プロロローグ
IS学園での生活を三年過ごしたエミリア・カルケイドは、名残惜しげに祖国イギリスへと帰国した。日本とイギリスは遠い国だと、改めて思った。
帰国したエミリアを待っていたのは、来るIS世界大会『モンド・グロッソ』への切符を得ることのできる立場、代表候補生だった。在学中から代表候補であったが、帰国したことで彼女は、自分が代表候補であることを強く意識した。代表となって、学園在学中からのライバルとの決着をつけることを。
イギリスでは、既にエミリアの為の専用機を開発していた。学園時代に使っていた、専用機の稼働データを利用して、より高性能のISを作り出そうとしていた。
多くの代表候補がいたが、上層部は結論を出していた。エミリア・カルケイド以外で代表を務めることができる者はいない。
この判断に、代表候補生のほとんどは納得をした。彼女達はエミリア・カルケイドに勝てるほどの実力を持ち合わせていないこと、大会に出場するであろうエミリアのライバルと、まともに闘えるはずがないということが大きな理由だ。それほどまでに、エミリアとそのライバルの実力が飛び抜けていたのだ。
誰もが納得して諦める。その中に、一人だけ納得していない者がいた。彼女は自分の腕前に自信があった。そして、エミリアの実力に正当な評価を与えることをしなかった。自尊心が高く年下であるエミリアが、自分を差し置いて代表に選ばれるなど、彼女には理解し難いものであった。
だから、彼女は行動を起こすことにしたのだ。
正式に国家代表を決める日の三日前。エミリアの耳に一つの情報が飛び込んできた。その情報を聞いた彼女は、タチの悪い冗談だと一蹴した。だが、いつのまにか心の中に不安が居座っていた。もしかすると。そう思ってしまえば、不安は広がってしまうので、彼女は情報の真偽を確かめることにした。
「日本の代表候補の一人、
本当であるはずがない。私のライバルが、親友が、想い人が、そのような事態に陥ることなどないのだ。もしも、それが事実であったのなら……どうすればいい?
不安を払拭する為に、情報が正しいものであるか、まったくのデタラメであるのかを、エミリアは調べた。一つの情報だけでは信憑性が薄いので、幾つもの情報を様々な媒体から摂取した。情報に目を通せば、通した数だけのヒビが入る。
「……くそっ」
どうしようもない現実だった。遊姫は本当に重傷を負って、本当に候補から外されてしまった。決着をつけようと、誓ったというのに。最高の舞台で死闘を演ずることができるはずだったのに。バッサリ断たれてしまった。
学生時代に遊姫と「決着をつける」と約束した。お互いボロボロになって汗まみれの疲労した体を、無理矢理起こして、笑いながらも決意を込めて言ったのだ。真面目な彼女は「次のモンド・グロッソが決戦の舞台だよ」と、日時も場所も指定してきた。エミリアはそれに同意した。逃げるなよ、と必要のない釘を刺して。
刺した釘が折れたじゃないか。一度も約束を破ったことのない遊姫に、エミリアは心の中で嘘つきがと、罵った。そして、すぐに謝った。
「仕方がない」
視界が涙で歪む。
「仕方がない、仕方がない」
夜道をヨタヨタとおぼつかない足取りで進む。街灯の光はなく、道が照らされることはない。
「仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない仕方がない」
狂ったように口ずさんだエミリアの足取りは、段々としっかりしたものとなっていく。
「今回は私が優勝をしておこうか。次の大会で遊姫と闘えばいい。そう、私達には次がまだある」
クスリと微笑を浮かべて、エミリアは力強い足取りで夜道を進んだ。彼女の新しい決意を照らし出すかのように、背後から光が浮かび上がる。その光は徐々に強くなり、エンジン音を響かせてエミリアの体を撥ね飛ばした。
「今回の国家代表は……」
黒いスーツをピシリと着込んでいる男が、白いシーツの広がるベッドの上にいるエミリアに語りかける。エミリアは上体を起こしたまま、男へと顔を向けることなく、紡がれる言葉を聞き流した。
エミリアには何も見えていない。白い包帯が視界を閉ざしているからだ。
「残念な報告だ。君を撥ねて、『神の眼』と呼ばれる君の眼を潰した犯人の目星はついていない」
深いため息の後に続いて出た言葉は、心底残念そうだった。
エミリアが返事をしないのを見て、男は静かに背を向けた。カツカツと革靴が床を踏み鳴らす音をエミリアは聞いていた。
新たな決意は刹那に破壊された。自分もまた約束を破ったのだ。
右手をゆっくりと持ち上げて、包帯に塞がれた眼に触れる。医者は回復は奇跡によってのみなされると、匙を投げたのを聞いた。ISの選手として復帰することが絶望的であることを、容易に知らしめてくれる。
黒スーツの次にエミリアを訪ねてきたのは母親だった。
「この恥さらし。不注意だからこのような目にあうのですよ。お前が名誉ある国家代表に選ばれると、母は信じていたというのに、この有様」
怪我をしている娘を相手にしても、母は慰めの言葉をかけることはない。逆に激しく責め立てる。
「イギリスを背負って行くのはお前だったのだよ。あんな自尊心の塊のような娘に祖国を背負うことなどできはしまい」
ベラベラと喋り続ける母親を、エミリアは止めずにいた。幾ら罵られようとも、彼女の心に火が灯ることはない。反論の一つも起こらず、全ての罵倒を聞き流した。
今回の事件がよほど気に食わなかったのだろう。母親が帰っていったのは、それから10分ほどしてからであった。エミリアは嵐が過ぎ去ると、また右手で眼を触る。
三人目の訪問者は、面会時間を終えて3時間を過ぎた深夜帯に現れた。
リズミカルな足音がエミリアの耳に入り込んできた。調子のズレた鼻歌が、段々と音を増してきた。彼女へと近づいてきてるのだ。
「やあやあ、こんばんは。えーちゃん、遊びに来たよ」
底抜けに明るい声音が、エミリアの耳に飛び込んできた。聞いたことのある声は、学園時代の先輩のものだった。少し前に行方不明になったと聞いたのだがと、彼女は鈍くなった思考で考えた。
「眼が見えなくなっちゃうなんて、えーちゃん可哀想だね」
他人の感情を察することをしない先輩に、エミリアは黙りを決め込んだ。
「もしかして、声まで駄目にしたの? まぁ、いいや。今日はね、良い物を持ってきたんだよ」
無視されても、構わずに話し続ける先輩はポケットから注射器を取り出した。視界を塞がれたエミリアからは見えないソレを、先輩は首筋に突き立てた。
「……う!?」
首筋に鋭い痛みを感じ、異物が入り込んでくる違和感を感じた。
「何を入れた?」
注射器の針が肌から離れると、エミリアは初めて口を開いた。
「元気になれるお薬だよ」
そう言ったが最後、先輩は軽やかな足取りで去っていった。
エミリアは注射器の当てられた場所を摩りながら、先輩の言葉を繰り返した。
「元気になれるお薬」
嘘としか思えない言葉だったが、数週間後に、眼が奇跡の回復を遂げてしまった。