、突然加わった缶ジュースの重さに一夏は先ほどまでの陰鬱な表情はどこへやら、キョトンとした顔を見せてくれた。
その表情の変わり様に1つ言いことを教えてあげようか。
「そうだ、一夏くん。千冬先輩の強さは『零落白夜』だけのものじゃないんだよ。何時振るったかを知覚するのも困難な神速の一撃。そこに『零落白夜』が加わってこその強さだ。特殊能力と研鑽によって成し遂げられられた技術。2つで1つの強さ。君はその内の1つを持っている。あと1つは、君次第だね」
私はそれだけ言って、一夏に背を向けて保健室へと戻る。