消毒液の匂いが室内に広がっていく。独特の匂いは、嗅ぎ慣れてくると癖になってしまうものだ。目の前で、消毒液が沁み込む痛みを耐えている女子生徒には、匂いすらも耐えるべきものとなっているのだろう。
「沁みるでしょう。これが嫌だったら、今度から極力怪我しないようにね」
同時に、私の手間も省いてくれると嬉しい。言葉にしないが、その想いを乗せて女子生徒に優しく言う。
「はい。でも、怪我したらまた見てください」
「見るだけだよ」
「治療もしてくださいよ、先生」
「最寄りの病院を紹介してあげるね」
「何が何でも治療する気はないんですか」
呆れた表情を見せる女子生徒に背を向けて、私は引き出しから絆創膏を取り出して、傷口を覆うように貼り付ける。「よし」と上手に絆創膏を貼り付けられたので、絆創膏の上から傷口を叩く。女子生徒が痛みに悲鳴をあげるが、自業自得だと思うので訴えに取り合う気はない。
「先生は本当に保健医なんですか? 保健医ってもっと優しくておっとりしたイメージがあるんですけど」
どこから、そのようなイメージを入所してきたのか。私は手を左右に振って「そんな訳ないよ」と否定した。
「それはないよ。怪我人に優しくはともかく、保健室を休憩所だと勘違いするような健常者に優しくするのは嫌だよ。おっとりしていると、緊急時に素早く行動できないでしょう」
「う、たしかに怪我している横で、ゲラゲラと笑うのがいたら嫌ですね」
「分かってくれて嬉しい限りだよ。じゃあ、お大事に」
女子生徒に退出を促すと、素直に保健室から出て行った。ドアを占める際、きちんと礼を述べてから出て行ったので、彼女は今度も治療してあげようと思った。
急遽持ち込まれた仕事が一つ。それを終えた私は中断された休憩を再開させる。温かかったほうじ茶が冷めてしまったので、中身を一気に飲み干してから、おかわりを注ぐ。
私は自分のデスクの上を一瞥する。書類などが散乱していて見るに耐えない模様を晒している……などということはない。いくつかの小物と、パソコン、据え置きの電話、現在必要な資料が二・三枚あるだけだ。
その中から、資料を持ち上げて眼前に持ってくる。中途転入者の資料だと、千冬先輩が置いていったものだ。その紙には転入者の情報が事細かに書かれていた。
『
「転入とかやめてほしいよ。いちいちパソコンにデータを打ち込まなきゃいけないんだから」
誰もいない部屋に私の愚痴が響き渡る。
愚痴を言っても仕方がないと、私はようやく重い腰を上げて、資料に記載されていることをパソコンに打ち込み始めた。三時間ほど休憩を挟んだ今の私は、完全に仕事をする気持ちが瓦解していたので、タイピングの速さはノロノロと亀のように遅い。
指の動きは鈍足ではあるが、止まることはなかった。やり始めた以上、止まることはしない。今度止まれば、もうやる気は起こらないだろうから。
カタカタと、指がキーボードを弾く音が響き渡る。機械的に鳴り響く音にリズムを加えれば、地味ではあるが耳に心地よい音楽に早変わりする。
全ての情報をパソコンの中に収めたのは、時計の針が一回転した後だった。
凰鈴音。中国の代表候補生で、第三世代型IS『甲龍』のテスト・パイロットとしてIS学園に転入。学力は今回の一年組の中では上位に位置するようだ。かと言って、運動に難がある訳でもないようだ。中途転入が受けなければいけな体力テストも中々の成績で、総合評価も高い位置に属している。
データを打ち込んでいる最中に、私は凰鈴音について幾つか思い出したことがある。確か、彼女は織斑一夏と友人関係にあった。日本に住んでいて、何時だった中国へと引っ越していったとは聞いていたが、まさかIS学園にやってくるとは。礼儀のあまりない子だな、としか思っていなかっただけに、この成績は意外と言うしか他ない。
昔のよしみで、少しは贔屓してあげよう……などとは欠片も考えない。一夏にしても、篠ノ之箒にしても今の今まで贔屓したなんてことはない。そもそも、IS学園内で面と向かって挨拶をしたことすらないが。まぁ、鈴音に関しても、彼等と同じにさせてもらおう。あちら側が私を覚えているかもわからないし。
私は立ち上がって、その場で両手を天井に向かって伸ばす。軽いストレッチで体をほぐしてから、ほうじ茶を淹れに動いた。
コンコン。扉を叩く音がした。
「失礼してよろしいでしょうか?」
扉越しに聞こえてくる声に、私は「どうぞ」と返す。最近、よく遊びに来るな。
私の返事に、扉を開けて入ってきたのは、豊かな金髪が高貴さを醸し出すセシリア・オルコットだった。
部屋に入るなり、キョロキョロと周囲を確認して、お目当ての人物を探すものだから、私は呆れてしまう。毎回のように、怪我してくるか、怪我人の付き添いとして来なさいと、釘を刺しているのに。改善の余地を感じさせない振る舞いはいかがなものかと。
「エミリアならいないよ」
ベッドの下に隠れているのではと、かがみこもうとするセシリアを私は止めた。そうすれば意外にも、彼女は言葉に耳を貸して探すことをやめてくれる。
「そうですか。いつも此処を訪れると聞いているのに、一回しか会えていませんわ」
肩を落として残念そうにするセシリア。彼女はガッカリしたまま、部屋に備え付けられた冷蔵庫の中から、ペットボトルの紅茶を取り出して飲み始めた。
「他人の冷蔵庫に物持ち込まない」
「……つい、入れていしまいましたわ」
「つい、じゃないんだよ。それは、私の冷蔵庫なんだから」
「学校の備品なのでは?」
「一応はね」
「……そうですか」
セシリアは何処か納得のいかない顔をしている。大方、オレンジジュースが入っているのに、どうして自分の紅茶は駄目なのかと思っているのだろう。
「それにしても、どうしてエミリア会いたさに此処に来るの」
「それは、エミリアさんがよく訪れるからです」
「エミリアなら、今の時間は射撃場にいると思うけど」
私がエミリアのいるであろう場所を教えると、セシリアは目を丸くした。きっと、エミリアが射撃場にいるなどとは思っていなかったのだろう。だとしたら、情報収集に問題ありだ。エミリアは銃の取り扱い方や、射撃を教える『銃器運用学』を担当する教師であり、射撃部の顧問でもあるのだ。放課後のこの時間は、嫌々ながらも部活に顔出しに行っていることだろう。上から顧問らしくもっと顔を出すように注意されていたようだ。
「ありがとうございます。早速行ってみますわ」
セシリアは私に頭を下げると、颯爽と保健室から出て行ってしまった。紅茶を置き去りにしたまま。
私は仕方がないあわてん坊さんだなっと、紅茶を冷蔵庫にしまった。