凰鈴音が転入してきた。
そのような話が、最近保健室を訪れるセシリアからなされた。話をする際に、何処か不服な顔をしていた。
私は興味もなかったので、その理由は聞かなかった。他人を構い倒す時間なんてものは私にはないのだ。
セシリアも理由を聞いてもらいたい訳ではないらしく、冷蔵庫から紅茶を取り出して、エミリアがいるであろう射撃場へと向かっていった。
私はゆるりと放課後の時間を堪能する。今日の保健室来訪者は3人と、少なかったので自由時間を取られることはなかった。毎日怪我人が出なければ良いと思う。そうすれば、もっと自由でいられる。
そう思って、ほうじ茶を飲む。飲み終わったタイミングで、扉が控えめにノックされる。
コンコンと乾いた音がすると、一息遅れて「失礼してもよろしいですか?」と声が聞こえてくる。
「どうぞ。お入りください」
IS学園では聞きなれない男性の声が聞こえてきたが、疑問に思うことなく入室を許可した。声に聞き覚えがあったからだ。
扉が控えめな音で開かれる。部屋の性質上、中にいる人間を気遣ってのことだろう。
部屋の中に入ってきたのは、紺色のスーツを着た中年の男性だった。スーツの上から少し腹が出ていることが分かる、肥満体型の男の顔は、柔和な笑顔が浮かんでいる。その笑顔の隙間から疲れが滲み出ている。
「久しぶりだね、月村くん」
「はい。お久しぶりですね、
西島さんが手を差し伸べてきたので、私も椅子から立ち上がって手を伸ばして握手をした。
「どうしたんですか、急に。連絡もなく来るなんて。女子生徒から不審者を見るような眼で見られませんでしたか?」
「ああ、そうだね。連絡を入れなかったのはすまないね。最近忙しくて、そういう気遣いがぼんやりとしてきているんだよ。や、これは言い訳だね。素直にもう一度謝ろう。月村くん、すまないね」
「最後のは無視の方向で進むんですね」
「や、そんなことはないよ」
私は部屋の隅からパイプ椅子を引っ張り出して、西島さんに座るよう促す。彼は「や、すまない」と軽く礼を言って腰かけた。やはり、疲れているのだろう。背もたれに体を預けて、大きく息を吸って吐きだした。
私はほうじ茶のおかわりをして、西島さんに白湯を手渡した。
「や、すまないね。アポなしの無礼者にわざわざ飲み物を出してくれるなんて」
社長というのに謙虚と言うべきか、西島さんは私のような一回りも離れている小娘に対して、ペコペコと頭をさげてくれる。あまり自分を卑下するのもどうかと思うのだけど。
「いえいえ、お世話になりましたから」
「や、そういうふうに言ってくれると助かりますよ」
「それで、何用でこんなところまで訪ねてきたんですか?」
「用件ですね。や、簡単なことですよ。月村くんに渡す物がありましてね」
「渡す物? 社長が自ら出向いてまで渡す物なんかありましたっけ?」
「や、当初は技術部の
「そこで、西島さんに変わる意味が分かりませんけどね」
クツクツと笑う西島さんに、私は呆れる。
「や、渡す物の関係から、僕が一番の適任者でもありますしね」
笑うのをやめた西島さんは、スーツの内側から指輪を取り出して、私の眼前に晒した。滑らかさのない、機械じみた緑色指輪に、私の心は少しだけかき乱された。それを表に出すことなく、私は笑みを浮かべて、「確かにある意味においては、適任者ではありますね」と言った。
西島さんは私の顔を見て、やれやれと安堵のため息を吐きだした。
「やはり、僕で正解ですね」
西島さんには全てお見通しのようだ。何もかも読まれているのではと、錯覚しそうになるほどに、彼の眼は柔和そうな表情に似つかわしくない鋭さを持っている。いや、過去を振り返れば、多少の推測はできるだろうから、あの眼が全てを暴いている訳ではないはずだ。
「月村くんには、この指輪を受け取っていただきたいのですが」
「拒否したいですね。いくらお世話になったからって、社長と結婚する気はありませんよ」
指輪を乗せた手が近づいてきたが、私は手を差し出すことはない。受け取る気がまったくないからだ。それどころか、両手を白衣のポケットに突っ込んで断固拒否の姿勢を取る。
「や、気持ちは分かりますけどね」
「なら、身を引いてくださいよ」
「残念ながら食い下がる他ないのが、僕の現状ですよ」
西島さんは立ち上がって、私のデスクの上に指輪を置いた。
「僕の会社が二年前に
「何ですか、その命令?」
「や、僕にも意図は分かりませんよ。ただ、渡すようにと言われましてね」
困ったような笑みを見せる西島さん。
私は観念して指輪を掴み取った。おそらく、私がこの手で指輪を受け取るまで、ずっとこの場に居続けるだろう。
私が指輪をデスクの引き出しに入れるのを確認すると、西島さんは申し訳なさそうな顔で「すまないね」と言ってくる。彼も本位ではないのだ。
「や、用件も終わったことですし、御暇しますかね」
西島さんは、私に背を向けて扉へと向かっていった。扉を開けて外へ出る直前に、彼は振り返った。
「や、安心してください。改善は行いましたから、あの事故のようにはなりませんよ。後は、月村くんがありのままの自分を以て扱うだけですよ」
それだけ言って、西島さんは扉を閉めた。ゆっくりと響く足音が段々と遠ざかっていった。
私は、椅子の背もたれに体を預けて眼を閉じた。やはり、全てを見透かされている。
「ありのままの自分……ね」
心に多少の窮屈を感じながら、私は微温くなったほうじ茶を飲み干した。